2
結局、その日暫く待ってみても、先生は店の中から出ては来ず。
私は諦めて、雨に溶けた土の匂いの香る街道を通って、自宅へと帰った。
次の日、学校でも、先生が受け持つ授業は無く、先生の部屋を訪れても、その時に先生はおらず、一度も会うことは出来なかった。
そして、放課後になり、先生の指定した時間が近づいた頃……。
「まずい! 約束の時間が!」
私は、まだ学校の教室の中にいた。
試験のできが悪く、余分な授業を食らわされる羽目になったのだ。
私は講義を終えると、傘と教本の入った袋とを持って、疾風怒濤と走った。
それはもう、前後不覚となるほどに――。
そんな速さで走っていた為に、校門に差し掛かった辺りで誰かの背中にぶつかってしまった。
「ッ……! ててて……」
私は勢いのあまりに跳ね返され、地面に尻餅をついてしまった。
「痛ッ……」
相手の方も転んで、鼻を強く打ちつけたようで、蹲って、手で顔を押さえていた。
「おいおい、どうしたどうした」
「大丈夫かよ」
「何があった?」
私が倒してしまった人の周りに、帰ろうとしていた者達が数十人ばかり集まってきていた。
それも、男ばかり……。
「あぁ、大丈夫だ……ッてて……」
転んでいた男は地面に落とした自分の杖を拾って立ち上がった。
その杖を見て、男が誰なのか漸く悟る。
そして、自分がいかに愚かなことをしてしまったのかも。
「おい、血ぃ出てんぞ! 本当に大丈夫かよ!?」
「酷ェ……。一体誰がこんなことを……」
「人間の……、血の通った人間のすることじゃねぇ!!」
男の顔を見て、周りの、男と同じく杖を持った人間達は騒ぎ立てる。
声が響く度に自分の愚かさを痛感させられる。
「あぁ……、痛い……。死ぬゥ……。誰だろうなぁ……、こんなに酷いことをするのはァ……」
彼は、わざとらしく周りを見渡した。
きっと、誰にやられたかなんてことはとっくの昔に気がついていただろうに。
そして、地面に尻をついたまま、固まって動けなくなっていた私を認めると、
「あれれぇ? 君は毛唐の神原香くんじゃないかァ。そんなところでなァにしてんだァ?」
彼は強張った笑みを浮かべた。
最早、見間違える筈もなく、そのいけ好かない美青年風の顔は、私にいつも暴力を振るってくる人間。
「や……薬之助……さん……」
名前を唱えて、とても息苦しくなってしまった。
息が出来ない。
辛い。怖い。辛い。
自分がこれから何をされるのかなんて容易に想像がついたから。
私はただただ怯えた。
「……よくもやってくれたな」
彼はどすの利いた声でそういうと、杖をしゃきと奏で、ちらりと刃を見せ付けた。
仕込杖。
「ひッ……!」
喉が、一気に干上がった気がした。
実際に仕込杖で斬られたことなんて一度だってありはしない。
けれど、彼は事ある毎に私にそれの切っ先を向けて脅してきていたから、深層心理にある恐怖心が、引き釣り出されるのだ。
「面ァ――貸せや」
白銀に輝くそれを舐めて、獣染みた表情を浮かべる彼の横で、取り巻き達は、ニタニタと気色の悪い笑みを浮かべていたのが見えた。
最早、どこにも、逃れる場所は、なかった。
†
学校のすぐ近くには雑木林がある。
おおよそ、誰にも見つからない――私刑を行っても、誰にも気付かれない場所が。
私は、いつものようにそこに連れ込まれ、いつものように暴力が始まった。
「うるァッ!!」
「アガッ……!!」
私の胸倉を掴みつつ、薬之助は右拳を、顔へと振るう。
甲の骨が伝える鈍い衝撃が、激痛へと変わる。
痛い、以外に何も考えられなく程、痛い。
「オルァ!! ソラァ!! グルァ!!」
一発、二発、三発と。
いつもは顔は殴らないのに、余程頭にきているのか、集中的に顔ばかりを狙って。
薬之助は全力で右拳を振るう。
「ウブッ……! ゴッ……! ガハッ……!」
呻き声を上げる。上げてしまう。
兎に角、痛い。
何も考えたくなくなるくらいに。
顔が劫火に焼かれるかのように熱い。
けれど、口や鼻の周りは生温い。
きっと、大嫌いな白い顔が、真っ赤に染まっているのだろう。
「ハッハハハ! オイオイ、やめてやれよォ。カワイソウだろゥ?」
周りで見て、ゲラゲラと笑っていた仲間の一人が、そんな気持ちは毛ほどもなさそうにあざ笑いながら言った。
「しッかし、コイツ、毛唐の癖になんツー上等な傘持ってんだよ。死ねよ」
先生の傘を、奪った男は、それを見ながら、やはり私に罵詈雑言をぶちまける。
「ッ――!!」
悔しかった。
暴力を振るわれることが?
違う。
先生の傘を奪われたことが?
否だ。
毛唐と馬鹿にされたことが?
そうじゃない。
何も言い返せないことだ。
ここまできて、黴臭い、『大和撫子』に囚われている自分のことが、だ。
どうして必死にそれを目指しつつも、今まで疑問に思い続けていたのか。
どうして先生がとてもかっこいいのか。
「……漸く、分かった」
清く、正しく、凛として、慎ましく、可憐。
そんなものが大和撫子ではないからだ。
ただ耐えることなんて、路傍の、緑色の雑草にだって出来ることなのだから。
「んだァ、毛唐? その顔はァ?」
そんなことを考えていた、私の顔はきっと歪んでいたのだろう。
憤怒しているように見えたに違いない。
それでは駄目だ。
だから、私は――
「最高です」
笑ってみせた。
狂人のように。口角を裂いて。先生みたいに。
「あぁ?」
「だから、最高だと言っているんですよ。毛唐と呼ばれることが。とてもとても、心地よくてたまらないと、そう言っているんですよ」
「なッ!?」
私の胸倉を掴んで、好き放題暴力を振るい優位に立っていた筈の薬之助は、だのに気おされ、恐れおののいていた。
震えているとさえ、私には思われて、それが愉快でたまらなかった。
「この時代は――明治はヨーロッパ人によって作られました。だから、私の髪は、私の肌は、新しい時代の色なんです! だから私は、新しい時代の大和撫子なんです!」
「何を……言って……」
「貴方達なんかに! 貴方達なんかに馬鹿に出来る筈が無いんです! 時代は移ったのに剣を捨てきれず! だけど、廃刀令にビクビク震えて! 仕込杖なんかで力を誇示して! お侍ごっこなんてやってる、似非日本人なんかには!」
大和撫子は、清く、正しく、凛として、慎ましく、可憐な、路傍の雑草なんかではない。
喩えるならば、それは狂気の華――。
醜く、邪悪で、けれど強くて、なんとも格好の良く、毒々しくも美麗な、裂いた人肉の色に似た狂気の華。
それはまさしく、先生。
「手前ェ! 言わせておけば!」
声を荒げ、怒鳴り散らす薬之助。
けれど、私はそれを見て、羊みたいにビクビクと体を震わせることなど最早しない。
笑い続けた。
「いい加減離して下さい。貴方の手、芋臭くて敵わないんですよ、薩摩の芋虫さん」
――ついでにそう言って、泣血氈色の唾を顔に吐きつけてやった。
「こンのッ、女ァ!!」
薬之助はついに私を近くの木に向かって投げ飛ばした。
「ウッ……」
背中から、幹に突っ込んだために、呻き声が漏れてしまう。
そのまま地面に顔をつけて横たわることになったが、それでも、薬之助とその仲間達を睨み続ける。
「んだその目はァ!? こっちが下出に出りゃ調子付きやがって!!」
余程それが気に食わなかったのか。
まるで大量の火薬に一斉を爆発させたかのような怒声を上げた。
「野郎共!! コイツを犯せ!! 犯して殺せ!! 徹底的にやれェ!!」
薬之助は仲間達に命令した。
「了解、了解」
「仕方ないですねぇ」
「そうするんなら、顔殴るなよ。萎えるだろうがよぉ」
「ですよねぇ」
「まぁ、でも俺もムカついてるし、どうでもいいや」
「あっ、お前も? 俺も俺も」
薬之助の言葉に彼等は乗り気に、笑顔で従う。
元々、剣達者で同輩の中で一番学問ができる彼に逆らえないのが半分、元々彼等がそういうことを好む性質だということが半分といったところか。
ともかく薬之助達は、私を取り囲みつつ、少しづつ、ゆっくりとにじり寄って来る。
犯される。その後殺される。
けれど、それでいい。
最後にしっかりと、『大和撫子』として彼等に反撃の一矢を食らわせることが出来たのだから。
何も、悔いはない。
だからこそ、言いたい。
「私は――! 私はやりました! 先生ィ!!」
男の手が、まさに私の胸元を掴もうとしていた。
その時、だった。
轟!
と、凄まじい暴風が、私と男達との間に起きた。
「なッ!? なんだこれはァァァ!?」
「と、飛ばされるッゥ!!」
「ヌァァァアアッ!!」
その圧が、衝撃が、男達を吹き飛ばしていく。
ほんの数尺先の地面が大きく円形に抉り取られていた。
その中心の辺り。
長さ四尺はあるだろうライフル銃に、一尺ほどの刃の短刀を取り付け、槍のようにしたものが、突き刺さっていた。
「い、一体なんだ?」
「スペンサー銃――じゃあ、ないでしょうか? 薬之助さん」
「なモン見りゃあ分かる! どうしてこんなモンがいきなりこんな所に飛んできてんだって聞いてんだよ!」
五間は後方に飛ばされた薬之助達は慌しくなっていた。
そんな彼等の遥か向こう側。
二町は離れていたと思われるが、けれどその人物を見間違える筈がなかった。
何しろ、六尺五寸もある偉丈夫ならぬ偉丈婦。
真っ赤で派手な羽織と、黒いズボンにブーツという普通であれば珍妙に見えてしまう服装を華麗に着こなしたその姿。
「先……生……」
それは間違いなく、大和撫子そのものであった。
彼女は、天を仰ぎ、やや大げさな深呼吸をすると、此方に向かって走り始める。
「先生!? 先生だと!? ウチの学校の教諭の誰かか!?」
薬之助がそう私に尋ねかけてきていたのだが、私はそれに言葉を返すことが出来なかった。
「あのっ! もしかしたら、例のあの『妖怪女』じゃあないですか?」
「『鵺』のことか? そんな馬鹿な!? いくらなんでもそんな!?」
先生が凄まじい速度で――例えるならば、汽車の三倍ほどはあろうかと見紛うほどの速さで此方に迫っていたのだ。
流石にその様子には言葉を失ってしまう。
「で、でもあの先生、米俵を片手で担ぐ怪力って言ってなかったか?」
「弥七郎まで何言いだしてんだよ! たった米俵分でこんな!? そもそもこんなの人間業じゃねぇぞ!?」
慟!!
と、あまりの速さに先生の通る道に生えてた木から、葉が、全て吹き飛んでゆく。
「――風が……煩い」
ふと、白髪で長身痩躯の男が言ったその時だった。
薬之助達に戦慄が走った。
一陣の風を纏いながら、真っ赤で大きな塊が、男の一人に突撃したのだ。
「ア……ッグ……ッアアアア!!」
速力の、副産物的なものでしかない突撃の威力によって男は天高くを舞い、地面へと落ちる。
見ればそれは、先生の傘を持っていた男だった。
傘も、天高くを飛び、そしてクルクルと回りながら、それは真っ赤な怪物の手へと返る。
「やれやれ。あくまでこれは香に貸したものだというのに。何故あんなちんちくりんの手に握られていたのか……。まぁ、状況的に察するのは至極容易だが」
そう言いながら、先生はかなり上等そうな洋傘を、邪魔になると言わんばかりに私に放る。
「香が約束の時間になっても来ないから心配になって探しにきてみれば……。おやおや、実に面白い。士族様方の犯行現場と来たものだ」
面白いとは言いながらも、先生の声色はそれとは随分とかけ離れていた。
――背を向けていたから分からなかったが、きっと身の毛もよだつ表情をしているに違いなかった。
「まったく。常日頃から羽織にスペンサーと銃剣を仕込んでおいて正解だったと思う日が来ることになるとは。これを投擲していなければ、今頃どうなっていたことか。……考えただけでも恐ろしいな」
そう言いつつ彼女は右手でそれを引き抜き、片手一本で構えて、男達に向ける。
「日本の未来を担うであろう筈の大和撫子の一つに、貴様達はなんてことをしようとした。侮蔑の言葉を考えなければならない」
そうだな、と一呼吸置きつつ、彼女はスペンサーをがつっ、がつっと鳴らす。
「――“These brains must be lint.”と、でも言っておこうか」
――レバーを引き、ハンマーを引き、凶弾を打ち込む準備をしたのだ。