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モギイ童話集

長靴しかはいていない猫

作者: モギイ

「それで……」


 俺は目の前の女に尋ねた。


「俺はどうすればいいんだ?」


 女は、軽蔑の色のわずかに浮かぶ琥珀の瞳で俺を見つめた。腰まである長い髪は瞳と同じ蜂蜜色。そして、何よりも彼女は素っ裸だった。膝まで届く茶色い牛皮の長靴を除いては。


「服を脱いでください。全部ですよ」


「どうしてだ?」


 裸の女にお前も裸になれと言われれば、たいていの男は喜ぶだろうが、この場合は事情が違った。俺達はだだっ広い川岸にいたのだ。まだ春は浅い。風は差すように冷たく、外套を脱いだだけで凍えてしまうだろう。


 女はいかにも俺を見下した様子で岩の上に腰を下ろすと、長靴を履いた形のよい足を組んだ。


「あなたは頭が悪いんですから、黙って私の言うことを聞いておけばいいんです」


 逆らっても無駄なのは分かっている。俺は諦めて服を脱ぐと、次の指示を待った。


「それでは、川に入ってください」


 見るからに冷たそうな川の水を見て、俺はためらった。だが、女が川の水よりも冷たい視線を俺に向けたので、俺は観念してざぶざぶと水の中に入った。予想以上に冷たい水にはらわたが縮み上がる。女の意図はさっぱり分からなかったが、尋ねても同じ視線が戻ってくるだけだろう。 女が俺の脱ぎ捨てた粗末な服を、汚そうに摘み上げて川の流れに放り込むのを見て、俺は更に惨めな気持ちになった。


 服が沈むのを見届け、女は土手を駆け上がった。土手の脇には俺たちが歩いてきた街道が走っている。 俺の歯ががちがちと音を立てる。冷たい流れに体の熱を吸い取られ、もう自分は凍え死ぬのだと思ったとき、女が俺に呼びかけた。


「来ましたよ。溺れたフリをしてください」


 何が来たのか、どうして溺れたフリをしなくてはならないのか、尋ねようとも思わなかった。俺は首まで水につかると溺れたフリをした。実を言えば俺はもう溺れる寸前だったので、それはとても簡単な事だったのだ。 女は土手の上で、俺からは見えない何かを見つめている。


 彼女は美しい。半ば本気で溺れながら、俺は女の裸体を惚れ惚れと眺めた。牛皮の長靴は俺が買ってやった、と言うより、なけなしの金をはたいて買わされたのだが、裸の身体になんとも艶かしく映える。女が俺の溺れ具合を確認するようにこちらを見たとき、俺の耳にも馬の蹄の音が聞こえてきた。


 女が前方に向かって叫び出した。長い腕を振り回し、胸と尻をピンと突き出して力の限り声を張り上げる。


「止まってください。私の主人が溺れています。どうかお助けください」


 土手の上に立派な馬車が止まったのが見えた。女が御者と言葉を交わすと、馬車の中からこれまた立派な身なりをした男が現れた。男は土手を駆け下り、俺に向かって手を差し伸べてくれた。俺はやっとのことで男の手を掴み、岸へと引っ張り上げてもらった。


 気がつくと男の後ろには、更に豪華な身なりの男と、まだあどけなさの残る愛らしい少女が、共に驚いた様子で突っ立って俺を眺めている。 いつの間にか俺のそばに戻って来ていた女が、俺の耳元でささやいた。


「国王陛下にご無礼のないように」


「お、王様だって?」


「王女様もいらっしゃいます。気に入られるよう努力してくださいよ」


 王女は興味津々と言った様子で、俺の裸をじろじろと見ている。慌てて股間を隠し、俺は精一杯の笑顔を王女様に向けた。王様は従者に命じて着替えを持ってこさせると、俺に服を着るように言った。



           ******************************



「ほほう、この立派な若者がそなたの主人のカラバ侯爵か。お初にお目にかかる」


 走り出した馬車の中で毛布に包まり震えている俺に、王様が話しかけた。 なぜだか分からないが、王様と女はすでに知り合いのようだ。その上、王様は俺の事までご存知だ。俺がカラバ侯爵ではないことを除いての話だが。


 王様は畏敬の念をこめて、俺の隣に座る女を見つめた。


「そなたはなんと賢い猫をお持ちなのか」


「ええ、それにとてもかわいらしいわ。長靴がよく似合っていること」


 王女様もうっとりと女を眺めている。女は得意そうな顔で俺をちらりと見た。




 そうなのだ。この女は俺以外の人間には猫に見えるのだ。どうしてなのか、理由は俺には分からない。


 俺の親父が死ぬときに唯一俺に残してくれたのがこの猫だ。兄二人は風車小屋とロバを貰ったのに、猫一匹だけとは親父は俺の事をよほど嫌っていたらしい。だが、俺は猫が気に入っていたのでそれで満足することにした。


 俺には昔からこの猫が女にしか見えないのだが、みんなが『猫』と呼ぶので、あえて気がつかないフリをしていた。本当の事を言ってしまえば、ますますみんなが俺の事をバカ扱いするんじゃないかと不安だったのだ。


 親父が死ぬまでは、俺は親父と兄達と共に傾きかけた風車小屋に住んでいた。だが、親父が死ぬと兄達はすぐに俺を追い出した。途方にくれて泣き出した俺に、呆れ顔の猫が言った。


「こんなしけた小屋に住んでたって、いいことなんてありゃしません。さあ、あなたの幸運を探しに行きましょう」


 汚れた服の裾で涙を拭くと、俺は猫について旅に出た。



           ******************************



「礼を言うのを忘れておったな。いつも贈り物を貰って感謝しておる」


 俺には王様が何の話をしているのか分からなかったが、猫が恐ろしい目つきで睨んだので、にっこり笑ってうなずいておいた。 猫は口がうまい。王様とお姫様は夢中になって猫と話している。そのうちに猫が勝手に王様達をカラバ侯爵の城へと招待してしまったので、俺は恐ろしくなった。


 しばらくして馬車の窓から外に目をやった王様は、馬車を止めるよう御者に命じた。表には見渡す限りの豊かな農地が広がっている。 王様が農民達にここは誰の領地かと尋ねると、彼らは口を揃えてカラバ侯爵の領地だと答えた。


 王様はいたく感銘を受けたようで、また俺をじろじろと見つめるものだから、俺はますます居心地が悪くなった。それからも王様は何度か馬車を止めたが、そのたびに農民達はそこがカラバ侯爵の領地だと答えるのだった。


 やがて俺達は、カラバ侯爵の城に到着した。



           ******************************



 男が夢にも知らないことなのであるが、ここまでには猫なりの大変な苦労があったのだ。


 男がまだ幼かった頃、この猫は粉引きの男の家にネズミを捕るために貰われてきた。猫は頭がよく、ネズミ捕りが大変うまかったので、あっと言う間に風車小屋から害獣の姿は消えた。


 一方、少年はあまり頭の回転が速いほうではなく、兄たちには馬鹿にされ、友達も少なかった。彼は納屋の中でたびたび猫に話しかけた。不思議なことに彼だけには猫が人間の少女に見えていたからだ。


 彼は、裸の少女が寒かろうと納屋に毛布を持ちこんでは父親に叱られた。少女は肉が好物だったので、たまにスープに肉が浮かんでいると自分では食べずに彼女に与えた。彼女はおそろしく気まぐれだったが、それでも彼のたった一人の友達だったのだ。


 少年の信じる気持ちがそうさせたのか、もともとこの猫がただの猫ではなかったのか、それは分からない。だが、猫はいつしか人間の言葉を解するようになった。


 猫と少年は、猫が散歩に出かけるとき以外はいつも一緒だった。猫は野性が強く、人間には決して身体を触れさせようとはしなかった。だから少年も彼女には触れないように気をつかった。それに、もし少女に触ったら、父親や兄が言う通りのただの猫になってしまうのではないかと不安だったのだ。


 やがて少年は青年となり、粉屋の親父は死んだ。猫の姿を見れば蹴ったり水をかけたりする二人の兄を猫は嫌っていたので、彼女は家を追い出されてせいせいした。




 さて、家を出てすぐに、猫は男に長靴と袋を探してくるように命じた。猫は自分で捕まえたウサギや鳥を袋に詰め込み、長靴を履くと、王様の城へと出かけた。


 靴を履いている上に、言葉を話す猫など大変珍しいので、猫は即座に王への謁見を許された。猫は袋を王に献上すると、主人であるカラバ侯爵からの贈り物であると伝え、盛大にカラバ侯爵を褒め上げたのだった。それからと言うもの、猫は毎週のように『カラバ侯爵からの贈り物』を王様へと送り届けた。


 ある時、王様がお姫様と遠出すると聞いた猫は、とある城へと向かった。城へ向かう途中には豊かな土地が広がっている。 当然ながらこの土地が、カラバ侯爵なる実在しない人物の持ち物であるはずがない。城は恐ろしい人食い鬼の棲家であり、この土地も鬼の領土であったのだ。


 猫は途中で出会った農民達を脅し、王に質問されたらカラバ公爵の土地であると答えるように命じた。農民達はしゃべる猫など見たことがなかったし、猫の顔が恐ろしかったので、彼女の言うとおりにすると約束した。


 猫が城につくと鬼がいた。彼女は鬼に知恵比べを挑み、鬼を騙してネズミに化けさせるとぺろりと食べてしまった。


 猫は城の使用人たちにカラバ侯爵と王様の一行をもてなすように命じた。恐ろしい鬼を退治した化け物猫を怒らせしまっては一大事と、彼らは猫の命令どおりに振舞うことを約束したのだった。




 さあ、準備は整った。猫は満足気に喉を鳴らした。粉屋の親父が死んだときにさっさと野良猫になってしまえばよかったのだが、低脳な息子を見放して野垂れ死にさせるのは彼女の誇りが許さなかった。


 すべてがうまく行けば……彼女は晴れて自由の身になれるのだ。



           ******************************



 カラバ侯爵の城に着くと俺たちは盛大なもてなしを受けた。王は始終感心した様子でにこにことうなずいている。俺はここで今まで見たことも聞いたこともないような豪勢なモノを食った。王様とお姫様は俺に向かって、思いつく限りの質問を浴びせてくる。猫が助け舟を出してくれるのだが、いつボロが出るかと気が気じゃない。侯爵じゃないなんてバレたら、首を切られちまうかもしれない。


 それなのに王様はこんなことを言い出したのだ。


「侯爵よ。わが娘の婿になってはもらえぬか」


「それはできません」


 俺はきっぱりと断った。王様もお姫様も断られるとは思ってなかったんだろう。二人が目を白黒させているうちに、俺はさっさと裏口から逃げ出した。



           ******************************



 その晩はどこかの納屋に泊まった。湿った干草の上で俺は横になる。半日も偉い人たちと過ごしたもんだから、気疲れでふらふらだ。


 気付くと猫がすぐそばに仁王立ちになっていた。形のよい二つの乳房の間から恐ろしい形相で俺を見下ろしている。


「なんで逃げ出したりしたんです。もう少しで王様のお世継ぎになれたのですよ」


「でも、俺は王様のお世継ぎになんかなりたくないんだ」


 猫の表情が少し和らいだ。


「どうしてあなたには欲がないのでしょうね。かわいらしい姫君と結婚したくはなかったのですか?」


「お姫様なんて入らないよ。俺にはお前がいるじゃないか」


 猫は鮮やかな金色の目で俺を見つめた。困ったものだというように、ふうと息を吐く。


「服を脱いでください」


「どうしてだ?」


 また冷たい川に入らなきゃならないのかと俺は恐れおののいた。


「あなたは頭が悪いんですから、黙って言うことを聞けばいいんです」


 俺は諦めて服を脱いだ。何度も言うようだが、猫に逆らっても無駄なのだ。


「あれだけ私が苦労してお膳立てしたのに、全部ぶち壊してくれましたね」


 声の響きは冷たいけれど、なんだか笑っているようにも聞こえる。やがて猫は俺の身体に自分の身体を押し付けてきた。初めて触れた猫は、柔らかくて暖かくてひなたの匂いがした。


 いつだってそうなんだ。俺に怖い顔して見せるけど、それは怒ったフリをしてるだけなんだ。猫ってのはそういう生き物なんだから。


「いいよ。この暮らしも思ったより悪くない。俺は猫一匹いれば満足なんだから、お前は心配しなくていいさ」


 俺は猫をぎゅうと抱きしめた。そうだ、俺は一番欲しかったものを親父から譲り受けた。ほかに何を望むっていうんだ?


「でも、私は野宿は嫌いなんです。お城が嫌なら、せめて暖炉のある家を見つけましょう。火のそばで眠れさえするのなら、飼い猫でいるのも悪くはないですからね」


 猫はにんまりと笑うと、俺の鼻の頭をぺろりと舐めた。




 -おわり-


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