第一章(5)
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・組織その他もろもろは現実のものとは一切関係ありません。
5時間目、6時間目、7時間目と授業によって時間が流れていく。冷暖房完備の教室は、一年を通して環境が良く、またそれは気を抜けば容易に眠ってしまうというのであった。
前日の睡眠不足があった平島は何とか耐えていたが、野川は授業を受ける姿勢が欠片も感じられない爆睡状態。意外なことに、苦手教科があったはずの鷲部が、一切うとうとせず集中していた。
加えて、6時間目の英語の授業で平島が宿題を忘れたこと以外には、さして変わったこともなく、一学期の期末テストも終わり夏休み気分の高まっている放課後を迎えた。
ちなみに、平島が宿題を忘れたときの反応は言うまでもなく面白いものだった。
気付けば、夏休みまであと一週間である。今日は金曜日。一週間後の来週金曜日が終業式で、そこからお待ちかねの夏季休業期間が開始されるということだ。
もちろん、夏休みの間も部活動などで学校は開いている――教室も基本的には鍵は掛かっていない。槻山では、物騒な事件がここ何年も起きていなく、このようなルーズさが許されている。さすがに、お盆などの学校閉鎖日には閉まっているが。
しかし、高校生にとって、このルーズさは喜ばしいことであろう。青春真っ只中の彼ら、彼女らにとって秘密にしておきたいことが易々と実行できてしまうのだから。
例えばそれは、告白しかり、駄弁ることしかり、相談しかり、場合によっては勉強にも使われるだろう。現に、休み明けに皆が驚かされるというような出来事も多い。
なぜ教室も基本的に開放されているのかは知る由もないが、結構に学生の味方になる環境である。
今日も特例なくそのルーズさはあるのだが、三々五々に生徒たちが放課後を有意義に過ごす中に、少し捻くれた過ごし方をしている者も存在する。
終礼が終わると準備のために一目散に家へと戻り、今まさに槻山へと歩みを進める野川光信はその代表格である。このことに関する精力的な様子は、やる気の方向が屈折しているだけで、部活動に勤しむ大多数の生徒に引けをとっていない。
正造じいちゃんの家を通り過ぎ、百年杉とともに聳える槻山高校を横目にしながら、山道へ続く僅かな傾斜を上っていく。グラウンドからはサッカー部と野球部と思しき声が聞こえていた。
一貫して見慣れた田園風景が続いたが、足どりはもちろん緩まなかった。夕方が遠く感じられる日差しが降り注ぐ。
ここ槻山町と町外とをつなぐ唯一の道路である高速道路への入り口に繋がる交差点を直進し――右に曲がれば鷲部や森福たちの家がある住宅街に続く――十数段の階段を上り槻山の麓にある槻山神社の鳥居をくぐる。神社の本殿には目も呉れず、境内をいそいそと通っていった。
境内を抜けて、緑深い槻山の入り口に差し掛かり、野川はふと立ち止まった。散策範囲を決めかねたからである。
いくら彼が熱心に槻山を散策しているとは言え、その全域を網羅することはできていない。山には、目撃情報は皆無に等しいが、イノシシやクマといった動物もいないことは無いので、さすがにむやみやたらと入っていかない分別は弁えているようだ。クマ除けの鈴も持ち合わせている。
夏休みも近いということで、そういったところを探索するというのが今日の計画。候補は槻山西側と中央の深部――網羅できていない場所の一部だが――に絞られていた。
最終的に自身のフィーリングを頼りとして、野川は深く入っていくことにした。懐中電灯を持ってきてはいるが、すでに日は刻々と傾き始めており、残された時間は約2時間。なるべく日没とともに山から出てこられるようにした見積もりである。
道なき道を進むのではなく、見た目よりも標高のある槻山は一種の登山の隠れスポットで、物好きな先人たちのおかげかある程度道は形成されているので、確たる目標などなかったが進むことに迷いはなかった。
木の葉が風に揺れる音や、野鳥のさえずりがしきりに聞こえる。もう蝉も鳴き出す時期だ。
疲れ知らずの野川は汗こそ噴き出てはいないが、徐々に体は水分を放出していた。
数十分ほど緑の中を歩いて、小川にぶつかった。道は、その小川によって左右に分かれている。左の方は少し急な下りの坂道になっていて、右の方は緩やかな上り。小川も、その地形に合わせて視界の右から左へと流れていっている。野川は、惹かれるように、流れに沿って坂道を下ることにした。
ほどなくして、野川は自分の選択ミスを悟る。小川は、小さな池へとその流れを注いでおり、道はそこで途切れていた。まるで、山中に自然とできた休憩所のようであった。
仕方なく、水分補給にちょうどいいと割り切って池の水を飲み、少しの間池を囲っている岩に腰掛け、それから反対側の道へと歩みを進めた。槻山の自然には文句の言わない野川であった。
分岐点を通り過ぎ、しばらく道なりに進んで行くにつれて、どんどん周りの木々が密度を上げていき、道幅もか細いものに遷移していく。日差しも夕方らしくなったとは言え、かなり届きにくくなってきた。どうやら最初から選択ミスをしていたようだと野川は自分の直感を毒づいたが、予想通りに道は高速道路の渋滞が終わるように消えてしまった。
人の通らなくなった道というのは、その時からどんどん荒廃していくものである。もちろん、荒廃というのは人間の立場からであって、自然の立場からすると、踏み倒された草花もしくは樹木が再び生育するようになる。すなわち荒廃ではなく繁栄という言葉がふさわしいのである。
野川は大人しく引き返そうと思ったが、不自然さを感じ――自然界では、それが自然なのだが――植物には申し訳ないと感じつつも、行き止まりの木々を通れる程度になぎ倒していった。嫌な音を立てて次々と木が折れていく。
ある程度踏み入ると、先が開けていることに気が付いた。野川はさらに速度を上げ進んでいく。
辿り着いたのは、ボロボロという言葉がまさに似つかわしい木造の社であった。建てられたのがいつなのか単純に予測できないほどで――そして、野川の趣味にぴったりと当てはまる社であった。
――うわ……。おれの直感も、案外捨てたものじゃないのかもな。
夕日が不気味に社を照らし出し、おどろおどろしい雰囲気が満載であるにもかかわらず、野川は勇敢にも中へ入ろうとする。心なしか空気がひんやりと感じられる。
軋む音を立てながら板戸を開くと、すぐさま埃の臭いが鼻を衝く。しかし、光は社内部にはほとんど差し込まず、様子が把握できない。懐中電灯を持ってきたことは幸いであった。
すると突然、風が強く吹き込む。立てつけが悪くなった戸がカタカタと音を立てる。
それでもやはり怖気づく様子を見せずに、野川は灯りを点ける。
乏しい灯りが照らし出したのは、入って正面にある仏壇であった。社に守られていたのかそれとは対照的にしっかりとしており、中には仏像が懐中電灯の光を眩しがるように細い目を開け佇んでいた。
手前には木製の供物を置く台らしきものがあり、床には割れた瀬戸物が転がっていたり、倒れた燭台と溶けた蝋が固まっていた。
散乱しているものに注意しつつ、床を軋ませながら仏壇に近づくと、向かって左側の壁に赤い模様があることに気が付いた。
懐中電灯で端から端へと照らすと、それは単なる模様ではなく絵であることがわかった。
詳しく観察しようと野川が壁に近寄ろうとするが――突然、足元が無くなった。
どうやら穴が開いていたらしく、無様にも野川は片足を穴に飲み込まれてしまった。クマ除けの鈴が、一際大きな音を立てる。しかし、運動神経の良さが功を奏して、事なきを得た。
体勢を立て直し、改めて床を照らしてみる。穴が開いているのはここだけのようだ。
ふと、穴の中にやけに白いものがあるのが目についた。好奇心を抑えきれず、しゃがみこみ、懐中電灯でしっかりと照らす。覗き込んだ瞬間、野川は心臓が締め上げられ、まるで全身の血の気が引いたような感覚に襲われた。
「ひっ……」
白いものの正体は――人間の、頭蓋骨。その状態は芳しくなく、見ていると痛々しかった。
さらにそれだけではなく、かつてはおそらく全身の骨があったのだろうが、かなりの時間が経過しているのか、頭蓋骨だけが辛うじて判別できる程度に残っているのであろう。
――なんだよ……! これ!?
急に社の中に嫌な臭いが漂い始めたように感じられた。
怖い話が大好きな野川であったが、葬式に参列する機会などもなかったので、本物の人骨を目にするのはこれが初めてである。さすがに腰がひけてしまうようだ。しかし、すぐさま社を飛び出そうとはしなかった。この槻山には、〝言い伝え〟があるのを思い出したからである。
今や誰も知らないと言っても良いほどの〝言い伝え〟について野川が耳にしたのは、いくつかある。
一つ目は人食い鬼の伝説である。かつて槻山には人食い鬼が住んでおり、町外の者はその存在を知らず、ことごとく襲われてしまった、というものである。
二つ目、これは一つ目によく似ているが、槻山に住んでいたのは人を食う民族だったという話だ。町外から来た者はもちろん、共食いなんかもあったとか。
三つ目はこの町はもともと暗殺を請け負う民族の住処だったという話。部外者は秘密を守るためにおしなべて殺されてしまったとかなんとか。
この他にもパターンがあったが、野川はどれが本当のことなのかと常々気になっていた。
今いる社は、どうやらその疑問を解決してくれそうだと、野川は感じ取った。
――もしかすると、この骨は〝言い伝え〟で殺された人のものなんじゃ……。
再び、壁の絵を近くで眺める。すると仄かに、鉄の臭いが鼻を刺す。今にも消えそうだが、確かな錆びた臭いだ。
――まさかこれ……! 血か……!?
少し落ち着きを取り戻した野川の頭が、彼の都合にいいように事実を推測する。
だが、案外その邪推は的外れでは無いようで、実際に血で描かれた絵と見られた。それは、先の死体が殺されたときに飛び散った血飛沫が怨念の込められた意識を持ち、自ら蠢いて形成されたと言わんばかりだ。
残念ながら、乾き切って今にも消えてしまいそうな赤い絵からは何も推察されそうになかったが、唯一目を引くものがその中央にあった。
――六芒星……?
正六角形の中に、正三角形を二つ組み合わせた〝ダビデの星〟や〝カゴメ紋〟とも言われる六芒星が描かれていた。もっとも、六芒星とは正三角形二つが重なってできる内部の線がなくても、突起が六つある星形であればそう呼べるが、ダビデの星はその内部の線が必ずなくてはならないので、厳密には別物とされる。
現在イスラエル共和国の国旗にも描かれており、ユダヤ教ないしはユダヤ民族を表す象徴とされている。日本でも陰陽道に関わりのあるものと見なされている。
しかし、ここにあるその六芒星はその一辺に瑕疵があった。不自然にクロスする線が一本足されていたのである――まるで、辺を切断するかのごとく、血が一直線に振るわれていた。
野川には、果たしてこの図形にどんな目的があるのか皆目見当がつかなかったが、彼の怖いもの好きという趣味の知識から、五芒星が呪術を封じる護符の役割をするのに対し、六芒星が呪術を召喚する役割を担うということはおぼろげながら知っていた。ゆえに、呪術的なものに関係しているのだろうと一層興味を持つことになった。
もはや、先ほど初めて人骨を目にしたという恐怖よりも、この呪い的な図形に抱く興味が勝っているらしかった。
彼はすぐさま、今度は穴に足を取られないように気を付けながら、他にも〝言い伝え〟に関連しているであろう情報を社の中に探し求める。太陽はどんどん沈んでいくのに、不思議と暗澹たる社に明かりが増しているようだった。
足を動かす度に鈴が鳴り、ギシギシと床が鳴く。静かな槻山の奥地に奇怪な音を響かせながら、考古学者さながらの熱意をもって、捜索を続ける。日没までに山を抜けれるタイムリミットが迫ってきた。
いよいよ虫の声が騒がしくなって来ようかというタイミングで、ついに野川は決定的な情報を探し当てた。大きくはない仏壇の引き出しに、現代の口語ではない文体で書かれた手紙のようなものがあったのである。誰の遺墨かは知る由もないが、鬼気迫るその墨痕淋漓のさまは、どうやら〝言い伝え〟の〝悪いもの〟を終息させた人物のものらしかった。
ところで、勉強の不得意な野川だったが、古典だけは趣味のために頑張っていたのだ――本当のところは、〝頑張っている〟というより、〝やむを得ず〟という方が正しいのだが。古い言い伝えを調べるとき、古典文章を読むことも必要になってくるからだ。
――なになに……『むくつけかりきもののけのごときは、いまこのほしをもってはらいなむ……』? 〝言い伝え〟の鬼を追い払ったのか? 『ほし』ってのはあの六芒星の図形か……。
野川は知識を総動員させて、書かれている内容を理解するように努める。とは言っても、さすがに一介の学生である彼にはすべてを網羅することはできなかったが、この社が〝言い伝え〟に関わることは間違いないようだ。
特に、あの図形に関する記述は野川の興味をそそった。しかし、その箇所には難解な古語が並び、内容は理解不能もいいところで、野川は「この図形は〝言い伝え〟の中に出てくる〝悪いもの〟を抑えつけるためのものだ」とかなり無理矢理結論付けた。
唯一例外として、〝悪いもの〟を抑えつけるための儀式――そう呼べるほどほど仰々しいものかは不明だが――については、ほぼ完全に近い形で理解することができたと自負した。
彼の読み取った内容は要約すると次の通り。
まず、必要なものは供物、そしてあの六芒星の図形。供物は、この社ではあの白骨化した死体――儀式の際は生きていたのだろうか――らしかったが、別に制約はなさそうだった。とはいえ、彼の読み取りが正しければ、死体があと四体も社の下に眠っているのだと思うと、野川はぞっとするのを隠せなかった。
また、呪文の類は不要らしく、供物が五芒星の頂点に来るように配置し、五芒星の中心に六芒星の図形を完成させるだけで良いようだ。これもまた、血である必要はなさそうだ。
以上が、概要である。
意外と簡単なものだな、というのが野川の率直な感想だった。
こういった類の呪術の術式は、もっと複雑なものだと思っており、揃えなければいけない条件がごまんとあるもので、現代では容易に再現できそうにもないと考えていた。
文書には呪力とか特別な力が必要とは何一つ記述がなかったが、それゆえ必要ないとも限らない。おそらくそういった力がないとこの呪術は発動しないだろうと、野川は高を括った。
そして、この再現が可能そうだがまた不可能そうな儀式は、野川にある考えをもたらした。
――今年の肝試しは、いっちょこれを再現してみるか。なかなか面白そうだし。
言い伝えの実感が乏しいこの少年、野川光信には、もしかするとそれが再燃してしまうのではないかという畏れがなかった。それどころか、暇つぶしの道具とみなしていたのである。
そうして、十分に満足した捜索を終え、日が落ちる前に山を抜けるべく野川は帰路につくことにした。
外に出ると、すっかり空は夕方の様相だった。埃臭く、また血生臭かった社に籠っていたので、思わず深呼吸を二回、三回と繰り返す。丁寧に戸を閉め、社を後にする。死体のことを思い出し、別に警察へ通報する必要はないだろうと思いつつ、足早に山の出口を目指した。
遠くでカラスが鳴いている。風はざわざわと槻山の木々を揺らしている。
鈴を鳴らしながら分かれ道を通り過ぎ、クマやイノシシといった危険動物の影もなく、無事に槻山を抜け出した。
夏は日が長いが、さすがにもう夜の帳が降りようとしている。
野川は寄り道もせず――もっとも、寄るところなどないのだが――家へと帰った。道中、知り合いとすれ違うことはなかった。無事に自宅に到着すると、同時に日没を迎えた。
両親はかくのごとくおらず、家の中は真っ暗だったが、野川の表情は極めて明るい。
晩飯を済ませ、風呂に入り寝床に就くまで、贔屓のプロ野球チームが昨日に続き情けなく負けたにもかかわらず終始上機嫌なのだった。
今日の探索は、野川にとっては、大成功と言えた。