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第一章(4)

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・組織その他もろもろは現実のものとは一切関係ありません。

 翌朝。平島は母親の怒鳴り声で目覚めることとなる。

「さきっ! いつまで寝てるの!? 遅刻するでしょ!!」

 朝の閑散としていた空気をぶち壊すような怒号に、平島ははっと目を覚まし、すかさず時計の方へ目をやる。

「嘘っ!? もうこんな時間!」

 慌てて飛び起き、着替えを始める。母が部屋まで持ってきてくれていた食パンを咥えながら。

「珍しいわね……。さきが寝坊するなんて」

 平島はいつも一人で寝起きし、きちんと遅刻せずに学校へ向かっている。それなのに、なぜか今日はこうして母親に起こされて朝の準備をする羽目になっている。

「せめてもう少し早く起こしてよね! 私だって完璧じゃないんだからっ!」

「ごめんね~。いつも一人で起きてくるもの。ついつい起こすの忘れちゃって……」

 てへ、と照れたように母親が笑う。

「かわいくないよ、お母さん」

「ひっどーい……しくしく」

 おどけたような雰囲気で母親は部屋を出て行った。

 どうしてこうもうちのお母さんはちょっとお転婆っぽいのだろう、と内心思いつつ、全速力で準備を進める。

――何で昨日あんなに眠れなかったんだろ……すごく疲れていたのに。

 実は昨日の夜、平島は鷲部の電話があってからすぐに寝息を立ててはいたが、夜中に何度も目覚めてしまっていたのだ。

 おかげさまで寝坊をし、完全に昨日の部活での疲れも残っている。目の下に軽く(くま)までできている始末。普段9時間程睡眠をとる平島にとって、これは体力的にかなりのダメージだった。

 ただ、寝坊したとは言えまだ時刻は8時になろうとしているところ。平島の家は学校の近くの商店街の一角にあるので、いつもよりちょっと登校が遅いだけで、正直遅刻の心配は無かった。

 制服へと着替えを済ませ、鞄を持って即座に家を出る。パンがまだ少し残っていたので、平島は玄関を出る際に口へと詰め込んだ。

 口を少し膨らませて商店街を走り抜ける。空は雲一つ無い晴天だ。

 途中で顔馴染みのおじさんに声をかけられ、口の中がいっぱいの平島はぎこちなく挨拶を返した。

 商店街を抜け、百年杉の角を曲がる。

 百年杉とは、この槻山のシンボルの一種で、名の通り百年生きていることからその名が付いている。

 だが、本当のところ百年など優に超えて生きており、目を見張るほどの大木だ。その本当の樹齢など、把握している者はいないであろう。

 ただ、町内にある駅の、玄関口として利用されている槻山駅からもよく見え、町のシンボルとしては打ってつけで、かなり知名度も高い。

 もっとも、そんなことは今の平島には一切関係の無い話だが。

 百年杉の角を曲がれば槻山高校は目と鼻の先だ。走らずとも遅刻しないのだが、いつもは早い時間に登校する平島はどうしても歩けなかった。

「おはようございますっ」

 校門にいつも立っている、生徒指導部長の先生に挨拶をする。もちろん、その時に口をもごもごさせている訳にはいかないので、すでにパンは嚥下していた。

「お? どうした平島。今日はいつもより遅いな」

「何でもないです! それでは!」

 下手くそな誤魔化しで、校門をくぐる。十分に間に合うというのに、やはり彼女は走るのをやめなかった。周りの生徒の視線を自然と集めていることに、気付く由もなかった。

 靴箱で靴を履きかえると、平島はようやく走ることをやめ、呼吸を整えた。

「あ。さきー! おっはよー」

 その平島の存在に気付き、後ろから声をかけたのは大宮。にこやかな笑顔で歩み寄って来る。

「お、おはよ……ミズ」

 睡眠不足の上に朝から全力疾走をしてきた平島は、いかにも体調が悪そうに返事をする。

「どうしたのさき? 顔色、悪いよ」

「何でもない……。教室、行こ?」

 余計な心配をさせたくなかったのだろう、平島はすぐに教室へと歩き出した。

 だが、それは逆効果だったようで、大宮は不審がって平島の顔を下から覗き込むように回り込む。

「本当に大丈夫? 悩みがあるなら言ってよね」

「うん……。何でもないから、大丈夫」

 大宮は心配そうな顔の下に頼られていないことへの寂寞(せきばく)を隠しながら、平島といつも通り騒がしい教室へと入って行く。

 もうすぐ朝礼の始まる頃合いだった。




□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■




 朝礼が終わって一時限目。数学の時間である。今日は、久しぶりに確率の復習をしている。

 確率は検算、すなわち答えの確認が他の単元と違ってできないという特徴がある。ゆえに大学入試では狙われやすい範囲なのだとか。

 そうは言っても、平島にとって確率の範囲は簡単で得意な範囲であったため、いつもその授業のときは、ついつい瞼が重たくなる。

 今やっている問題は、確率の発展的な内容。もっとも、平島にとっては大したことの無い問題だ。

 黒板に書かれた問題を難無く解き終え、回答を確認する。当然、正解であった。平島はすぐに暇を持て余すこととなる。授業が始まってほんのわずかしか経っていない。

 頬杖をつき、数学の問題集をぱらぱらと捲る平島。どうせ次の問題も大したことはないのだから、解説の間苦手な三角関数の問題でも解いておこうか、などと考えてはいたが、結局ペンに手は伸びなかった。

「じゃあ解説していくぞ。今日は6月30日だから……鷲部だな」

 しばらく平島がぼんやりとしていると、先生が解説を始める。いつものように生徒を指名するが、今日の平島は少しばかり胸にそわそわとしたものを感じる。何せ、鷲部なのだ。昨日電話を掛けてきた、数学――とりわけ確率の範囲――が苦手な彼なのである。

 平島は気が気でない気持ちで、思わずペンを固く握っていた。教えたいのは山々だったが、席はほぼ正反対と言っていいぐらい離れており、普通に考えて不可能である。

 ところが、そんな平島の心配を余所に彼はすらすらと先生の質問に答えている。

 それは鷲部に対して非常に失礼なことだったが、平島は呆気にとられていた。いや、平島だけでなく、クラスの皆が鷲部の回答に驚きを隠せていなかった。

「……よって、答えは――です」

 彼の回答は、平島が計算して出した答えそのものだった。さらに言うと、途中の考え方や計算まで自分の回答を見たのではないのかと疑いたくなるようなほど、平島のそれと同じであった。

 先生も思わず意表を突かれた感じになって、言葉に詰まっていたが、しばらくして鷲部を褒めた後、即座に別の問題に話を移した。生徒たちも、問題集に目を落とし始める。

 時計は、50分の授業がすでに30分経過したことを示していた。

 気温のせいか、若干頬が熱くなっている平島。夏本番はまだまだこれからだが、日本列島の梅雨も明け始めたので、気温が一気に上昇している。天気予報では、確か30度近くになるらしい。

 幸いなことに、この学校にはそれぞれの教室にクーラーが一台は付いているので、夏や冬も暑さや寒さに悩まされること無く学校生活に集中できる。

 田舎とは言えども、数少ない学校に設備を充実させてくれたようだ。

 鷲部が回答してから10分ぐらい経って、再び先生が口を開いた。授業がもう少しで終わるため、解説をしていくようだ。

 それを聞き、鷲部の後ろに座っていた野川はほっと胸を撫で下ろす。

 鷲部がその様子を機微に察し、後ろを向き一言二言話していると、案の定先生に注意されてしまった。

 野川は露骨に嫌そうな素振りを見せたが、鷲部が大人しく従ったので、多少不服そうにしながらも静かになった。

 先生がちょうど最後の計算を終えたところで、チャイムが鳴った。クラス会長が号令をかけ、一時間目が終了する。

 生徒たちが休憩へ向かうと、平島は真っ先に鷲部の元へと駆け寄った。

「ねえイチロー。今日はどうしたの?」

 何とも不躾な質問であった。鷲部は心外に思ったのだろう、すぐさま反論に出た。

「な、なんだよ。おれが確率の問題解けたらダメなのかよ」

「別に……そういうわけじゃないけれど。なんかビックリしちゃって」

 平島が笑顔を零す。すると、鷲部の鼓動は無意識に速くなる。

「……ったく、みんなおれを甘く見すぎだっての」

「あははは、事実なんだから仕方ないじゃん!」

 おどけるように平島は言った。鷲部は頭が上がらない様子で、何かものを言いたそうだったが結局黙り込んでしまった。

「ごめんごめん、調子に乗っちゃった」

 鷲部はやれやれといった感じで、大きな溜息を一つ吐いた。

「ちょっと頭いいからって、すぐ調子乗るよなー、お前」

「うるさいわね! 第一、私頭よくないし。私で頭良いって言うんなら……」

「あー、わかったよ。『世界には私より賢い人がごまんといる』って言いたいんだろ?」

 平島は、いつも頭がいいと言われると、決まってそう答えるのであった。

「もう! わかってるんなら、いちいち言わないでよね!」

 鷲部は「へいへーい」とだけ返事をして机に伏せた。

 次の時間は古典である。数学は苦手な鷲部だが、国語は古典を含め、なぜか異常に出来がよいのであった。そんなことだから、彼はいつも国語の授業中は今のように机に伏せ、寝ているのではないかと勘違いするほどの姿勢で先生の話を聞いている。本人曰く、一種の“特殊能力”らしい。

「ほんと、よく寝てるくせにテストで点が取れるなんて……。しかもこんなやつが」

 平島が、さっさと突っ伏した鷲部に対して皮肉を言う。本当に、この二人は言い争うのが好きなのだろうか。

「こんなやつとはなんだ! それに、おれは少しも寝ていないからな!」

 ふと、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。平島は、自分の席に戻りつつ、こう言った。

「ああ、そう。どうでもいいけれど、次のテストは勝たせてもらうからね!」

「それこそどうでもいいだろ。勝手に張り合えよ」

 ふん、とそっぽを向いたように着席する平島。鷲部はようやく平静を取り戻した感じであった。

――あー、心拍数上がった。よかった、昨日寝る前に確率の復習しといて。

 内心、一人で呟きながら、いつも通り寝ているのかも判断がつかない姿勢で授業へと向かった。

「授業はじめまーす。号令ー」

 ようやくクーラーが効き始めた教室は、古典の先生の穏やかな声に包まれていた。




□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■




 その日の昼休み。野川は一人購買へ向かっていた。

――……ああ、眠い。何で昨日あんなに暑かったんだよ……。

 今日の天気は晴天。夏の始まりを告げるようなすがすがしさを併せ持った暑さが、槻山を包んでいる。

 もっとも、今でこそ太陽の光も降り注いで、心地よい環境となっているが、昨日の夜中はここでは珍しく気温が上昇していたのである。

 四方八方を山に囲まれているこの槻山では、夏でも気温は大して上がらない。

 だが、昨夜はそんな槻山でも滅多にない熱帯夜だった。

 暑さに弱い、という気質でも体質でも無い野川ではあったが、まだ夏も始まってばかりのこの時期に、昨夜のような異常と言って差し支えない気象が起これば、誰だって滅入ってしまうものだ。

 ただ、いくら文句を言おうとも相手は環境であり、自然であるのだから厄介である。

 どれだけイライラをぶつけたところで、返事ひとつしてやくれない困り者だ。人間の性は、そんなやつとわかっていても文句を言ってしまうのだからある意味恐ろしく、滑稽であろう。

――今日こそ槻山に行かなくちゃな……。どうも明日からは天気が悪いみたいだし。

 野川がそんなことをぼんやり考えながら歩いていると、廊下の曲がり角で、カップルと思しき二人がいきなり姿を現した。

 野川は、瞬時に体を捻り、間一髪といったところでぶつからなかったものの、相手の男子の方は、微妙な視線を野川へと向けてきた。野川は、いかにも気付いていない様子で、そのまま購買へと足を進めた。男子生徒もそれ以上は何もすることなく、再び彼女であろう女子生徒と反対側に歩いて行ってしまった。

 この槻山高校の校舎は、非常にわかりやすい構造をしている。上空から学校を見下ろせば、ほぼ綺麗なコの字型校舎が見れることだろう。

 そんな校舎の中には、まず生徒たちが普段の授業を受けたり、ホームルームをする教室がある。コの字の一角目に相当する部分だ。本校舎や、北校舎と呼ばれる。職員室はそこの一階にあり、理科室、音楽室などの教室は全て最上階にまとめられている。ちなみに、野川たちの2年1組は2階にある。

 そして、コの字の二画目に当たるところは、副校舎や南校舎と呼ばれており、体育館、プールなどが存在している。校門を入って間もなく右手にはそのプールが見える。体育館は、集会や文化祭舞台発表などに使われるものと、体育の授業に使われるものが2つの、計3つ。

 この二つの校舎が渡り廊下によって接続されており、よほどの方向音痴でなければ、一か月もすれば校舎の構造を理解するのには充分なわかりやすさである。

 現在野川が向かっている購買は、本校舎の職員室横、あまり大きくはない食堂の中にある。利用する生徒は少なくはなく、先生たちもしばしば利用している。

 階段を降り切った野川は、一直線に食堂の方を目指す。途中、教師とすれ違いもしたが、無論挨拶を交わすことはなかった。

 校舎に入ってすぐのところに職員室はあるので、玄関を通り過ぎればすぐ食堂がある。

 購買に着いた野川は、どんな生徒にも愛想よく接してくれる購買のお姉さんと、必要最小限の会話だけで目的のカツサンドを手に入れた。幸いにも、今日は人が少なかったようだ。

 そのまま教室に帰るのも面倒だったのか、野川は冷房のほどよく効いた食堂の一角に腰を掛け、入手したばかりのカツサンドを開封し、頬張った。口の中にソースの風味が広がる。コンビニで売っているものと大差はないので(あるとすれば味)、大した時間もかけずに完食してしまった。

――あー……授業終わるまで暇だ。どうせ午後の授業も面白くないんだろうな……。

 食堂の大きな窓からは、ちょうど槻山が見える。野川はそちらの方に視線を泳がせた。すでに脳内には、放課後のプランしかない、と言った感じだ。

 そして、することも無くなったところで教室へと再び歩き始める。食堂を出ると、涼しかった空気から、夏の暑さが身体を包む。また例のごとく教師とすれ違ったが、やはり挨拶はしなかった。

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