第一章(3)
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・組織その他もろもろは現実のものとは一切関係ありません。
野川が眠りにつこうとしていたのと同じころ、平島は部屋で英語の勉強をしていた。
ノートに単語と意味を書き、綴りを練習するという単純作業だ。
平島は内心、こんなことで覚えられるのかという疑念もあったが、明日までの宿題なのでやらない訳にはいかない。
いよいよ終了まであと3行と迫った頃、不意に携帯電話が鳴り、思わず持っていたシャープペンシルを床に落とす。すぐさま拾い上げて、携帯を片手にまた作業に戻った。
「もしもしイチロー……? 何か用なの?」
電話をかけてきたのは鷲部だった。普段あまり電話をかけてこないので、平島は思わず身構える。
「いやさ、別に特別なことがあってかけたわけじゃ無いんだけど。本当だぜ? 信じろよ?」
早口で話す鷲部に、平島はさらに懐疑の念を膨らませる。
「……どうしたの? いつもと様子が違うみたいだけど」
「いやっ? 何でもないって! そ、それよりさ、今週の土曜日、暇?」
鷲部の声は半分震えていた。今にでも裏返りそうだった。明らかに緊張しているのがわかる。
「暇だけど。何かあるの?」
そう言って、ペンを動かすのを止める。
「あ、あのさ……。と、隣町に買い物行かね? もしよかったらだけど……」
話すたびに声が小さくなる。そんな鷲部が可笑しく、平島は笑ってしまっていた。
「な、なんだよ。何が可笑しいんだよ」
明らかな鷲部の動揺もあって、しばらく笑い続け、再びペンを走らせながら返事をした。
「いいわよ。でも、何か奢りなさいよね! わかった?」
「なっ。図々しいな……ったく。いいよ別に。じゃあまた今度」
「うん。ばいばーい」
携帯を机の上に戻し、ちょうど同じタイミングで最後の文字を書き終える。
大きなため息を一つ、そして伸びをし、そのままの勢いでベットに寝転ぶ。
平島は、寝転ぶと同時に寝ていた。どうやら、今日は昼間の部活がいつもよりきつかったらしい。
明日の朝宿題を忘れてしまうことなど、そのときは気付きもしなかっただろう。
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――これって、成功でいいのか……?
さっきまで平島と電話をしていた鷲部は、似つかわしくもないような不安を感じていた。
電話をかける決心をしてから、ずっと胸の鼓動は速くなっている。
それは通話が終了してからもしばらくずっとそのままであった。
――まあ……とりあえず遊びに行く約束はできたんだし、あとは……よし。
この男は何かと決心しないと物事を進められないのだろうか。こと、恋愛ともなると。
見ての通り、鷲部は平島のことを好いている。
だが、多分このことを知るのは本人だけであろう。鷲部が誰にも話さないからだ。友達と恋愛話になったときには、別の女子を狙っていると嘘をついているほどだ。
幼馴染であったことで羞恥心でも感じているのだろう。
昔でこそ男女の違いなど意識せずに平島と接していたのに、どうして今はこんなにも胸がざわつくのかと鷲部は感じている。
彼女の一挙一動が気になり、いつの間にかそっちの方ばかりを向いている。
最初は意味が分からなかった。あんな奴のどこが良いのかと。そもそも恋愛感情などとも思ってもいなかった。
しかしあるとき、他の男子と話している彼女を見て、その男子に嫉妬していることに気付く。
それ以来、自分は平島のことを好きなのだ、と認識せざるを得なかった。
高校二年生にもなって、その気持ちはもはや抑えていることがしんどくなった。自分のものにしたい、という下賤な独占欲が体内を渦巻いていた。
ようやく誘い出す決心をしたのも、この想いがとうとう溢れ出してしまったからに違いない。
――それでもいいさ。あいつ、喜んでくれるといいな……。
今になって落ち着いてきた鼓動が、再び速くなりそうだったので風呂に入ることにした。
「あ、あんた。今まで寝てたのかい?」
薄明るいリビングに出ると、母親が今の気持ちを台無しにするような声で話しかけてくる。それに苛立ちを覚えるのは、自分勝手なことではあるが。
おかげで、鷲部の返事は少しきつい口調のものになってしまった。
「別に。寝てなんか無いよ」
言った瞬間、多少申し訳ない気もしたが、すぐさま気にならなくなった。
「おー怖い。早く風呂入りなさいよ」
冗談めかすような母親の言葉を軽く受け流し、風呂場へと向かう。
――ちょっとは空気読めよ……。我が母親。
脱衣場の電気を点ける――が、点かない。電球が切れたのだろうか。
電球まで気持ちに水を差すのか、と思いつつ、鷲部は母親を呼ぶ。
「お母さーん、風呂場の電球切れてるよ?」
しばらくして鷲部の母親も脱衣所に入り、自分でも電球が切れていることを確かめる。
「あら、嫌ね。棚にLEDの電球買ってあるから、付け替えておいてちょうだい」
「はいはーい……」
――ミーハーすぎるだろ……。早く電球変えて風呂入ろ。
心の中でそう思い、棚を開けて電球を探る。母親の言った通りLEDの電球が2個入っていた。
すぐさま脱衣所へ戻り、洗面台の下にあった台を使って電球を交換する。電球と取り付け部分が接触し、小気味悪い音がした。
しっかり取り付いていることを確認し、改めて電気のスイッチを入れなおす。もちろん、電気は点いた。白熱電球では無い、LEDの柔らかそうな発色だ。
電気がちゃんと点いたので、鷲部は気を取り直して風呂へ。
湿度の高い風呂場の空気が、いつもより張り付いて肌に嫌な感じを与える。なのえ、鷲部はさっさとシャワーを浴び、さっさと湯船に入った。
――はあ……。
思春期の青少年ならば、大抵は経験するであろう恋。特にこの年齢の恋は、大人の恋よりも初々しく甘酸っぱいものだろう。だが時に、モテモテでそんな感情を持たずして男女交際をする輩もいるけれども。
しかし、人生経験も短く、知らないことの方が多いこの時期の恋は、もう冒険と言っていいだろう。それゆえ、失敗もするし、傷つきもする。
鷲部は、まさしくその典型的なパターンであった。
――頑張らなくちゃな……。仮にも男だし。
根拠のわからない決意をし、この後もしばらく家のそばを流れる仙川のせせらぎを感じながら湯船に浸かっていたのだった。