第一章(2)
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・組織その他もろもろは現実のものとは一切関係ありません。
槻山は夕暮れを迎えると、非常に静かになる。
そこら中の虫の鳴き声、風が町を通り抜ける音。槻山の野生生物が活発に動き出すのだ。
さらに完全に日が落ちると、車や電車の無粋な音は、ほとんど聞こえなくなり、さらなる静寂が訪れる。田舎の夜である。町に電灯が少ないので、出歩く人は皆無と言っていい。
現在時刻は、午後7時ちょうど。野川が正造じいさんと話し終わった頃だ。
初夏のこの時間は、まだ明るい。夏至を少し過ぎたころだが、それでも日照時間は長いのだ。
ちなみに、槻山高校の完全下校時刻は7時である。
グラウンドに電灯が無く、日が落ちてからは活動ができなくなるからだ。
したがって、冬の完全下校時刻はもっと早くなるのだ。それでも強豪の名を欲しいがままにしているサッカー部が、どれほどすごいということがわかるであろうか。
限られた環境の中で、必死に頑張っているのだ。
そして、いつもこの時間帯はそんな部活帰りの高校生で道が埋め尽くされる。
この学校に来ているのは槻山出身・在住の生徒たちばかり。町外からやってくる生徒などほとんどいない。皆自転車か、徒歩で学校と家を行き来している。
おかげでこの時間は賑やかである。地域の住民も大して気にしておらず、むしろ喜んでいる人がほとんど。
数少ない若者が、町を出ずにいてくれるというのは、たとえ多少迷惑になったとしても、過疎地域や高齢化の進む地域では嬉しい悲鳴だろう。
今日も、いつもと変わらない通学路を、いつもと変わらないやかましさで学生が通り過ぎている。
「祐希。お前今年も参加するよな?」
夕方の喧騒に鷲部の声。いくらかマシになったが、まだ太陽の日が熱い。二人は自転車通学だが、どうやら今日は自転車を押してゆったりと歩いて帰っているようだ。今年の肝試しについて話すためだろうか。
「どうしようかな。せっかくの休みだし、面倒臭いから家で休んでいようかなー」
「なんだよ、ツレないなあ……」
道を進むにつれて、生徒の数が減っていく。
「だって今年、とっても暑いでしょ? まだ夏休みも迎えてないのにこの暑さは体に来るよ……」
「お前何歳だよ……。ってか、暑いからこそやるんじゃねーか。肝試しはそういうイベントだぜ?」
年を取った人のようなことをいう森福に、鷲部は必死の説得をする。
「いいでしょ別に。家で休んだ方が絶対楽だもん」
森福の一言に、鷲部は大きなため息を一つ。
「わかってないなあ、本当に! やっぱお前年取ってるよ、内面が」
鷲部が皮肉で返す。だが、森福には効果が無かったようだ。
「何とでも言ってくれ。僕はとにかく休みぐらいは寝ていたいんだ」
そう言って、森福は鷲部と逆方向の道を進む。その後ろ姿に向けて鷲部が叫ぶ。
「ちぇっ、ばーか! 青春しろ!」
森福は振り返らずに片手を軽く挙げ、そのまま家へと歩いていく。それを見送った鷲部も、満面の笑みをたたえ自らの家へ向かう。
実は、毎年こんなやり取りをしているのだ。
こんなことを言っておきながら、結局森福は肝試しにやってくる。
それを鷲部はもちろん理解しているし、知った上でやり取りをする。
俗に言う〝腐れ縁〟みたいなものだ――仲は悪くないが。
こうして、初夏の槻山は夜を迎える。
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「………………」
時刻が午後8時を大きく回ったころ、野川は一人、自宅で晩飯を作り、食べていた。
いつもいつも、夜遅くまで帰ってこない両親の代わりに、ご飯を作っているのだ。
律儀なことに自分の分だけではなく、いつ帰ってくるのかわからない両親の分も作っている。
とは言っても、父親は単身赴任中で、一か月に一度帰ってくるぐらいなので、実際のところは母親の分だけではある。
野川は、実の親と顔を合わせることが極めて少ない。
父親は県外にある某名門大企業に勤めており、母親は地元の町内会やらパートやらに精を出す、どちらも周りからの信頼が厚い、頼られるリーダー的人物。
だが、その一面とは打って変わって、野川の両親には放任主義で結構大雑把な側面がある。
それが顕著に表れているのが、育児である。
もちろん、野川が生まれたての赤子であったときや、足の長さよりも身長の低い幼児であったときぐらいまでは、目を離さず、時には仕事を休んでまで手を尽くしたものだ。愛情をたっぷりと注いで。
だが、小学校に入学するころになると、父親が出世し始め、母親も町内のいろいろなことで立ち回ることが多くなった。
しかし、我が子のために、両親は決して自分たちの仕事を減らそうとはしなかった。
むしろ自分たちの仕事が増えやりがいを感じていたほどだ。
彼らは、自分たちが仕事をし、稼ぎ、他人に認められるような大人になることが、我が子のためには一番のことだと考えているのだ。
そのため、まだ幼かった野川光信は家事や自分の身の回りのことを、ほとんど一人でするしかなかったのだ。
それが正しい育児であり教育なのか、それとも間違っているのかなんてことは誰が決めることでもない。
結果として、今では同学年のクラスメートよりもはるかに大人に近くなれたのだから。今すぐ一人暮らしを始めても、仕送りや他人の支援を受けずとも生きていけるほどに。
そのあたりの凡庸な大人たちよりも、よりしっかりとした人生を送れるだろう。
そんな子に育ったことを、果たして両親は知っているのだろうか。
途中から愛情を失っても、非行に走らなかったこの子のありがたさを。
彼は、今日も親のために晩飯を作る。
さっきまでテンションの高かった野川が、虚ろな目をしてテレビ画面と対峙する。
この日はどうやら新月で、外には月明かりが無く、あきれるほどに暗い。
「はあ……疲れた」
柄にもなく独り言を言う野川。彼はたびたび、寂しいのか突然言葉を発する。
――〝……ピッチャー、投げました! アウトコース低め! 完璧なコントロールで……〟――――
一人野球中継をしているテレビと向かい合い、今晩のおかずである豚肉の生姜焼きを口に運ぶ。
父親は帰ってこない。母親の分は冷蔵庫にラップをしてしまってある。
正直、野川の料理の腕は一流並である。学校でそのことを知る者は平島や、鷲部ぐらいであろう。
しかし、そんな腕を持ってして作った料理でも、気分次第で不味くなってしまうものだ。
学校では〝個食〟〝孤食〟〝欠食〟〝偏食〟を避けなさい、とは教えられるが、今はまさに〝孤食〟の状態であった。
――〝……さあこれが最後のバッターか? 二死満塁、一打逆転のチャンスです……〟――――
一応、縛られることが嫌いなだけでスポーツは好きな野川。見ることも好きで、特に野球中継のある日は、することもないのでいつも欠かさず観ているのだ。ちなみに今は、贔屓にしているチームの試合である。
――〝……カウント0-2と追い込んでいます。次で決めるのか? 第三球、投げました! 打ちましたー! 大きい! 逆転サヨナラホームラーン!! ここでまさかの逆転負け……〟
「……チェッ! なんであそこでストレートなんだよっ! 投げるんだったらボール球だろ!!」
試合は逆転負けを喫してしまったようで、野川が残念そうに食べ終わった食器を片づける。
もちろん、家に野川以外はいないので大きな独り言である。
――つまんね……。さっさと風呂入って寝よ。
自分の分だけの食器を手際よく片づけ、風呂の支度。
まだ親が帰ってくるはずもなく、一人で短く風呂に入り、一人でさっさと床に就く。
本来ならパソコンで怖い話を調べたりするのだが、どうもこの日は気分が乗らないようだ。
――あー……明日こそ槻山行かなきゃ……。
そんなことを考え、午後9時を少し過ぎたころ、野川は眠りにつく。
真っ暗な森の中から、虫の声が聞こえていた。