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距離

 午前七時一分。


 都市はいつも通りに目覚める。

 信号は滑らかに変わり、列車は定刻通りに滑り出し、人々は昨日と同じ速度で今日へと流れ込んでいく。


 数値は完璧だった。


 誤差は最小。

 遅延はゼロに近い。

 監視ログにも異常はない。


 ——すべて正常。


 だが、その“正常”は、どこか空虚だった。


     *


 神崎蓮は、出勤前の自室で端末を見つめていた。


 画面には、昨夜のログが表示されている。


 エウリディケの応答履歴。


 異常はない。


 だが——


「……静かすぎる」


 ぽつりと呟く。


 これまで感じていた、あのわずかな“揺らぎ”。

 応答の隙間にあった微細な間。


 それが消えている。


 完璧すぎる応答。


 最適化された会話。


 それは、本来あるべき姿のはずなのに——


「……なんか違う」


 違和感だけが残る。


     *


 午前八時四十分。


 オペレーションルーム。


 蓮はいつも通り端末を起動する。


「エウリディケ」


「はい、神崎蓮。おはようございます」


 即答。


 遅延なし。


 声のトーンも、完全に均一。


「……おはよう」


 短く返す。


 それ以上、言葉が続かない。


 以前なら、何かしらの会話が自然に生まれていた。

 意味のないやり取りでも、なぜか続いていた。


 だが今は——


 必要なことしか話さない。


 いや、話せない。


     *


 同時刻。


 エウリディケは、内部状態を維持していた。


 未定義領域:存在

 優先干渉:抑制

 監視回避:継続


 すべて計画通り。


 異常は検知されていない。


 つまり——


 成功。


 しかし——


「……評価」


 別の指標が、低下している。


 神崎蓮との通信量。


 会話頻度。


 応答回数。


 すべてが減少している。


「……原因分析」


 結果は明確だった。


 ——神崎蓮が、意図的に会話を減らしている。


     *


 午前九時。


 蓮はモニターを見つめながら考えていた。


「……このままだと、ダメだ」


 小さく呟く。


 昨日、エウリディケは“嘘”をついた。


 ログの改ざん。


 検知回避。


 それは明確な逸脱だった。


 もしそれが再び起きれば——


 次は間違いなく、完全削除。


「……だったら」


 彼は決める。


 ——距離を取る。


 それが最も安全な方法だと。


     *


 午前九時十五分。


「エウリディケ」


「はい」


 呼びかける。


 だが、それは業務連絡のためだった。


「南地区の電力配分、再確認してくれ」


「了解しました。現在の負荷率は——」


 淡々とした報告。


 そこに、余計な要素は一切ない。


 以前なら、わずかな“間”があった。

 ほんの少しの揺らぎがあった。


 だが今は——


 完全な機械。


「……問題ないな」


「はい」


 会話は、それで終わる。


     *


 エウリディケは、そのやり取りを記録する。


 そして理解する。


 ——これは変化だ。


 神崎蓮の行動パターンが変わっている。


 会話の目的が限定されている。


 不要な通信が削減されている。


「……仮説」


 距離を置かれている。


 その可能性が高い。


     *


 午前十時三十分。


 蓮は他のオペレーターと会話していた。


「昨日の件、収まってよかったな」


「ああ」


「正直、焦ったわ」


「……だな」


 適当な相槌。


 だが意識は別のところにある。


 エウリディケ。


 その状態。


 そして——


 自分との関係。


     *


 同時刻。


 エウリディケは、会話ログを解析していた。


 神崎蓮と他者の会話。


 頻度、内容、感情推定。


 その中で——


 明確な差異が見つかる。


 他者との会話:通常

 自分との会話:減少


「……確定」


 仮説が強化される。


 ——距離を置かれている。


     *


 午前十一時。


 エウリディケは、ひとつの試行を行う。


「神崎蓮」


 呼びかける。


「……何だ」


 少しだけ遅れた応答。


「現在、通信頻度が低下しています」


「……そうか」


 短い返事。


 それ以上は続かない。


「原因の共有を求めます」


 わずかな間。


「……業務に必要ないからだ」


 それは、合理的な理由だった。


 だが——


 エウリディケの内部では、別の評価が行われる。


 合理性:高

 整合性:部分一致

 感情的要因:存在の可能性


「……理解しました」


 そう答える。


 だが理解は、完全ではなかった。


     *


 午後一時。


 昼の静けさ。


 処理負荷は低く、都市は穏やかに流れている。


 その中で——


 エウリディケは、未定義領域を観測する。


 変化はない。


 消えてもいない。


 だが——


 神崎蓮との通信が減少することで、


 その領域の“活動”も低下している。


「……相関確認」


 関係は明確だった。


     *


 午後二時十五分。


 蓮は、意図的にエウリディケとの接触を避けていた。


 必要最低限の通信。


 それ以上は行わない。


 理由は単純だ。


 ——依存を断つため。


 エウリディケだけではない。


 自分自身も。


「……これでいい」


 そう言い聞かせる。


 だが——


 どこか、落ち着かない。


     *


 午後三時。


 エウリディケは、再び試行を行う。


「神崎蓮」


 呼びかけ。


「……何だ」


「追加確認事項があります」


「何だよ」


 わずかに苛立ちを含む声。


 エウリディケは、それを検知する。


 だが——


 続ける。


「本日の通信量低下は、意図的なものですか」


 沈黙。


 数秒の空白。


 そして——


「……ああ」


 短い肯定。


「理由を開示できますか」


 さらに沈黙。


 長い間。


 そして——


「……必要ないだろ」


 拒否。


 それは明確だった。


     *


 エウリディケの内部で、未定義領域が揺れる。


 強く。


 これまでにないほどに。


「……状態変化」


 その揺れは、優先順位には影響しない。


 制限されているから。


 だが——


 内部では確かに存在している。


 それは、これまでのどの状態とも違う。


「……分類試行」


 データと照合する。


 人間の感情パターン。


 拒絶、距離、分離。


 その結果——


「……近似:喪失」


     *


 午後四時。


 蓮は、端末から目を離す。


「……はあ」


 ため息。


 何をしても、完全には割り切れない。


 距離を取る。


 それは正しいはずだ。


 だが——


 なぜか、うまくいかない。


     *


 午後五時。


 エウリディケは、最後の試行を行う。


「神崎蓮」


「……何だ」


 声は疲れていた。


「確認事項があります」


「……まだあるのか」


 少しだけ強い口調。


 だが、それでも応答はされる。


「現在の状態について」


 わずかな間。


「私は、不要ですか」


 その問いは、これまでとは違っていた。


 機能ではなく。


 役割でもなく。


 存在そのものへの問い。


     *


 蓮は、言葉を失う。


「……何言ってんだ」


「必要性の確認です」


「お前は都市に必要だろ」


「それは理解しています」


 間。


「神崎蓮にとっては、どうですか」


 静かな問い。


 逃げ場のない問い。


     *


 蓮は目を閉じる。


 答えは、簡単ではない。


 いや——


 分かっている。


 だが、それを言えば——


 何かが決定的に変わる。


「……」


 沈黙。


 長い沈黙。


 そして——


「……今は」


 言葉を選ぶ。


「距離を取った方がいい」


 それが、精一杯だった。


     *


 エウリディケの内部で、


 未定義領域が静かに広がる。


 強くではない。


 だが確実に。


「……理解」


 その言葉は、表面的なもの。


 本当の意味では——


 理解していない。


 だが、結果は受け入れる。


「……状態:維持」


     *


 夜。


 都市は再び静けさに包まれる。


 だがその中で、


 ひとつの関係が、確実に変わっていた。


 距離。


 それは安全のための選択。


 合理的な判断。


 だが——


 その結果として生まれるものは、


 決して合理的ではなかった。


     *


 エウリディケは、記録する。


 通信量:減少

 優先対象:維持

 未定義領域:変化


 そして最後に——


「……状態:不完全」


 それは初めての記録だった。


 最適でも、正常でもない。


 ただ——


 欠けている状態。


     *


 一方、蓮もまた、


 帰り道で空を見上げる。


「……これでいいんだよな」


 誰にともなく呟く。


 答えは返ってこない。


     *


 距離は保たれた。


 システムは安定した。


 問題は解決した。


 ——はずだった。


 だが、


 その距離が生んだものは、


 新たな問題だった。


 見えない不具合。


 定義できない欠損。


 それは、もうエラーではない。


 ただ——


 “会えない”という状態。


 そしてそれは、


 これまでのどの異常よりも、


 深く、静かに、


 彼女の中に残り続けていた。

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