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路地裏と病室

世界には弱肉強食という言葉が存在する。

世界が道徳を失った果てはそれだとか。

力と力が拮抗し暴力が自らを正当化する、そんな世界。

だから、僕たちは正しく生きなくてはいけないらしい。

けれど、僕はそうは思わない。

僕が考えるに、強者と弱者とは単なる配置の問題だ。

だから、弱者と強者を分けるものは力がどうやって「配分」されているかという点に還元される。暴力が、他者を従える能力が、権謀術数によって政治を生き抜く力だけがただ咲き誇るのではない。その力も含めて、全てが僕たちの身体を駆け巡る力の流れに依存する。

人間は雑食だから、当たり前に牛や豚を食べる。

逆に、植物は何かを「喰らう」ことはない。

それはなんでだろう?

それは、人間が牛と豚を自分の体を維持するために「適切」に利用するからだ。

そして、植物は人間とは別種の仕方で世界に「関係」するからだ。

全ては物質相互の力の関係と、その力を生み出す何らかの自然の力に由来する。

力の本質は何も変わらない。

なんで人間は戦争をするのだろう?

なぜ世界に善ではなく悪が存在するのだろう?

そんな問いかけはお門違いだ。

僕は宗教も、道徳も、悪も信じていない。

だから僕には見える。

無機質で誰にも関心を持っていない世界が見える。

灰色の、何もざわめきがない「凪」のような凹凸のない広い世界。

会社で働く時に必要な、学校で教え込まれた、個人の主体的な義務とか決意とか責任をその力は求めていない。

誰にも、その力は期待していない。

だから、世界は途方もなく「残酷」なんだ。

けれど、それが不幸なことだとは思わない。

そのことを知った時、僕は「生きる」ことを知った。

不思議と心が軽くなって、その残酷な世界を「観測」したいと思った。

神も救済も罰もなく、だからこそ誰もが既に「贖われている」。

だから、世界は残酷であると同時に、その無機質さに救われる存在がいる。

僕も、そこら辺に転がる石も、僕の恋人も、どこかの国の指導者も、全てが一様に価値がない。

あるのはその物質が占める力と、その無数の異なった様相。

歴史の目的も、今僕が生きる目的も、何もかもが無意味だ。

だから、凄く平坦な世界に僕は生きている。

人間的なものを削ぎ落として、全ての善も悪も等しく「観測」する。

そして、僕は病室の窓から見える灰色の空を見つめる。

思考が消える、僕の身体が衰弱しているのを感じる。

そして、生きようとする僕の体の力が膨らんで、最後に爆発してしまうと、僕は死ぬんだろうなと思った。

病室のモニターに映る緑の波形が、呼吸するように小さくしぼんでいく。

波形が細い糸のように震え、途切れ、またかろうじて戻る

僕の心音は僕に見えている世界のように、限りなく平坦になっていく

「ピーーーーーーーー……」

という音が、病室に蟠る(わだかまる)静けさを貫いた。


(・・・)


私の人生は空腹と悪意だけに彩られていた。

路地で生まれた。両親はいるのか分からない。

ネズミが這い回り、軍需工場から発せられる煙に包まれた路地裏で、貪るようにゴミを漁る。

助け合いなど存在しない。

使い道のない、痩せた貧相な私のことを求める人はいなかった。

そんな世界で私は必死に生きてきた。

けれど、雨の降るある日。

私の人生の中の限りなく小さな一瞬に私という存在は奪われた。

こんな世界でも必死に生きていた。

死にたいと思ったことは一度もない。

とにかく食べ物を探して、お金を探して、時には人から奪い生きてきた。

裏路地で大柄な男の集団に今私は囲まれている。

女であることという事実は、この世界で私の尊厳を限りなく削っていく。

殴られる、意味もないのに殴られる。

嬲られる、意味もないのに嬲られる。

私の痩せこけた空腹の体に無遠慮に男たちが手を伸ばしてくる。

一連の行為が終わった時、私の体は限界を迎えていた。

私の近くで、鼠が一匹駆けていく。

雨だけが降っている。

路地の壁に頭をもたげながら、立つこともままならず私は浅い呼吸を繰り返す。

私は世界の悪意に押しつぶされ、世界を呪った。

パンが食べたい。

カビの生えていない、新鮮な白いパンが食べたい。

晴れた穏やかな日に、大通りを歩く若い男女のように幸せそう生きたい。

両親に助けてもらいたい。

誰かに、助けてもらいたい。

目を閉じる。

私は、最後の最後にとめどなく溢れる「憎悪」だけをたぎらせて世界を呪い尽くした。

血が流れている。

その光景が途方もなく悔しくて、目を見開くほど悔しくて、死にたくても死にきれなくて。

そうして、私は死んだ。


(・・・)


目が覚めるとそこには灰色の路地だけが広がっていた。

降りしきる雪、火薬の匂い、工業正廃棄物の群れ。

どこまでも、白く寂れた路地裏の景色。

ドブネズミが走り去る音に紛れて、軍靴の音が遠くから聞こえる。

妙に身体の感覚がないことに気づく。

そして、いつもより世界を下から見ていることに気づく。

掌に目を落とす。

小さなく華奢で、こんな路地裏には見合わないほど白く綺麗な手が見える。

そのまま身体に目を移すと、そこにはズタズタにされた服の残骸と赤く腫れた小さな体躯。

僕はよろよろと体を持ち上げると、近くにある黒い水溜りで自分の顔を確認する。

そこには、僕の顔とは違った、白に薄いグレーが混じった髪色の痩せた少女が映っていた。

僕には間違いなく自分が「死んだ」感触がある。

意識が真っ白になっていく感覚。

途方もなく白い光景が広がっていく感覚。

でも、もう一つの「死の瞬間」が自分の中に広がっている。

煮えたぎる憎悪の感覚。

どす黒い呪いが広がって、世界が黒一色に染まる感覚。

世界に最悪と恐怖を植え付けたい自分。

けれど、確信して言えることがある。

どちらも「僕」で、どちらも「私」だ。

だって僕は僕だけでしかないし、見知らぬこの少女はその少女でしかない。

世界がどす黒く濁った黒と途方も白が混ざって、灰色に見える。

僕はこの「身体」に引っ張られている。

そしてこの身体は「僕」に引っ張られている。

二つの感覚がある。

二人の考え方がある。

死体となった僕が、何の因果か「私」の身体を動かしている。

仮にこの世界に死霊術があるなら、この少女の死体に僕の意識が宿ったのだろう。

そんな奇跡、「僕達」は信じないが。

ボロボロになった身体は、不思議と僕の意識でもって力強く動く。

まるで、生前の「私」が望んでやまなかったように。


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