第2話 鏡合わせの証言
特区署の取調室は、外の酷暑が嘘のように殺風景で、乾いた空気が満ちていた。マジックミラー越しに中を覗き込む一ノ瀬 零の隣で、シロがノートPCを操作し、現場の物理演算データを更新し続けている。
部屋の中では、警部の阿久津が佐久間恵と対峙していた。
「……さて、佐久間さん。あんたの指紋がついた薬瓶が見つかった。これについて、何か言い残すことはあるか?」
佐久間は、先ほどまでの怯えた表情を消していた。椅子に深く腰掛け、組んだ膝の上に置かれた指先は、微塵も震えていない。
「……ええ。私が用意しました。社長に頼まれたんです」
その声を聞いた瞬間、零の視界が再び「純白」に染まる。
「『能力の代償が辛い。少しの間、力を眠らせたいんだ』と。私は、あの方の苦しみを少しでも和らげたかった。だから、お望み通りに薬をコーヒーに入れたんです。……それが、あの方を殺すことになるなんて、思ってもみなかった」
「ほう。じゃあ、毒とは知らずに盛った、善意の過失だってか?」
阿久津が身を乗り出し、机を叩く。
「だがな、シロの計算じゃ、抑制剤を飲んだだけであんな凍死体にはならねえんだよ。社長が自ら能力を『全力で』発動しなきゃ、あそこまで急速に体温は奪われない。あんた、社長に無理やり能力を使わせたんじゃねえのか?」
「いいえ。私はただ、愛するあの方の願いを叶えただけです」
白。どこまでも、白。零は、鏡の向こう側の彼女を見つめながら、喉の渇きを感じていた。彼女は嘘をついていない。しかし、何かが決定的に欠落している。
「……シロ。彼女の精神鑑定ログにアクセスできるか」
「既に完了しています、零様。佐久間恵、過去に大規模な列車事故に遭遇。その際、彼女の目の前で多くの『エラー』たちが能力の暴走で命を落としています。……彼女は、強烈なサバイバーズ・ギルトを抱えています」
その時、廊下を走ってきた桔梗が、息を切らして取調室に飛び込んできた。
「一ノ瀬先生! 阿久津警部! 大変です、社長の私物から、書きかけの『遺書』が見つかりました! でも、内容が変なんです……!」
桔梗が差し出した証拠品袋の中には、歪な筆跡でこう記されていた。
『私は、彼女に殺されることを、心から望んでいる』
阿久津が遺書を一瞥し、鼻で笑った。
「心中か、あるいは狂言自殺の失敗か。……だが先生、この遺書を書いた時の真壁の心境、お前なら視えるんじゃないか?」
零は遺書の文字を凝視した。文字そのものから、「凍てつくような孤独な青」が見える。それは殺意でも憎悪でもない、深い絶望の色だった。
「……阿久津さん。社長もまた、嘘はついていません。彼は、殺されたがっていた。そして佐久間さんは、彼を救うつもりで殺した」
零は席を立ち、取調室のドアへと手をかけた。
「シロ。社長が最後に『保存』しようとしたものは何だったのか、再演算しろ。温度だけじゃない。音や、あるいは……『記憶』そのものではないか」
シロの瞳が、高速で明滅する。
「零様、その推論を補強するデータがあります。社長室のサーバーから、未登録の音声ファイルが検出されました。……再生しますか?」
シロが空中に投影した波形が、微かに震えながら音を紡ぎ出す。ノイズの向こうから聞こえてきたのは、凍死した真壁社長の、掠れた声だった。
『……すまない、恵。もう、限界なんだ。この力を使い続けるたびに、私の心の一部が、氷のように削れていくのがわかる。……君に、私の最期を「保存」してほしい』
次に聞こえたのは、秘書・佐久間の、どこまでも穏やかな声だ。
『ええ、わかっています、社長。あなたは十分になさいました。……さあ、これを。これを飲めば、もう代償の苦しみに怯える必要はありません。私が、あなたを永遠にして差し上げます』
氷がぶつかり合うような微かな音。そして、真壁の安らかな溜息。
『ありがとう。……愛しているよ、恵』
録音はそこで途切れていた。
「……無理心中、というわけか」
桔梗が顔を青くして呟く。
「社長は能力の代償による精神崩壊を恐れ、信頼する秘書に自分を『殺して』と頼んだ。……そして彼女は、その願いを忠実に実行した。だから彼女の言葉には嘘がない。彼女にとって殺人は、ただの『奉仕』だったんだ……」
阿久津が舌打ちをして、壁を蹴った。
「綺麗事抜かすな。嘱託殺人だろうが何だろうが、殺しは殺しだ。だが、これじゃあ動機が主観的すぎて、立証が面倒なことになるぞ」
零は、静かに目を閉じた。耳の奥に残る二人の会話。だが、彼の共感覚が、録音された「声の色」にわずかな違和感を抱いていた。
「……シロ。今の音声を、周波数ごとに分解して解析しろ。特に、佐久間さんの最後の言葉――『永遠にして差し上げます』の直後だ」
「了解しました。……解析中。零様、指摘の箇所に、極めて短時間の高周波ノイズを検出しました。これは、人間が発声できる音域を超えています」
シロの瞳が赤く明滅し、解析結果を表示する。
「これは、超音波によるデータの送信音です。佐久間恵は社長の死の直前、何らかの外部デバイスへ、社長のギフトによって『保存』されていた機密データを転送していました」
「なんだと?」
阿久津の目が鋭く光る。
取調室の中で、佐久間 恵がゆっくりとマジックミラーの方へ顔を向けた。まるで見えないはずの零たちの視線に、正確に焦点を合わせるように。
「……一ノ瀬先生。外は、まだ暑いですか?」
マジックミラー越しに放たれた佐久間の声は、驚くほど穏やかだった。超音波のノイズ——それは組織への送信などではなく、社長が最期に彼女へ託した「プライベートなデータの鍵」の共鳴音だった。
「零様、解析の結果、超音波は彼女の指輪から発せられていました。社長が自分のギフトを暴走させ、最期に指輪へ『保存』したのは、機密データなどではありません」
シロが空中に、社長が最期に書き残した未送信のメールを表示する。
『私のギフト【事象の保存】は、もはや私の脳を焼き、記憶を奪いつつある。私は私でなくなる前に、この苦しみそのものを凍結し、愛する彼女に預けたい。彼女だけが、私の地獄を「白」く塗りつぶしてくれるのだから』
「……そういうことか」
零は吐き捨てるように言った。社長は、ギフトの代償による発狂を恐れていた。そして佐久間は、彼が「真壁という人間のまま」死ぬことを望んだ。彼女にとっての殺人は、汚れゆく彼を美しいまま固定するための、究極の「保存」だったのだ。
「先生、どういうことだ。あのアマは社長を救うために毒を盛ったってのか?」
阿久津が苛立たしげに問い詰める。
「ええ。彼女は『社長を殺した』とは思っていません。……『社長という存在を、汚れる前に永遠にした』と信じている。だから、彼女には一点の罪悪感も、嘘の色も見えなかった」
零は取調室の重い扉を開け、中へ入った。色彩のない世界で、佐久間の纏う「白」だけが暴力的なまでに輝いている。
「佐久間さん。……あなたが社長から受け取ったその指輪には、彼の『苦痛の記憶』が保存されている。あなたはそれを引き受けることで、彼を聖人として死なせた。……それがあなたの言う、愛の結果ですか」
佐久間は微笑んだまま、自分の指輪を愛おしそうに撫でた。 「ええ。一ノ瀬先生。ギフトなんて持たない私たちノーマルにとって、これが唯一の対等な愛の形なんです。……あの方は、私の中で凍ったまま、永遠に生きてくださる」
その言葉は、零の視界を真っ白に焼き尽くした。嘘ではない。だが、それは狂気よりもなお深い、「閉じた真実」だった。




