第1話 凍り付いた熱帯夜
アスファルトが熱に焼かれ、陽炎が視界を波立たせていた。八月、午後二時。特区アジールの気温は三十六度を記録し、湿った大気は吸い込むだけで肺をじりじりと焦がす。
「零様。直射日光による皮膚表面温度の上昇を確認。日傘の角度を二度、東へ修正します」
一ノ瀬 零の隣で、純白のスーツに身を包んだシロが、抑揚のない声で告げた。彼女が差しかける傘の下だけが、この灼熱の世界から切り離された静寂を保っている。
シロ。警察が零の護衛と補助のために貸与した「人型インターフェース」。その容姿はどこまでも人間に近いが、零にはわかっている。彼女の透き通るような白い肌の下には血は通っておらず、その瞳は光彩を模倣した高精細のカメラに過ぎない。彼女は人間を完璧にシミュレートする機械だった。
零は、無機質な灰色の空を見上げた。彼に見える世界には、信号の赤も、街路樹の緑も存在しない。あるのはただ、濃度と明度の差で構成された、単調なモノクロームの景色だけだ。
「……シロ。現場の室温は?」
「マイナス二十二度。外気温との差は五十八度です。肉体への負荷は極めて高いと推測されます。私の外套をお貸ししましょうか?」
「いい。……阿久津さんを待たせたくない」
エテス社本社ビル。特区内でも有数のIT企業であるそのビルは、今や警察車両のサイレンに包囲されていた。エレベーターを降りた瞬間、それまでの酷暑を打ち消すような「死の冷気」が室外へ溢れ出した。
「おせえよ、法務省《お役所》の先生よぉ」
廊下で紫煙をくゆらせている男、特区署警部の阿久津が、零を一瞥して鼻で笑った。彼は厚手のトレンチコートを羽織り、いかにも不機嫌そうに首を鳴らした。その横から、短い髪を揺らしながら一人の女性刑事が駆け寄ってくる。
「一ノ瀬先生! 待ってました! 特区署の桔梗です」
桔梗 薫。阿久津の部下であり、非能力者ながらそのガッツで現場を仕切る女性だ。彼女は防寒用のジャンパーを着込み、寒さで赤くなった鼻を啜りながら、零を部屋へと促した。
「……阿久津警部。これは、ちょっと、常識じゃ説明がつきません」
零が室内へ一歩踏み込むと、そこは真夏のビル内とは思えない、完全な極寒の密室だった。中央の豪華なデスクには、エテス社社長・真壁が座ったまま、その全身を霜で覆われ凍りついている。死後硬直ではなく、物理的な「氷結」による静止だ。
だが、零が真っ先に目を留めたのは、死体そのものではなかった。死体のすぐ傍、クリスタルガラスのカップに注がれたコーヒーが、凄まじい熱量を放ちながら、ボコボコと沸騰し続けているのだ。
「社長のギフトは【事象の保存(セーブ&ロード)】。熱や音を一時的に保存する力だ」
阿久津が、氷ついた床に唾を吐くように言った。
「見ての通り、社長は凍死、コーヒーは沸騰中だ。……ギフトを使って、自分で自分の体温をコーヒーに叩き込んだのか、あるいは……」
阿久津が言いかけた言葉を、零が引き継ぐ。
「あるいは、外部の人間が、社長のギフトを逆手に取ったか」
零は目を細めた。色彩を失った彼の視界に、唯一「色」が介入する瞬間。沸騰するコーヒーから立ち上る、刺すような紅い光のノイズ。それは能力を発動させた際に発生する『特異質』特有の波長――嘘や偽りを含んだエネルギーの色だ。
「……シロ。周辺の熱量をスキャンしてくれ」
「了解です」
シロの瞳がわずかに明滅する。
「……異常です、零様。この部屋の総熱量は保存されており、プラスマイナスゼロに保たれています。まるで、部屋全体が『保冷剤を抱えた魔法瓶』のようになっています。……桔梗刑事、震えが止まりませんね。私の排熱機構を解放し、周辺温度を〇・三度上昇させましょうか?」
シロが機械的な合理性で問いかけると、桔梗は「いいよいいよ、悪いし……」と苦笑いしながら肩をすくめた。
「一ノ瀬先生、阿久津警部。別室で待機させている三人の身元を改めて整理しました」
桔梗がタブレットを操作し、三人の顔写真を空間に投影する。
「一人目は、副社長の乾。ギフトは【微細振動】。社長とは経営方針で揉めていたそうです。二人目は、技術部長の佐藤。ギフトは【真空生成】。過酷な労働環境に恨みを持っていたという噂があります」
そして、桔梗は最後の一枚を表示させた。そこには、どこか儚げな印象を与える女性の顔があった。
「最後は、秘書の佐久間 恵。彼女は……ギフトを持たないノーマルです。第一発見者で、社長の死を目の当たりにしてかなり取り乱しています」
「ノーマル、か」
阿久津が鼻を鳴らした。
「このギフトホルダーの巣窟みたいな会社で、よくもまあ無能力者が秘書なんて務まったもんだな」
「まずは、その『ノーマル』の彼女から話を聞こう」
零は、凍りついた真壁の死体をじっと見つめた。その「色」のない死体から、わずかにドロリとした黒い泥のような違和感が染み出し始めているのを、彼は逃さなかった。
別室の面会室は、社長室の極寒とは対照的に、淀んだ熱気が溜まっていた。パイプ椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆っている女性が一人。秘書の佐久間恵だ。彼女が息を吐くたび、細い肩が小刻みに震えている。
「……佐久間さん。少し、お話を伺えますか」
零が対面に座ると、彼女はゆっくりと顔を上げた。赤く腫らした瞳が、モノクロームの視界の中で白く光る。
「一ノ瀬、先生……。信じられません、あの方が、あんな……」
彼女が口を開いた瞬間、零の視界に変化が訪れた。彼女の声が、零の脳内で色彩へと変換される。
「私のような、何のギフトも持たない『ノーマル』を、真壁社長だけは人間として扱ってくださいました。あの人は、私の、私の全てだったんです……!」
零の視界が、「眩いほどの白」に塗り潰された。それは、彼がこれまでの捜査で見てきた、どんな「真実」よりも澄み切った白だった。
零の能力【真実の音色】。人間が嘘をつくとき、その声は濁った茶色や、刺すような紫色に変色する。だが、今、目の前の女性が放つ言葉には、一点の不純物も混じっていない。彼女は、心から社長を敬愛し、その死に絶望している。
「……あの方が亡くなって、私はもう、どうすればいいのか……」
彼女の泣き声が、再び「清らかな白」として室内に響く。隣で記録を取っていた桔梗が、たまらずといった様子で彼女の肩に手を置いた。
「佐久間さん……無理にとは言いません。でも、犯人を見つけるために、事件直前の様子を教えてほしいんです」
「はい……。社長は、深夜までお仕事の予定でした。私はコーヒーを淹れてお出しし、その後は受付で来客の対応を……。その間、社長室には誰も、誰も入っていません……」
その証言も、白。阿久津がドアに寄りかかり、苛立たしげに舌打ちをした。
「おい、先生。お前の目には、この女はどう見えてる。シロの計算じゃ、社長室の電子ロックに不自然なログはねえ。密室だ。この女が嘘をついてねえなら、社長は勝手に一人でカチコチになったってのか?」
零は答えなかった。視界を埋め尽くす「白」の中に、彼は先ほど社長室で見た「死体から染み出していた黒い泥」のイメージを重ねていた。
嘘をついていない。それは、客観的な事実を述べていることの証明ではない。ただ、「本人がそれを真実だと、心の底から信じ込んでいる」という主観の証明に過ぎないのだ。
「……佐久間さん。最後に一つだけ」
零は、感情を排した声で問いかけた。
「あなたは今、社長を殺した犯人を、憎んでいますか?」
佐久間は、一瞬だけ動きを止めた。そして、顔を上げ、零の瞳を真っ直ぐに見つめて答えた。
「はい。あの方の未来を奪った人間を、私は……一生、許しません」
その言葉とともに放たれた色は、これまでにないほど、「美しく輝く純白」だった。
佐久間と入れ替わりに入ってきた乾は、彼女とは対極のエネルギーを放っていた。 彼は入室するなり、不機嫌そうに高級な腕時計を指先で叩いた。
「時間の無駄だ。私は、ギフトホルダー《我々》が経済を回しているこの特区で、これ以上不毛な足止めを食らうのは御免だ。……真壁? ああ、死んだことは遺憾だよ。だが、あいつの古臭い経営方針には、役員全員が辟易していた。それは事実だ」
乾の声に合わせて、視界に「淀んだ黄金色」が霧のように漂う。それは強欲、自己顕示欲、そして他者への侮蔑が混ざり合った色だ。
「私が殺したかだと? 笑わせるな。私が手を下さずとも、あいつは自爆する運命だった。ギフトの制御も満足にできず、代償に怯えていたからな」
乾の言葉には「嘘」はない。だが、その白さの中には、佐久間にはなかった「他者への明確な悪意」が沈殿している。彼は社長を憎んでいた。しかし、殺害については事実無根であることを、その色が証明していた。
最後の一人、佐藤は、部屋に入るなり激しく咳き込んだ。彼のギフトは【真空生成】。大気の一部を消失させ、断熱壁を作り出すことができるが、その代償は「自身の肺機能の永続的な低下」だ。
「……ハァ、ハァ……。殺してやりたいと、思わなかった日なんて、ありませんよ」
佐藤の瞳は、絶望に沈んでいた。彼の声からは、深海のような「重苦しい紺青」が立ち上る。
「社長室のサーバー。あれを冷やすために、僕が一日何回、呼吸困難(代償)に陥りながらギフトを使ったと思っているんですか。……ギフトホルダーは使い捨ての冷却装置じゃない。……でも、昨夜の僕は、医務室の酸素カプセルから一歩も出られなかった。証拠は、僕のこのボロボロの肺です」
佐藤の色は、悲鳴に似ていた。そこにあるのは殺意ではなく、自分自身に向けられた疲弊と諦念だ。彼もまた、嘘を吐いてはいなかった。
三人の事情聴取が済んだ時、部屋の自動ドアが静かに開き、シロが入室してきた。彼女の無機質な瞳は、現場の再スキャンを終えた証として、淡い青色に明滅している。
「零様。社長室の残留物質、およびコーヒーの成分分析が完了しました」
「……何か出たか?」
シロは手にしていたタブレットを空間へ投影した。そこには複雑な波形データと、赤く強調された化学式が表示される。
「社長が飲んでいたコーヒーの中から、『能力抑制剤』の成分が検出されました」
「抑制剤だと?」
桔梗が驚きに声を上げた。
「それって、ギフトホルダーが自分の力を抑えるために使う、高価な処方薬ですよね? 護身用や暴走防止のための……」
「はい。ですが、検出された濃度が異常です。通常の服用量の五十倍以上。これだけの量を摂取すれば、ギフトホルダーの神経系は一時的にパニックを起こします」
シロの声が、淡々と事実を突きつける。
「真壁社長の【事象の保存】は、体内の熱平衡を代償にして成り立つ能力です。抑制剤によって制御を失った彼の能力は、周囲の熱を『無差別に、かつ際限なく』保存し始めた。その結果、彼は自分の体温をすべてコーヒーという媒体に吸い取られ、内側から凍りついた……」
「……自滅か?」
阿久津が眉をひそめる。
「いいえ。抑制剤の結晶は、コーヒーの底に溶け残っていました。つまり、誰かが意図的に投入したものです。しかし、ここからが論理的矛盾点です」
シロが零を真っ直ぐに見つめた。
「抑制剤は『特異質』にしか効果がありません。そして、この抑制剤を多量に投与された際に生じる熱力学的な逆流――つまりこの凍結現象は、『社長自身が、自らの意志で能力を発動させた状態』でなければ発生し得ないのです」
室内が、凍りついた現場のような冷たさに包まれた。零の脳裏に、あの「純白」を纏った秘書の姿が浮かぶ。
「……つまり、こういうことか、シロ」
零はモノクロの世界で、一点を見つめた。
「誰かが社長に毒(抑制剤)を盛った。だが、社長は死ぬ直前、『自分の意志で』能力を使い、自らを凍りつかせた……。 犯人に殺されたのではなく、犯人の手助けによって、自ら死を選んだように見える」
「論理的には、左様でございます。ですが零様、一つだけデータに不備があります」
シロが、わずかに首を傾げた。それは彼女に設定された「疑問」を表現するモーションだが、零にはそれが、彼女の奥底にあるプログラムの悲鳴のように聞こえた。
「社長室のゴミ箱から、『真壁社長以外の指紋がついた、抑制剤の空アンプル』が見つかりました」
「指紋の主は?」
桔梗が身を乗り出す。
「照合完了。……秘書、佐久間恵のものです」
零は絶句した。彼女は、あんなに澄んだ「白」で、社長を愛していたと語った。だが、その手は死の薬を社長のカップに注いでいた。
嘘をつけない探偵と、嘘をつかない殺人者。熱帯夜の惨劇は、その前提を根底から覆す、さらに深い混沌へと突き進んでいく。
「面白くなってきたじゃねえか」
阿久津が、暗い笑みを浮かべてコートを翻した。
「おい、桔梗。あのアマをもう一度引っ張ってこい。今度は『ノーマル』扱いじゃねえ。……一人の殺人容疑者としてだ」
零は、廊下の冷たい壁に背を預けた。色彩のない世界で、三者三様の「白」を見た。だが、その白さの裏側で、物理法則が悲鳴を上げている。
「……嘘を吐かない殺人犯、か」
零は独りごちた。その視界の端で、シロが零の体温低下を検知し、音もなくその細い指先で零の手に触れた。機械の指は、真夏の特区アジールにおいて、不自然なほど冷たかった。




