「今日という明日が、昨日になるまで」
受け入れがたい過去を抱えたまま、いまを歩き、もう叶わない未来を手放す。そんな三つの物語が、薄く重なり合う。
第一章 昨日の村道
冬の田んぼは、刈り取られた髪のように短く、風が撫でるたびに銀色のむらが立った。由宇はその縁を歩く。母が編んだ青いマフラーを何度も口元まで引き上げ、耳の内側で鳴る自分の呼吸を落ち着かせる。あの頃から続く胸の鈍い拍動――診察券の角で折れた心の端。放課後の昏い校舎の踊り場、背中に浴びた笑い声。凍った井戸みたいに冷えていく視界。
村外れの無人駅は、列車より風のほうが正確に通り過ぎる。ベンチのペンキは剥がれ、木目に染みた雨が、過去の誰かのため息を吸い込んでいるみたいだった。由宇はポケットから封筒を取り出す。何度も書き直した短い文。「明日、海に行く。波の音が僕の中の騒ぎを洗ってくれますように」。
封筒を閉じる前に、彼は躊躇して、ただ一行を加えた。「昨日の僕を、赦せますように」。
切手はない。宛先もない。だからせめて風に投函しようと、由宇は駅の端に立ち、封筒を高く掲げた。白い息と一緒に空へ放る。封筒は舞って、ベンチの下へ滑り込むように消えた。彼は膝を折って覗き込むが、枯葉に隠されて見つからない。
諦めてベンチに腰かける。列車は来ない。カン、と遠くで何かが凍った音を立てる。由宇はマフラーを外し、膝の上で握りしめた。この青だけが、風景の中で確かだった。母の指の温度が、毛糸に糸灯のように残っている。
「誰かの明日になれ」
彼は呟き、青いマフラーをベンチの背もたれに結わえた。結び目は冬の空より固く、ほどけない誓いみたいになった。見知らぬ誰かが見つけるだろう。自分以外の誰かの首元で、あたらしい温度になればいい。
帰り道、田んぼの面に陽が差し、氷の薄皮が淡い藍を返す。由宇は立ち止まり、目を閉じた。耳鳴りの奥で、波のない村の風が、なぜか潮の匂いを運んでくる気がした。明日が昨日になるまでの、短い今日が、胸の中でかすかに揺れた。
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第二章 今日の公園
春の公園は、ソーダ水に沈めた桜の花びらみたいに、透明で甘い色をしていた。蓮は昼の休憩時間を伸ばして、職場から歩いて十五分のこの場所に逃げ込むのが癖になっている。視界の輪郭がときどきゆがむ。人の声が薄いガラス越しに聞こえる。笑い声は苦い炭酸。心療内科でもらった白い錠剤は、舌の上で粉砂糖みたいに溶けて、午後の光をやや曇らせる。
いつものベンチに座ると、背もたれの裏に、古びた青い布の端が引っかかっていた。手に取ると、毛糸が指先にやさしく絡む。端っこから一本だけ解けた糸が、風に細く踊る。結び目は固い。そこに何かが挟まっている。蓮は慎重に指を差し入れた。出てきたのは、色の抜けた封筒。角に泥と雨の痕。宛名はない。裏には拙い字で、「昨日の僕へ」。
蓮は封筒を開けた。中には短い文。「明日、海に行く。波の音が僕の中の騒ぎを洗ってくれますように。昨日の僕を、赦せますように」。見知らぬ願い。けれど、自分の胸から出てきた言葉みたいに思えた。ベンチの木目が、冬の寒さの影をまだ抱えている。彼は周りを見渡す。誰もいない。鳥の影だけが、芝生に稲妻のような線を引いて過ぎる。
蓮はスマホを取り出し、メモに一行だけ打った。「今日の僕へ」。そして少し考え、続ける。「会えない誰かに、会おうとしない」。指が止まる。「いま、ここにいる人に、ちゃんと会う」。
視界の向こうで、子どもが凧を上げている。紐がちぎれて、凧は空の浅葱色を裂きながら、木立のほうへ流れていく。「待って!」と誰かの声が上がる。蓮は立ち上がり、反射のように青い糸をつまんだ。マフラーのほどけた一本。手の中に軽い緊張が走る。蓮は青い糸をちぎらないように引き出し、凧の骨の折れた先に巻き付けた。子どもの父親が駆け寄ってきて、会釈をする。蓮も小さく頭を下げた。糸は細いのに、驚くほど強く、空をとらえ直した。凧は再び少しだけ高く上がり、今度はゆっくり降りてきた。
「ありがとう」と父親が言う。蓮は笑おうとして、うまくいかなかったが、それでも頬の筋肉がわずかに動くのを許した。
昼休憩の終わりを告げるアラームが鳴る。蓮は封筒を胸ポケットにしまい、青いマフラーを膝に置いた。結び目はほどかない。これはここにあったほうがいい。誰かの昨日にも、明日にも触れる場所で。
帰り際、彼はひとつだけ行き先を変えることにした。会社ではなく、海の方角へ。路線図の端。見知らぬ駅名。検索窓に打ち込む指が、一拍だけ躊躇する。「会えない誰か」を追う旅じゃない。彼は心の中で繰り返す。「いま、ここにいる人に、ちゃんと会う」。それはたとえば、潮風や波打ち際の石や、自分自身の呼吸でもいい。
花びらが靴の甲に落ちる。桜色は牛乳の白に少しだけ苺を混ぜた色で、足元の影に落ちると淡い紫へ転ぶ。蓮は、目に映るその変化を、久しぶりに「きれいだ」と思った。
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第三章 明日の海
夏の終わり、海は群青と鉛のあいだをゆっくり行き来していた。灯台の影が波に千切れて、溶けて、また形を取り戻す。海斗は堤防の端に立ち、手の中の小さなノートを開いた。角は擦り切れ、紙は潮でふやけ、背の糊が剥がれてページがゆるんでいる。そこには一年分の未送信のメッセージが綴られている。事故で別れた友へ、別れてなお話しかけ続けた言葉たち。未来に渡すはずだった橋は、海霧に飲まれたままだ。
ポケットから封筒が出てくる。差出人のないそれは、いつだったか港の郵便受けに入っていた。「返します」。たった一行と、一枚の青いマフラー。色が褪せて、夏空の青さを薄めたみたいな、やさしい色。端から一本だけ糸が抜けている。どこかで誰かが、何かを結び直した痕。
海斗はマフラーを首に巻かず、堤防の欄干に掛けた。風が布の目をさかのぼって、音のない波紋をつくる。彼はノートの背を指で撫で、懐から針を出した。祖母が遺した、小さな裁縫セット。青いマフラーから一本だけ糸をもらう。引き抜くと、糸は朝の光を吸い上げて、細い川のように指にかかった。海斗はその糸でノートの背を縫う。ほどけかけたページを、丁寧に、何度も行き来して留める。針目は不揃い。けれど、閉じられたページは、風に煽られてもばらけなくなった。
彼は最後のページを開き、まだ書かれていない空白に、ゆっくりと文字を置いた。「あなたのいない明日を、理想として書くのをやめます。あなたのいない今日を、生きます」。
波が砕ける音が少し大きくなる。沖に向かってフェリーが小さく動く。欄干の青いマフラーが風に引かれて、ほどけそうになる。海斗は結び目を確かめる手を止めた。ほどけてもいい、と彼は思う。流れていけば、また誰かの肩に触れるだろう。昨日を赦す誰かに。今日を受け取る誰かに。明日を新しく選び直す誰かに。
堤防の下で、少年が海に向かって手を振っている。傍らの父親が笑って、遠くの灯台を指す。海斗はゆっくり手を上げた。見知らぬ二人。けれど、いまここにいる人だ。
彼はノートを閉じ、青い糸の結び目を親指で押さえた。針箱をしまい、欄干からマフラーを外す。海に投げるでも、持ち帰るでもなく、堤防のコンクリートにそっと置いた。波しぶきの塩が乾いて、灰色の地面に白い花粉のような模様を撒く。陽の光にそれがきらめく。海斗は、ひとつ深く息を吸い、その塩の匂いを肺の底まで落としていった。
帰り道、砂浜に打ち上げられた瓶を見つける。中は空っぽだが、底に紙片のかけらが一枚、濡れて張り付いている。「赦せますように」の、かすれた「せ」だけが読めた。海斗は瓶を拾い上げ、もう一度海に返した。透明なその体が、波間で一度だけ群青に光った気がした。
海を背に歩きだすと、上の方でカモメが鳴く。声はよく通る。空気はまだ夏で、しかし影は秋の匂いを含んでいる。明日は今日になる。今日と言う明日が、昨日になるまで。彼は靴紐を結び直し、ポケットの中のノートのあたたかさを確かめた。
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終章 薄く重なるもの
村の無人駅、公園のベンチ、夏の堤防。三つの場所に、青い糸の記憶だけが細く残る。結び直され、ちぎれ、縫い留められた一本。昨日の祈りは、今日の手つきに変わり、明日の誓いは、今日の呼吸にほどけていく。
誰かの「昨日を赦せますように」は、別の誰かの「いま、ここにいる人に会う」に重なり、そのまた別の誰かの「理想を手放す」に続く。色は薄れても、温度は伝わる。青は、冬の白に、春の桜に、夏の群青に、少しずつ違う影を落として、風景のどこかで生き延びる。
ハッピーでもバッドでもない終わり方を選ぶことは、たぶん、今日という細い道を選ぶことに似ている。足裏にまだ痛みが残っていても、風が塩気を運んでも、雲が低すぎても、歩けるだけ歩く。いつか、明日が昨日になって、振り返ったとき、青い糸の通った傷口が、ちゃんと塞がっていると気づけるように。
そして、また明日。今日と言う明日が、昨日になるまで。あなたは歩く。僕も歩く。どこかで、薄く重なりながら。