第9話『蛇王降臨』
「ここまで、か……」
アカデミー地下最深部、巨大なエネルギーフィールドに守られた保管庫。その中央には、神々しいまでの輝きを放つ巨大な砂時計――レリック『停滞の砂時計』が鎮座している。だが、その輝きも、今の俺たちの絶望を照らし出すにはあまりにも無力だった。
俺、神田京介、六本木蕾先輩、そして秋葉大和は、満身創痍で床に倒れ伏していた。目の前には、仮面をつけた長身の男――黄昏の蛇のリーダー格が、悠然と立っている。地上での激しい戦闘は、この男をここに到達させるための陽動に過ぎなかったのだ。
「くっ……化け物め……!」
蕾先輩が、折れた腕を押さえながら呻く。彼女の最速の攻撃すら、ボスには児戯のようにいなされた。
「僕の……バリアも……ハッキングも……全く……通じない……」
大和は、全身から放電するような痛みに耐えながら、かろうじて意識を保っている。彼の能力は、ボスの放つ異様な時空間エネルギーの前では、完全に無効化された。
俺も、『時の羅針盤』の欠片の力を最大限に使って未来を読もうとしたが、ボスの動きはあまりにも速く、そして不規則すぎた。未来予知が追いつかない。いや、未来そのものが、彼の前では不確定になっているような感覚すら覚える。
「哀れだな、アカデミーの雛鳥たちよ」
ボスは、感情の篭らない声で言った。その手には、いつの間にか『停滞の砂時計』の一部――ガラスを貫通して取り出したかのような、煌めく砂が握られている。
「この世界は、始まりから『間違って』いた。歪んだ因果、停滞した時。我らが主は、この『停滞の砂時計』の力で、世界の『誤った時』を正し、全てを本来あるべき『清浄な流れ』へと再構築なさるのだ」
「世界の……再構築……? ふざけるな! それはただの破壊だ!」
俺は、残った力を振り絞って叫んだ。
「破壊なくして創造はなし。お前たちのような『揺らぎ』や『イレギュラー』が存在すること自体が、世界の停滞を招いているのだ。理解できぬか?」
ボスは、まるで赤子に言い聞かせるように言う。その圧倒的な力と、揺るぎない信念。俺たちの抵抗は、もはや無意味なのか……?
「……諦めるな、京介くん……」
大和が、途切れ途切れの声で言った。
「そうだ、神田……まだ……」
蕾先輩も、必死に立ち上がろうとする。だが、ダメージは深すぎる。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。もう、ダメだ……。
「あーあー、もう! せっかく気持ちよく寝てたのに、起こさないでよね!」
その声は、まるで悪夢を打ち破る目覚まし時計のように、唐突に響き渡った。
「え?」
俺たちが声のした方を見ると、保管庫の入り口に、いつの間にか一人の少女が立っていた。大きなあくびをしながら、眠たそうに目をこすっている。
「し、渋谷さん!?」
「サキさん!?」
渋谷サキだった。さっき、俺の腕の中で意識を失ったはずなのに、まるで何事もなかったかのようにケロッとしている。服装も、戦闘で汚れたパーカーから、なぜかフリルのついた可愛らしいワンピースに着替えている。……どこで着替えたんだ!?
「やっほー。あれー? まだやってたのー? しつこいなぁ、この仮面の人」
サキは、ボスを指さして、まるで近所の迷惑おじさんを見るかのような目で言った。
「……イレギュラー。まだ生きていたか。いや、その存在そのものが不確定故か……面白い」
ボスは、初めて少しだけ興味を示したようにサキを見る。
「な、なんでここに……? 大丈夫なのか、体は?」
俺が尋ねると、サキはにぱっと笑った。
「んー? なんか、ぐっすり寝たら、すっきり元気になっちゃった! やっぱり睡眠って大事だよねー。あ、そうだ、京介くん、これあげる」
サキはポケットから何かを取り出すと、俺に向かってぽいっと投げた。それは、色とりどりの金平糖が一粒。
「え?」
俺が受け取ると、サキはウインクした。
「ラッキーアイテムだよん。お守りみたいなもん?」
「……ふざけている場合じゃないぞ、渋谷!」
蕾先輩が叱咤するが、サキは「えー、だってぇ」と頬を膨らませる。
「こんな絶望的な状況でも、笑ってた方がマシでしょ? ね、そうでしょ、仮面の人?」
サキはボスに向かって、挑発するように言った。
「……小娘が。世界の真理を前にして、戯言を」
ボスが、サキに向かって手をかざす。まずい!
「おっと、そう簡単にやられるあたしじゃないんだなー、これが」
サキはひらりと身をかわすと、俺たちの方に向き直った。その顔には、いつもの笑顔。だが、その瞳の奥には、見たことのないような、深く、静かな決意の色が宿っていた。
「しょーがないなー、京介くんたちは。あたしがいないと、ほんっとダメなんだから」
ため息をつくような、でもどこか優しい口調。
「……ちょっと、世界の『設定』、いじらせてもらうね。まあ、バグ修正みたいなもんかな?」
サキは、軽く肩をすくめて言った。だが、その言葉の重みが、俺には痛いほど伝わってきた。
「渋谷さん、まさか……!」
「あんまり心配しないでよ。あたし、ラッキーガールだから。きっと、なんとかなる……と、思う、たぶん、めいびー?」
おどけるように言うが、その声は微かに震えている。
彼女はゆっくりと目を閉じ、両手を胸の前で合わせた。そして、呟いた。
「――あたしの『運』、全部あげる。だから、奇跡、起こしちゃえ」
瞬間、サキの体から、眩いほどの光が溢れ出した。それは、虹色の、星屑のような光。保管庫全体が、その光に包まれる。まるで、世界の法則そのものが書き換えられていくような、荘厳で、しかしどこか危うい感覚。
「なっ……!? これは……因果律への直接干渉!? 馬鹿な、個人の能力で可能なレベルを超えている……!」
ボスが初めて焦りの声を上げる。
サキの体は、光の中で徐々に透け始めていた。その顔には、苦痛の色はない。ただ、どこか満足げな、そして少しだけ寂しそうな笑顔が浮かんでいた。
そして、奇跡は起きた。
ボスの足元の床が、何の前触れもなく突然崩落したのだ。同時に、天井から巨大な配管が落下し、ボスの動きを封じる。さらに、『停滞の砂時計』が暴走したかのように激しく振動し、ボスの持つ時空間制御能力を一時的に乱した! ありえない偶然が、連鎖的に発生している!
「ぐ……おのれぇぇぇ!」
ボスが体勢を崩し、一瞬だけ、その防御が完全に解ける。
「京介くん!」
サキの声が、光の中で響いた。
「今だっ!!!!」
俺は、サキがくれた金平糖を握りしめ、最後の力を振り絞って叫んだ。
「うおおおおおおおおっ!!!」
『時の羅針盤』の欠片が、俺の意志に応えるように激しく輝き、念動力が最大まで増幅される! 足元の瓦礫という瓦礫を全て巻き上げ、一つの巨大な槍のようにして、ボスの無防備な胸元へと叩きつけた!
ドゴォォォン!!
凄まじい衝撃音と共に、ボスは大きく吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。仮面の一部が砕け散る。
「やった……か……?」
俺は、その場に崩れ落ちた。
「……へへ、やったじゃん、京介くん」
光の中で、サキが弱々しく笑った。彼女の体は、もうほとんど透けて、向こう側が見えている。
「渋谷さん!」
俺は、這うようにして彼女に近づこうとする。
「ごめんね……『運』、ちょっと……使いすぎ、ちゃった、みたい……」
サキの声は、風前の灯火のようにか細い。
「でも、大丈夫……。きっとまた、会えるから……」
彼女は、透けかかった手で、俺の頬にそっと触れた。ひんやりとしていて、でもどこか温かい感触。
「……境界線で、待ってるから……ね?」
最後に、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべると、サキの体は完全に光の粒子となり、キラキラと輝きながら、保管庫の空気の中に溶けて消えていった。
「渋谷さーーーーん!!!!」
俺の絶叫が、虚しく響き渡った。
「……おのれ……イレギュラーめ……!」
壁に叩きつけられたボスが、苦悶の声を上げながら立ち上がる。深手を負っているようだが、まだ息はある。
「だが……目的の『砂』は手に入れた……。いずれまた会おうぞ、時の羅針盤を持つ者よ……」
ボスは、砕けた仮面の奥から、鋭い視線を俺に向けると、空間の歪みの中へと姿を消した。
残されたのは、破壊された保管庫と、倒れ伏した俺たち、そして……サキが消えた空間に舞う、わずかな光の粒子だけだった。
さっきまでの喧騒が嘘のような、静寂。だが、それは安らぎとは程遠い、喪失感に満ちた静寂だった。