第10話『境界之先』
黄昏の蛇によるアカデミー襲撃事件から、一週間が過ぎた。
破壊された校舎の復旧作業は急ピッチで進められているが、爪痕は深く、学園全体にはまだ重苦しい空気が漂っていた。多くの生徒が負傷し、中にはまだ医療カプセルから出られない者もいる。そして、『停滞の砂時計』の一部は奪われ、渋谷サキは……消えた。
「結局、サキさんの行方は……何も分からないまま、か」
放課後、復旧作業が続く中庭のベンチに座り、俺、神田京介は力なく呟いた。隣には、同じように空を見上げる秋葉大和がいる。彼の腕にはまだ包帯が巻かれている。
「うん……アカデミーのセンサーにも、周辺地域の監視カメラにも、何の痕跡も残ってないんだって。本当に……光の粒子になって消えちゃったみたいに……」
大和の声も沈んでいる。あの日、保管庫で起こった出来事は、あまりにも衝撃的すぎた。
「でも……死んだわけじゃない、よな?」
俺は、自分に言い聞かせるように言った。サキは最後に言った。「境界線で待ってる」と。それは、別れの言葉じゃないはずだ。再会の約束だと、信じたい。
「……分からない。でも、あのサキさんのことだもん。きっと、どこかでケロッとして、またひょっこり現れるよ。例えば……」
大和は少しだけ口元を緩めた。
「『やっほー! ちょっと宇宙旅行してきたんだけど、お土産の宇宙食、いる?』とか言いながら」
「はは……ありえそうだな、それ」
俺も、思わず苦笑した。そうだ、あの渋谷サキだ。常識なんて通用しない。きっと、俺たちの想像もつかないような方法で、どこかでピンピンしているに違いない。そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
「神田、秋葉。ぼうっとしている暇はないぞ」
凛とした声と共に、六本木蕾先輩が現れた。彼女も肩に治療痕が残っているが、その佇まいはいつも通り、いや、以前にも増して鋭さを増しているように見える。
「蕾先輩……」
「先ほどの会議で、今後の活動方針が決まった。我々は、残りのセブン・レリックの捜索と回収を続行する。同時に、黄昏の蛇の目的……『世界の再構築』の阻止、そして奪われた『停滞の砂時計』の奪還を目指す」
蕾先輩は、淡々と告げる。その目は、迷いなく前を見据えている。
「『世界の再構築』……結局、奴らは何をしようとしてるんですか?」
大和が尋ねる。
「詳細は不明だ。だが、回収したレリックの断片的な情報や、ボスの言動から推測するに、単なる破壊や支配ではないらしい。彼らなりの『理想の世界』を実現するために、現在の世界の因果律そのものを書き換えようとしている可能性がある」
「世界を……書き換える……?」
スケールが大きすぎて、想像もつかない。
「そして、もう一つ。アカデミー内部に、黄昏の蛇の協力者がいた可能性が極めて高い。襲撃時のセキュリティ突破の手口、保管庫への侵入経路……内部情報なしには不可能だ」
蕾先輩の言葉に、俺たちは息を呑んだ。
「裏切り者が……このアカデミーに……」
「調査は進められているが、尻尾は掴めていない。今後、我々は外部の敵だけでなく、内部の『影』にも注意を払わなければならない」
課題は山積みだ。黄昏の蛇、レリック、世界の謎、アカデミーの裏切り者……そして、サキの行方。
「……やること、いっぱいだな」
俺は、空を見上げて呟いた。でも、不思議と絶望感はなかった。むしろ、やるべきことがある、という事実が、俺を奮い立たせていた。
「俺、やります」
俺は立ち上がり、蕾先輩と大和に向き直った。
「サキさんのこと、絶対に見つけ出します。それに、レリックを集めて、黄昏の蛇を止めて……世界の真実ってやつを、この目で見届けたい。もう、誰かに守られてるだけの俺じゃいたくないんです」
あの日、サキは俺に未来を託してくれた。彼女がくれた『運』と『奇跡』を、無駄にはできない。
「京介くん……」
大和が、決意に満ちた目で俺を見つめる。
「僕も行くよ! 京介くんと蕾先輩、そして……サキさんのためにも! 僕にできること、全部やる!」
「……フン。当然だ」
蕾先輩は、わずかに口角を上げた。
「私も、あの日……少しだけ『過去』が見えたからな。決着をつけなければならないことがある。それに……」
彼女は、一瞬だけ遠い目をした。
「……あの騒がしい奴がいないと、少し……調子が狂う」
「え? 今、何か言いました?」
「何も言っていない。さあ、行くぞ。新たな任務だ」
蕾先輩は、そう言って歩き出す。俺と大和も、顔を見合わせて笑い、その後を追った。
◇
数日後。俺たちは、アカデミーが用意した最新鋭の装備――時空間の歪みの中でも活動可能な特殊スーツ――に身を包み、新たな任務地点へと向かう特殊車両の中にいた。
「次のレリック反応……座標データ、エラー。シグナル強度、レベル7……これまでで最も強力で、不安定な反応です」
大和が、腕の端末に表示されるデータを見ながら報告する。
「場所は?」
蕾先輩が尋ねる。
「特定不能……というより、特定の『場所』ではないようです。出現と消滅を繰り返す、極めて不安定な『境界領域』そのものから反応が出ています」
「未知の『境界領域』か……厄介だな」
蕾先輩が呟く。
俺は、窓の外を流れる景色を見ながら、ポケットの中の小さな感触を確かめていた。あの日、サキがくれた金平糖。お守りだって言ってたやつだ。
(境界線で、待ってる……)
サキの最後の言葉が、頭の中で繰り返される。不安定な境界領域。もしかしたら、そこに彼女がいるのかもしれない。いや、きっといる。
車が、空間が歪み始めた地点で停車した。目の前には、陽炎のように揺らめき、時折火花のような光が散る、異様な空間の裂け目が見える。ここが、新たな『境界領域』の入り口。
「準備はいいか?」
蕾先輩が、俺たちに確認する。
「はい!」
「いつでも!」
俺と大和は、力強く頷いた。
「よし。行くぞ」
蕾先輩を先頭に、俺たちは未知なる領域へと足を踏み入れる。一歩踏み出した瞬間、全身を奇妙な浮遊感が包んだ。目の前の景色がぐにゃりと歪み、物理法則が意味をなさなくなる。
不安がないと言えば嘘になる。この先に何が待っているのか、想像もつかない。強大な敵か、危険な罠か、あるいは、想像を絶する世界の真実か。
それでも、俺たちは進む。仲間がいるから。守りたいものがあるから。そして、きっとまた会えると信じている、あのラッキーガールに辿り着くために。
渋谷サキが切り開いてくれた、奇跡の先にある未来へ。俺たちの本当の戦いは、今、ここから始まるのだ。
俺は、歪んだ空を見上げ、心の中で呟いた。
(待ってろよ、渋谷さん。今、迎えに行くからな!)
おわり