第1話『境界少女』
「……またか」
俺、神田京介は、目の前で一瞬だけふわりと浮き上がり、すぐに元の位置に戻ったペットボトルを見つめて、小さくため息をついた。別に念じたわけじゃない。ただ、なんとなく「喉渇いたな」と思っただけだ。なのに、ここ最近、こういう奇妙なことが頻繁に起こる。
ペン立てのペンがカタリと揺れたり、閉めたはずの窓が少しだけ開いていたり。気のせい、で済ませるにはちょっと頻度が高い。そして、今日みたいに、明らかに物理法則を無視した現象まで。
「超能力、なわけないよな……」
漫画やアニメじゃあるまいし。俺はごく普通の高校一年生。成績も運動神経も中の中。目立つタイプでもなければ、これといった特技もない。そんな俺に、ある日突然特殊能力が目覚めるなんて、都合のいい話があるわけ――。
ピリッ。
指先に、静電気とは違う、微かな痺れが走った。同時に、脳裏に一瞬だけ、見慣れた通学路の角から黒い影が飛び出してくる映像がフラッシュバックする。
「うわっ!?」
思わず声を上げ、椅子からずり落ちそうになる。心臓がドクドクと嫌な音を立てている。デジャヴュ? いや、もっと生々しい感覚だ。
「……考えすぎだ、うん」
俺は首を振って、嫌な予感を振り払う。今日は早く帰って、昨日買ったゲームの続きをやろう。そう決めると、鞄を掴んで教室を後にした。
◇
「あー……やっぱりこっちの道、近道だけど雰囲気悪いんだよな」
いつもの通学路を少し外れた、古い商店が並ぶ薄暗い路地裏。早く帰りたくてつい選んでしまったが、少し後悔していた。街灯も少なく、人の気配もほとんどない。
と、その時だった。
「見つけたぞ、『揺らぎ』の兆候を持つ者」
低い、抑揚のない声が、路地の奥から響いた。同時に、複数の足音が近づいてくる。心臓が跳ねた。さっきの予感――いや、予知?
角を曲がると、そこには黒いフードを目深にかぶった男たちが三人、立ちはだかっていた。全員、同じデザインの、蛇が絡みついたような奇妙な紋章を胸につけている。なんだ、こいつら? コスプレ? いや、雰囲気が尋常じゃない。
「な、なんですか……?」
声が震える。逃げなきゃ、と思うのに、足がすくんで動けない。
「我々は『黄昏の蛇』。貴様の中の『力』を、目覚めさせる時が来た」
一人が無機質な声で告げる。力? 目覚める? 何を言ってるんだ?
「わけわかんないこと言わないでください! 通してください!」
虚勢を張って叫ぶが、男たちは微動だにしない。むしろ、じりじりと距離を詰めてくる。まずい、本気でヤバい奴らだ。
「抵抗は無意味だ。おとなしく我らの導きを受け入れよ」
一人が手を伸ばしてくる。その手の動きが、やけにゆっくりと見えた。違う、俺の周りの時間が、引き伸ばされているような――?
パニックが頭を支配する。嫌だ、捕まるもんか!
「うわあああああっ!」
叫んだ瞬間、自分でも何が起こったのか分からなかった。突風が吹き荒れたかのように、周囲のゴミ箱や看板の一部が、男たちに向かって吹き飛んだのだ。
「ぐっ!?」
「なっ……!?」
男たちは吹き飛んできた瓦礫に怯み、後ずさる。俺自身も、自分の身に起こった現象に呆然としていた。今のは……俺が?
「へぇ、なかなか派手にやるじゃん」
場違いなほど明るく、楽しげな声が、頭上から降ってきた。見上げると、路地裏の建物の屋上の縁に、腰かけて足をぶらぶらさせている少女がいた。俺と同じくらいの歳に見える。色素の薄い髪が夕日に透けて、キラキラ光っている。
「誰だ、貴様!?」
「邪魔をするな!」
黄昏の蛇たちが、少女に向かって敵意を露わにする。
「んー? ただの通りすがりだよん。なんか面白そうなことやってるなーって思ってさ」
少女はニコニコしながら言うと、ひょいと屋上から飛び降りた。猫のように軽やかに着地する。手には、なぜか飲みかけの缶ジュース。
「おい、小娘! そいつは我々の……」
リーダー格の男が言いかけた瞬間。
カラン、コロン。
少女の手から、缶ジュースが滑り落ちた。それは、まるで意志を持っているかのように、複雑な軌道を描きながら地面を転がり――リーダー格の男の足元へ、見事に吸い込まれた。
「わぷっ!?」
男は無様に足を取られて転倒する。頭を地面に打ち付け、呻き声をあげて動かなくなった。
「あちゃー、手が滑っちゃった。ごめーんね、おじさん」
少女はぺろっと舌を出して謝るが、反省の色は微塵もない。
「なっ……貴様!」
「ふざけるな!」
残りの二人が少女に掴みかかろうとする。まずい、あの子が!
そう思った瞬間、頭上で「ギィィ……」と何かが軋む音がした。
「え? なになに?」
少女がきょとんとした顔で見上げると、古びた商店の看板が、取り付け金具から外れ、ゆっくりと落下してくるのが見えた。
「わわっ、危なーい!」
少女は慌てて飛び退く。そして、その看板は――見事に、残りの男二人を直撃した。ゴシャッという鈍い音と共に、二人は白目を剥いて地面に沈んだ。
「…………」
俺は、目の前で起こった出来事が信じられず、ただ立ち尽くしていた。なんだこれ。コントか? あまりにも都合が良すぎる。偶然……? いや、偶然で片付けるには、あまりにも出来すぎている。
「ふぅ、びっくりしたー。いやー、今日はツイてるなぁ。ラッキー♪」
少女は、何事もなかったかのようにパンパンと手を叩き、落ちていた自分の缶ジュース(中身はほとんど空になっていたが)を拾い上げた。そして、気絶している男たちを覗き込み、
「んー、このマーク、どっかで見たことあるような……ないような? ま、いっか」
と、呑気に呟いている。俺は混乱した頭で、恐る恐る尋ねた。
「あ、あの……きみは……?」
「ん? あたし? あたしは渋谷サキ! ただのラッキーガールだよん」
サキ、と名乗る少女は、悪戯っぽく笑ってウインクした。ラッキーガール? いやいやいや、絶対違うだろ!
その時だった。
シュタッ。
音もなく、俺とサキの間に、一人の女性が降り立った。長い黒髪をポニーテールにした、凛とした雰囲気の美人。着ているのは、俺が通う高校とは違う、見慣れないデザインのブレザー制服だ。
「状況、確認。対象『揺らぎ』の兆候を確認。敵性存在『黄昏の蛇』三名、無力化……原因は、そこの少女か?」
女性は、氷のように冷たい目で、まず俺を、次にサキを、そして気絶している男たちを順番に見る。その動きには一切の無駄がない。
「お、カッコいいお姉さん登場! ヒーローは遅れてやってくるってやつ?」
サキは、緊張感なく拍手している。お前、状況分かってるのか?
女性はサキの言葉を無視し、俺に向き直った。
「神田京介君、だね? 君にはいくつか聞きたいことがある。まずは、安全な場所へ移動する。ついてきなさい」
有無を言わさぬ口調。その声には、逆らってはいけないような妙な圧があった。
「え、あ、はい……」
俺は、わけがわからないまま頷くしかなかった。
「あなた、能力者ね? クロノス・アカデミーの生徒?」
サキが、興味深そうに女性に問いかける。女性は、初めてサキに視線を向けた。
「……私の所属を詮索する必要はない。それより、あなたは何者だ? この状況を引き起こしたのは、あなたの『能力』か?」
女性の問いに、サキは首を傾げた。
「さあ? あたしはただ、缶ジュース落としただけだし、看板が落ちてきたのも、たまたまだよ? ね?」
屈託のない笑顔で同意を求めてくるが、信じられるわけがない。
女性は、値踏みするようにサキを数秒見つめていたが、やがてふいと視線を外した。
「……今はいい。だが、次はないと思え」
それだけ言うと、俺に向き直る。
「行くぞ、神田京介君」
「は、はい!」
俺は女性に促され、歩き出す。振り返ると、サキはひらひらと手を振っていた。
「じゃーねー、京介くん! カッコいいお姉さんも、バイバーイ!」
その軽い口調と笑顔に、俺は言いようのない不気味さを感じていた。あの少女は、一体何なんだ? そして、これから俺はどうなるんだ?
夕暮れの路地裏には、気絶した黒ずくめの男たちと、転がった空き缶、そして壊れた看板だけが残されていた。俺の平凡な日常は、この瞬間、音を立てて崩れ去ったのだ。