4、飴の道-2
結局、太陽がそろそろ夕焼けの色と交じり合おうかという頃合いになっても、その日に迅花楼を訪れる客はいなかった。
別に案内人の仕事に需要がないというわけではないのだ。観光地でもある龍天街を訪れる人間は日々絶えないのだから。
ただ、ネットや本やらガイドというのはいくらでもある時代だ。わざわざ対面の人間を雇ってまで観光案内させたいような観光客はまずいない。
というかそもそも迅花楼の存在自体が外部の人間にはあまり知られてもいない。
まあネット広告を出しているわけでもなく、歴史あるものでもなく、単に迅龍と乱花がある日突然立ち上げただけの事務所だから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
乱花からしてみれば『龍天街に来たらこれ!名物グルメ十二選!』なるネット記事に書かれているような、生まれてこの方を龍天街で過ごしてるが初めて知ったぞそのグルメ、みたいな情報を仕入れるくらいならちょっと一言二言彼女と会話してもらったほうがきっと良い思い出を刻めると思いはするが、得てしてままならないものである。
長い欠伸のあとに、乱花の片腕がぷらんとソファから零れ落ちる。
迅龍は相変わらず隣の1人がけのソファに座っているが、彼なりに退屈を持て余しているのかクロスワードパズルに熱中している。
「なんかさ、旅に出たいな」
「……また急に話が飛んだな」
パタンと迅龍のクロスワードパズルの本が閉じられた。退屈凌ぎに話には付き合ってはくれるらしい。
「ほら、フェスでさ……いろんな人がライブを見に来てたじゃん。私って生まれてからこの街からほとんど出たことないしさ……なんていうのかな、外の世界の広さを知ってしまったというか……」
鉢植えに植え替えられたリンカロットではないが、彼女も違う土を踏んでみたい、そう感じたのだ。
「ほほう、そりゃ実に結構だ」
迅龍の声が明るくなる。乱花の後見人兼従業員である彼にとっては、それが乱花の成長に見えたのかも知れない。普段は飄々としていて何にも囚われません、という雰囲気を出している迅龍だが、なんだかんだ保護者的な視点から乱花に対しては思うところがあるらしく、やれ彼女が世間知らずだとか、やれ生活能力が無いだとか、色々と口うるさい面があるのだ。
こうなると思いつきで口にしていた乱花としては少々ばつが悪い。
「案内人として他所の観光地を見て回るのも勉強になるしな。良いじゃないか、儲からない職場なんて雨戸を閉めてパーっと外国で羽を伸ばしてみるのもアリだなぁ」
「迅龍、儲かって気が大きくなってる?」
なんのかんの世間知があって世渡り上手のこと男がどうしてやたらあちこちに借金を作ったりしているのか。このあたりに秘密がありそうだ。
「うん、だがまあ」と迅龍はトレードマークと化している無精髭を撫でた。
「地に足つけろというわけじゃないが、先にやっぱりもう少しこの街を知った方がいいかもな。まだまだお嬢が知らない観光スポットだけでも、集めたら本の一冊分くらいにはなるんだぜ」
どこか誇らしげな迅龍の言葉に、ゆっくりと乱花の上半身が持ち上がった。
「じゃあさ、今日からそこの案内して、全部、一個ずつ見てくの。長期のお休みとって」
「お嬢、地雷系女子の素質があるね」
「……褒めてるの?」
「う、うーん?どうだろう、どうかな」
考え込むようにして目をぱちぱちさせていた迅龍だが、やがて口の中で転がすように「観光地、か……」と呟いた。
「昔、旅行書の編集長をやっていた人の話でこんなのがあってな」
「……えっ、何の話?」
急に語り始めた。
「まあ聞けって。旅行っていうのは体験を売り物にするわけだから、実際に現地を訪れた観光客の声って言うのが何よりも大切な情報になるわけだな」
だから、その元編集長は、毎日デスクの上に積み重ねっていく、何百という読者からの手紙に目を通していたと迅龍は語る。
「ほら、旅行書って編集部に送る手紙が挟まってたりするだろ」
しかし、そうして毎日送られてくる様々な旅行記に目を通しているうちにその元編集長はあることに気が付いた。
規定のハガキを大幅にはみ出して、便箋付きで送られてくる手紙や、旅行先で綴られたであろうポエムが書かれて送られてくる手紙など、その中には“規格外品”がそれなりに混じっているということに。
「そこでその編集長はある悟りを得たわけだ」
旅行というのは、これほどに体験を誰かに語りたくて語りたくて、たまらなくなるものなのか、と。
「祭りと一緒でな、旅行の楽しみっていうのもある種の水物だ。日常とは違う、その時、その場所だけの体験を味わうっていうのが醍醐味なわけだろう。その感覚は日常には持ち帰れない。みんなそれをどっかで分かってる。だから、まだ手の内にある間に誰かに語りたくて仕方が無いんじゃないかね」
その相手は別に誰でも良いのだろう。家族でも良いし、友達でも良い。今ならSNSがあるし、写真を投稿することも出来るし、動画にしたって良い。
その時はたまたま、そこに「編集部宛の手紙」という手段があったから、そこに語り掛けたのだ。
大事なのは物語ること、そうして今感じている体験を改めて自分に刻むこと。
忘れないように、きちんと持ち帰れるように。
実に儚いもんだなと迅龍は言う。そして祭りにせよ旅にせよ、その儚いところが良いんだよなとも。
乱花はソファのふちに肘をついて、ぽすんと顔を手の中に収めた。
秋らしいメランコリックな感情がまたムクムクと胸の内で膨らんでいく。
「楽しい時間は一瞬、って話?」
「まー、そういう言い方も出来るがね」
迅龍は苦笑する。
非日常の時間はいつまでもそこにはいてくれない。容易に、あっさりと、すんなりと過ぎ去ってしまう。留めることは誰にも出来ない。
「でもなぁ、得てして旅とかお祭りってそういのが思い出に変わってからの方が味がすると思うんだよなぁ。ほら、学校の文化祭とか修学旅行とかもさ、結局は何年も経ってからその良さがわかるというか……日常に戻ってから味を効かせるスパイスみたいなもんなんだよ」
「……文化祭に修学旅行……?」
「なんすか」
「い、いや……」
目の前で丸眼鏡を紫色に反射させている怪人物の擬人化みたいな男にもそんな青春があったのか、ということが乱花には信じられなかった。
というか学生服を着ている姿すら想像できない。
「……なんかさ、そうは言うけどさ、結局それっておじさんの定型文句というか」
「おじさ……っ!」
その癖こういう言葉は深く突き刺さる。
「だからといってこの寂しさが紛れるわげでもないわけじゃない?」
言ってから乱花ははたと気がついた。
そうか、己は寂しかったのかと。
「……寂しいねぇ」
「寂しいよ。……なんか文句ある?」
「ないけども」
ふん、と乱花は小さく鼻を鳴らした。
そう、結局のところ彼女は寂しいのである。
一夏の中で得られた非日常的な経験が、彼女の世界をぐるっと変えてしまったような出会いが、祭りの終わりと共に、霧散してしまったような気がして。
祭りなど所詮、一時の熱狂、一時の華。
時が過ぎ去れば残すことの出来ない、幻の日々。
これから先、終わることもないかのように続く、日常という名の現実に比べれば、甘き時など浮ついた一夜の夢に過ぎないのだろうか。
とかく、彼女の胸の内に住み着いた灰色の気持ちが叫んでいるのは、そういうことだった。
だが——
「んなこたナイナイ」
迅龍の声は綿あめのように軽い調子でそれをさらっと一蹴した。顔をあげると、彼はジャケットを羽織るところだった。ポケットの中をまさぐり、あり得ない量のレシートがぽろぽろとこぼれ落ちてくる。
「どこか行くの?」
「お前も行くんだよ」と迅龍は歯を見せた。
黒い長財布を内ポケットに無造作に突っ込む。
「気分転換の散歩だ、後の祭りを見に行こうじゃないか」