4、飴の道-1
暑い夏が過ぎ去ると、どうにもひんやりとした秋が訪れるように、何事も熱ければ熱いほどに、過ぎ去った後はどうにもぽっかりとした心の空きが訪れる。
乱花は迅花楼の事務所でそれをしみじみと実感していた。
「燃え尽き、た……」
迅花楼は彼女の両親から遺された食堂を改造したものだ。
2階建ての文字通り楼閣のような建物は古き良き東洋の気配を漂わせ、上階から見える龍天街の展望が人々を誘ったものである。
だが案内所に転向した今では、そこも雑多な荷物が詰め込まれた、だだっ広いばかりで風情もかけらもない乱花たちの事務所とかしている。
経費削減のためにそのまま使われている真っ赤な回転テーブルなどが往年の名残を残すばかりだ。
だが風通しは良いものだから、晩夏の季節に心地良い風と戯れる場としては悪くはない。
そうした風を頬に受けながら古びたソファに深く深く沈み込む乱花の様子は、そのまま今の彼女の気持ちを表している。
その口からは覇気のない吐息が漏れ、慣れ親しんだ天井へと吸い込まれる。隣で一人がけのソファに腰かけて新聞を眺めていた迅龍が、紫色に輝く丸眼鏡の下からじろりと彼女を睨んだ。
「今のお嬢は見てるだけで気力が削がれてく気がするよ」
苦言は乱花の心には響かない。
彼女がこうしてアンニュイだからメランコリックだかの気分に浸っているのは理由がある。
それもこれも、全ては過ぎ去った祭りのせいなのである。
「すべてはそう、儚い夏の思い出でした……!」
「それは俺に話しかけてると思っていいのか?」
今年は、龍天街にそれはそれは“熱い”夏が訪れていた。
『歌人大祭』と称されたそのイベントは、ざっくりといえばサマーフェスであった。
全国から今をときめく人気歌手たちが集まり、盛夏の青空の元、龍天街にてその歌声を張り上げる。
込み入った龍天街を屋外ライブ会場に流用するというのは奇抜な手法だが、元はと言えばある歌手のアイディアだったらしい。
リンカロット・ラムスター。
彼女はアルラウネとも呼ばれる樹人の歌姫だ。
今では音楽などまるで聞かないという人間でもその名前くらいは聞いたことがある、というほどの知名度を誇る不動の人気シンガーである彼女だが、元はと言えばその出身が龍天街だったのだ。
より正確には彼女は龍天街に生えていた、ということになる。
よほどのことがなければ基本的に生息地を動かさないことで有名な樹人だから、最初は彼女の歌声を知るものは幸運にも彼女の棲家の近くに住む街のお隣さんぐらいであった。
それが、あまりの歌声に噂が噂を呼び、その声を求める聴衆が列を作るようになった頃合いで、彼女のプロデビューが決まったのた。
鉢植えに植え替えられて台車で運ばれながら手を振っているリンカロットの写真は、象徴的なイメージとして今でもテレビなどでよく目にされている。
そういう伝説を背景に、彼女と懇意であるどこぞのプロデューサーが企画したのが『歌人大祭』なのであった。
言ってみればそれはリンカロットからすれば凱旋ライブのようなものである。
龍天街の住民としでそんなことを言われてはすっかり浮かれてしまい、持ち前の商魂逞しさも発揮しつつ、街はここのところ総出のお祭り騒ぎの様相だったのだ。
とはいえ龍天街といえば物理的にも社会的にも入り組んでいることでお馴染みである。
そんな場所でイベントをやるにあたって、コーディネート役として迅花楼に白羽の矢が立ったのら必然だったのかもしれない。
あるいは迅龍の得体の知れないコネクションの力かも知れないが。
いずれにせよ龍天街に名高き案内人としての彼らはイベント会場の手配や調整、地域住民との折衝など盛り上がる街の住民に負けず劣らず、大忙しの毎日を送ることになった。
いや、街の住民は無責任に「リンカロットゆかりの喫茶店」だなどと嘘八百を並べていれば良いだけのボーナスタイムなのに対して、乱花たちの方はイベントの成功失敗が関わってくるわけだからその心労は比べるべくもないのだが。
そんな嵐のように激しく夏らしくも熱い日々の中で幸運だったのは、他でもないリンカロットと直接会うことができたことだろう。
日頃はテレビやネットの向こうにいる存在との対面、彼女をエスコートしていく中で不思議と紡がれていった友情。
そしてフェス前日、お忍びで街へと出かけたいとサングラス越しに不敵に笑った歌姫との1日限りの逃避行。
大スターと過ごした龍天街の休日は、それはもう、刺激的で、笑いに満ちて、キュートで、そしてガラゴロと台車を押して回った迅龍は腰が痛いと文句を言ったのだった。
フェス当日、リンカロットから招待されて関係者席で見たライブの興奮を乱花が忘れることは一生無いだろう。
天井にも昇るその歌声と、鬼神も裸足で逃げ出す迫力ある歌唱。
乱花の心はガッチリとあの夏の歌姫に掴まれたのであった。窓際に置かれたインテリアの鳥かごの中に、鳥の代わりにサイン入りのCDアルバムがぽつんと飾られているほどには。
だが、祭りというものは必ず終わるものである。
それはもう、呆気なく。
それはもう、ぷっつりと。
永遠と思われたものほど、その終わりは切ない。持て余された熱気は龍天街のあちこちに漏れ出し、住民たちは総出で夜通しの宴とかこつけたが、それも酒と一緒に胃袋におさまると朝日の中であっさりと消え去ってしまった。
乱花にとって残されたのは、真っ白く燃え尽きた灰のような自分と、日常に戻るに戻り切れない中だるみした余白のような時間ばかりだった。
「要するに燃え尽き症候群なんだろう」
ふわーぁ、と迅龍は欠伸をしてコキコキその機械の腕を鳴らした。
彼はアレからずっとご機嫌だ。
懐が暖かくなったおかげで新しい高級オイルを購入し、全身を瑞々しく潤したからだ。
艶々した己の機械の指先をうっとりと眺める時間が増えたという点では、彼もまた祭りの喧騒から帰れていないと言えなくもない。
しかしそこは年の功だ。ひと足先に日常の業務に戻っている。
つまりは来るとも知れない仕事を待ってぐうたらと過ごす時間を受け入れるという日々にだ。
そうはなれない乱花は、にへらと生気の抜けた笑いを口元に浮かべる。
「ダメだよ、迅龍。あんな興奮を味わっちゃったらさ、私はもう戻れないよ……へへ、もうあの時間が忘れられないんだ……」
「ウチの店長が変なこと言ってる」
乱花がむやみやたらと手を虚空に延ばせども、掴めるものは特にない。
仕方なしに傍らにあるまん丸としてもちもちと柔らかい草餅のようなクッションをひっつかむと、己の胸に押し付ける。
コレも、フェスにかこつけたお土産の屋台から購入したものだった。丸くてやわやわしたものでもなければ、彼女のこの無聊を慰めてはくれない。
「なんかさ……おっきなこと、したいな」
「……そういうのって思春期のうちに通り過ぎるもんだと思ってたな」
バタ足のように無暗に上下する乱花の足先に、迅龍が呆れたような視線を送る。
これで20歳を超えているのか、という心の声が視線にありありと表れている。
「アンヘルの20代はまだ思春期なの!」
「いやな種族だな……」
困ったように眉を顰めてから、迅龍は己の淹れた茶を啜った。彼は頭痛がするほどに濃く淹れたお茶に、砂糖をたんまりと入れて飲むという奇怪な癖があった。紅茶を淹れる時はミルクもたんまりと淹れる。
ずずず、という音と、彼の吐く小さな吐息は、あまりにも平和な昼下がりを、小市民的な幸せを感じさせた。
「俺は好きだけどねぇ、こういう祭りの後の弛緩した時間……もしかしたらそれが好きで祭りを手伝ってるのかも知れんな」
ジロリと乱花が横目で迅龍を睨む。
この得体の知れないバックボーンを持つ男は、龍天街でも屈指の顔の広さを持っている。
あまり乱花が巻き込まれることはないが、今回のように何かしらのイベントに絡むことも多いらしい。
だが今になってはそれが「いーなー!」という感じだ。彼ばかりがずるく思えてくる。
こうしてゆったりと時間を過ごす迅龍の姿は、確かに幸せそうである。それがまた小憎たらしい。
好きなお茶を飲んで、ソファに座り、のんびりしてりゃそりゃあ幸せだろうという話だが、いざことが起これば真っ先に飛び込んでいく癖に終わった後にはさらりと隠居爺のように引っ込んでしまうその変わり身が、今の乱花にはどうにも癪に障る。
乱花のため息が草大福の中へと送り込まれた。
「ずーっとお祭りが終わらなければいいのに……」
「ついに店長が小学生まで退行した……」
ちょっとばかし迅龍が動揺したので乱花も無意味に気分を良くして体を起こした。
「だってそう思わない?龍天街なんていつでもお祭りってくらい人がいるんだし、一年中屋台出して毎日お祭りやってさぁ」
「……そういや無限に続く夜祭から帰って来られなくなった男っていう定番の話があってだな」
「私も日常への帰り方を忘れちゃったか似たようなものだね」
脅かすような意地悪な言葉も、今の乱花には効き目がないようだった。
ソファの上の狭いスペースをゆらゆら転がる彼女の動きに宇宙の神秘との類似性でも見つけたのか、迅龍は興味深そうにじっとその様子を目を細めて見つめていた。