3、春攫い-2
雨の中に咲いた花は、桜ではなく桃色の傘だった。
雨の花は寄り道することなく、まっすぐに帰路を急いだ。
ぴちゃぴちゃと跳ねる水がまた裾を濡らす。春になって暖かくなってきたとはいえ、この雨の中に長居をしていると風邪をひいてしまいそうである。折角髪を切ってなんだが、戻って温かいお風呂に入るのが今のベストに思われる。
出来る限り雨の降らない、屋根のある場所を行こうと、乱花は裏路地の方へと舵を切った。
普段ならあまり使わない地下道路も、この際、使うべきだろう。いつもは人影の少ない地下道も、こういう日にはムシムシとした空気と共に、賑やかな靴音が響くものである。
高架下に駆け込んだところで、ふと彼女の瞳が壁面に張り付いた武骨な鉄製の扉を捉えた。少しばかり、背の低い扉だ。小柄な彼女にちょうどよいくらい。
そっと手で触れると、重たい扉がゆっくりと動いた。
この街のこういう扉は、通ってもいいことになっている。地下に続く、ドワーフたちが作った階段の扉だからだ。普段は子供たちが悪さをしないために、敢えて物々しく重たい扉になっているが、彼ら地下種族が作り上げた複雑な地下経路はうまく使えば濡れる量も最小限に抑えられる雨の日の強い味方となってくれる。
もっとも迷子にならなければの話だが。
一応は乱花はこの街の案内人を名乗っている。その辺りは最低限の知識はあるつもりだ。
その扉には大きく赤いペンキで「猫」と描いてあった。
ホスピタリティのかけらもないが、標識のつもりなのだろう。
ここから入って「虎」の扉から出れば迅花楼はもう目と鼻の先だ。早く、雨から逃れて地下へと急ごう。
そう思った時に扉が勝手に向こう側から開いた。
押しのけられるように慌てて後ろに下がったせいで、手に持っていた傘がぱたりとその場に倒れた。
拾い上げようとして、乱花は呆気にとられた。
それは、扉から出来た相手があまりにも大きかったからだった。
それは、一言で言うとモノノケだった。
高架下の高さめいっぱいだから、2m以上、3m近くはあるのではないかという巨大が、にゅるりと乱花の前に姿を現していた。
ずんぐりむっくりとしたフォルムは、全身に厚く服を着こんでいるからだ。頭にもコートのフードを被って、そのうえ背中には自分と同じくらい大きな荷物を背負っているものだから、全体でひとつの小山がゆさゆさと動いているように見える。
肌を出していないから、何の種族か分からないが、少なくともヒューマンではないだろう。
だが何より目を引いたのはその顔だ。
顔、というよりはマスクか。
そのおそらくは人類らしき巨体は顔に乱花の頭より大きなガスマスクがぴったりと貼り付けていた。
しゅこー、しゅこーというのは、そのマスクの奥で呼吸する音だ。
あまりの威容に、恐怖を通り越して乱花は呆然としていた。
頭に浮かんできたのは「どうやってこの小さな扉から出てこられたのだろう?」というどうでもいい疑問の方だった。
「あ、あの……」
乱花の頭からはすっかり冷静さが失われてしまっていたが、ガスマスクの巨人の方はそうでもないようだ。
恐らくはマスクの向こう側から乱花をじっと見つめると、そいつは屈んでぬっと大きな腕を差し出した。
見れば、手の中には乱花の傘が収まっている。この手の中だと、まるでオモチャのようだ。
「あ、ありがとうござい、マス……」
おずおずとしてしまうのは、あまりの怪人物っぷりからか。
——怪人物?
そこでふと彼女の頭の中で光が弾けた。
さっきぶりの、美容師の人好きする笑顔が思い起こされる。
「桜さん……?」
思わず、口から言葉が漏れた。
乱花が首が痛いほどに見上げると、巨大な人影はもぞもぞと身動きをしていた。
最初は何をしているか分からなかったが、首を降ろしてようやくポケットから何かを取り出そうとしているのだと気づいた。
それは、桜の枝だった。
作り物だが、可愛らしい桜の木の枝だ。
つまるところ、そういうことなのだ。
「ほ、ほんとに居たんだ……」
いや、本当にいるに違いない。この街では噂は、噂ではない。伝説は伝説でなく、奇譚は奇譚でない。何もかもが混在し、混沌の奥に鎮座している。
とはいえこうしてその奇天烈なる不思議を目の当たりにすると、何度目であろうと腰が抜けるような衝撃があるものである。
「あ、あの、その、貴方のことは噂で聞いてて……」
話しかけてしまった手前、何か言わなきゃいけないと思って乱花の口は回るが、そう思えば思うほどに何を言っていいか分からない。
考えてみれば、彼女は単に桜さんの気の毒なエピソードを聞いたに過ぎない。マスクだとか言っていたのがまさかガスマスクだとは思わなかったけど、だから何だという話である。向こうからしてみれば、こちらは何の用もない無関係の小娘一人なのである。
怒られる?そんな疑問が頭を過った。
見れば桜さんはゆさゆさと先ほどより遥かに激しく揺すっていた。
やっぱり怒られるのかな!?と身を引いた時、またまた彼女は、桜さんが自分の荷物から何かを引っ張り出そうとしているのだということに気が付いた。
厚着だから、いちいち行動が仰々しくなっているのだ。
少し待つと、彼は荷物に括りつけられていた何かを引っこ抜いて、それを自分の前に置いた。
それは、小さな行商台だった。
「さくら……餅?」
和紙の張り紙が一枚、張り付いている。『さくら餅』と、達筆である。あの巨人のような手でどうやって書いたというのであろうか。
行商台の上に次々と商品が並べられる。小さな小包から、小箱、それから仰々しい桐の箱もある。容れ物のサイズごとに、書かれている値段が高くなっていく。
「ええと、これは……商品ということですか?」
桜さんは大きな頭をゆっくりと上下させた。
「さくら餅……って……」
乱花の頭の中に、朗らかでにやけた美容師の顔が浮かぶ。あの、実に福福とした顔。まるで甘い飴を舐めたかのように——
「あ、あー……」
答え合わせだ。
なるほど、そういうことかー。と、彼女は理解した。
ご機嫌な美容師の顔と、ワクワクしたような「楽しみだね」の意味がこれである。
どうしたのというように屈みこむ桜さんに、乱花は大丈夫ですと苦笑を向ける。
まあ、知らなかったらこのビジュアルでお菓子屋の行商人とは思うまい。
さっきの話を聞いていなければ人攫いか何かだと思って逃げ出してたかも知れないから、幸運だったかも知れない。
見れば、確かに笑顔が漏れ出してしまうような綺麗な桜餅である。
うっすらとした紅色が目に鮮やかで、つやつやとしたモチ米が如何にも美味しそうだ。
しっとりとした桜の葉は、何か塩以外のものにも漬け込んだのか、黒味が強く、米の色との対比がより鮮やかである。
雨の臭いに混じって、すんと桜の良い香りが乱花の鼻孔をくすぐった。
お腹がなりそうになって、そっと自分でお腹をおさえる。それを知ってか知らずか、桜さんはまるで我が子を大事に扱うかのように、鮮やかな春の味覚を優しく優しく、並べて見せるのだ。
「けど、食べちゃうんだな、桜に恋してるのに」
ぽそっとした呟きは、ちゃんと雨に消えるような小声に留めた。
それから、彼女は自分のお財布を覗きこむ。
案内人は儲からない仕事だが、かといって午後の茶菓子を買えないほどに逼迫しているわけではない。
「おっ!良いねぇ~、お嬢も風情ってもんを解するようになったもんだねぇ! 春、雨の日に、桜餅……しかも見ろよほら、こいつぁ桜攫いの桜餅だぜ! いやぁ、良いねぇ、こいつは何せ雨の日にしか出回らないから、好事家の間じゃ最高の土産物、袖の下として大評判だ!」
迅花楼に戻って、従業員にお土産を見せると、彼は案の定のはしゃぎっぷりを見せた。
「なんとなくそんな気がしてたよ。好きだよねぇ、迅龍ってこういうの」
彼女も慣れたものである。
嬉々として色々な角度から桜餅を眺める迅龍は放っておいて、乱花はお茶を淹れる。
手持ちにある一番高いお茶だ。類まれなる本日のおやつを前に、妥協することもあるまい。
「それにしてもよく桜さんのことを知ってたな。流石に龍天街の案内稼業も板についてきたか」
「まあ、慣れたって言えば慣れたのかなぁ」
「染まったと言えば染まったのかもな」
「名物と伝説がはいて捨てるくらいにあることはよく分かってきたよ」
「うむ、名物と伝説は多ければ多い方が良いからな」
そうだろうか。
それは分からないけれど、美味しいお菓子が多いこと自体は、乱花も賛成だ。
少し渋めのお茶を淹れると、ちゃぶ台の上の桜餅の隣に並べる。
桜色とお茶の緑もまた、若い桜の木のようで良いアクセントである。
「春に呪われた男も、なかなか粋なものをつくるよな」
桜餅を口に運ぼうとして、大きく口を開いた時に、彼女の手はぴたりと止まった。
「……呪われた男? 恋した男じゃないの?」
「ん? ああ、同じこったろ?」
言いながら、迅龍は桜餅を旨そうに頬張った。
顔は綻び、春爛漫といった朗らかな表情が浮かぶ。幸せが口の中から溢れて、堪えられないようだ。
体の半分以上が機械で出来ているという機人は感情に乏しく表情も薄い傾向があると一般的に言われているが、乱花は完全に嘘だと思っている。
迅龍の口から次の言葉が出るまで、彼がお茶を一口飲み干すのを待たなければならなかった。
「……ふぅ、ああはいはい、何せアイツは虚桜の枝を折った奴だからな」
「枝を……折った?」
「ていうかやっぱり実在するんだ、虚桜」と言うと秘密だぞと迅龍はそっと人差し指を立てた。
その場所を知っているのは、この街の中でもとりわけの大物だけなのだという。
「まあ昔はそうでもなかった。だからアイツは虚桜を見ることが出来たし、その結果一目惚れした。いやー、惚れに惚れたんだ。もうそりゃべた惚れ、好きで好きでたまらない、恋しくて恋しくてたまらない。だから独り占めにしたい」
けどそれは無理な相談だ。
美しい桜は誰の物でもなかった。
敢えていうなら土地の持ち主のものだが、それは桜さんじゃない。みんなの愛する桜を奪うことは出来ない。しかし、この美しい、いや美しすぎる春の風景を、誰も知らない虚ろな場所に閉じ込めておくなど、とてもとても彼には許せない。
「まあ、厄介オタクみてぇな奴だからさ」
「卑近な例だなぁ……」
だから、ある日、桜さんは虚桜の枝を一本、拝借することに決めたのだ。
そしてそれを接ぎ木して、虚桜を増やそうと考えた。
「ふ、増やすんだ……」
「まあ、気に入った植物を増やそうとするのは別に罪ではあるめぇ。品種改良したのうさくぶつってわけでもないだろうしな」
「そりゃまあそうだけど」
自宅に一本、虚桜。そんなつもりだったのだろうか。
「まあ、虚桜は誰のものでもないし、アイツが誰よりも桜に敬意を払っていたことはみんなが知ってたしな」
なにせ、桜の世話を一番買って出たのが彼なのだ。
だから街のお偉方も、枝の一本には口出ししなかった。当人だってちゃんと申請して、枝ぶりの悪い、余計な一本を丁寧に切り落としてから持ち帰ったのだ。
それで、この街のやはり何処かにあるという桜園で虚桜を再現しようという研究が推し進められているらしい。
「愛する人を想うがあまりに、“いっそ攫っていちから理想の相手を育ててやろう”と考えたわけだな」
だから、その別称として桜攫いとも呼ばれている、ということなのである。
「なんかちょっとキモいね」
「おお……そういうとの単刀直入だよな、お嬢って」
いやまあと珍しく気まずそうに迅龍は首を振る。
「男女に例えたからアレだが、やってることは変なことじゃねぇさ。桜が好きで、この辺りに生えない珍しい桜の木の繁殖を目指してるってわけだからな」
ただ、彼の猛烈な恋心は世が知ることであり、そういう目線で見たときに、その様のあまりのプレイボーイっぷり、というか俺様恋愛っぷりに周囲が苦笑してつけたあだ名なのだという。
ところが、桜源氏は覿面、春から嫌われてしまった。
ご存知の通り、ひどい花粉症になってしまったのだ。
「だから、春に呪われた男ってわけ。春が好きすぎて一本しかない虚桜を増やそうとその枝を切り落とした。そしたらどうだ? 二度と花見が出来ない身体になっちまった」
まあ、あの男なら別に気にせず、ガスマスクをつけたまま花見をするだろうがな、と迅龍は腕を組む。
「ただ奇妙なのはさ——」
どうしても彼の花粉症は治らないらしい。如何なる最新医療を用いようとやっぱり身体は反応してしまう。
中には「彼は花粉に反応しているんじゃなくて、春に反応しているんじゃないか。春への恋心が熱くなりすぎて、その身を焼いているのではなかろうか」などと真面目に論じるものもいるという。
ということで彼を苛む病は“呪い”と言う他なく。多くの者はそれを虚桜の呪いだと噂しているのだという。
これを「桜の嫉妬」と断じてむしろ嬉々としているのは当人ばかりだ。
それ故、益々、虚桜の神秘性は上がり、みな敬意を払う。そうすると桜を傷つけようなんてものが出てこないわけだから、桜攫いもそこには文句が無く何も言わない。
「それで生まれたのが、この恋と呪いの噂話と、それからこの滅法旨い桜餅なのさ」
気が付けば迅龍はすでに二個目を旨そうに噛みしめていた。
しかし、その話を聞く限り、それは——
「この桜の葉って……」
「虚桜の葉、ってことになんのかね、一応。もちろん、それを接ぎ木した桜の葉ってことだが、なにせ仙人が齎したと言われる神木の葉だ、そりゃぁ薫り高いのも頷けるってわけだな」
それは桜攫いを呪いに追い込んだ桜のものである、ということでもある。
春を愛するあまりに、愛しすぎた男の愛情のお裾分け。同時に、その愛情と呪いのマリアージュとなったお菓子である。
結構歪んでる。
乱花の手がぴたりと止まって、そのつやつやした餅を睨みつけた。
これ、本当に食べても大丈夫なのだろうか。
それを見越したように、迅龍はにやにや笑いを顔に浮かべた。
「怖いか?」
「……まあ、ちょっとはね」
「呪われるかもって?」
乱花は小さく頷く。
「さあてな、まあこいつを好んで食う奴なんて幾らでもいるからさ、虚桜もいちいちそれを呪ったりはしないと思うぜ」
それにな、と迅龍は熱い茶を啜りながら言った。
「こいつはとにかくたまらん旨さだぜ、そいつだけは間違いない」
それじゃ、仕方ない。と、乱花は思った。
なむさん、と勢いづけると、桜餅を口の中に放り込む。
柔らかな餅米の感触に、優しい餡子の甘さがしっとりと絡みつく。そして嚙むたびにシャシャクと桜の葉が歯切れよく、そのたびに、胸の奥がきゅーっとなるような恋焦がれそうなあの春の香りが口いっぱいに広がるのである。
「春だな」と迅龍がいった。
「春なの」と乱花は返した。




