2、酒八仙-2
「この街はあちこち広いが、それ故、飲む場所も多い。酒場ならそうだな、偽川床に天上世界、それから路地底も風情があって捨てがたい。酒を持ち寄るなら春は虚桜で酒が進むし、夏なら風鈴洞の軒先が酔い。秋は祭りの賑わいを肴にするも酔いし、冬場ならなにしろ極楽浄土の三途の川なぞこれが通好みで実に酔い酔い」
乱花を伴った酔漢の歩みは、酔ってふらふら、あちらへふらり、こちらへふらりと風の向くまま気の向くままだった。
それでもまるで歩みの遅さを感じさせないどころか、ひょっとしたら乱花の歩みよりもスイスイ進んでいるように思わされるのがまた不可思議である。
酔漢はこれを「飲兵衛秘伝の真・千鳥足でござる」と嘯いたが、存外、その歩法の奇妙奇天烈さは名に恥じぬものかもしれない。
「だがね」と相も変らぬ饒舌さと共に、酔漢は両手を広げる。
「やはりその真骨頂と言えば此処、深酒市場に他なるまいさ」
酔漢は辺りにずらりと並んだ飲み屋街を実に愛おしそうに眺めた。
彼にとっては宝物の山に見えるのだろう。
深酒市場のことは、乱花も知らぬではなかった。
ずらり並んだ、酒場、居酒屋、バー、サルーン、小料理屋、何せ飲むことと酔うことに関しては生涯困らぬという、街でも一際異彩を放った飲み屋通りだ。ふらりと足を運べば深酒せずには帰れぬというからこの名がついたが、より有名なあだ名には「黄昏人食い通り」というものもある。夕刻、この地に足を踏み入れたものは決して帰らぬ、とまあ、そういうわけだ。
通りの入り口で船をこいでいる鶏の像は、この地のモットー、「朝に帰れず昼帰る」を象徴したものだ。
とはいえ、乱花が日頃からお世話になるような場所ではない。
辺りはさっきの酒場を何十倍も集めて濃縮したとばかりの酒の香がむんむん溢れ、酔っ払いの嬌声と賑やかな笑い声が道の隅々にまで満ち満ちている。彼女ではちょっと足を踏み入れただけで、雰囲気に酔ってくらくらしてしまいそうである。
恐らく、この酔漢お大尽にとってはここがホームなのだろう。どこへやら、店へ連れていくつもりなのか、と彼女は推理した。酔漢が居酒屋の中に吸い込まれていくと、なるほどここが終点らしいと納得する。だが、その予想は敢え無くはずれた。
酔漢は賑やかな店内を奥へとずいずい進むと業務用と思わしき扉を平気で開けてひょいと飛び込んだ。
「えっ、えっ!?そ、そこって通っちゃって良いんですか!?」
「なぁに、この先は素面ではたどり着けぬ道でな。酔狂なりし酔っ払いの夢想夢遊の歩みでしかたどり着けぬ場所、常識と良識は棚に上げ、ここは酔漢の本能を信じて欲しい」
バックヤードに踏み込んだかと思えば、どうやらその先にも扉がある。酔漢はそこも迷いなく開けていく。かと思えば、どこぞの店の非常階段をのぼり、そのまま、また別の店に入り込む。驚くべきは、その姿を誰も咎めぬことだ。こんな無茶苦茶の道程を、むしろ、それが当たり前とばかりに笑顔で受け入れるのだ。
「ははは、なるほど、飲兵衛相手ならばこの辺りで梯子酒、というのも悪くない。しかし、そこはそれ、お嬢ちゃんは素面だ。素面相手に、飲兵衛の理で場所を選ぶのは芸が無い。飲兵衛ならざるものにも至極の一杯を、究極の一席を用意する、そいつが幹事の腕の見せ所、というわけでな」
要するに、当たり障りのない誰でも思いつくところは嫌なのだ、とそういうことらしい。いつの間に幹事になったか知らないが、酔漢はすっかり張り切ってしまっている。
すいすいと店の中を通り抜け、ビルの隙間をくぐり、階段をのぼり、降り、またのぼったところで今度はぐるりと反対方向に歩きだす。乱花にはもう、自分がどこをどう歩いたのか、進んでいるのか戻っているのか、のぼっているのか降りているのか、まるで見当がつかなくなっていた。
いつの間にやら木目の廊下を歩いている時に、ふと彼女は障子窓の外に目を向け、どうやら自分が何やら楼閣の中にいることに気づいて驚いた。下の方に先ほどまでいた深酒市場が見える。
辺りの雰囲気も随分と変わっていた。ずらりずらりと古風な襖が並び、和風の建物もうんと古いものに見える。変わらぬのは襖の向こうから聞こえる、酔っ払いたちの朗らかな笑い声である。
そのうち一つの襖が急にがらりと空いた。酔漢と乱花の前を横切るようにして一人のエルフがひょいと顔を出す。どうやら酔漢の知り合いらしく、彼に気づくと和やかな笑みを浮かべた。
「おや、お久しぶりですな旦那さん、今宵も宴会へ?」
「いや、それも酔いが今日はもうちょっと奥に用があってな」
「それはそれは。まあ今日は月が見えなくなるまでここで呑んでおりますから、何かあればお声がけくださいな」
そういうとエルフはふらりと廊下の奥へと消えた。エルフの開けた襖の間からわっと笑い声が飛び出したので、ついつい好奇心に駆られ、乱花はその中を覗き込んだ。
それは、何十、いや何百畳もあるだろう、畳敷きの広い広い大広間だった。広いのなんのって、奥の壁がよく見えないくらいである。いや、ひょっとしたらあれも襖で、その奥にまた広間が続くのやもしれない。
広間の中にはずらずらずらりとお膳と椅子が並び、あちこちに酒瓶が転がり、そして数えきれないほどの酔っ払いがわいわいガヤガヤと好き勝手をやっていた。
乱花はこれほど大勢の人が一堂に会して酒盛りしている姿を見るのは初めてだった。いや、彼女の常識に照らし合わせて、今後もあるとは知れない。
「見たかい、知ったかい、凄いもんだろう。ここはね、無限の宴会場、人呼んで『桃源郷』さ」
「む、無限の宴会場?」
「左様、この宴会場は常にいつでも何時でも宴会が行われている。別段、どこぞの団体が使っているというわけではない。ここにきて、この座敷にあがったものが即ち全て、宴会の参加者になるのだ」
そう言って酔漢は二人の近くでガラリと開いた襖を指さした。リザードマンの女性がふらりと中に入ってくると、そのまま当たり前のように座席のひとつに収まった。すると、まるで長年の付き合いの旧友が訪れたかのように、辺りの酔っ払いは諸手をあげて彼女を歓迎し、そのお猪口に酒を注ぐのだった。
「アレも別段、知り合いではない。彼らはこの座敷にあがった時点で、酒の縁で結ばれた同志となるのだ。そして気の向くまま、気の済むまで、ここで縁もゆかりもなかった人々と一緒に宴会に興じ続けるのさ」
かんらかんらと笑う酔漢は、何故だか妙に誇らしげである。
「笑うモノノケ、大鯨などもう何年もこの座敷から出てこないというのだから大したものだ」
「実在したんだ……大鯨さん」
「おいおい、酔八仙まで酒の席の冗談と思ってたのかい?酔っ払いの戯言にこそ真理が宿ることもあるのだよ。何せ誇るといい、この『桃源郷』に素面で訪れたのは有史以来、お嬢ちゃんがはじめてだ」
「そう……それは、その、そんなに嬉しくないかも……」
「何、これから行く部屋はもっと珍かでもっと酔いぞ」
そう言うと、酔漢はまたぶらりと廊下の奥へと歩み始めた。まだ続くのかと乱花は少々、気疲れしたが、幸いにも道行はあとほんの少しであった。
襖をあけて座敷に入った時の乱花の感想は「さかさまだ!」だった。
襖をあけて座敷に入った時の酔漢の感想は「あべこべだろう?」だった。
それは、さかさまであべこべの部屋だった。
上から生えた行燈があたりを照らし、床の間は天井に張り付き、美しい生け花もやっぱり下に向かって突き出している。逆に、床は天井そのものといった板張りで、その真ん中にちょこんと畳が敷かれて椅子と机が置いてある。大きく開かれた窓の外には、上から覆いかぶさるように露台が伸びている。ちょっとばかし身を乗り出せば、自分の頭の下に逆さまの瓦屋根が見えた。
「こいつぁ、あべこべの座敷さ」
振り返ると、着物を着た女性が机の上に二人分の酒を並べていた。酔漢は椅子に腰かけながらにこにことそれを見つめている。
「飲兵衛の見ている世界を表した部屋なのさ。即ちあべこべ、みんなひっくり返って、当たり前の物など何もない。そうら、外もよく見てごらん」
そう言われて目を凝らすと、宵闇の中にきらきら輝く街並みが見える。恐らく、深酒市場の辺りだろう。
そこで乱花は気がついた。窓から本当の空を見ようとすると、突き出した露台のせいで何も見えない。だから下を見下ろすと、深酒市場の煌めきが見えるという作りだ。
即ちこれ、あべこべの夜空なのだ。
夜の星空が、己より下、地の上をはっているのだ。
「どうだい、中々、乙だろう?ここには酔っ払いの真理が隠れている」
「酔っ払いの真理?」
「物の見方など如何様にもぐるぐるりと変わるということさ。それもたかだか酒の一杯でね。我ら酔っ払いは日々、常ならぬ物の見方をして生きている。斜に構えたりひっくり返したり、とかくあちらこちらと視点が揺れ動く」
「酔ってるからね」
「そうだ、酔ってるからだ。即ち我ら酔っ払い、ホモ・デュオニソスは常識や当たり前に囚われぬ、混沌の世界を見通すことこそが使命なのだ。この部屋はその理念を忘れるなと言っているのさ。あべこべに宿る真実もあり、混沌の中で輝く理性もある」
ふと乱花は、滔々と語る酔漢の姿が、奇妙なほどにはっきりと理性的に見えた。まるで何も変じゃない。まるで何もおかしくない。どこに出しても恥ずかしくない立派な紳士で哲学者のように思える。
それは、このあべこべの部屋で見ているからかもしれない。
「とかく最近の酒は何もかも胡乱にするところで持て囃されたりするだろう? 薄ぼんやりとした幕の中に包みこんでもらいたいという、そういう飲み方だが……ワシはあんまり好きじゃない」
「どうしてですか?」
乱花は酔漢の前の椅子に座る。いつの間にか、彼の話に惹きこまれていた。
「なるほど、祭りや宴会の一幕など、遥かに長い日常の中では例外の範疇やもしれぬ。だが、日常が正しくて酒盛りの時間が道を外れているなど、誰が決めたね?さっきの宴会場を見たろう? 酒の勢いで紡がれる縁もある。そしてそいつは、酒が覚めたところで消えやしない。それもまた、真実なのだよ。だのに、何もかも忘れて眠る為に呑むなど実に勿体ない。逆よ、逆。我らは酒を呑み、酔っ払い、ぼんやりすることで“はっきり”するのだ。その時、初めて我らは目覚め、羽ばたき、正しき世の見方を知るのよ」
酔漢の言うことは、正直、ほとんど乱花には理解できなかった。それが難解だからか、それとも酔っ払いの詭弁だからなのかもよく分からない。
ただ次の言葉は、なんとなく理解が出来た。
「だからね、我らの酒の席は、昨日と違う自分になるために呑むのだ。明日、新たな自分として生きる為に呑むのだ。死ぬためでも忘れるためでも逃げるためでもない。飲酒とは創造で、宴席は世界の拡張なのさ」
酔漢はコップに注がれた無色透明の酒をぐびぐびと飲みほした。するとそれを見越したかのように襖が音も無く開くと、先ほどの女性が入ってきてそのコップを満たした。
乱花は自分の席に置かれた一杯の酒に目を落とした。
カクテルだ。小さくて小奇麗なグラスの中できらきらと光っている。深い、夜色のカクテルだが、上から見ると何かフルーツの刻んだものが入っており、更にその中に金箔か何かが練り込まれているのか、光が反射してちらちらと煌めいている。
たった今、これとそっくりなものを見たばかりである。彼女は、窓の外へと目を向ける。
「それはな、この街の、龍天街の名を冠したカクテルだ。かつて酒八仙がまだ全員、酒豪の会のメンバーだったころに、実に酔っぱらうに酔いこの街への愛情を示すために外国の一流のバーテンダーを連れてきて作らせた一杯だ。だが、とかく作るのは難儀した」
「どうして?」
「酒は雰囲気で旨くなる。だからこの街のどこで呑めば一番旨いか、ということで八仙が揉めに揉めたのだ。仕方なく、みな、バーテンダーをそれぞれのお気に入りの場所に片っ端から連れ歩き、やれここをイメージしろだの、やれここで呑むと最高に旨い一杯にしろだの、注文に注文を重ねた」
その結果、バーテンダーが突き出してきたのがそれだと、酔漢は夜空のカクテルを指さした。
「その心はと八仙は問うた。するとバーテンダーはこう答えた」
「何て言ったの?」
「この街じゃ、どこで呑んだって同じですよ——ってな」
かんらかんらと、酔漢は豪快に笑った。
「さあて、どういう意味での答えだったやら。とにかく、以来そいつがこの街の名を冠したカクテルとして、ひっそりと受け継がれたのよ」
乱花は、黒い酒を見下ろした。夜空であり、夜空でない酒。宵闇に染まる、この街そのものを一杯に閉じ込めてしまった、とってもスケールが大きなお酒。
彼女はそっとそいつに口づけをした。
なるほど、その味わいは、延々連れまわされて焦らしに焦らして出された一杯としては、相応しいものだろう。
支払いをすると言って先に座敷から出てしまった酔漢を追いかけようとして、ふと乱花は好奇心に駆られた。酔漢の吞んでいた無色透明の酒がまだいくらか、コップに余っていたのだ。あれほど持論を述べる飲兵衛が嗜む酒とはいか程のものなのか。彼女でなくても、興味がそそられるものである。
そっとコップに鼻を近づけ、匂いを嗅いでみる。
すると。
想像していたような酒の良い香りはまるでしない。色と同じく、無色透明、無臭極まり。
いや、微かに香るこの匂いは——水、水である。
「これって……でも……」
まじまじとコップを眺めている乱花に、おうい、という声が飛んできた。「送っていくから、一緒に出よう」と、酔漢の声が聞こえる。
再び、中を覗き込んでから乱花はコップを置いた。
これはきっと、水なのであろう。
ならばこれは。
これは、粋で陽気で、そしてちょっと面倒くさい酒の神のお導きなのである。
彼女はただただそのことに、内緒ながらも、感謝した。