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2、酒八仙-1

 (じん)(りゅう)と、喧嘩した。

 (らん)()が迅花楼を飛び出したのはそれが理由だった。


 原因は些細なものだった。わざわざ語るようなものでもない。語ったところで、納得するようなものでもない。

 それなのに大いに言い争って、キツイ言葉も飛び出して、最後には飛び出してしまった。

 きっと、お互いに虫の居所が悪かったのだろう。それとも積もり積もった物があったのかもしれかもしれない。

 ようするに、間が悪かったのだ。

 だが、沸き上がってしまった怒りをそのまま飲み込むことは出来ない。だから彼女には、乱花には、むしゃくしゃした気持ちを静めるために、龍天街の夜空の下をあてもなく歩き出さなければならなかった。その時間が彼女にも必要だったのだ。

 彼女がふらりと普段使わない路地を曲がったのも、ひとえにそのどこか投げやりなイライラによるものだったのだろう。なんとなく、どうにでもなれと思っていると、人は普段やらないこともしてしまうものである。

 しかし、その出会いはひとえに彼女のツキがもたらしたものだった。


 そこは薄暗い路地だった。人の気配が途絶えるわけではないが、賑わいのざわめきは遠く、壁の向こう側に覆い隠されている。乱花は、一人の男が地べたに直接座り込んで、壁にもたれていることに気が付いた。

 山羊のような角を生やしスーツに身を包んだ、髭面で壮年の獣人だった。その視線は、じっと地面の水たまりに注がれ、手の盃をちびちび傾けていた。黒い水たまりの中には空から落ちた月が小さく映り込んでいた。それを肴に、男はまた盃を口元に運ぶ。

 一瞬、乱花はとんでもなく高貴な誰かが、夜に溶け込んでいるように見えた。見たこともない貴人、あったこともない上品な偉人。

 けれどすぐに思い直した。男のスーツはヨレヨレだし、顔も赤く、よくよく見れば単なる酔漢で間違いなさそうである。貴人というより奇人だし、偉人というより異人である。

 こういった手合いはこの辺りじゃ珍しくはない。関わるべき相手でもないから、そっと目を逸らし、路地の先を目指した。

 だが思いがけぬほどにひょいと「なあお嬢さん」と声が飛んだ。

 乱花が視線を奪われたのは、その声があまりにも柔らかで落ち着いていて、小奇麗なものだったからだ。よく聞く酔っぱらいの投げやりなそれとは違う。ガラガラ声じゃないし、曖昧な呂律でもない。

 乱花は優しく成熟した学校の先生、それかどこかの教会に務める老神父のようだと思った。

 実際にそんな人にあったことはないのだが。

 見れば、柔らかなにやけ顔が彼女を見返していた。

「少し、人助けをしてはくれんか。ちとこの店の中に入って欲しいのだ。中の連中と賭けをしていてね」

 酔漢は自分のもたれた壁の向こうをぽんぽんと示した。それで初めて、乱花はどうやらそこが飲み屋の裏手らしいことを知った。

「次に店に入ってくるのが男か、女か、で賭けている。負けた方が、店の連中に一杯を奢るのさ」

「……えーと、貴方は女に賭けたってことですか?」

 訊ねると、男は心外だとばかりの呻き声をあげ、眉をしかめた。

「違うよ、違う違う、ワシは当然、『男』に賭けたさ」

 ぽかん、と乱花は口を開いてしまった。

 妙なことを言う酔っ払いだ。いや、酔っ払いは妙なことを言うものだが、それにしては筋の通った妙なことを言う。

「それじゃ、私が入ったら負けちゃうんじゃないの?」

 わかっとらんなぁ、と酔漢は肩をすくめた。「ワシはね、負けたいの、奢りたいのよ」

 今度こそ、乱花はいよいよ呆れてしまった。というか、あまりの戯言にいよいよその男の正気を訝しんでいた。

「まあ、待て待て、待ってほしい。なるほど、奇妙に感じるやもしれんが、こっちも飲兵衛。素面にはお戯れにしか見えなくとも、飲兵衛には飲兵衛の理があるものだ」

 男は実に饒舌でぺらぺらと舌が回る。

 だがそれがあまりにもはっきりとして明瞭なので、そういうところはむしろ酔っ払いらしくないと、乱花はますます訝しんだ。

「な? ワシはな、奢りたい、奢りたいわけなんだが、ただ奢るではつまらない。ワシもつまらないし、奢られた方もなんだかみみっちくてよろしくない。そこでワシは用足しといってこっそり出てきて、人が来るのを待ってたのだが、そろそろ時間稼ぎも限界だ。便器の前で大往生してると取られても致し方ないが、ドアを蹴破られたら大変だ。ああ、人情深い奴らなんだよ彼らはね。なあ、だから頼むよ、もちろん君にも一杯奢らせてもらうからさ」

 そういわれても、今、乱花はそんな気分ではない。イライラとモヤモヤがお腹の中にたまりにたまって、とてもお酒なんて喉を通ってくれそうもない。

 だが、断ろうとした彼女の姿を見て何を勘違いしたのか押しの強い酔漢は「おお、やってくれるか大明神! 酔い行いだ、助かるぞ!」と勝手な声を張り上げた。

「えっ、いや……」

 乱花が訂正しようとするより早く、酔漢は立ち上がると自分の頭より高いところにある小さな窓によっと手をかけた。便所の窓らしい。

「それじゃ、中で待っているよ。表から入ってくれ給え、頼むぞ、きっとだぞ」

 そう言うと酔漢は返事も聞かず、器用にもにょろりとその身体を小窓の中に押し込んでしまった。

 意外にも身が軽い。ひとり残された乱花には、こんな風に、一方的に結ばれた約束はどう断ればいいのとんと検討がつかず、途方に暮れるほかなかった。


 店は、隠れ家的な酒場、といった感じだった。

 薄暗い店内は思いのほか人気に溢れている。あちらこちらで、良い気分に酔っぱらった酔漢たちが、喧々諤々と持論をぶつけあったり笑いあったり何かを盛んに批判したり得体のしれない夢を語り合ったりと至極賑やかである。

 だが、乱花が酒場のドアをきぃと開いて入ってくると、その視線が一身に集まった。

 一瞬で彼女は酒場に入ったことを後悔した。こういう視線には、慣れていないし、一番苦手とするものでもある。

 途端、ぱっと店内がより賑やかに弾けた。


「やあやあ、女の子だぜ!」

「ほうらみろ、俺様の推理通りだ!」

「何を言う、オイラの日頃の行いよ!」

「有難う御座います、酒の神様!祈った甲斐があるというもの!」

「お見事お見事、こんな店に女性一人でとは大したものだ!」

「お嬢ちゃん、よく来てくれた!」

「賭けはこっちの勝ちってことかな?」

「旦那の負けさ!おおい、みんな、旦那が一杯奢ってくれるってよ!」

「アンタはサイコー!」

「今宵は良い日だ!」


 嵐のような喧噪の中を、台風の眼のようにのんびりとした顔で奥からさっきの酔漢が戻ってきた。歩く度に、そこら中の席からばしばしと肩を叩かれているが、一種それはスーパースターが花道を通っているようでもあり、どうにも楽しそうである。

 酔漢は自分の座っていたらしい円卓に向かうと、ひょいと木製の椅子の上に立ち上がった。

 年季の入った舞台役者のようなスマートさで、当たりをぐるりと見回すと、えへんと喉を鳴らす。

「どうやら今宵の賭けに関しては大変不本意ながらワシの負けらしい。良かろう、酔い夜だ! マスター!この店の全員に、なんでも好きな一杯を!」

 わぁっと辺りが歓声に包まれた。思わず、乱花が両耳を覆うほどだった。

 だが、それほど怖い感じがしなかったのは、あまりに皆がにこにこと笑っていたからかもしれない。もう乱花に対して注目はしていないようで、「高い酒、高い酒!」「一番高いのはどれだ!」「待て待て一番たくさん入ってるのを選ぶのも一つの手だぞ!」などと、皆、意気揚々とメニューにかじりついている。

 だがとりわけにこにこしていたのは、先ほどの酔漢だった。彼は喜色満面で乱花を自分の席に手招きした

「どうだい、酔いだろう、この街の酔っ払いどもは。実に楽しい宴だ。これほどに乱れ、遊び、愉快に楽しんでくれるというのなら、奢る甲斐もあるというものじゃなかろうかね」

 周りには聞こえないように、少し落とした声で酔漢は囁いた。

 確かに誰もが楽しそうだし、何より酔漢のうきうきが伝わってくるので、乱花も存外、悪くない気分だった。この男も外で見たときに一瞬感じた通り、実際のところは気の良いお大尽なのかもしれない。

「おおっと勿論、君にも一杯奢る約束だったね。頼んでおいたよ」

 思い出したように酔漢はパンパンと手を叩くと、近づいてきたウェイターが乱花の前に暖かいミルクをひとつ置いた。

 意外な一品を見つめていると、酔漢はすぐに言いたいことを察したようだ。

「いや侮るな。君が未成年だと勘ぐっているわけじゃない。たしかに見たところ——」

 酔漢は一度言葉を切ると乱花を上から下までちらっと一瞥した。

 アンヘルという種族は他の種族より年少に見られることが多い。いつまでも子供っぽいのだ。

「たしかに若そうに見えるが、無論斯様な場に未成年を連れ込むほどに落ちぶれてはいない。ワシの眼に狂いはない。この通り見ての通りに酔っ払いだが、見た目によらず理知的な紳士でもあるのさ。これは単にね、飲む気のない少女を酔わせて帰そうなどとおう酒飲みの端くれにも置けぬ愚行を避けたまでよ。素面には素面の対応を。無理の誘いの一杯は、このくらいがちょうど酔いかと思ってね」

 それに、と男は続けた。

「こんな時間の慣れぬ夜遊びの様子なら、なに、暖かな牛乳こそが必要な甘露かもしれぬだろう?」

 見れば、酔漢は酔っ払いとは思えぬほどの慈しみを含んだ瞳で乱花を見ていた。ぺらぺらと落ち着きなく回る呂律とあわせて、やはり本当に酔っているのかと疑わしくなる。

 だが、運ばれてきたジョッキを思い切り喉を鳴らしてごくごく飲み始めたので、やはり酔っているのだろう。はじめはビールかと思ったが、中は無色透明なので、日本酒かなにからしい。それをジョッキでごくごく飲むのだから、とんだウワバミである。

 乱花も、男にならって温かいミルクを口にした。思いのほか、優しい味がした。

「……どうかな」

 ミルクの温かさにほだされたのだろうか。彼女の意図に反して言うつもりのなかった言葉までもがこぼれおちた。

「酔った方が、よかったかも」

 そうしたら、夜の街を歩き回って尖った心を静めることも必要ないかもしれないから。イライラも、ムカムカ、許せないことも、そして何より喧嘩してしまった自分への嫌悪感も、全て酔って曖昧に忘れて流してしまえば、いつもの通りの彼女になって、元の場所へ戻れたかもしれない。

 ふぅむ、と賢者の嘆きのような溜息が酔漢から漏れた。

「どうやら訳あり。良ければ話を聞こうか」

 乱花は躊躇した。

 だが、男はどんと胸を打つ。

「遠慮はいらんよ、ワシは天下の酔っ払い。酒の席となればうじうじを排し、愉快痛快極まりない宴席を求めるものだ。酒を吐くのは禁忌なれども、喉のつかえはとかく吐くに限るもの。まして目の前に斯様に悪酔い求める者がいるなら、ちいとばかしはウコンを利かせて、いや気を利かしてやるのが宵の口の作法というもの——違うかね?」

 乱花はそうだ、とも、違う、とも思わなかった。

 けれど、なんとなくその場の空気に任せて、大いにその通りである。と、そんな気持ちになっていた。

 だから彼女はぽつり、ぽつりと、今日あったことを酔漢に話始めた。


 全ての話を聞き終えると、酔漢はまた、ふぅむとため息のような声を漏らした。

「なるほどな、怒り、憤り、不服、不満、それら酒に流したくなる気持ちもよくよくわかる、よくわかる」

 しかし、しかしだ。と男は乱雑に生やした髭をじょりじょりと撫でながら声を高くした。

「これからの夜を前にそのような心構えでいるとは実に勿体ない。ああ、勿体ない。ほんとに勿体ないことだなぁ」

 その本当に心の底から痛恨である、というような痛々しい声に、乱花はきょとんとする。

「これからの夜?」

「おや、案内人殿は知らないのかね?」

「……半人前の案内人なもので……」

「ふむ、左様、これからこの街の夜は少々賑やかになり、益々楽しいことになるのだ。何せそら、かの酒八仙の同窓会が控えているのだ」

「さ、酒八仙?」

 またまた、聞きなれない言葉が飛び出た。しかし、その言葉が出た途端に、急に辺りの酔っ払いたちが「そうだそうだ!」「祭りよ祭り!」「酒八仙に乾杯!」「毎月同窓会してくれ!」「毎日でも構わんぞ!」などと騒ぎ出すから、ここらでは周知のものらしい。

「おっと、お若いお嬢さんが知らぬのも仕方あるまいか。ここに集まるは同好の士、『酒豪の会』と呼ばれるもの。記念日、お祝い、何はなくても酒を飲み、酒に溺れ、酒と共に生きることを志す、いうなれば酒に人生を捧げた、誇り高き飲兵衛たちの集まりよ」

「それはそれは、肝臓を労わった方が良いと思うけど」

 痛い正論をさらりと指で払いのけると、酔漢はジョッキを高く掲げた。声はいよいよ高くなる。まるで講談師か何かのようだ。

「さてその酒豪の会にも一際秀でた英傑なる8人がいた。今や一線を退けど、なおも変わらぬ飲酒量、その呑んだ酒の銘柄を並べれば一つの歴史を形作ると言われる歴戦の酔っ払い、そいつが酒八仙というわけだ。酔っ払い、生き急ぎ、大馬鹿野郎!」

 伸びやかな声で謳い上げる酔漢に合わせて、あたりからもヤジが飛ぶ。

「裏社会の酒の元締め!筆頭といえば酒呑導師!」

 調子が益々ついてきたのか、ぱんっ!と酔漢は膝をうつ。その舌はぺらぺら回るばかりか、その喉は朗々としていて、思いがけぬほどの美声でもある。言葉はリズムに乗り、合いの手もより盛り上がる。


「それから次いで酔虎老君、酔龍大人、酔狂老人、蟒蛇上人、忘れちゃいけない笑うモノノケ、大鯨!」

「いずれ劣らぬ大人物!」

「あるいは困った酔っ払い!」

「匙を投げたる医者を憐れめ!」

「たまにゃ労われ我が身と財布!」

「教育に悪いことこの上なし!」

「程ほどにしろ程ほどに!」


 辺りも調子をあわてて、ぱんぱん手を打ち、だんだん足を踏む。

「それから酒造り、山猫の大旦那、こいつにゃ誰も頭があがらぬ正しく命の泉の管理人。だが中々どうして、最後のひとりも負けちゃいない。筆頭、酒呑導師に負けず劣らじの怪人物、酒豪の会の初代会長、この街の最も古き飲兵衛の主、その名をずばり——」

 男はそこで一拍子ためてこう言った。

「バッカス=デュオニソス!」

 また、乱花がぽかんとする番だった。

 突然出てきた横文字だ。ひとりだけ浮いていると言っても良い。突然命名規則が変わっている。

 ただ、その名はなんとなしに聞き覚えがあった。飲兵衛の主としての名ではない。たしかそれは。

「いかにもバッカスとは酒の神。こやつは神の名を騙る、神をも畏れぬ大酒豪」

「自称なの?」

 龍天街には色々な人種が交じり合っている。

 例えば器物が100年生きて化けたという”付喪神”など、名前からして神に近しい。

 本当に神話の神のひとりやふたりいないとも限らない土地柄なのだ。

「さてね、他称か自称か定かではない。というより、こやつにおいて定かなことなど何もない。何せ酔漢、酔っ払いを煮詰めて蒸留したような奴だ。他の連中は酒飲みだが、こやつは最早酒そのもの。いやさ、酔いそのものだ。故に素面の時などなく、否、素面の時こそなおのことの酔っぱらい、もはや酒もいらずただ水を飲むばかりでべろべろに酔うという……」

「へぇ……病院にかかった方がいいかも」

 もう手遅れだろうが、神だというならギリギリ間に合うかもしれない。それは乱花なりの優しさだったが、酔漢は酔いに任せて彼女の親切心も分厚い面の皮で防いでみせた。

「とかく酔いというのは酒に限らぬものよ。ただ酔い、ただ喚き合い、宴席に興る、それ自体を愛し、好み、その中で生きるのだ。それは素面たる堅実なコスモスに対する、妖しくもも前後不覚のケイオスの誘惑。そう、混沌、即ち混沌と狂乱にして放蕩と忘却こそが酒の本質にして宴の極致!条理を嫌い、道理を蹴飛ばし、酔っ払いの戯れと戯言で世界をひっくり返す。この世界のもう一面の支配者、それこそがバッカス——バッカスに乾杯!」

 突然、話の中で酔漢はジョッキを天に掲げた。すると辺りの酔っ払いたちもそれに続き「バッカスに乾杯」と声を張り上げる。

「つまりは賢ぶって畏まった世のコスモスをあべこべに笑ってのける。社会秩序はカーニヴァルへ変わり権威は失墜しユーモアが支配する。混沌にて世の明かりをいじりにいじくり照らしなおす、ケイオスの使者、それがバッカス=デュオニソスなのだ。何故にこの街は迷宮じみて複雑怪奇なりや? それはみなが酔うておるから、狂うておるからじゃ! 故にこの街の酔狂じみた混沌のあらゆるにおいて、人はその影を見るという……!」

「ははぁ……それはその、重症なんだ」

 とにかく、そのバッカスなんたらや酒呑なんたらを筆頭に、酒飲み界とかいう珍妙な界隈の大物が一堂に会して年に一度、同窓会をするのだという。

 同窓会といっても、互いに顔を見合わせて「おお、生きてるな」「ああ、生きているものだな」「意外だな」と驚き合うという次第のものであるらしいが、しかしそれだけの偉人が集まるというだけで波紋というものはあるものだ。

 酒八仙に渾身の一杯を飲ませてそのお墨付きを得たい、などと思う酒屋や酒蔵は数知れず。酒八仙を8人全て招待したとなればその評判は未来永劫ということで酒場という酒場はそわそわしっぱなしでろくに夜も眠れぬ次第。

 そして酒八仙が舌鼓をうつような至極の酒ともなれば、そのおこぼれに自分も預かりたいと思う飲兵衛がこれまた多数。

 そうやって関係者が関係者を呼び、ついでに無関係の者も呼ぶ中で、この同窓会の近くは飲み屋街が一層賑やかになる時なのだそうだ。宴会につぐ宴会。飲み会につぐ飲み会。その有様はまるで終わることなき忘年会、エンドレス忘年会の様相を呈するという。

 楽しそうなのか、厄介極まりないのかは見る人次第だ。

 かくいう酔漢も、今宵はこの祭りの時期の下見にこの酒場を訪れたらしい。

「貴方も酔八仙の知り合いなんですか?」と乱花が訊ねると、酔漢は呵々大笑して「いいや、ワシは単なる大酒呑みさ」と笑った。

 しかし、たしかに聞くだけでも実に楽しそうに思える。本当なら乱花も迅龍辺りにこの話を伝えて、ちょっとばかしの冷やかしに観光をしてみたいものだ。

 けれど、喧嘩したばかりの今では、やっぱり気が重い。

 じっと眉を潜める乱花を眺めていた酔漢は、よしと柏手を打った。

「たしかにワシは単なる大酒呑みだが、酒を信奉する飲兵衛の専門家だ。つまり、百薬の長たる酒の服薬に誰よりも長けた一種の医者みたいなものだといえる。その医者として、お嬢ちゃん、アンタの病を治してやろう」

「や、病?」

 乱花は驚いた。自分の身に悪いところなど何もないように思える。

「ああ、癇の虫、という病をな」

「なんだ」と乱花は深く椅子に腰を下ろした。残っていたホットミルクを流し込む。「病気だなんて大袈裟な」

 だが、酔漢は驚くほどに深刻な顔で「いいやそいつは違うぞ」と言った。

「なるほど、癇の虫で人が死ぬことはあるまいさ。人は偉いもので中々死なぬ。ワシら飲兵衛など明日も知れぬ命だが、どっこい生きている。だが、人が死なずとも心は死ぬ。絆は死ぬ。それも案外、容易にな」

 乱花はドキリとした。思いがけぬところから鋭い刃物で心臓を貫かれたように思われた。一瞬、驚くほどに怖い想像が自分の中を駆け抜けるのを感じた。

「それ、ワシの後ろの奥の方に若い男女のアベックがおるだろう」

 言われてさり気なくそちらの方に視線を向けてから、乱花は頷く。勝気そうなショートカットのエルフの女性と、凛々しいが穏やかそうに見える鬼族の男性のカップルだ。

 コップをぶつけ合っている二人は、実に仲が良さそうである。

「あの二人はさっきまで喧嘩をしておってな、まるでお通夜のようで見てられんかったわ」

「えっ」と声が漏れた。今見る限り、そんな気配はまるで感じられない。酔漢はそこで声を低くした。少々、照れくさそうにしている。

「だからワシは一計を案じたわけよ。つまり、連中と賭けをしたのだ。賭けをして、負けようと思ったのだ」

「それってつまり、あの二人に一杯奢りたかったってこと……?」

「ああそうさ。急に奢ると言われれば眉間に皺も寄るだろうが、店中みんなが奢られるなら気兼ねもあるまい。高い酒も安い酒も好きに選んで酔いのだ。そら、楽しい気分にもなってくるのじゃないかい?」

「……じゃ、じゃあ」

 じゃあ、乱花をこうして招き入れたのも、ひいてはあのカップルに酒を奢って、気まずい空気を一変したかったからなのか。ということである。

 粋といえば粋だが、実に酔狂な話である。

「どうしてそんなことをしたんですか?」

 もちろん、乱花だって目の前で誰かが喧嘩していたら止めに入るだろうし、周りの人なら仲が良ければ良い方がいいと思う。

 しかし、全く無関係の酒場のカップルまで射程に入るかと言われればそうじゃない。

 酔漢の返答はこれまでと同じであっさりしたものだった。

「酒は血よりも濃い、というだろう?」

「言わない」

「飲兵衛の絆は深いのさ。たとえ今宵一夜の幻のような付き合いだとしても、その一杯を心地よく味わうために如何なる労も厭わない、飲兵衛とはそういうものなのだ」

 だからお嬢さん、と酔漢は続けた。ちょっとばかしワシの手酌に付き合ってはくれんかの、と。


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