6、猫歩き-4
「お客様は、ホクサイさんを追いかけてこちらに?」
店主にそう問われて、乱花は少しむせそうになった。
「そ、そうですね、すみません……」
なぜ謝ったのかはわからないのだが、なんとなく謝ってしまった。猫を追いかけて店に入ってくるというのも妙な気恥ずかしさがあった。
「いえいえ」
店主は笑うと、内緒話をするかのようにそっと口に手を寄せた。
「実は、うちのお客の大抵はそうなのです」
残念そうに、店主は洗ったティーカップを布で擦る。
「お恥ずかしながら立地も良いものとは言えず、店の中も御覧の通りに本がぎゅうぎゅうとなると……新しいお客様はなかなか足を運びにくいようでして」
来るのは猫ばかり、といったところだろうか。
その中で、たまに新しいお客様を連れてきてくれるのがホクサイさんなのであるそうだ。
「彼の愛嬌は人を呼び寄せるようで。客商売としては見習いたいものですね」
そう言って店主は優しい視線をホクサイさんに向けた。
「この時間はいつもここに?」
「ええ、ネコは人の思う通りに動いてくれませんし浮気性ですが、自分の決めたことは守りますから」
毎日、散歩の中でここに立ち寄り、窓から外を眺めるのが好きなのだそうだ。別に何かを食べたり飲んだりするわけでもない。ただ、あそこの窓際から外を眺めるのだ。
何を見ているのか、何が楽しいのか。それはホクサイさんばかりが知ることである。
しかし、窓から逆に覗き込んだお客が、ドアを叩くことも多い。ああして外を眺めているだけでも招き猫のようなものだと、店主は微笑んだ。
「やっぱりこの街はネコが好きな人が多いんですね」
それはこの店だけではない。自分も含めて、今日一日のしみじみとした感想だった。まあネコ歩きの会は、少々行き過ぎかもしれないけれど。
「さてどうでしょうね。まあ猫は縁起ものですから、客商売の多いこの街では有難がられることも多いでしょうね」
「招き猫協会とか?」
店主はその質問には答えず、曖昧に喉を唸らせた。猫がごろごろ鳴いているみたいだと乱花は思った。このお店の中には招き猫は無いようだった。
「店長さんはどうして猫が好きなんですか? やっぱり縁起物だから?」
「私ですか……実を言うと、特別に猫が好きというわけではないのです。私にとって彼らは、そう、良き隣人のようなものですね」
「良き隣人……」
一日の間に二度もその言葉を聞くことがあるとは思わなかった。ネコバヤシのにやにやとした顔が浮かんでくる。
「はい。自分とは違う、けれど共に生きていくものと言いましょうか。……この街で生きていく限りそれこそ事欠かないものではありますが、私もそういうところが好きでここに住んでいるものですからね。猫もまたそうです。人間社会は中々どうして窮屈なものですが猫たちはその外側にいる。彼らと共に在ることは実に刺激的で、時に思わぬ縁を運んできてくれます」
店主は棚に置かれていたコーヒーミルを取ると、乱花に見えるようにカウンターに置いた。ミルの取っ手には銀色の猫が付いている。随分と年季の入ったもののようだ。
「大昔のことです。私はこの街で迷い猫を見つけて保護したことがあります。幸い飼い主はすぐに見つかりました。彼女は喫茶店の主人で、私はお礼に一杯の珈琲を頂きました」
店主の視線が、遠い記憶を思い出そうと遠くどこかへ投げかけられた。
「その味は今も思い出の中で鮮やかに残っています。あまりにも鮮やかに。とても忘れられない。……だから今こうして喫茶店の主人をやっているほどです。このコーヒーミルは、私に珈琲の味を教えてくれたその人が贈ってくれたものなのです」
「縁、ですか」
「ええ、縁です」
取っ手の先で光る銀の猫は、大したものだろうと言わんばかりにどこか誇らしげに見えた。店主はそっとそれを宝物のように棚の上に戻した。
「とはいえ、ホクサイさんは少し特別ですね」
「特別……ホクサイさんが? 波の模様だから?」
小首をかしげる乱花に店主はくすくすと笑った。どうやらそういうことではないらしい。
「なんでしょうね、彼は妙に聡いところがあるというか……意図的に人との距離を汲んでいる時があるのではないか、そんな気がしてしまうのですよ。まるであるべき場所に、寄り添うべき人に寄り添っているというか——」
乱花は頭にホクサイさんの福福とした顔を思い浮かべる。
あのまん丸とした乱花をじっと見つめていた瞳を。あの時ホクサイさんには自分がどのように見えていたのだろうか。何か彼なりに乱花に付き添おうという気持ちがあったのだろうか。ならば乱花に彼が齎した縁はなんだったのだろうか。
カタン、と音がした。
振り向くと入り口のキャットドアが微かに揺れていた。特等席にはもうホクサイさんの姿はない。さきほどまでは絵画の一部のようにパッチリとはまっていた姿が今は跡形もないから、何だかぽっかりと空間が余ってしまっているようだ。
乱花は席から立ち上がろうとして、やっぱりやめた。駆けだしてドアを開いたところでホクサイさんはそこにはいないだろうという確信があった。
店主と改めて向き合う。
「今日の私とのお散歩は終わりみたいですね……?」
「ええ、きっとそうなのでしょうね」
それでは、と乱花はカフェオレのお替りを注文した。
今日はゆっくりと活字に埋もれて珈琲の香りを堪能するのが良いのだろう。乱花はこの出会いをそう解釈することに決めた。
寝返りを打つたび馴染まない天井が視界を右へ左へと揺れる。
今何時だろうと思って、窓から差し込む夕日にうんざりした。時計を見る気にもなれない。今日はこうして寝転がる以外に何をしたというのだろうか。不毛だ、不健全だと思うが、立ち上がるだけの気力はない。
どうしてこうなってしまったのか、自問自答しても答えはない。見通しが甘かったと言われればそれまでだ。
この街に来た時はそうじゃなかった。
生まれ育って、住み慣れて、慣れて慣れて慣れ切って、うんざりした田舎から出たばかりの私にとって、この街は見るものすべてが新鮮で刺激的だった。
ここには何でもあるし、何でもいるし、何もかもが起こりうる。街に住む人は誇らしげに、あるいはげっそりした顔をしながらそう言った。ここには私の人生にはなかったものがあって、見たこともないものに出会うだろうと、私自身も大きく変わってしまうに違いないと、無垢な田舎娘は胸をワクワクさせたものだった。
けどそのワクワクも、月日と共に遠いどこかへ過ぎ去っていってしまった。
あれから何か月も経ったのに、私はまだこの街で立つ瀬を見つけられていない。知り合いも少数、友達なんて望む暇もなく、ただ毎日を仕事場と安アパートの間を往ったり来たりする毎日だ。たまの休日にすることと言えばぐったりと死体のように寝て過ごすことくらい。あれほど望んだ刺激は、苦いブラックコーヒーのように今の身体には受け付けない。
この部屋だってそうだ。この街で私が腰を下ろせるたった一つの場所も、いまだに私の身体に馴染んではくれない。壁も、天井も、床も家具も窓もドアも何もかもが余所余所しくて、どこか仮初に感じられてしまう。
結局それは私の被害妄想に過ぎないのだろうけれど。
「うちに帰りたい……」
独り暮らしは独り言が増えるというけれど、間違いなく一番増えたのはこれだ。
居場所がない。所在がない。いたたまれない。
街はどこまでいっても遠くアノニマスで、部屋はいつまでたっても”家”になってくれやしない。
この街で一緒に生きる友達がひとりでもいてくれたならば違ったのかもしれない。誰かがいれば、誰かが自分を承認してくれれば。私だってもっとこの街にいてもいいんだと思えたに違いない。誰かと過ごす時間があればこの街での生き方も見つけられたかもしれない。故郷を出る時にお母さんがかけてくれた「向こうで友達が出来るといいね」という言葉が、どれだけ含蓄深かっただろうか。けれど教訓というのは常に痛みを伴ってからはじめて気が付くものだった。
「……実家に帰ろうかな」
幾度ともなく心の中をかすめて、それでも必死に口には出さないでいた言葉がついに湧き出てきた。
口にしてみると、胸がずきんと痛み涙がにじんだ。
私はこの街に来て何を得た。あれだけ夢を抱いてなにをしたのだろうか。所詮、田舎者はどこまでいっても田舎者なのかもしれない。変な憧れなど抱くべきではなかったのだ。そうは思いたくなかったが、そう思わずにはいられなかった。考えれば考えるほどに、頭の中で暗い思考が渦巻いて、全てを飲み込んでいく。
カリカリという音が聞こえたのはその時だった。
顔をあげて辺りを見渡す。カリカリとまた音がする。聞き覚えがある音だ。そう、これは。
にゃあんという声が答え合わせをした。声は窓の方からしていた。すぐ先にビルの壁がある形ばかりというような窓だ。こっちに来てから、そう何度も開けてはいない。
久しぶりに窓を開くと、灰色のビルの壁面をバックにして猫がいた。物干しというにも慎ましいスペースに、大きな体を無理にねじ込んでちょんと座っている。
立派な猫だった。ふさふさしていて見るからに元気そうで、強そうで、凛々しい。まるで猫の王様だ。狭く息苦しいこのアパートの中に不釣り合いで、夢を見ているような気分になった。考えてみればこの部屋で自分以外の誰かに会ったのは初めてだったからかもしれない。
迷ったのだろうか、それともどこかと間違えているのか。けれど猫はじっと私の顔を見据えて動かない。まん丸な瞳がきらきらとして、真っ黒な夜空のように私の視線を飲み込んだ。
にゃあん、ともう一度、猫が鳴いた。
猫のお腹には白い毛に交じって茶色い模様が大きな波のような形を描いていた。まるで北斎の絵みたいだなと思った。
「貴方はだあれ……?」
この街で出来た最初の友達は、私の問に答えることもなくするりと部屋に上がり込んだ。