6、猫歩き-3
ネコ歩きの続きは思いのほか大変だった。
ホクサイさんはぷいと気まぐれに鼻先を向けるとあちらにいったりこちらにいったり、行き先が予想できない。
人が通るのもギリギリな細い路地に入り込んだと思えば、そのまま平然と自動ドアをくぐってビルの中に入り込んだりする。そういう時は乱花の方は身を縮こませて申し訳なさそうについていくしかない。堂々と尻尾を膨らませたホクサイさんとはまるきりあべこべである。そんな様子を、くすくす笑いながらも咎めずにいてくれるのは、街の気性という奴なのか、ホクサイさんの愛嬌故か。
幸い、猫の小さなあんよによるものだから、それほどに長い距離を歩くというものではない。
だが、とかくに曲がり、くねり、寄り道をして、抜け道をするものだから、歩いた道を記録していた地図上のペンは、ぐねぐねと入り組んだ魔法陣のようになってしまった。
いま自分がどこにいて、どこを向いているのか、必死に頭を振り絞らなければ見失ってしまいそうになる。裏路地の壁に張り付いた電灯の消えたネオンの看板には、読むことも出来ないような英字と数字が並んでいる。そういうのは地図の上には書かれていないから、自分で書き込む。しばらくしておんなじ看板を見て唖然としたりする。
しかしホクサイさんはまるで迷いがない。自分がどこにいて、どこに向かっているかをはっきりと理解しているように見える。彼らには彼らにしか見えない世界があるのだろう。
下を覗きこむこともできないようなビルとビルの谷間の狭い歩道橋、壁にくりぬかれた穴のような小さな通路、緑色に明滅する細い十字路、ホクサイさんは不気味な場所も不可解な道も気にすることなく進んでいく。
だが、かといってその歩みのリズムは逆に遅々としたものがある。あまりにゆったりしているから、乱花ですら呆れるほどである。進んでは止まり進んでは止まりを繰り返す。辺りをすんすんと嗅ぎまわり、ごろごろ転がり、壁に顔をこすりつける。手頃な高台にひょいとジャンプしたかと思うと、満足げに眼下を見下ろし、風を受ける。
最初は乱花も歩いた距離と一行に比例しない時間の経過に「これで良いのだろうか」と思ったが、直にそのリズムを掴めるようになっていった。ホクサイさんにはホクサイさんの、猫には猫の時間があるのだ。
同じ街の中で、これほどまでに人に近く、これほどまでに共存している猫たちだが、このリズムだけは人とは大きく違う。猫に好意的な街の人々だって、ここまで贅沢に時間を使いながら付き合ってはいまい。全く時の流れが違う、同じ街の中で、別の角度どころか、別の世界を生きているのである。
ホクサイさんについていくと、乱花の中の時計も猫の時計に合っていく。贅沢に、無為に、放り投げるように時間を費やす猫のリズムに身体が慣れていく。
最初のころにあった違和や焦りはいつの間にか消えた。それどころか、不気味に思っていた薄暗がりの路地ですら、呑気に歩くホクサイさんのリズムに合わせると別段なんてことないものに思えてくる。
「これがホクサイさんの見てる世界?」
ネコ歩き中に、声をかけてはいけないと言われてはいたが、ついついそう問いかけてしまう。ホクサイさんは乱花の方に一瞬、耳を向けたが、何も返さずそのままごろりとお腹を天に向けて転がった。
猫同士は鳴き声で交流をとることが殆ど無い。彼らの鳴き声は畢竟、誰かの注意を引くためのものであり、言語体系ではないのだ。だからいくら質問したところでホクサイさんが何か答えることはない。彼らは何も言わない。何も言わないでそこにいることが、彼が今、乱花に伝えるべき全てなのだ。寡黙にして雄弁、そんな言葉が乱花の頭を過った。
ホクサイさんが足を止めたのは、丁度乱花がホクサイさんのリズムにすっかり馴染んだころだった。乱花はこのままどこまでも、猫の歩調で歩き続けるのではないかとぼんやりとした思い始めていた。
だが、ホクサイさんはそうではなかったらしい。まん丸な瞳で、明確な意思を持ってじっと一点を見つめていた。ここが目的地なのだ、と乱花は不思議と察しがついた。
そこは緑のツタに覆われた青い石壁のこじゃれた建物の前だった。正面には古びた木枠の窓と、可愛らしい赤いドアが付いている。ホクサイさんの視線はじっとドアをに向けられていた。
「あっ」という間もなかった。何を決心したのか、ホクサイさんはドアの方に近づくとするりとその中に吸い込まれていったしまった。
いや、そうではない。赤い木製のドアの下部には、より小さなドアが付いていた。キャットドアだろう。風のように飛び込んでしまったホクサイさんの名残はきぃきぃという小さな揺れだけだった。
近づくとドアには「カルドロン」と書かれている。覗き込んだ窓からは幾つかの椅子とテーブル、それからカウンターが見えた。
意を決するのに、少し時間を要した。手を置いたドアは思ったよりも重かった。
ドアが開くと、ベルの音がカランカランと鳴った。
「いらっしゃい」と声が続いた。
そこが喫茶店なのか、あるいは本屋なのかの判断は難しかった。
その店内にはあちこちににょきにょきと本棚が生えていた。小さな妖精たちが悪戯で隙間という隙間に本を詰め込んだかのように、どこを見ても色とりどりの背表紙が窮屈そうに身を詰め込んでいる。ずらりと並んだ本棚の隙間からちらほら見える椅子とテーブルが、辛うじて喫茶店らしさを主張している。
店内には乱花以外のお客はいないようだった。
「いらっしゃい、お好きな席にどうぞ」
カウンターの向こうで、店主がもう一声かけた。白髪に髭を蓄えた感じのいい老紳士だ。柔らかな声と顔の皺は年齢を感じさせるが、しゃきっとした背筋は力強い。
「ちなみにホクサイさんでしたらそちらですよ」
揺れ動く乱花の視線を感じ取ったのか、店主は窓の方を指した。本棚に囲まれた奥の窓際に、こじんまりとした陽だまりがあった。陽だまりを独り占めするような一人掛けの席には、赤くてふわふわとしたクッションがのせられている。
ホクサイさんはその上にいた。日差しを顔に浴びながら、じっと食い入るように窓の外を見つめている。何がそれほど気になるのだろうか、自分が先ほどまで堂々と往来を歩いていたことなど忘れてしまったかのようだ。
「良ければどうぞ」
店主に促され乱花はハッとした。示されるままにカウンターの一席に腰を下ろす。目線は、ホクサイさんの方に向いたままだ。そこは彼にとっての特等席であるらしい。あまりにどっしりと構えているから、椅子と合わせてこの店の調度品の一部のようだ。
「馴染んでいるでしょう」
そう言って店主が置いた水のグラスには檸檬が一切れ、浮かんでいた。
乱花は頷いた。こうして見るホクサイさんは、このお店と調和している。椅子も、テーブルも、窓も、すべてが一枚の絵のようですらある。
「彼はとにかくそういうのが上手いのですよ。するりと、最初からそうであったかのように滑り込む」
ホクサイさんがこの店のことを知り尽くしているように見えるのと同じように、店主もまたホクサイさんのことをよく知っている口ぶりだった。
「ホクサイさんはここの飼い猫なんですか?」
そう訊くと、白髪交じりの眉の奥で、チョコレート色の瞳が悪戯っぽく煌めいた。
「さて、どうでしょうね。ここらじゃ、誰もがそう思っていますから」
「誰もがって……? 飼い主が複数いるんですか?」
乱花は驚いたが、意外とは感じなかったのも事実だ。確かにホクサイさんは野良猫にしては毛艶が良いし、かといって飼い猫にしては自由気ままに見えた。
「寝床も、食事処もそれなりに。彼は少々奔放で、そして罪な奴なのですよ」
ホクサイさんの耳がぴくりと動いた。噂されていることに気付いているのか、いないのか、ここからではその心中を読み取ることは出来ない。
檸檬水で口を湿らせてから差し出されたメニューを開くと、珈琲や紅茶の名前が可愛らしい金字で紙面に並んでいた。
どうしようかと、指を添わせながら考える。
紅茶の香りも、珈琲の香りも捨てがたい。
顔を上げず悩みながら乱花は訊いた。
「ここは喫茶店なのに、どうしてこんなに本が多いんですか? 一緒に本屋もやっているとか?」
「いいえ、ここは単なる喫茶店です。少し、本が多いだけのね」
注文は甘いカフェラテに決まった。パタンとメニューを閉じて「でも流石にちょっと多すぎるような……」と乱花は付け加えた。
店主は、困ったような、でも嬉しいような、こそばゆい表情を浮かべた。
「お恥ずかしながら本の方は私の道楽でしてね。所謂、書痴と呼ばれるような道楽者なのです。……まあ、本を集めるのが好きで好きで仕方がない、という奴ですね。古今東西、のべつくまなく、集め出すとキリがないもので……」
見上げるような本棚の中には、見たこともない文字の背表紙も少なくない。どこの文字なのか見当がつかないものまで混ざっている。
古今東西というのは決して言い過ぎではないのだろう。喫茶店の主人が趣味で集めた品ぞろえの域はとうに超えている。品の良い老紳士にとっては、本当は喫茶店の方も道楽で、実は何かしら裕福な本業があるのかもしれない。
「それで、書斎を一杯にしたものの、それでも置き場が足りない。そうはいっても図書館を作るというわけにもいかないから……直に、溢れ出した本がこうして店の方を埋め尽くしてきたと、まあ、そういうわけです」
「図書館を作るわけにはいかない」というのは、店主なりの謙遜に思えた。乱花からしてみれば、もうこれでもすでにちょっとした図書館だ。これで全てではないというのだから驚きである。家の本まであわせれば、一体どれだけになるのだろうか。
並んでる本はご自由に読んでもらっていいというから、手近な本を一冊とってみた。本を探すのは苦労しない。辺り一面、本棚ばかりだからだ。手を伸ばせば何かしらの本を掴む。
開いてみると、それは料理の本だった。聴いたこともない名前の魚の調理法が作者の主観交じりに語られている。これが中々、軽妙で愉快だった。読んでいくうちに引き込まれ、乱花もまた塩でまぶされ焚火の中をぱちぱち燃える大魚を眺めている気分になってくる。
だが実際に、彼女の鼻孔をくすぐったのは、珈琲のかぐわしい香りだった。カリカリに焼いた魚の尻尾に合うのは醤油かレモン塩か、作者が熱心に語り始めたところで、乱花の前にカフェラテが到着した。シルクのように滑らかな表面の茶色は、少しだけホクサイさんの毛色にも似ている。
口の中に入れると、甘さとほろ苦さが優しくまじりあい、ワクワクするような香りが胸の内でぽっと弾けた。