5、人魚-5
キィキィと音の鳴るボロアパートのドアを閉めて、狭い部屋の中に男は膝をついた。部屋は海の底のようにとっぷりと闇に沈んでいたが、電気をつける気にはならなかった。
全身が汗でべとべとして不快だった。身体から塩水の香りが漂っていた。シャワーくらい浴びたい気分だったが、今の彼にそれが耐えられるとは思えなかった。
髪の毛からつたる汗を拭って、男は手に持っていた高枝切りバサミを捨てた。ずきずきと腕が傷んだ。幾つも裂傷が走っていて、擦り傷から血も溢れている。血は汗と混じってぽたぽたと畳の上に染みを作った。
荒い呼吸を押さえようと、男は何度も深く息を吸おうとした。しかし、その度に鼻の曲がりそうな生臭い空気が飛び込んできて、胃の中身が逆流しそうになるのを必死に抑え込んだ。
男は苛立ちながら部屋の押し入れに向かった。乱暴に襖をあけ放つ。
中には顔があった。じっと、男を見つめる顔があった。
真っ暗闇の中で、不思議とその顔だけがぽっと明るいように男には思われた。
あの日もそうだった。明かりの無い漆黒の闇の中で、その顔だけはライトが当たっているようにはっきりと男の目に見えた。
いや、そう見せようとしたのに違いない、と男は確信している。男は嵌められたのだ。海が男にだけ見えるように近づいてきたのだ。そして今度は取り返そうとしている。
男の脳裏を、筋張った不気味な腕が過った。人の形をしてまで、追いかけてきた。異人に混ざっても、男にはすぐにわかる。仮面をかぶったところで、生臭く塩辛いあの海の香りが漏れ出している。
けれどそれも終わりだ。
「門はもう無い。お前たちはここにゃ来れない。ここは海じゃない、ここは街だ。お前らの場所じゃない、波も、潮風もここまでは来ない! 誰も取り戻しには来ない! ここじゃお前らは無力だ! 誰も取り返しには来ない!」
精一杯の嘲りを込めて、男は押し入れの中の顔を何度も何度も罵った。
顔は、表情一つ変えずにただじっと男の方に真っ黒な瞳を向けていた。
「明日だ。明日お前は売られる! どこぞの誰にでも買われちまえ! 恨むならそいつを恨め! 俺は知らない! 俺は、俺はこれで……」
——自由だ。そう言う男の声には、次第に嗚咽が混じっていった。
恐怖と嫌悪と情けなさと安堵がない交ぜになって、感情が爆発していた。叫びながら男は泣いていた。零れ落ちる涙を止める術を男は持っていなかった。
大粒の涙が罵ることを止めない男の口の中に滑り込んだ。酷く塩っ辛くて、男の喉がごきゅりと鳴った。まるで海水を舐めたようだと男は思った。男は己の顔をぬぐった。ぷぅんと潮風の臭いが香った。べとつく肌は海から上がったばかりのようだった。どこからか水が流れる音がした。
男は狂ったように風呂場に走った。だが、水は一滴も流れていない。蛇口には針金がぐるぐる巻きに巻かれている。それでも水音は消えなかった。ざざん、ざざんと定期的に大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
まるで寄せては返す波——潮騒のようではないか。
男は口を押えて部屋の中を歩き回った。この不快な気配の源を探ろうとした。
しかし、そうするうちに益々、海の臭いが強くなっていった。部屋の中に落ちていたTシャツを拾うと顔にこすりつけた。それでも、臭いは消えなかった。
海だ、海が近くにいる。
真っ暗な部屋の中、身を低くして男はドアの方へ近づいた。耳を澄ませる。強まる潮騒の音の中に、外から他の音が聞こえないか意識を集中させる。
ガタン、と音がした。部屋の中からだ。
振り返ると、部屋の真ん中に顔があった。押し入れの中から”這い出して”それは男を見ていた。
「嘘だ」
実際には言葉にならない声で男はそう言った。
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……嘘だ、あり得ない。ここは海じゃない。丘まで行けば海は追いかけてこない。そんなわけないんだ……」
顔を指さした男の指は、老人のように皺だらけだった。
来るな、と男は叫んだ。顔は中空に浮かんだまま、ただ男を見つめていた。
来れるはずがないのだと男は笑みを浮かべようとしたが、それは引きつった痙攣にしかならかった。
震えを押さえようとして男は左手で反対の腕をつかんだ。ぬるりとした気色の悪い感触に男はびくりと肩を震わせた。左手を見れば、生ぬるくねばっこい液体がへばりついていた。身体のあちこちにある傷からの出血は、今も止まっていなかった。気が付いた途端に脚に力が入らなくなり、男は膝をついた。床はぬれていた。
ざざん、ざざんと潮騒がこれまで以上に耳を打った。
音を遮ろうと耳を塞いで、男はようやくそれが耳の中で鳴っていることに気が付いた。
潮騒も、臭いも、みな男の身体から出てきているのだ。
心臓が脈打つたびに、呼吸を一回するたびに、それらは強まっていく。
ああ——と男は嘆息した。生臭い息だった。
男はようやく気が付いた。
海はここにあったのだ。
彼の身体の中に、流れる血潮の中に海はあったのだと。
海は一時たりとも彼から離れたことなど、無かったのだ。船を降りようが、陸に上がろうが、街の中へと逃げ込もうが……。
ずっと彼の中から彼を見ていたのだ。
”異人”は彼自身だった。
「ああ——」
目の前でちかちかと光が見えたような気がした。身体に力が入らず男は床に手をついた。しかしぬるりと手先が滑って、そのまま倒れこんだ。口から溢れた泡が邪魔で、舌は動かなかった。声も、吐息も出てこない。
——海を怒らせちゃ駄目だ。
そんな思考もすぐに沈み込み、彼の意識は波にさらわれた。
顔はそんな彼を、ただじっと眺め続けた。
「えっ」と乱花は声に出してしまった。
真っ黒な中華服に身を包んだ、幽鬼のような男がその声に気が付いて「ああ」と返した。
それは迅龍だった。
珍しく紫色に乱反射する丸眼鏡ではなく、真っ赤な丸型サングラスをかけている。だから何が違うというわけではないのだが、その雰囲気は妙に厳粛に感じられた。
得体の知れなさと胡散臭さは変わらないのだが、そこに飄々とした軽さが見られない。
偶然出会った従業員は、陰鬱そうな顏を、ぎらぎらとした夏の日差しの中で居心地悪そうに歪めていた。
「こんなところでどうしたの?」
向かう方向が一緒だからなんとなく並んで歩く形になった。
普段とはちょっと様子の違う迅龍に、ついつい不安な気持ちになってしまい、乱花はそう問いかけた。
「ああ、ちょっと商会から仕事を頼まれてな……」
迅龍は乱花と一緒に迅花楼を営む龍天街の案内人だ。
ただし乱花を半人前だとすれば、彼のこの街の知識は4人前くらいにはなる。
だから彼が独自で仕事を受けてなにやら色々とやっていることは乱花も知っていた。それが決して観光案内ではないだろうことも。
そういえば、と思い出す。
時折、頼まれて拝み屋まがいの仕事をしているという話も聞いたことがあった。
別に迅龍に霊感があって霊能力が使えて、ということではないのだが、逆にその辺りのことをまるで気にせずに動く男だからそういう嫌な仕事を押し付けても気にせずやってくれるという話らしい。
そんなことを思い出したからか、乱花は彼の周りにだけ歪んだ妖気のようなものが纏わりついているように感じられた。
「知らないか、異人の門が昨夜、誰かに壊されたんだよ」
蝉時雨の中で、乱花ははたと足を止めた。
「異人さんの門が?」
「門のことは知ってたか。いや教えたのは俺だったか」
知らないわけがない。昨日の今日だ。だが、あまりに唐突だ。
「アレは別段、曰くつきのものってわけじゃないからな。何をしたって罰当たりって話でもないんだが……まあ、一度祀ってしまえば畏れ多くなっちまうのが人の情だな」
それで、直すように頼まれたらしい。
そういう肉体労働なら迅龍はお手の物だ。なにせ体の半分以上が機械で出来ている機人である彼だから、高所だってひょいひょい登ってしまう
「直せたの?」
乱花に見つめられて、迅龍は居心地悪そうに首に手をあてた。
「そうだな、直して……まあちょっとした拝み屋の真似事くらいはしましたよ。ただそれよりも——ついでにちょっと”回収”するものがあってな」
“ついで”と迅龍は言った。
軽い調子だ。だが気まずそうに逸らした瞳には、本命の”回収”するものが何かについては言及したくないという気持ちがありありと現れていた
この男がここまで言いたくない、というのは珍しかった。
「そっか」と乱花は答えて、俯いて歩いた。
嫌な予感がしていた。
もう一度、あの男の家を訪れるつもりだった。
異人さんの門を畏れるように眺めていたあの横顔が思い起こされる。鬼気迫る瞳の中で、得体の知れない強い感情がゆらゆらと揺らめいていた。門に何かがあったことと、無関係とは思えなかった。
気持ちが急ぐ。訳もなく「間に合わなかったのでは」という気持ちがこんこんと溢れ出してくる。だが、何に間に合わなかったというのか。
迅龍との道行きは吃驚するほどに同じだった。
同じ角を曲がり、同じ坂を上って、そしてそこにはあの安アパートがあった。
だが、アパートには先客がいた。
男の住んでいた2階のドアは開き切っていて、そこからぬっと黒い装束の男が姿を現した。
いや、男女は知れない。2m近い長身からそう思っただけだ。喪服のように真っ黒な装束は全身を包み、顔には白い仮面をつけていた。乱花にはそれが貝殻のようにも見えた。
男は1人ではなかった。そのあとに続くように、またぞろぞろと何人も連なって部屋から出てきた。背丈はバラバラだが、みな一様に黒い装束と白い仮面をつけている。そして手には、黒い箱を持っているのだ。
影法師のような男たちは全部で7人いた。揺ら揺らとアパートの階段を下りてくる。ちらりと視線が乱花たちの方を向いたようにも思われたが、仮面に隠れてよくわからない。
「あ——」と乱花は声を出そうとした。あの水を怖がっていた男の知り合いかと思ったからだ。
しかし、それを遮るように迅龍が何も言わずに彼女の前に立った。迅龍の背中に視線を遮られ、黒装束たちは見えなくなった。
「お嬢、気にするな」
背中越しに、迅龍の不機嫌そうな声が響いた。
「ここらのモンじゃない。単に帰るところだろう。関わらなくて済むなら放っておけ……なに、葬列みたいなもんだ」
言葉に気を取られていたからだろうか。迅龍が身体をよけた時には、もう黒装束たちはそこにいなかった。振り返ると坂の下の方に、陽炎に揺られる7人の姿が見えた。ゆっくり、ゆっくり行進するように遠ざかっていく。
「7つ、か、よくよく分割したもんだ。それくらいバラさなきゃ持ち運べなかったんだろうが……」
迅龍が何のことを言ったのかはすぐにピンと来た。
彼らが持っていた”箱”の数だ。持ち帰るところ、とも迅龍は言っていた。どこから? それはあの部屋からだ。
あの部屋の——どこから?
「もしかして迅龍が回収しようとしてたのって——」
乱花の問いに、迅龍は肩をすくめて返した。
「ここは異人の街だ。色んな奴がいる、色んなモノも来る。何だろうと、受け入れる。ただ——」
迅龍の頬を一滴、ぽたりと汗が垂れたからだろうか。
どこからか海の臭いがした。
けれどそれは、すぐに遠ざかっていく。
「商会の連中も外道を釣ったら送り返すくらいの道理は弁えてるらしい」
取引には応じなかったってことだという迅龍の独り言は、小さすぎて乱花の耳には届かなかった。
夏の日差しが嫌に暑かった。
もう、急ぐ気持ちは消えていた。間に合わなかったという焦りもない。潮の香と共にすべては消え失せていた。ふと目の端に灰色のものがうつった。干からびた魚が一匹、地面にべったりと張り付いていた。
ビチリ、と乱花の目の前で魚は跳ねて見せた。