5、人魚-4
「悪いな、付き合わせて」
男の言葉に乱花はそれが仕事みたいなものだから、と首を振った。
昨日、男が突然に姿を消したことはずっと気がかりだったのだ。
普通ならそういうこともあるだろうで済ませられたことかもしれないが、男の常軌を逸した様子を見ていると軽く流すことはできなかった。
実際、その心配は当りだったらしい。
乱花が再び男のアパートを訪ねてみると、彼が自分の部屋の前で顔を押さえて一人、うずくまっているところだった。
暫く声をかけていると徐々に落ち着きを取り戻したようだったが、その様子は悲惨の一言に尽きた。昨日も正常とは思い難かったが、今日はなおさら酷い。
泣いていたのだろうか、顔にはシミがべっとりとついているし、顔色はほとんど真っ青に近い。実際に見たことはないが、水死体がいるならこんな顔をしているのだろうか。
乱花は何故、彼が自室の前で泣いていたかまでは訊かなかった。気を遣ったと言うより、そこまでの勇気が彼女にもなかった。
男の方も「誰かここにいたか?」とは訊いたが、乱花が誰も見てないと答えるとそれ以上には何も訊いてこなかった。見られたいものでもなかっただろうと乱花は納得した。
その代わり意外にも、男は乱花を買い物に付き合って欲しいと依頼した。
必要なものがあるそうだが、ここのところの梅雨模様だ。水が怖い男はろくに外出もできずに苦労していたのだという。
乱花は少し迷ってからそれを引き受けた。
報酬が出るとは思えなかったが、まあこれも一種の案内業だと自分の中で納得させた。
だが男との道行きは決して楽しいとは言い難かった。
男はむっつりとうつむいてばかりで乱花は気まずい時間を過ごすことになった。時折、質問を投げかけるのだが、薄っすらとでも反応があればマシな方だった。
男の周囲への怯えは昨日も酷かったが今日はさらに酷い。小動物のように身をすくめ、道行く人は勿論、遠目に見える人影にすらいちいち驚き、憎しみすら感じられる視線を向けていた。
「その、どうしてそんなに周り警戒しているんですか?」
遂にはそんな直接的な質問が乱花の口から出てくるほどだった。
「わからないからだ」という男の回答は、まるで要領を得なかった。
それは彼らが誰かわからないからなのか。それとも”誰か”であるかどうかがわからないから、なのか。
男の口が軽くなったのは、乱花がまだ海でのことに触れた時だった。
何の気なしに彼女が「そういえば結局、海で何を見つけたんですか?」と聞くと、昨日と同じように男の顔に僅かに生気が戻った。
意思と理性を取り戻したような瞳がぎょろんと彼女の方を向いた。
「そのことか」
彼女は少しドキリとした。男の口調が冷たく感じられたからだ。
少し考えてから男は「誰にも言うなよ」と続けた。
ぎらぎらした瞳が僅かに楽しそうに見えた。周囲をきょろきょろと見渡し、誰も盗み聞きしていないか確かめる。やはり男は、実のところ誰かに話したくて仕方がなかったんじゃないかと乱花は感じた
。
「実は”人魚”をみつけたんだ」
囁くように、誇らしげに言う男の顔は真剣そのものだった。
“人魚”と言われて乱花が頭に浮かべたのは、絵本の中のプリンセスだった。
しかし、男が恐る恐る口にした言葉が持つ重苦しさは、クレヨンで描かれた可愛らしいそれとは似ても似つかない。
「人魚って、あの、食べると不老不死になるとかいう……?」
であれば、男は不老不死なのだろうか。そうではなさそうに見える。不老不死ならばそんなに恐れるものがあるとは思い難い。
「それは知らねぇ。そんなもんは食ってみねぇとわからんし、俺は食う気にはなれねぇ」
——ただ、そう思うやつがいりゃそれでいい。
男はそう続けた。珍しければ何でもいいのだと。珍しければ、何だろうと値段がつく。不老不死になれるかなれないかなど、どうでもいい。”なれそうな気がする”だけでいい。それだけで、大枚をはたくやつがいる。
男はこの街に”人魚”を売りにきたのだ。
「まさか、本物なんですか?」
乱花の声も男に釣られて低く、小さなものになっていた。
意外にも男は、それについてはきっぱりと「本物だ」と断言した。「本物じゃなければどうして——」と言いかけて「海で見つけたんだ」とその先を自分自身で遮った。
男の声はますます小さく、ほとんど一人で自分自身に語り掛けるような喋り方になっていた。
「俺だけだ、俺だけが気が付いた。当たり前だ、他の連中に知られたらどうなるか……隠し通して、それで、すぐに船から降りた。誰にも気が付かれなかった」
乱花はそれでようやく合点がいった。彼がやたらと辺りを恐れている理由だ。
「誰かが追いかけてくるのを警戒してるんですね?」
それは、船の誰かが——という意味だった。男は「そうだ、だから早くうっぱらわなきゃいけねぇんだ」と言った。乱花の方は向いていなかった。
「でも、それじゃ一人で人魚をここまで運んだんですね。それは……かなりの肉体労働ですね」
「――ああ、そうだ。大仕事だったがやり方は分かってる。力だけは自信があるんだ。前の仕事でも役に立った。ヘマさえしなけりゃ……」
乱花は男が人魚を背負って街までやってくる姿を想像したが、あまり、現実的には思えなかった。人魚はあのアパートにいるのだろうか。いよいよ御伽噺めいている気がする。大きな水槽が入りそうには思えなかった。どこか、別の場所に隠しているのだろうか。
いや、と乱花は思う。
全ては男の妄想、と考える方が真っ当だなと。
なにかを人魚と思い込んでいるのか、あるいは彼なりの比喩表現でそう言う言葉を選んでいる可能性もある。いずれにせよ何らかの強迫観念が男を襲っているのは間違いあるまい。
だから深掘りするのはやめて
「早く売れると良いですね」
などと当たり障りのない言葉を返した。
言いながらそれは欺瞞だな、と乱花は思った。
彼女には人魚を売買するという行為が人道的にまっとうであるとは思えなかったからだ。思ってもないことを言っている。
それでもそう言ったのは、情緒不安定な男に対する同情が半分と、残りは万が一にこの男が人魚を手中にしていたとして、彼の手元にいるよりはこの街の人間に買われた方が人魚もマシだろうという気がしたからだった。
「ああ、急がないと、急がないと、もう時間がない」
男はぶっきらぼうにそう言った。
せまい路地をぐねぐねと歩いているうちに、気が付くと開けた場所に出ていた。
男は表通りの商店には行きたがらなかったから、裏店ばかり巡っているうちに自然と乱花もよく知らない街のはずれにまで来てしまっていた。
広場の真ん中にはぽつんと社ようのなものが建っていた。朱で塗られてもいない、木材を組み立てたような粗末な鳥居もある。
「神社か?」
男が訝し気な声を出した。
「ああ、ここは異人の社ですね」
普段の癖でつい解説が乱花の口から洩れた。男は「やしろ?」などと呟いたが、それは興味を持ったからというよりは単に反射的にオウム返ししただけのようだった。
近づいて覗いてみたが、その社には賽銭箱の一つもない。
放棄された、というよりは最初からおざなりだったという感じがする。
ただ、社の周りには多種多様な品々が転がっていた。
木彫りの細工、酒の空き瓶、人形、招き猫と、奉納品にしても節操がない。社の正面の金属板には「異人境」と刻まれていた。
「イジンサンの門になにか用かい?」
声がする方向を見れば。老人が一人、壁際に腰かけていた。足元に体毛の長い犬が一匹、ほとんど地面と同化してへばりつくように横になっていた。老人は首輪から伸びたリードを弄びながら、反対の手に持った缶ビールを口に運んでいる。
「イジンサン?」
また男がオウム返しに繰り替えす。
「異人さん。例えばそっちのお嬢さんみたいな人の事だ」
「……私、一応は生まれも育ちも龍天街なんですけど」
乱花は苦笑する。もちろん、そういう意味でないことは理解しているが。
「それでも、ルーツはここじゃあるまいよ。もちろんオイラもな」
そういって老人は己の耳の先をつまんで見せた。エルフの象徴たる長くとがった耳の先は、異種族の多いこの街ではいちいち気に留めるほどの特徴でもない。だが異種族が混淆することに慣れていない地域などでは、距離感を誤られることもある。
それは天使の末裔とされるアンヘルである乱花も同じだ。
背中の翼は隠しようも無いし、わかる人間ならばその幼げな顔断ちやキラキラした瞳、微かに光輝を纏うような頭髪から彼女の正体を見抜く者もいる。
地域によっては信仰対象扱いされることもあるらしいが、なかなかぞっとしないと乱花は思っている。
「この街は異人街だ。異人さんが寄り集まって発展した街だからさ。文化とか、品物とか……とにかく色んな奴がいるのがここの良いところだろ?」
喋りながら老人は缶ビールをコツコツと叩いて見せた。これもどこぞの種族が持ち込んだ味なのだそうだ。
「だからそういう異人さんを歓迎するために街の連中が作った異人さんを招く門が、それだよ」
「門……」
ちらりと男は粗末な鳥居に目を向ける。それほど古いものではないだろうが、数十年程度は経っているようだ。途中、補強されたような跡があるから大事にはされているのだろう。かといって神々しいものには見えない。
だが乱花は「そっちじゃないんですよ」と首を振った。
老人も首肯して節くれだった指先を空に向ける。
「そっちはなんていうか、洒落でね。本命はこっちなんだ」
3人が顔をあげる。
乱花たちの上には、空を区切るようにして五角形の縄が張られていた。辺りの木々の先に結ばれているのだ。
「あれが本当の門。異人さんを招く象徴だよ」
「空に向けた、門……」
どこか特定の方角に向けるのではなく、全方向、この星全てを覆うように向けられた門だから、と乱花に教えてくれたのは彼の従業員であるところの迅龍であった。
「だからお社もここに立てたわけ、この辺で一番高いところだから。洒落だけどね、中に何にも入ってないし」
ご利益はないだろうが、オイラはここが好きでね、と老人は続けた。犬の散歩の合間に立ち寄ってぶらぶら眺めるのが特にお気に入りらしい。何も祀っていない社だから、それはそれで気が楽なのだそうだ。そういう人間が彼一人でないことは、出鱈目にかき集められたような供え物の山が証明している。
「異人さん、か……」
この街で生まれ育ったとはいえ、乱花にとってもまるきりそういう自覚がないわけではない。
特にアンヘルというのは希少種族だ。本物の天使そのものだと思い込んでいる人もいる。
龍天街の外を歩けばある程度は珍奇な視線を向けられることも珍しいわけではなかった。
彼女にとって、彼女という存在が当然視される龍天街という場所の恩恵は、気が付きにくいが大きなものであっただろう。
そう思えばこの門にも手をあわせたくなるというものだった。
だが、男の方はそうではなかったようだ。
先ほどからじっと上空を睨みつけていた視線を下ろすと、顔は雨に降られたようにじっとりと汗に濡れていた。
「その異人っていうのは、空以外からも来るのか?」
老人は思いがけない言葉にぽかんと口を開けた。しばらく中空に視線を泳がしていたが、直に曖昧に頷いた。
「まあ、他所から来たらみんな異人さんだろうから、そうなんじゃないか。何処から来ようと、来るものを歓迎するのがこの街だ」
「この門が異人を招いているのか?」
男は質問を続けた。語気は真剣そのものだった。乱花はどうして男がそれほどまでにこの社と門に食いついているのか理解できず、はらはらした。
彼は老人に食って掛かりそうにも見えた。
老人の回答は簡潔だった。
「そういうわけじゃないが、そういうつもりで作ったもんではあるだろうよ」
老人の男を見る目が訝し気なものに変わってきたのに気付いたから、乱花はその場を離れるように男の背中を押した。
しかし、男はそれにも気づかないように、またじっと空を区切る縄で作られた門に視線を向けていた。
まるで視線でその縄を焼き尽くさんとしているかのように、男の目は瞬き一つしなかった。
辺りの沈黙の中で乱花の耳には、老人の犬が水たまりを舐めるぴちゃぴちゃという水音がやけに大きく響いて聞こえていた。
次第にそれが、自分の耳の中から聞こえているような気がするほどに。