5、人魚-3
ぐらり、ぐらりと光が揺れていた。
左右に前後に、時に上下にぐるりと揺れた。
部屋の中の明かりはそれだけだった。窓のカーテンの間から差し込む、僅かな月明り。
部屋の誰も、カーテンをきちんと最後まで閉めるものはいなかった。口に出して共有されることはなかったが、誰もがどこかでその光が消えることを恐れていたのだ。
別にそこに何の期待を見出すわけでもなかったが、眠る前にちらりと目の端に入れる月の光が、あると無いとでは大きく違うことを彼らは悟っていた。
男はそういう彼らが嫌いだった。
か細い微かな光にすがる彼らが。
闇の中、男はむくりと起き上がった。
部屋そのものが大きく揺れ動いていたが、部屋の中で動いているのは彼だけだった。あとの者は、みな死んだように眠っていた。寝返りや呼吸に使う体力すら惜しむかのように、彼らはぴくりともしなかった。
モルグに紛れ込んでしまった生者のように、男は雑魚寝する同僚の間につま先を下ろしながら、部屋を出た。
部屋の重い扉に鍵はかかっていない。外から入ってくる者も、外へと出ていく者もいないからだ。
ぐらぐら揺れる甲板に出ると、男は月空を眺めた。波は高いが空には雲一つ無かった。だが、四方八方、波間しか見えない海の上では雲のない夜空は海と溶け込んでしまう。辺りは月以外の何もかもが消え去りただ闇のみが漂っているように見えた。
何年か前ならば男はタバコに火をつけていただろう。だが今はその自由はない。
彼はふらふらと導かれるように、船の手すりに手をかけ海を覗き込んだ。
別段、何をしようという気持ちはなかった。そのままどぼんと海に落ちても構わない気持ちでもあった。
真っ黒な海は月の光を反射して微かに波が色づいていた。波が船体にあたる音がすぐ耳元で聞こえるような気がした。
男が目を離せなくなったのは、一面の真っ黒なキャンバスにぽつんと異色のものがあったからだった。
はじめは空に浮かんだ月が海上に反射しているのだと思った。
だがすぐに違うことを悟った。
波に運ばれるようにして遠くに見えるそれがゆっくりと船の方に近づいてきた。距離が近くになるにつれ、はっきりとそれが何かを見ることが出来るようになった。
真っ白な肌が水面に長い黒髪を引きずっている。
ぽっかりと開いた口は何かを言いたげに見える。
瞳はじっと男を見て逸らさなかった。
「顔」
そんなことを言ったか、言っていないのか男は覚えていない。
ただ心の中で思ったような気はする。
波と波の間をぷかぷかと浮かぶ人の顔が、ゆっくりと男の方に近づいてきた。
勢いよく男は上半身をもたげた。
たった今まで溺れていたかのように全身は汗でぐっしょりと濡れ、息は苦しく絶え絶えだった。
何度も何度も、擦れるほどに顔を拭って汗を払って、男はようやく自分が自室の布団の中にいることに気が付いた。窓からは日の光が差し込んでいた。もう随分と高い位置に太陽があるようだった。
夢、という言葉が頭を通り過ぎる。口に出すことはないが、心の中で何度も同じことを呟いた。
——それで、どこからが?
男は狂ったように四畳半の押し入れに駆け寄った。泣きそうな形相で襖を開いて中を覗き込む。
それで、ようやく腰を下ろした。ほっとしたように胸をなでおろす。
「よかった……そうだよ、そうだよな。夢なんかじゃ……ないよな」
だがすぐに全身が強張った。
ぴちょん、ぴちょんという”水音”が聞こえたからだ。
玄関脇の使った覚えの無い流しから、水滴が漏れていた。
男は立ち上がって、水を止めようとしたが、すぐにひっと息を漏らして足を引いた。ようやく畳がぐっしょり水を吸っていることに気づいたからだ。汗の量とは思えなかった。
ぴちょん、ぴちょんと水滴が垂れる。
見れば、水がシンクを溢れて部屋の中に漏れ出していた。
何故だ、という疑問よりも恐怖が勝り、男は全身を貫く不快感を押さえつけて蛇口に飛びついた。
だが蛇口をひねった瞬間、猛烈な吐き気が胃袋を揺るがし喉を焼いた。
水が零れるほどにたまったシンクの中には、何匹もの魚が詰まっていた。
狭苦しそうに身を寄せ合い、ぬめぬめとした体の一部はシンクから溢れ出している。幾つもの濁った瞳がぎょろぎょろと男を見返していた。
そのうち、一匹がバシャリと体を跳ねさせた。飛び跳ねた水が男の顔を打った。生臭い潮の香と、あり得ないほどの塩辛さを感じて、男は今度こそ胃の中身をその場にぶちまけた。あっという間にあちこちから湧いてきたフナ虫がそれに群がった。
気がおかしくなりそうだった。
拭っても拭っても、海の香りが纏わりついてどんどんと強くなっている。もうとっくに海の上にいた時よりも、遥かに濃い。
がさがさがりがりとあちこちから音が聞こえる。生あるものが、蠢いている生々しさが、すぐ近くにまで感じられた。
男は絶叫していたが、それ自体に気が付く余裕もなかった。
よろめく身体を無理やり動かして玄関のドアに駆けた。ほとんど、身体をむりやり叩きつけるような様子でドアノブに縋りつく。ドアにはフジツボがびっしりとこびりついていた。錆び切ったようにドアノブはゆっくりと回った。
二度、三度、男はドアに身体をぶつけた。身体からみしみしという音がしような気がしたが、ほとんど気にならなかった。
四度目に、ようやくドアが開いた。噎せ返るような生臭さから逃れようとして、男は太陽の下に手を伸ばした。
その手首を、ドアの隙間から飛び込んできた腕がつかんだ。
枯れ木のように細い腕だった。黒ずんでいてひどく冷たい。凄まじい力で男はドアの外へと引きずり出された。
嫌な臭いが鼻をついた。言葉のようで言葉にならない、泡のような無数のひそひそ声が耳を打った。多くの、驚くほどの多くの誰かが、外にいるのがわかった。
ごめんなさい、とか、悪かった、とか、彼はそういう言葉を胸の内で喚きたてた。けれどそれは声にならなかった。男には一呼吸することも出来なかった。
水に突き落とされたように喘ぎ、もがき、それでもまるで息が吸えなくなっていた。
暗い、ひどく周りが暗い。それに寒くて仕方がない。
掴まれた手首はもう、氷のように冷たくなっていた。冬の海のような冷気が彼の心臓に向けてのぼってきているのが分かった。
息が出来ない。何も見えない。口の端から生ぬるい何かが流れ込んできた。肺と胃を満たすように。
「大丈夫ですか!?」
突然、思いがけない声が降った。
それでパっと辺りが明るくなった。
口から泡が止めどなく溢れていたが、男は呼吸することが出来た。もう懐かしくすら感じられるおんぼろアパートのすえた空気が口の中に入り込んできた。
顔をあげれば、彼は自宅の前に座り込んでいた。朝日が降り注ぎ、ちいとも寒くはない。
周囲を見渡しても、誰もいなかった。ただ、アパートの前の通りから昨日、偶然であった女が彼を見上げていた。
「どうしたんですか、何かあったんですか!?」
困惑したような視線を投げかける彼女に返答せず、男は己の右腕をじっと見つめた。手首を何かに掴まれたような形跡はなかった。凄まじい力だったが、痣にもなっていない。
——だが。
だが、そっと左手で触れると、右腕はドキリとするほどに冷たくなっていた。




