5、人魚-2
道すがら観察した男の様子は、一言でいえば「変」に尽きた。
そわそわと落ち着きがなく、すれ違う人の一人一人にびくびくと肩をすくめている。
確かに龍天街は様々な人間の集まる街ではあるが、だからといってそこまで治安が悪いわけではない。
それなのに彼のそれはまるで何かに襲われることを警戒しているようにしか見えなかった。
「あの、何でそんなに怖がってるんですか?」
思いきって乱花は素直に聞いてみることにした。
言ってから乱花はしまった、と思う。
男は乱花からすれば見上げるほどに大きい。げっそりしているが本来は肉付きのよい身体だろう。堂々としていれば、むしろ威圧感を与える側の人間である。
こういう手合いの人種が何かに怯えているとなればそれは官憲ではないかとふと思い至ったのである。
こういうところが迅龍から「甘い、本当にお嬢は色々なものが甘い。ハーネスつけて柱に結んでおきたくなるくらいには甘いよな」と言われる所以である。
しかし男はそんな乱花の様子にも気が付かないようで
「水が、か?」
と少し見当違いのことを返した。
その方が都合も良かったので乱花も「そう、水が」と慌てて返す。
ああ、という男の呟きは、相槌なのか溜息なのかすら曖昧だった。
男はあまり目を合わせようとしない。乱花だけにではない。誰とも視線を交差しようとしない。それは誰かの視線を恐れ、誰にも見られず、透明人間のように埋没したいからなのかもしれない。
目を伏せたまま、男はしばし沈黙した。答える気がないのかと思ったがそうではなかった。
「むか、昔は怖くなかったんだ、そう、昔は……」
どもるような声は、ほとんど他人に喋るような声量ではなかった。しかし話し始めた男の横顔は必死だった。なんとか言葉を紡ぎ出そうとしている。それは、誰かに聞いてもらいたいからに違いない。
乱花は辛抱強く、次の言葉を待った。
「そりゃまあ世間一般でいう水難事故は、怖かったけど……船で、働いてたから、そりゃ、まあそうだよな……けど今とは違う、今はだって、違うだろ。普通はこうじゃない……」
言葉が纏まらないのか男の話はぐるりぐるりと同じところを行ったり来たりして、時に勝手に自分で納得したり、時に自分で否定したりと忙しない。
まるで嵐の中で揺れる小舟のようだった。
「船乗りさんだったんですか?」
「船乗り……? いや違う、違うんだけど、ああいや、そうだな……船乗りっていうか、漁師だった。漁師の仕事をしてた。やらされてたか……」
ああ、と乱花は少し納得する。それなら話は分かった。
男は恐らく海難事故にあったことがあるのだ。漁師ならありえない話じゃない。水を極端に怖がるのはそのせいだろう。しっかりとしたガタイのこの男が、海上で荒事に従事している姿は実に想像しやすかった。
「なるほどそれで……」
乱花は少し目を伏せてから、自分の中で出来る限り優しい声と言葉を選び取った。
「ごめんなさい、その、もし災難とか、辛いことを思い出させてしまったら……」
だが、男の反応は思いがけないものだった。
「災難?」
ぎょろりとした瞳が虚ろな輝きを湛えて乱花を見ていた。乱花はなぜだかそれを見ていると、夜の海をのぞき込んでいるような気分になって、汗が一滴、彼女の頬を伝った。
「まさか災難じゃない。いやいやいや、違う違う、むしろラッキーだった、ああそう、ラッキーだよ、馬鹿め、船にのって有難いくらいだ。俺が後悔すると思ったんだ、でもそうならなかった。大発見だ……いくらになるんだか、誰も想像すらしなかったのさ。けど俺にはすぐわかった。チャンス、そう大チャンスだ。俺は見逃さなかった。俺は他の奴らとは違う。……すぐに陸にあがった、一発逆転だ……」
ぶつぶつと繰り返す男の瞳は、乱花を見ながらも乱花を捉えてはいなかった。
どこか、遠くを見ている。
だが、病的な様子に対して皮肉ではあるが、早口でまくし立てる男の姿はそれまでに比べれば生き生きとしていた。希望を語る力強さが言葉にあった。わずかに頬が紅潮し、緩んでいた。
勢いに気圧された乱花は、しかし内心少しほっとしてもいた。さっきまでの陰鬱とした幽鬼のような様子に比べれば、まだこちらの方がマシに人間らしく見えたからだ。
「えーと、つまり海で良いことがあったんですね?」
てっきり、海難事故にあって働けなくなって陸に上がったものとばかり乱花は思っていたが、違うらしい。
それならどうして水が怖いのか、とも思うが、事故にあって仕事を辞めるより何かいいことがあって辞めた方がずっと良いに違いない。
「ああ、そりゃもう。俺が見つけたんだ。俺だけだ、バカみたいに寝てた連中は誰も気づいてない」
男はニマニマと笑いながら口の中でもごもごと呟いた。
「それでこの街に来たんだ。売り込んで、そしたら大金が手に入る。見てろよ、お嬢ちゃんが見たこともないくらいの大金だぜ――」
だが、そんな男の興奮は唐突に吹き飛んだ。「ひっ」という声をあげて、後ろに倒れこんだ男を、乱花はすんでのところで助け起こした。
触れた男の身体は、まるで全身がぐっしょりと水を吸い込んでいるかのように、ひどく重かった。
「ど、どうしたんですか!?」
男の顔面は蒼白だった。生者の顔とは思えないほどだった。
唇が震え、歯は上手くかみ合わないようにカチカチと音を立てた。
言葉の代わりにひゅぅひゅぅと苦しそうな息が口から洩れ、震える手が辛うじて彼の視線の先の地面を指していた。
「水たまり? 水たまりがどうかしましたか?」
道路の淵にはまた、黒々とした水たまりが広がっていた。
男は飲み込めない何かを必死で飲み込むかのように喉を鳴らした。それは、窒息しそうな人間が必死に空気を求めている姿のようにも見えた。
「——顔、水に顔が」
男が何とか絞り出した言葉はそれだけだった。殆ど掠れ切って、金属がぶつかり合って立てるような無機質な声だった。
「顔? 水にうつった顔がどうしました?」
乱花は男の顔をのぞき込む。
どうかしているといえば、どうかはしている。無精ひげをたくわえ痩せこけた顔は鬼気迫る表情だし、どろんとした瞳の色は濁った沼の底のようだ。
だが、それが原因ということではあるまい。
「俺の、顔? ……そうか、俺の顔、そうかそうだな」
何に納得したかは乱花にはわからなかったが、男は我に返ったように何度もそう繰り返した。
あるいは、そう言い聞かせているようにも見えた。
やがて「そうだよな、そうに決まってる……」と弱弱しく呻いて、一人で立ち上がった。しかし、不気味そうに水たまりから距離をとると、決してその中を覗いて確認しようとはしなかった。
乱花は男に「ご自宅はまだ先ですか?」と尋ねた。
彼の様子から、これ以上、外を出歩くのは賢明でないことは明らかだった。
男は首を左右に振って、また指を指した。
「そこだ」
少し先に、ぼろぼろの如何にもな安アパートが建っていた。
ツタがしつこく絡みついているが、この街の中では決して珍しくはない。
歯に衣着せぬ言い方をすれば、古びて廃墟になりつつある建築ともいえる。
実際、長期の在住者は一人もおらず、今は何らかの理由で街を訪れる短期滞在者向けとして活用されているのだが、そこまでは乱花の知るところではなかった。
「ああ良かった。もうすぐそこですね! お家に帰れますよ」
乱花もそれを知ってほっとしていた。
水道の一つも捻れないかもしれないが、それでも雨上がりの屋外にいるよりは家の中は遥かに居心地の良い場所だろう。
男の指さした2階の部屋は正面の路上から見通すことができた。目を細めてみたが、表札の類はなかった。
男の方を見れば、じりじりと水たまりから距離をとっているところだった。気の毒に思いつつも少し好奇心の湧いた乱花は、男が避けている水たまりを代わりにのぞき込んでみた。
覗いてみて乱花は「なんだ」と思った。
少し、がっかりした。
雨上がりだが、空が鉛のような雲に覆われているからだろう。水たまりは深海の底のような鈍い色を湛えるばかりで、乱花の顔すら映り込むことはなかったのだ。
「そういえば」
水たまりの色で海を連想したからか、乱花は訊いた。
「それで、結局海で何がラッキーだったんですか? その、すっごいお金が手に入るっていうのは——」
乱花が振り返ったのは、ぱしゃんという水音がしたからだった。
何かが水面に飛び込み、沈み行くような、軽い音だった。
その時にはもう、見渡しても男の姿はどこにもなかった。
路上の広がる別の水たまりの上を、波紋がゆらゆらと揺れている。ただ、それだけだった。
ぽつりと振り出した雨粒が乱花の頬を打ったから、彼女はそれ以上、そのことについて考える余裕はなかった。
すぐさま、ざあっと振り出した土砂降りの雨が、幕を閉じるように街の全てを暗闇に包み込んでいった。




