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5、人魚-1

 

 ”人魚”といえば美しく、そしてこれ以上なく恐ろしきものである。


 人魚は時に海を漂う美の化身であり、その一方では船乗りを惑わし船を沈める暗黒の使者としても謡われる。

 その恋は嵐を招き、陸の命を海の中へと貰い受ける。彼女たちは海に潜む隣人、海洋の魔性そのものである。

 それは古き海の持つ、美と恐怖の体現であるといえよう。

 元より海は恐ろしい。見渡す限りの水平線の中、船乗りたちにとっての生存圏は、足下で不安定に揺れる船の上しかない。

 へりを超えればすぐ先には生死の境が待つ。煌めく水面は食料や繁栄を与える生命の源であると同時に、彼らを飲み込む冥界の入り口でもあるのだ。

 その先には人の道理など通らぬ暗黒が満ちている。


 人魚とは、モノ言わぬ暗黒世界の中にぽつりと浮かんだ人の貌だ。

 それは美しく、まるで人間の世界の道理を弁えているように見える。

 だがその実、海の道理と人の道理が交わることなど決してない。絶対に。

 彼ら彼女「人の顔をした海」なのだ。

 だから、海で人魚を見かけても邪心など起こすべきではない。

 不老不死だろうと、富だろうと、美貌だろうと、彼女たちの抱える如何なる宝も、その恐ろしさに見合うほどのものではない。

 よりにもよって海上で、愚かにも海への畏怖を忘れた者の末路など語るに及ばない。


 だが、だがだがだが、しかし、しかしだ。

 それも陸に上がればどうだろう。

 如何に恐ろしき海の魔力も、陸地の上にまで追いかけてくるということはないだろう。港を超え、陸の上まで逃げ込んでしまえば、潮風は消え波音もなく、海の気配など消え失せてしまうではないか。

 まして様々な異人がひしめく”街”の中ならば。


 ここは人が交差する、人の道理で動く、人の世界だ。

 海の魔力が追いつくことなど、あるはずもない。



「それではまた来週——来週は、駄目なんでしたっけ? そうですか……いえ、気が向いたときにでも、気兼ねなく来てください。我々としてはいつでも歓迎ですから――ええ、はい、はい勿論」

 医者の人のよさそうな笑みに頭を下げ、患者の男は席を立った。

 大男と言ってもいい立ち姿は、往時では頑強な肉体であったことを想像させる。

 だが今は、まるで吹けば飛ぶ、倒壊寸前のあばら家のようだ。

 顔色は土気色そのもの。目は落ちくぼみ、乾ききった唇がバリバリに割れている。頬のこけかたを見るに、服の下はもっと酷いことになっているのではなかろうか。


 男がよたよたと診察室のドアを開けて出ていくと、すぐに受付が顔をだした。

「お客さん、次の予約せずに帰っちゃったよ」

 受付の女職員は平時と変わらず、フランクでぶっきらぼうな口調で話す。

 だが、顔を出したのは心配しているからに違いない。険しく眉間に寄せた皺に似合わず、根は気のいい子である。

 診察室の中で、医者は柔和な笑みを引っ込めた。表情には疲れが見える。

「酷い恐怖症だ、だいぶ悪化してる」

 診察室の窓からは、病院の前の通りが見える。病院といっても雑居ビルの一室だ。

 きょろきょろと辺りを見回しながら玄関を出ていく男の足取りはいよいよ危うげで、ますます儚げに見えた。わずかにでも目を離せば、かき消えてしまいそうにも見える。

「水の恐怖症だそうだ」

「水って、プールとか海とか」

 それならば話は簡単だったんだがな、と医者は思った。

「彼が怖いのは、水の全てだよ」

 海が怖い、というのは実にわかりやすい。元より深い水は誰しも怖いものだ。溺れた経験がある人間が水場を極端に恐れるのは珍しいことではない。

 だが、診察に訪れた男はコップの水すら嫌がった。シンクにたまる水も、水槽の水も耐えられない。だらだら流れる己の汗すら、忌まわし気にしていたほどだ。

「飲めるのは牛乳かジュースのみ、風呂にも入らず、身体を擦って過ごしてるんだそうだ」

 医者にとっても前例をのない症状だった。それで社会生活が送れるとは到底思えないが、事実送れていないからからこそ、あれほどにやつれているのだろう。

「でも、どうして?」

 実にシンプルだが、実に的確な疑問だなと医者は思った。

 どうして、どうしてそんな心を抱いてしまうのか。この医院に来るすべての人に言える問であり、医者が患者と向き合いながら探し求めなければならない到達地点でもある。


 だが——


「先生?」

「ん、ああいや……」

 だが、あの男は。

 あの男は何か、妙な確信を持っていたのではないか。

 誰しも己の心はわからないものだ。何故苦しむのか、その因果を説明できるものは殆どいない。それ故に猶更苦しみ、それ故にカウンセリングが必要なのだ。

 だが、あの男は少し違った。まるでそれを当然のように捉えているような節がある。変な話だが、どこか悟り切っているようにすらみえた。

 患者の諦観や思い込みは慣れっこだが、アレは少し違う。自分の恐怖の源を確信していて、あるいは、だからこそ恐怖しているのではないか。

 医者は首を振って思考を止めた。推測の域を超えていた。妄執が医師にまで憑りついてしまっては仕様がない。

 窓から空を見上げれば、どんよりとした曇り空が見える。

「雨が降りそうだなって、そう思っただけさ」

 医者の言葉に納得したわけではなさそうだが「あの患者さんには不幸ですね」と冗談めかして受付の女職員は己の席へと戻った。

 けれど医者にはそれが冗談では済まされないことがわかっていた。



 おうい、と声をかけられて(らん)()はびくりと体を震わせた。


 彼女は仕事あがりで迅花楼に戻るところだった。観光で街を訪れた団体のツアーガイドをしていたのだ。

 急に雨が降り出した時は参ったと思ったが、急遽地下街の探索に切り替えたのが良かった。およそあらゆる四つ足動物を食べることができると言われる鍋底市場は少々観光としてはディープな場所だったが、オークの団体だったことも功をせいした。


 乱花に呼びかけられたのは、掠れた男の声だった。弱弱しくて、哀れめいている。

 声がした方を見ると、雨あがりの濡れた路上に、男が一人で立っていた。

 閉じた傘を手に、縮こまるようにして軒下に佇んでいる。

 酷く瘦せこけた男だ。くすんだ肌色の中で落ちくぼんだ目ばかりがぎらぎらと光っている。顔は疲れきっており、弱り果てているように見えた。

「おうい」とまた男は言った。途方に暮れた顔で明らかに乱花のことを見ていた。

「お嬢ちゃん、助けてくれ」と男は言った。

 普段なら、無視しただろう。

 だが、見逃すには男の表情があまりに切実過ぎた。からかっているようには見えなかった。

 どこか具合でも悪いのかと聞けば、男は軋んだオルゴールのような声を返した。

「閉じ込められちまったんだ、頼む何か板切れでもいいから持ってきてくれないか、頼むよ、なんでもいいんだ」

 見れば男の周りは、さっきまで降っていた雨の水たまりで、ぐるりと囲まれていた。


 乱花がゴミ捨て場から拾ってきた板切れで橋渡しをしてやると、男は泣き出しそうなくらいに表情を歪めて、何度も何度も感謝の言葉を述べた。

 最初はふざけているのではないかと警戒していた乱花も、次第に男が心の底から水たまりを恐怖していることが理解できた。

 男は、まるで水を嫌う猫のように、裾の先が水たまりに濡れることすら酷く嫌がっていた。

「水が怖いんだ」と男は明かした。

 あらゆる水が怖い。海や川、プールはもちろん水たまりですら怖くて仕方がない。雨はなんとか胡麻化したが、ひたひたと溜まった水はどうにもたまらない。それで立ち往生していたところに、乱花がやってきたのであった。

 そんな人がいるものかと乱花は疑問に思ったが、事実目の前にいるから仕方がない。

 雨が上がってかれこれ30分は経っている。男の言葉が本当ならば、彼は30分そこらあそこに突っ立っていたのだ。

 男が疲れた顔で「もう家に帰るよ、今日はどこにも行かないことにする」というと、乱花はそれがどうにも気の毒に見えて彼を家まで送ることを申し出た。案内人としての職業倫理というか、なんとなく放っておけなかったのだ。

 思わぬ言葉だったのだろう。男は少しの間、絶句してやや怪訝な表情で乱花を見つめた。

 どことなく怯えて見えるのは気のせいだろうか。何度も瞬きをして、目の前のいる乱花をよく見ようと目を凝らすしているようにも見える。


 怯える?


 奇妙な話だ。どちらかといえばこの場で怯えるのは乱花の方である。

 それなのに彼は、何を警戒しているのか。それが乱花にも読み取れない。

 直に彼は目をそらすように空を見つめて「ああ、それは助かる、本当に助かる、本当だ」とぶつぶつと口の中で繰り返した。追いかけるように乱花が見上げると、梅雨空はまだどんよりとした鈍色に染まっていた。

 もう一雨くらい、来るかもしれない。そうしたら彼はどうなってしまうだろうか。


「急ぎましょうか」

 乱花がそう言うと、男は虚ろな表情で顔を何度も上下に振った。

「ああ、急ごう、追いつかれる前に」


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