1、天蓋-1
フラミンゴの置物を手に取ってつくづく眺めたところ、最終的にこれはいらないな、と結論がついた。魅力的だが有用性に欠ける隣人との出会いを惜しみながら、乱花は桃色にしゅっとした鳥を棚の奥へと押し返した。もう会うこともないだろう。
天井にまで届く背の高い棚を見上げながら、乱花は、この溢れかえる商品の森の中にはたして自分にとっての運命の出会いがあるのだろうか、などとひとり思案する。
目まぐるしいほどに立ち並ぶ商品の群れ群れは、時に彼女に微笑みかけて、時に埃を被ったまま退屈そうな表情を向けている。
彼女にとって満天堂での買い物は迷宮の中を歩くに等しい。中々楽しいが、思った通りにはいかないものだ。龍天街の雑貨屋という称号に恥じず、ここには何でもある。何でもあるが故に、彼女の心は惑い、そして物理的に奥へ奥へと迷い込むのである。
ふと、彼女は自分の腰くらいの高さに鳥かごが飾られていることに気が付いた。赤い、しなやかな素材で作られた木製の鳥かごだ。こんなものも売っているのか、と彼女はそっと手を伸ばす。指先で恐る恐る触れると、音もたてずにすっと扉が開いた。
中を覗き込んでも鳥はいない。当たり前だ。
美しい鳥かごだったが、鳥のいない鳥かごは、なんだかひどく殺風景で寒々しく感じられた。
それに、と思う。
古今東西様々な商品がぎゅうぎゅうに押し詰められた静かで賑やかな満天堂の中で、この鳥かごというのはどうにも——
「鳥かごってぇのは『檻』って感じがして良い気分がしない——とか思ってんのか?」
急に声が降ってきた。聞き覚えのある声だ。
驚いて乱花が顔をあげると、背後に背の高い男が立っていた。
色黒の肌、ツンツンとした黒髪、着崩した黒ワイシャツ、そして顏には如何にも胡散臭く紫色に光る丸眼鏡。
おおよそ、この世の殆どの人間が「胡散臭い」と感じる様相で迅龍が立っていた。
「つまらんこと考えているね」
彼はふんと鼻を鳴らして、彼女の持っている鳥かごを片手でひょいと取り上げてしまった。暫く眺めたあとに「値段不相応だぜ」と言って勝手に棚に戻してしまう。
動くたびにコキコキと小さな金属音を立てるのは彼が体の大半を機械によって構成される機人であり、その両腕が得体の知れぬ謎の合金によって構築されているからだ。
しかし、乱花が驚いたのは彼の身勝手な振舞いではない。
もっと単純に、彼と顔を見合わせるのが半年ぶりだったからだ。
久しぶりに見た従業員の顔からは、日頃馴染み切っていた無精ひげが消えていた。瞳は相も変わらず混沌の底を映したようにぐるぐると渦巻いているが、そのせいか、既に三十路は越えているというのに、どこか若々しい青年の輝きを取り戻しているようにも見える。
「……迅龍、お洒落に目覚めたの?」
先を行く男の背中を乱花は四苦八苦しながら追いかけた。彼と乱花では足の長さが違う。人込みをかきわけて進むことへの慣れも違う。
迅龍はまるでスポンジに吸い込まれる水のようだ。混雑の中にするりと入りこむと簡単にその一部になってしまう。
やっと追いついたと思ってそのコートの裾を掴んだ時には、いつの間にやら、屋台で買ったらしいイチゴ飴を旨そうにかじっている。
「どこへ行ってたの?」
差し出された彼女の分のイチゴ飴を舐めながら、乱花は訊ねた。
「俺がいなくても問題なかったか?」
迅龍の返答は、質問に質問で返していた。
彼女と迅龍は所謂雇用関係に当たる。
この龍天街で店を営む乱花が雇用者で、迅龍は被雇用者だ。
彼らはこの街で所謂"案内屋"を営んでいる。
龍天街は他種族の入り混じる入り組んだ街区であり、外部の人間には内部のことを読み取ることは難しい。
ビジネスにおいても観光においても人が良く来る街だから、専任のガイドにはそれなりの需要があるのだ。
もっとも観光ガイドや迷子の案内を主としている乱花と違って迅龍の"案内"はどうにも後ろ暗いというか怪しげな人間が集まっていている気配を感じさせるのだが。
といっても実情として、彼らの案内屋である"迅花楼"は、当時はまだ10代と年若くこの街で生きていくのに世間知らず過ぎる乱花を見かねた迅龍が、彼女の面倒を見るついでに手伝ってくれているという代物であり、どちらかというと迅龍の方が乱花の後見人といった様子である。
だから雇用主といえども乱花は迅龍の動向を管理したりはしていない。
実際、彼がふらっ彼女の前から姿を消すことは、珍しくない。もともと恐ろしいほどに気分屋で、その日の気分次第でどこでも行くような男なのだ。
とはいえ、ここ最近の不在はそれまでの放浪とは比べ物にならなかった。ぷつりと連絡が途絶え、半年ほどもまるきり姿を現さなかったのだ。
もう少し何かあっても良さそうなものだろう。
顔を出さなくて悪かったな、とか。心配をかけてすまなかったな、とか。
基本的には大人しい乱花であるが色々と思うところがなくもない。だいたい、こうは言っているが彼がいない間の迅花楼の営業は結構大変だったのだ。
文句のひとつぐらい言わせてもらっても良さそうである。
「ふむ、思うに顔のことで動揺させたかな」
「いやそれもあるっちゃあるけど……」
迅龍はつるりとした肌を撫でた。機械生命体である癖に彼には髭が生える。
無精ひげが染み付いているのは彼がそれを毎日剃る気が無いからだ。それをきちっとしているということは余程、心に変化があったのか。
ひょっとしたら、と乱花は考える。
良い人でもできたとか。
「うむ、文明の発展は全人類にとっての幸福なのだが、かといって他者の幸福を純粋に喜べる人類というのはこの資本主義社会においてはまだ誕生していないわけであってだな」
「……な、なんの話なの?」
「うーん、俺もどこに行っていたか、どこで何をしていたかと言われると困るんだなこれが。果たして俺は元々、どこに所属して何をしようとしていたのか、はて、三重スパイだったか四重スパイだったか……結局どこの誰が得したんだろうな?」
すいすいと歩きながら、男はけたけた笑った。
「な、何の話してるの?」
「わからん方がいい」
「ああそう……」
「とにかくあそこの会社の株は買わない方がいいぞ、来週には税務署が殴り込むからな」
如何にも胡散臭い語り口調だった。インチキ臭い、という言葉がこれ以上に似合う者はそうそういない。
だが、敢えてそれを追求することはしなかった。迅龍は妄言、虚言と一体化した男だ。いちいち付き合うだけ損だということを乱花はとうに理解していた。
それにどうせ株などやりはしないのだ。
彼女にとっては親から継いでしまった店を守り抜くことで手一杯なのだから。
あるいは———儲けにもならない店など売り払って投資にぶち込んでしまった方がマシな人生かもしれないが。
「ああもう、分かった、どこに行ってたかはもういいよ。それで……これからはどこに行くつもりなの?」
迷いなく進む彼の背中に問いかける。
「案内人としては覚えていた方が良いところさ、迷える子羊には特にね」
迅龍は人を惑わせるようにそう返した。
乱花はそのビルを『怪物ビル』と呼んでいた。『お化けビル』では子供っぽ過ぎるからだ。
そのビルのことを『奈落ビル』と呼ぶ人もいるし、『重層商店街』と呼ぶ人もいるらしいのだが、乱花にとってはやっぱりただ只管に『怪物』である。
街に馴染んだ者たちはよくそれを聞いて笑ったものだったが、「言い得て妙だ」と迅龍はよくよく頷いていた。それから「分かってるだろうがひとりで怪物には近づかないようにな」と釘を刺された。
『怪物ビル』は実に大きなビルだった。といっても、ひとつのビルではない。
中心地の空白を囲むように雑居ビルが群れ成していて、商業施設がみっちりと詰め込まれているのだ。
真ん中は吹き抜けだ。吹き抜けと言うか、大きな空洞と言っても良い。見上げれば遥か高くからお日様が差し込み、見下ろせば地の底は闇に呑まれてみることが出来ない。
中心の土地だけ買収することが出来ずに残っており、その部分にはこの街を揺るがすような大きな秘密がある……なんて噂もある。迅龍はそこには穴が開いていて地獄まで続いている、という説を推しているが。
とにかく上にも下にも横にも複雑怪奇に伸びたこのビルは、商業ビルというより立体的な商業街区というのが正しいのだろう。下手に迷い込めば、容易には外に出ることが出来ない迷宮となる。
迅龍は常々「迷宮にも種類がある」と言っていた。
龍天街は元々複雑怪奇な街だ。とにかく猥雑で、入り組んでいる。迷宮といっても過言ではない。
しかし、空は違う。見上げれば空が見える。背の高い建物を目印にすればなんとなく方角を掴むことができる。
それに、だ。
乱花の背中には翼があった。
彼女はアンヘルという種族だ。天使の末裔と称される彼女の背中には小さな翼が生えており、なんとかかんとか空を飛ぶこともできる。
不器用で体力もない彼女にとって空中飛行などすればうっかり墜落しかねないから、なるべくやりたくはないのだが、最悪の時は別だ。空を飛べばどんなところからでも家に帰ることくらいは出来るだろう。
ところが建物の中には、空はない。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、みんな冷たいほどに何も教えてくれないこともある。翼をどれだけはためかせようとも、それこそ檻に閉じ込められた鳥のようにどこへ行くことも出来ない。
そういうところで迷うのが一番恐ろしいのだと、迅龍は言っていた。
そうやって脅かされているから、龍天街の案内人として恥ずべきことなのかもしれないが、これまで乱花はあまり怪物ビルには足を踏み入れてこなかった。そういう仕事は大体、迅龍に回されていた。
それなのに今、彼女はその怪物ビルの狭い路地を迅龍について歩いている。既に帰り道は覚えていない。ここで迅龍に置いていかれたら、果たして無事に外に出られるのか、自信が無い。ここで迷子になったら、と考えるとぞっとする。
辺りを見渡しても、彼女たち二人以外には人の姿は見えなかった。ここは怪物ビルの中でも、人の少ない街区らしい。それもこれも、迅龍が「知る人ぞ知る」みたいな細道を好んで突き進んでいくからであろう。
「この先だぜ」
如何にも雑居ビルといった武骨な階段をのぼると、迅龍は薄暗く無機質な路地の先を指した。
建物の内側に位置するのだろう、窓が無い、狭い通路だ。左右のそれぞれの壁には全く同じ簡素なドアが等間隔で並んでいた。紫色で、金色のドアノブがついている。
何のお店だろうか。それともオフィスだろうか。看板のひとつもないから乱花には分からない。時折、花飾りが飾られていたり、ネームプレートがぶら下がってはいるドアもあるが、それもその無個性さを取り払うほどには至っていないように思われた。
乱花が耳を澄ませると、扉の奥から押し殺したようなひそひそ話が聞こえてくるような気がした。
カツン、と音を立てて迅龍が突然止まるから、乱花の鼻先は彼の背中に押し付けられた。「着いたの?」と鼻をおさえながら見れば、そこだけ周囲と一風変わった扉になっていた。
茶色い木製の扉の真ん中に、虹色に輝くステンドグラスがはめ込まれている。その奥には、ごちゃごちゃと何か商品らしきものが棚に並んでいることが見えるから、どうやら商店らしいことが察せられる。見れば、扉の脇に品よく『天蓋』と書かれている。この店の名前だろうか。
「うぃーっす」
声と吐息が半分ずつ混ざったノイズのような息を吐きながら、迅龍がその扉を開いた。
カランコロンと、古びた鐘が鳴る。
彼について足を踏み入れて、乱花はあっと息をのんだ。
奥まで続く無数の棚の中にならぶ、鳥かご、鳥かご、また鳥かご。
そこは言わば、鳥かごの見本市だった。
古今東西、ありとあらゆる場所、時代から取り寄せられたのではないかというほどに、所せましと鳥かごが並んでいる。零れた様に床にそのまま置いてあるものもあれば、天井がぶら下がって微かに揺れているものもある。よく見れば間接照明だと思っていたランプも、ランプの形をした鳥かごの中に電球が収められているようだ。
乱花はこんなに多くの鳥かごを見たことは無かったし、それ以前に、この世にこんなに多種多様な鳥かごがあるなど、考えてもみなかった。
無数の鳥かごの棚の奥の、窓を背にしたカウンターに髪の長い女性がひとり座っていた。これといって特徴が無いことでお馴染み、ヒューマンという種族の女性だ。
女店主は来客に興味がないのか、二人の方にちらと目を向けると、会釈ともとれない微かな揺れひとつで返事をしてみせた。
「ここは……」
「お察しの通り、鳥かごの専門店だ」