伝書鳩の夏休み 第九回
九 解析報告
真夏の朝にカーテンを開くことは、沸騰している薬缶の蓋を開けることに似ている――という例えはあまり上手では無いが。
差し込んできた強烈な光で、相沢の目も覚めたようだ。眩しさにやられて不快そうにブランケットで顔を覆った。
反撃されつつもなんとか体温を測ってみると、三十七・二度。このまま下がればいいのだが。
相沢にやる朝食を貰うために一階へ降りると、いつか聞いた若い女性の声がした。彼女から注文を受けた執事はどこかへ立ち去っていった。
「おはようございます、北府刑事。」階段を降りて声をかけると、彼女は黄色いミュールを鳴らして僕の方へ体を向けた。爽快な北府刑事には夏がよく似合う。
「おはよう、野崎君。早起きさんね。」彼女は、靴と同色のエンベロープ・バッグからホチキスで留めた紙束を取り出し、僕の手に持たせた。「嶌津さんの部屋がどこか分からないから、代わりに渡しておいてくれる? 新情報がいっぱいなんだから。」
「嶌津さんは、ここにはいませんよ。麓の旅館に逗留中です。」
俄かに彼女は慌て出した。「どうしましょう! 私、火芝さんからお話を聞いたらすぐに署に戻らないといけないのに……」
「それなら、僕が持っていきましょう。」僕だって、そこまで分からず屋の男ではないのだ。だから、あっさりと「そう、ありがとネ。」と言われても、何か不満を持ったりなどはしないのだ。――
執事が戻ってきて、北府刑事は階段裏の扉の向こうへと消えていった。
ひとり残された僕は、紙束に目を落とした。寝起きの頭にはやや難解な内容だったので、何度目か読み直して内容を理解した。
西側の廊下に続く扉が開き、火芝君が現れた。
「おはよう、野崎君。刑事サンから何を受け取ったのかな。」火芝君は、好奇心を隠すことなく僕の手元を覗き込んだ。
「聞いていたのかい?」
「さあねえ。」火芝君は、いたずらっぽく笑った。「へえ、アコニチン……やっぱりねえ、猛毒だ。ポロネーズに混入していた、か。やっぱりそうか。」とひとりで納得しながら、次々に紙をめくっていった。
勝手に教えてしまっていいのだろうかと僕は逡巡したが、事情聴取の内容を洗いざらいぶちまけてしまっているので、今更気にしても遅いのだと今更気が付いた。
「とにかく僕は、今日中にこの書類を嶌津さんのところへ持っていくよ。」
そして、相沢の朝食のことを思い出した。
僕は、僕たちの分の端材で作られたそれを運びながら、嶌津青年の乱れきった私生活について考えていた。
――しかし、嶌津さんは見当違いの場所で遊んでいた。
「嶌津様と美依様は、一昨日からお帰りになっておりません。〈加祭屋〉さんへ遊びに行くと仰っておられましたが――」老舗旅館〈二木屋〉の受付女性の目は “行かない方がいい” と訴えていた。
その理由は、すぐに分かった。〈加祭屋〉は、中心街から離れた山中の青楼だったからだ。麓の建物よりもずっと大きいかわりに、ずっと質の悪い印象を受けた。
ぼんやりした老婆に案内されて階段を上がっていくうちに、僕は憂鬱になった。受付の前にいた時からどこからともなく聞こえていた乱痴気騒ぎの音源が、教えられた部屋であると確信したからだ。
大勢の酒乱と娼妓の奇声の奥で、味気ない三味線がぽんぽん鳴っていた。
幸いなことに襖をそっと開くと、目の前に嶌津さん、その奥にぶっ倒れている美依さんがいた。嶌津さんは、片膝を立てて畳に直接置いた皿から刺身を拾いつつ日本酒を呷っていた。
僕が四つ這いになって声をかけると、彼はお猪口をぐいと呷った姿勢のまま目線だけを僕に寄越した。「こんにちは。今、ちょっと良いですか。北府刑事から情報が届きました。」
信じられないことに、彼は “何の話だ? ” と、やや上方に視線を向けて思案し始めた。以前にもこんな光景を見たことがあったので、現在、彼の脳内でどのような会議が行われているのかは察することができた。いつか僕が、まだ風呂に入っていないのかと叱ったときのことだ。
「赤沢氏の事件のこと、忘れちゃったんですか?」
彼は、頭をこちらに向けてじっとなった。白兎と同じ真っ赤な目に、反省の色はまるで混じっていない。
「あなたが動かなければ、一般人の介入を特別に許可した満願警部たちの面目は丸潰れになってしまいますよ。」
僕は、彼の片方しかない腕を掴んで屋外に連れ出した。
「今朝、北府刑事がジニア荘に来て、嶌津さん宛の書類を僕に託して行かれました。」
書類は彼の膝の上に置いた。差し出すだけでは受け取ってくれないからだ。
嶌津さんは、文面を読み終えたらしく書類を僕に突き返したので、僕はそれを突き返した。
「いいえ、これは嶌津さんが持っているべきものです。そりゃあ、あなたにとっては、勝手に巻き込まれて迷惑千万でしょうけど――どうか、北府刑事の面目――ひいては、僕たちの安全のためと思って協力してくださいませんか。」我ながら、ひどいと思った。満願警部ではなく若い女性刑事を交渉に持ち出したことも、僕を守れという傲慢不遜な要求も、なにもかもひどいと思った。
それでも彼は、不使用の左の袂に書類を四つ折りにして収納した。
「二木屋には、まだお戻りになられないのですか。」別れ際に僕が聞くと、彼は曖昧に首を傾げた。「僕もわざわざ昭久さんに密告したりはしませんが、あまり羽目を外し過ぎないようにお願いしますよ。無茶な飲み方はいけません。」
坂を登りながら、不意に火芝君が言った。「面白い人だね。」
「ああ。それに、尊敬に値する仕事をする人だ。――私生活の無茶苦茶ぶりはともかくとして。」
「ある人は、作品が全てだと言っていたよ。」
「けれど、死んでしまったら元も子もない。」つい力がこもった。
火芝君はくすくす笑った。
その尊敬に値する彼がジニア荘に現れたのは、その日の夜のことだった。
僕たちが廊下で立ち話などをしていると、来客があった。玄関を覗いてみると、応対に出た執事の前に、傘で防ぎきれなかった雨にぐっしょり濡れた嶌津さんが立っていた。彼は執事に手帳のあるページを見せていた。
火芝君が執事の真横に立って手帳の文字を音読した。「『二、三日部屋を貸してくれ。世話はいらない。』と。いいじゃないか、叔母さんだって、美青年を引き入れたことを悪く思ったりしないさ。」
執事は怪訝そうにしていたが、知鶴さんからは簡単に許可が下りた。そうして、新たな宿泊客には一階の南西に位置している角部屋が与えられた。僕の二つ隣。本来なら相沢が使っていた部屋だ。日当たりは悪くないのだが問題があり、扉の開閉音や走る音などが家の中で一番響くのだ。だから、もし相沢がここに入居したとしても、結局すぐに向かいの空き部屋に移っていただろう。もっとも、その向かいの部屋は電気が点かないのだが。
火芝君と共に嶌津さんの部屋を訪ねると、彼は呑気にベッドに寝転がって煙草を吸っていた。寝煙草は危険だと再三に渡り忠告しているのだが、一向に改める気配は無い。
「二木屋に戻らなくても良いのですか? お連れの方が心配しているでしょう。」火芝君が丁寧に聞いても、彼は何ら反応を示さなかったが、僕が「随分はしゃいでいらっしゃいましたが、お支払いは足りたのですか?」と聞くと、ほんの少しの石化の後、不自然な瞬きが観測された。
逃げてきたのだ。
嶌津さんは、煙草を咥えたまま仰向けになって面倒そうに僕を見上げた。
僕は、彼の口からピースを引き抜いてアッシュトレイに処分した。