伝書鳩の夏休み 第七回
七 推理の時間 その一
ここの天気は変わりやすい。今は、先ほどまでの豪雨が嘘のように晴れ渡っている。雨に洗われて景色が一新されたような瑞々しい感じがした。
空腹を解消した僕たちにとって、目下の問題は体中のべたべただった。僕たちは、発熱した相沢が知鶴さんの指示によって二階に隔離されたのを見届けてから、麓の温泉街を目指して来日川沿いを下った。
僕は、俄かに知鶴さんに対して罪悪感を覚えた。知鶴さんは、自分の企画した同窓会へ向かう道のりで、痛ましい事件が起きたことに胸を痛めているに違いないのだ。
「僕たちは、もっと喪に服すべきではないのかな。」僕がそっと火芝君に耳打ちすると、彼は僕の顔をまじまじと覗いて「その通りだ。」と言ってニッと笑った。歩きながらのことだったので、何度かお互いの鼻先がぶつかりかけた。
「潑之介、山郷君。ただいま野崎君から、哀れな知鶴嬢の精神安定のために素敵な提案がなされたよ。僕たちの手で、事件を解明してみせるのさ。」と、僕の言葉を曲解して言った。山郷君は目を丸くして、活良木君は “勝手にしろ” と言いたげなため息をついた。
僕は、もう何も言わなかった。
駅前通りを直進すると、七つある外湯のひとつ〈地蔵湯〉に突き当たった。この時期、観光客の目的は専ら海で、殊に熱いことで有名な城崎の湯に人影はまばらだった。もっとも、旅館では夕食の時間であることも関係しているのだろう。
「時系列順に情報を整理してみよう。」火芝君がワイシャツを戸棚に置きながら言った。脱衣所には耳の遠い老人たちが数名いるのみで、火芝君は声量に気を払わなかった。
「始まりは催しが始まったところから?」山郷君がくしゅくしゅの兵児帯を解きながら聞いた。
「ああ、そこからで構わないだろう。それで『演者』たちは舞台のどこに?」
僕は、彼の露悪的な言い方に寂しさを感じながらも、彼の所望する回答を差し出した。「被害者と緑野氏は窓辺の席で向かい合っていた。白灘氏はその周辺をうろついていて、水口氏は離れた被害者よ近くのカウンターで一心にゲームに興じていた。戸黒氏は被害者から遠く離れた一人席で、青山氏はバーにはそもそもいなかった。」
火芝君は満足そうに二度頷き、戸棚を閉めた。
大きな楕円形の湯船へ肩まで浸かると、一時に全身が軽くなって、混沌とした思考が安楽になった。
「彼らの証言を信じるならば――僕たちが来た時、つまり、催しが始まる直前から既に彼らはその立ち位置にいたわけだ。」
「被害者が舌の痺れを訴え出したのは二杯目を飲んだ後からだから、問題になるのは二杯目が提供された前後の行動だね。」
「被害者の飲んだ毒は何だったんだろう。僕は、アコニチンだと思うけどね。」火芝君は半身を引き揚げて階段状になった縁に座った。「二杯目のポロネーズは、サクランボのカクテルだったね。味は分からないけれど、濃い紅色で生のサクランボが縁に飾られていた。」
「ああ、とても綺麗な色をしていた。あのカクテルに毒を入れるチャンスがあったのは誰だろう。もっとも機会を得たのは、ごく近くに座っていた緑野氏だけど――」僕は火芝君の隣へ行くか迷ったが、肩まで沈めたままで話を続けた。
「うん、彼女には動機もあるんだったね。随分、被害者にこき使われていたそうだけど、どうして離れて行かなかったのかな。」
火芝君がそう言うと、初めて活良木君が口を開いた。「飽くまでも友だちだったからじゃないのか。」
ぶっきらぼうな口調だったが、僕は活良木君が議論に参加してくれたことが嬉しかった。
「うんうん。活良木君、君はこの事件をどう見る?」僕は少し熱心になって聞いた。
「……いつか、馬鹿な鳥が窓に突っ込んできたろ。お前らは笑ってたが。」そこで少し黙り込んで「いいや、そんな小説を、いつか読んだことがあるだけだ。」
彼の言葉数が少ないのは、人一倍、考え考えして話すからではないかと思った。
「僕、びっくりしちゃったなあ。」山郷君がのほほんと言った。
「瞬間的な視線の空白! 衆人環視の中、人が殺されたとなればそこを疑うのが常道だったね。」僕はより興奮して言った。
それに反して、火芝君はリアリスティックだった。彼には僕のような感慨はないようで、あっさりした意見を述べた。
「偶然訪れた瞬間? まあ、予め機会を伺っていたなら不可能ではないかもしれないけど、ちょっとどうかな。」
「粉薬じゃなくて丸薬だったとしたら現実味は増すよ。」僕は活良木君の顔を立たせたくて庇うように言った。
犯行は、皆が情けない鳥を笑っていた時に行われたのだろうか? 最も怪しむべきは、やはり緑野氏なのだろうか?
――動機の点から見れば、無い人の方が居ないくらい被害者は恨みを買いまくっていたようだが、殺してしまう程というのは生半可な怨恨ではない。
もっと大きな、覆しようのない何か?
とにかく、解析結果が出ないことには推理は進められない。
気付けば僕は黙り込んでいた。ばしゃばしゃと音がして顔を上げると、山郷君が深い湯船の中で、湯を掻き分けつつ跳ね回って遊んでいた。極端に背の低い彼は、そうしていると小学生くらいに見えた。
それをきっかけに、僕たちは事件のことを忘れて遊んだ。