巻き戻っても記憶がなくても結局溺愛されることに変わりはないようです
伯爵家に生まれたセリア=スタンライトの人生が満ち足りていたと思うのは、親が決めた婚約者であるイーリオ=アズハルムを心から愛せたからだ。
学院を卒業するまで、あと二か月。
その後二人は結婚することになっていた。
その時を心待ちにし、そわそわとしていたからこんな事故に巻き込まれたのかもしれない。
けれど、痛みでぼんやりする頭で果たしてそうだろうかと考える。
街中を急ぐように駆ける馬車を避けようと道の端に寄ったはずが、誰かに背中を押されたような気がする。
ただ、そんな思考はすぐに悲痛な叫び声によってどこかへ霧散した。
「セリア! いやだ、死んじゃ駄目だ!」
婚約者の薄茶色の髪は乱れ、深い蒼の瞳からはとめどなく涙が溢れて、いつもは柔らかな笑みを浮かべているその顔はぐしゃぐしゃで。
婚約が決まった当初は互いにこんなにも惹かれ合うとは思ってもいなかった。
けれどイーリオの優しさや人にはわからない強さに惹かれていったのは自然なことで、気付けば他の人には代えられないくらいに好きになっていた。
「ねえ、聞こえてる? セリアがいなければ僕は生きている意味なんてないんだよ」
相変わらずイーリオは、甘い言葉ばかりを言う。
けれど今ばかりは、嗚咽に擦れたその声が切ないばかりだった。
血に濡れた手を必死に伸ばせば、イーリオがその手を取り自らの頬にあてる。
セリアにはもう、目がかすんで色もわからなくなっていたけれど、上から重ねられたイーリオの大きな手の温もりだけは感じられた。
ほっとして肩の力を抜き、イーリオのいるだろう虚空に向かって笑みを象る。
「泣かないで……。綺麗な顔が台無しよ」
「どうしてこんなときまでそんな男前なんだ……。僕のことなんて今はいいよ」
それでもセリアは、最後の力で声を振り絞った。
「だいじょうぶ……。まだイーリオの、じんせいは、長い、わ――。どうかだれかを愛して、しあわせに、いき……て――」
「いやだ! セリア、行かないで! 僕を置いて……どこにも行くな!」
イーリオが激しく叫ぶその後ろから、優しく言い聞かせるような声が聞こえた。
「イーリオ様! 私がおりますわ。私がずっと、傍におりますから」
セリアには見えないけれど、イーリオが何かを振り払うような気配がした。
「セリアをこんな目に遭わせた人間が何を言っているんだ? ふざけるな!」
「え? いえ、そんな、私はただ通りかかっただけで――」
「君がセリアを押したところを僕は見た。誰が何と言おうと、僕は君だけは許さない。二度と目の前に現れるな!」
激昂したイーリオの後ろから、今度はぽつりとした声が聞こえた。
「あ……、ちがう、ちがうちがう、私じゃないの」
しかしイーリオは「セリア!」と遠ざかるセリアを引き留めようとするようにひたすらに名を呼ぶばかり。
「……間違えた」
間違えた?
ぽつりとした声は次第に焦りを帯びていった。
「こんなはずじゃなかったのに。もう一回、もう一回やり直させて」
何を言っているのだろうと思った。
命をやり直すことなんてできはしないのに。
けれど、そこから先はもうセリアの耳には何も聞こえてこない。
目の前に広がる暗闇が耳までも覆ってしまったようで、セリアは何もない世界にただ一人取り残された。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「っは――!」
勢いよくがばりと起き上がれば、くらりとした。
「夢……?」
なんだか長いこと夢を見ていたような気がする。
それも呟いた瞬間に霧散してしまったかのように、もうどんな夢だったのかは思い出せないけれど、満ち足りた気持ちと一緒に、悲しい気持ちも胸に残っていた。
自然と頭に手を触れ、血が出ていないかと確かめていたことに気がつき、苦笑する。
夢で怪我をしたとしても、現実に血が流れているわけはないのに。
八歳になったばかりのセリアは、伯爵家の娘でありながら身支度を人にされるのが好きではなかった。
侍女も呼ばずに手早く着替えると、さっさと階下へと下りる。
今日は父親から大事な話があると言われていた。
おそらく婚約のことだろう。
貴族が幼いうちから婚約を結ぶことは珍しくない。
セリアにもその覚悟はあった。というよりも、相手が誰であろうとなるようになるだけだと諦めていたという方が正しい。
しかしその婚約はセリアが思ったよりも様子がおかしかった。
「気に食わん。もうほとんど話がまとまりかけているところに横やりを入れてくるなど」
ダイニングに入るなり、毎朝時間をかけて整えている口ひげを苛立たしげに撫でる父ダンツに、セリアは首を傾げた。
「横やり、とは。他にそのアズハルム伯爵家のイーリオ様という方と婚約したい方がいらっしゃるのですか?」
「ああ。しかも決まりかけたこんなタイミングで、格上の侯爵家がわざわざ、だ。その理由もかわいい娘の懇願を聞いてやりたい親心だなどとはますます気に入らん。たった六年しか生きとらん子供が、この先何度『本気の恋』『一生のお願い』を繰り出すことか。いちいちそれを本気にして振り回されていたらやっておれんわ」
確かにダンツの言い分にも一理あるとセリアは思う。
だが何故そこまでダンツが憤るのかがわからなかった。
「何故その婚約に拘るのですか? 今回はうちとはご縁がなかったということでお譲りしたらいいではないですか。貸しもできますよ」
決まりかけていた婚約者にはまだ一度も会ったことがない。
知っているのは、同い年なこと、双方の家に利益があって結ばれる婚約だったということくらいだ。
婚約者が知らない誰かから別の知らない誰かに変わろうと、どうでもいいことであった。
「貸しになどなるか! 格上の侯爵家が嫁に出してやると言っているのだから、喜べとばかりにせせら笑っておるだろうよ」
なるほど。
プライドの高い父にはその辺りが気に入らないのだな、と理解した。
「まあ、別に超優良物件だったというわけでもないでしょう。他にもっと条件のいい方を見つけた方が我が家にとってもいいのではないですか? お父様も『常に上へ!』と仰っているではありませんか」
「だがそんなに熱望されるほどの相手となれば、気になるだろう? 惜しくもなるだろう? 何より、爵位が上であるのをいいことに、いきなり横からしゃしゃり出てきた侯爵が気に入らん」
鼻息荒くまくしたてたダンツは、くるりとセリアを振り返り、にやりと笑った。
「だから譲ってやらんことにした。早速明日、婚約締結の書類を交わしてしまおう」
「あ……明日?! 先方はそれでいいと仰っているのですか?」
「ああ。人の好いアズハルム伯爵も『なんかぐいぐい来られて怖い』と怯えておったからな。事情を知らぬ私が予定通り婚約を進めた、という形で押し切ることにした」
ダンツは完全に悪い顔で口ひげを撫でつけていた。
娘の前で性根の悪さを隠しもしない。
いや、貴族などこれくらいでないと生き抜いていけないという教えなのか。
「えええ……。それでいいのですか、本当に」
横やりが入るまでは、他の候補も視野にいれていたのに、誰かに取られそうだからと即決してしまっていいのだろうか。
考えてみたが、後になってから「やっぱり早計だったな」と口ひげをしごくダンツの姿が容易に目に浮かんでしまう。
「いい! 優良物件は早い者勝ちだ。遅れては勝機を逃す!」
はっきりと言い切ったダンツに、セリアはため息を吐き出した。
どうせ面倒事が嫌いな母に相談しても、『お父様に任せておけばいいのよ』と流されそうだ。
まあ、なるようになるだろう。
八歳らしからぬ悟りを開き、セリアは「ふはははは」と悪役にしか見えない哄笑を響かせる父に背を向けた。
しかし。
翌日初めて婚約者に会ったセリアは、自分も父の血を引いているのだなと実感させられた。
はじめはどこにでもいる平凡な少年だと思った。
薄茶色の髪。
深い蒼の瞳。
少しだけ丸っこい、子供らしい顔立ち。
取り立てて特徴もない、見た目に惹かれるものもない。
それなのに何故ラマゼンダ侯爵令嬢は彼にこだわるのかと疑問に思ったくらいだ。
ただ、セリア自身は面食いというわけではないし、外見の良さよりも仲良くやっていけるかどうかの方が重要だ。
平静を装い、どんな人なのだろうと値踏みをするように観察していると、目の前に立った彼はにっこりと笑った。
「イーリオ=アズハルムです。あなたのようなかわいらしい方が僕の婚約者だなんて、嬉しいです」
八歳でも立派に紳士な挨拶を受けて、理由が少しだけわかった気がした。
イーリオの笑顔も言葉も、社交辞令だなんて微塵も感じさせない。
内心ではがっかりしたのはイーリオの方かもしれないのに。
亜麻色の髪も緑色の瞳もありふれていて、セリアもまた平凡な顔立ちなのだから。
セリアはイーリオのまるで邪気のないほんわかとした笑みに、一気に毒気を抜かれた気がした。
それでも表情を変えないように努めて挨拶を返す。
「セリア=スタンライトです。そう仰っていただけて光栄ですわ」
愛想笑いも社交辞令も飾り気もないセリアの挨拶にも、イーリオのにこにことした笑みが崩れることはなかった。
貴族の娘でありながら、無用な愛嬌を振りまくこともしないし、それどころか常に相手の出方を窺っているセリアとは正反対の人間だ。
ダンツにはよく、男に生まれて来ればよかったのにと言われているくらいだ。
気は強いし、にこにこと愛想を振りまいて誰かに守ってもらうよりも、自分で自分を守る力を身につけた方が早いし確実だと考えるタイプだった。
だからセリアはあまり表情を表に出さない。
表情を読まれることは、相手に隙を見せることだと思っているから。
「父たちは込み入った話もあるようです。その間、僕たちは庭園を散歩しませんか?」
イーリオのその申し出には少しだけ迷った。
けれど婚約者となるのならば、相手を知っておくことは大切だ。
「はい、是非」
そう答えれば、イーリオはにっこりとセリアの手を引いた。
躊躇いもなく手を取ったイーリオに、セリアは驚いた。
彼はあっという間にセリアが築こうとした壁を飛び越えてくる。
害意のない笑顔と、無邪気で素直なその行動で。
けれどにこにことしたその顔の裏には、まったく違う感情が潜んでいるのかもしれない。
単にお人好しなのか、腹黒いものを押し隠しているのか。
それを見極めてやろうと、セリアは手を引き歩くイーリオをさりげなく観察し始めた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
外に出ると、午後の光はまぶしかった。
帽子を目深にかぶり、イーリオに手を引かれるままについて行くと、やがて薔薇の香りを感じた。
「ここが今一番オススメの庭です」
案内されたそこには、赤とピンクのバラが一面に咲き誇っていた。
ところどころにつぼみは見えるが、満開と言っていいほどに咲き乱れている。
垣根で覆われているためか、薔薇の香りも濃く辺りに立ち込めていた。
「うわあ……。これはすごい」
正直を言えば、観察したいのはイーリオであって、薔薇には興味などなかった。
けれどその光景を目の当たりにしたら素直に感嘆の声が出た。
自然と頬が緩んでいたことに気が付き、セリアははっとして顔を引き締めた。
けれどそれはすべてイーリオに見られていたらしい。
「よかった、喜んでもらえて」
嬉しそうに笑ったイーリオに、ついほだされそうになる。
いやいや、本性はまだわからない。全てお見通しで、掌の上で転がされているのかもしれない。
ただ、嬉しそうに笑っているその顔に悪意を見つけることは難しかった。
疑っているこちらが悪い人間のような気がしてきて、セリアは気まずい思いで顔を俯かせた。
その時不意に強い風が吹き上げ、セリアの帽子をさらった。
「あ、帽子が」
慌てて追いかけたものの、帽子は高く舞い上がり木の枝に引っかかってしまった。
どうしようかと逡巡したのは一瞬のことだった。
いい機会だ。
彼がどう出るか、見てみよう。
さっさと彼の本性をハッキリさせてしまいたかった。
セリアは木を見上げて、よし、と気合を入れると、幹に手を伸ばす。手が届くところに枝は生えていないから、幹にしがみついてよじ登るしかない。
淑女にはあるまじき行為だが、幸い周囲には誰もいない。
ダンツにバレたら大目玉をくらうのは目に見えていたが、バレなければいい。
けれどその手は木に触れる前にイーリオに止められた。
「待って、危ないよ」
「あの帽子は大切なものなの」
そうでもないのだが、ここはそういうことにする。
さあ、セリアのお転婆さに呆れて顔をしかめるか。
これでもまだ笑顔を張り付けて内心を押し隠すのか。
窺うセリアを見もせずに、イーリオは木を見上げた。
「僕が取って来るよ」
何でもないことのようにそう言ったイーリオは、セリアの予想のうちどれでもなかった。
「あなたが?」
親の言いつけを素直に守る、優等生な貴族の子息としか見えず、木登りをしたことがあるようには見えないのに。
目を丸くしてまじまじと見れば、イーリオは「少し待っててね」と腕まくりをした。
そうして躊躇いもせずに木の幹にしがみつくと、足をかけるような場所もないのに器用にひょいひょいと登って行った。
帽子はそれほど高いところまで飛んだわけではなく、下から二本目の枝の半ばあたりに引っかかっている。
「うーん。届いた!」
手を伸ばしたイーリオは難なく帽子を捕まえ、そこから「受け取って」とセリアの方へと帽子をそっと投げて寄こした。
手に持ったまま下りて帽子を傷めてしまってはいけないと思ったのだろう。
最後は木の幹を蹴るようにして「よいしょっと」と身軽に飛び降りたイーリオに、セリアは動揺が隠せなかった。
「あ、ありがとう。自分で取れたのに」
かわいくもないことを言ってしまった。
けれど正直を言えば、木登りなどしたことがない。
ないけれど、そもそも自分の失敗なのだから自分でどうにかしなければと思ったのは本心だ。
反応を見たのはそのついででしかない。
イーリオは先程と同じ、何でもないことのように言った。
「セリアの柔らかいその手が傷つくのはもったいないから」
もったいない。
その言葉に、セリアは思わず目を丸くした。
傷つけたくない、なんて気障な言葉ではない。
ただ素直な子供らしい言葉に、セリアは吹き出すようにして笑った。
「よかった。笑ってくれた」
そう言ってイーリオは、嬉しそうに、そしてどこか照れたようにはにかんだ。
そのあまりにも純粋な笑みに、セリアの胸が思わずきゅんと音を鳴らす。
見た目は平凡で、どこにでもいそうな、普通な男の子。
けれどくるくると表情を変えるイーリオは子犬のようで。
――かわいい。
不覚にも、そう思ってしまった。
他の誰かに黙ってくれてやるのは嫌だ。
セリアがそう思うのには十分だった。
まるで昨日のダンツと同じ思考をしていると気が付いて、セリアもダンツの娘なのだと苦笑した。
「垣根の向こうの薔薇は別の品種で、今はまだつぼみなんだ。だからまた見に来てね、セリア」
「うん。楽しみにしてる」
にこっと笑んだイーリオに、セリアは自然と笑みを返していた。
いつの間にかセリアが作り出した硬い空気は、ふわりと溶かされていた。
それが妙に心地よくて、セリアはまたイーリオに会いたいと思った。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「本当にいいのかなあ、侯爵に黙って勝手に話を進めてしまって」
眉を下げ、そわそわと所在なげなアズハルム伯爵に対して、ダンツは完全に開き直っていた。
「私に押し負けたと言えばいい。私は何も知らないのだから、誰かに遠慮する必要もない。老いた義父母を安心させてやりたいという私の子供心から、時期を早めたいとお願いしただけのこと」
「でも」
「侯爵の娘さんの熱も一過性のものだろう。ご子息には彼女と会った記憶もないのだろう? そんな記憶にも残らないようなささやかな思い出は、六歳の娘などすぐに忘れるだろうさ。結果として侯爵も娘を諦めさせるいい理由ができてほっとするに違いない」
書類さえ提出してしまえばこちらの勝ち、と昨夜言っていたダンツの腹黒さと強引さをセリアは知っている。
けれどこの場では勿論黙っておく。
「そう……ですね。侯爵家と繋がりができることを利益と思うよりも恐ろしいと感じてしまう私には、この申し出はありがたいですし」
どこまでも人の良さそうなアズハルム伯爵に、紛うことなきイーリオの父親だなとセリアは納得していた。
そんなやり取りがあって、セリアとイーリオの婚約は無事結ばれた。
ダンツが読んだ通り、侯爵は娘との婚約がなされなかったことを残念がったものの、怒りを向けるようなことはなかった。
内心では娘の我儘に困り果てていたのだろう。
「ほらな。私はアズハルム伯爵家も侯爵も救ったのだ。娘さんにはかわいそうなことをしたが、早い者勝ちという言葉を覚えるいい機会にもなっただろう」
都合よくそんなことを言っていたダンツだが、セリアにとってもその判断は歓迎だった。
かくして、二人の婚約は成ったのだった。
それから半月が経ち、セリアとイーリオは揃ってガーデンパーティに出席することになった。
子供の内から社交は始まっている。
セリアは面倒だと思いながらも、またイーリオに会えることを楽しみにしている自分に気付いてもいた。
あれからイーリオとはアズハルム伯爵邸で一度だけ会った。
約束通り、違う品種の薔薇が咲いたと招待をもらったのだ。
それからお礼の手紙と返事が一往復。
だから会うのは久しぶりというほどでもないのに、セリアは何故だかそわそわと落ち着かずに日々を過ごした。
そのお茶会でセリアは婚約騒動がまだ終わったわけではないのだと知った。
そこにはあの侯爵の娘も出席していたのだった。
憎むように睨む目。
ギリギリと噛みしめた唇。震えるほどに強く握り締められた拳。
パーティーで出会った彼女は、全身でセリアに怒りを向けていた。
ふわふわと丁寧に巻き、背中に流しているそのピンクの髪は特徴的なのに、見覚えはない。
彼女は誰だろう。
その疑問は、父と共に挨拶回りに行っていたイーリオが戻ってきたことで判明した。
イーリオの姿を見るなり、彼女はぱっと顔を明るませ、きらきらとした笑顔を作った。
まるで別人のように。
「イーリオ様! ああ、まっさらなあなたにやっと会えましたわ! ずっとずっと、お会いしたかった……」
「失礼ですが、あなたは?」
あまりの彼女の熱量に戸惑いながらイーリオが訊ねると、彼女は幼いながらも慣れた様子で淑女の礼を取った。
「ラマゼンダ侯爵家が次女、ミアナと申します。先日は突然の婚約申し入れに戸惑われたかと思います。失礼いたしました。これから私を知ってお考え直しいただければかまいません。婚約はあくまで婚約。まだイーリオ様は結婚なさったわけではないのですから」
そう言ってミアナはにっこりと笑った。
イーリオの笑みとは違う。
ミアナの笑みは、見ているものに――特にセリアに圧倒的な圧を与えた。
本当に六歳だろうか。
セリアはこんな子供には会ったことがない。
まるでその中に計り知れないものを抱えているみたいに、底が知れない。
こういう相手は関わらないに限る。
だが彼女のほうはイーリオを知っているようで、それもいやに執着を見せているからそうもいかなそうだ。
そう思ったのに、イーリオはあっさりと言った。
「申し訳ありません。セリアとの婚約は僕にとっても父にとっても重要で、熟考の末に申し込んだもの。考え直すということはありませんので、限られた時間はどうか他の方に有効にお使いください」
その言葉に、ミアナは半笑いを浮かべながら、「え……?」と愕然とした。
「そんな、家柄からいっても、比較にはなりませんわ。まだ八歳とはいえ、どれだけ利益のあることかおわかりになるでしょう?」
「失礼ながら、爵位の高さで利益が決まるものとは私は考えておりません。片方だけが多大な利益を得る結婚というのは通常ありえませんよね? 互いに利益があるから家同士の婚約が結ばれるのです」
一方的に侯爵家からアズハルム伯爵家に利益がもたらされるわけがない。
娘にとってはそれだけの価値があるのだとしても、侯爵まで同じ考えではあるまい。
当然、アズハルム伯爵家に対しても何らかの要求があるはずだが、資産も爵位も負けているのだからそれに応えることは苦しいものなのではと、子供ながらにも想像がつく。
しかしミアナはその答えにふるふるとピンクの髪を揺らして何度もかぶりを振った。
「いえ……! 決して損はさせませんわ! 私が絶対にイーリオ様を幸せにしてみせます。ですから――」
「私はもう、幸せにしたい人を見つけてしまったのです。だからごめんなさい」
「そんな……、どうして? セリア様のことなんて、まだ何も知らないじゃない。あっ、そうだ、スタンライト伯爵が怖いのね? 強制されているんでしょう。それだったら――」
「そうではありません。確かに家同士で決められた婚約ではありますが、僕はこのままセリアと結婚したいと思っています」
「なぜ?!」
「セリアは媚びないから」
その一言に、ミアナは殴られたような顔になった。
「それに、セリアは素直で、頑張って大人びた風にしているけれど、すぐに笑っちゃうし、とてもかわいいんです」
先程までは大人のように話していたのに、微笑んだイーリオは子供らしく素直な口調でセリアについて語る。
だがそれらの言葉は、彼女に届いていたかどうか。
ミアナは何も言わず、呆然と立ち尽くしたままだった。
それ以来、数少ない子供の社交の場で会うと、ミアナはイーリオに無遠慮に近づいてきた。
しかし真正面から来てもイーリオはきっぱりとミアナを拒絶する。
それでミアナはイーリオの通る直前にハンカチを落としてみたり、通り過ぎざまにぶつかってみたり、東屋で泣いていてみたりと、様々な形でイーリオとの接触を図ろうとしたようだが、ことごとく失敗に終わった。
イーリオは紳士としての気遣いは見せたものの、それ以上踏み込ませることはなく、あとは近くの給仕など大人に対応を任せ、自分はセリアを連れてさっとその場を離れてしまったから。
そのうち、ミアナは現れなくなった。
代わりに、セリアの元にはとある贈り物が届くようになった。
それから月日は流れ、セリアとイーリオは十七歳になった。
時間のあるときは共にお茶をしたり本を読んだりして過ごし、時にはピクニックや街へと出かけ、婚約者として共に過ごした時間は二人の仲を深めていった。
最初は平凡な子という印象しかなかったイーリオは実に愛情深く、そして底なしに優しい。
いつでもイーリオはセリアのことを考えて行動し、時にはたしなめてくれ、セリアにとってなくてはならない存在になっていた。
セリアもまた、ミアナのようにイーリオの魅力に気づいている令嬢もいるのだからと常に気を引き締め、胸を張って隣に立てるよう努力を惜しまなかった。
二年前から通っている学院でも優秀な成績を修めていたし、二人は目立つ容姿ではないながらもいつも満たされていて幸せそうなカップルとして羨まれるようになっていた。
「ねえ、セリア。次のデートの話だけれど、やっぱり僕はピクニックがいいと思うんだ。だって、前回は観劇だっただろう? また街に出るとなるとさ――」
「ああ、気疲れしちゃうかしら。それならピクニックでもいいわ。久しぶりにのんびりしましょう」
学院内のサロンには人もまばらで、二人が座るテーブルの周りには誰もいない。
快諾したセリアに、イーリオはぱっと笑顔になり「やった!」と子供のような声を上げた。
しかし、続いた言葉とにっこりと含みのある笑顔は、とても子供のそれではなかった。
「やっとイチャイチャできるね」
「え――。そういう話?!」
「うん。だって、どちらかの家でお茶とか、街とか、ずっと人の目があって、全然イチャイチャできなかっただろう?」
「いや、だから、イチャイチャって――! 大体、結婚まであとちょっとなのに我慢できなくなっちゃうから、しばらくは自重するって言ってたのは誰よ!」
イーリオは頬杖をついてきょとんとした。
「だから、『しばらく』って言ったでしょ? もう十分我慢したよ。少しくらい二人だけの時間を過ごしたって罰は当たらないだろう」
「それは、まあ、そうだけど……。また暴走したらダメだからね?!」
「僕もお年頃だからねえ……。だけどセリアとの結婚は許さないとか言われたら困るし、セリアのこと大事にしたいし、頑張って我慢するよ」
「本当に? あの頃の純真だったイーリオはどこにいったのかしら……」
「僕は変わってないよ。ちゃんと成長してるだけ。だって、セリアはただの婚約者じゃない、好きな子なんだよ? 堂々と傍にいられるのは嬉しいし、一緒にいられる時間も多いから幸せなんだけど、その分好きになるし、好きになるほど傍にいたいし、触れたくもなる」
「私だって好きだし、その、イーリオと触れあっているのは幸せよ」
ならよかった、とイーリオは目を細めて笑んだ。
「まあ、卒業と、結婚式まであと一年だもんね。そうしたら、もっとずっと一緒にいられるね」
そう言ってじっと見つめられ、セリアは慌てたようにカップを持ち上げた。
「だからちゃんとそれまではそういうのはなしだからね! お父様が激怒して破談なんて嫌だから」
「大丈夫、大丈夫。まあ本当はみんな陰では早々にやってることだし、言わなきゃバレるはずもないんだけど、何よりもセリアのこと大事にしたいし。それに、セリアは態度に出ちゃうからなあ。たぶん一発でわかるよね」
そう言われて、セリアは一気に顔を赤くした。
「ちょっ、どういうことよ!」
「ええ? そのまんまでしょ。セリアは隠してるつもりで全然隠せてないんだよね。そういうところがかわいいんだけど」
にこにこと邪気のなさそうに言われ、セリアは、ぐう、と声にならない。
そんなセリアに満足したのか、イーリオは「そういえば」と話を変えた。
「来週は舞踏会があるね。この間作ったドレスはもう届いてる?」
「ええ、試着も最終調整も終わっているわ」
「今度のドレスもセリアの魅力を最大に引き出せるようデザイナーとたっぷり相談したからね。エスコートできるのを楽しみにしてるよ」
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「イーリオ様! イーリオ=アズハルム様!」
感極まったような声に引き留められたのは、舞踏会でのことだった。
イーリオの腕をとり並んで歩いていたセリアも驚いて一緒に振り返る。
「お久しぶりにお目にかかります、ミアナ=ラマゼンダですわ。覚えておいででしょうか」
セリアはもちろん覚えていた。
彼女がきっかけで、イーリオにふさわしくあれるようにと励んだのだ。
ちらりとイーリオの顔を盗み見ると、誰だっけ、と思っていそうだなとやや心配になるが、なんとか思い出したらしい。
たっぷりの沈黙の後、イーリオはにこっと笑顔を作った。
「幼い頃にお会いして以来ですね、ラマゼンダ侯爵令嬢」
その言葉に、ミアナはぱあっと顔を明るませ、目を潤ませた。
「ずっとお会いしたかったのです。ずっと、ずっと……」
会いたいのに会えない理由でもあったのだろうか。
この感じでは婚約者がいたから遠慮したというわけでもなさそうだ。
イーリオも同じように疑問に思ったものらしい。
「どこか遠くへ行っていらしたのですか? 療養されていたとか」
「いいえ。幼い私では魅力が足りませんでした。ですから、美しく成長した私を見れば、きっと心を移してくださると思ったのです。その差に驚き、より魅力的に感じられるよう、それまでは会わないと決めておりました。本当は、先日入学しましたのですぐにでも会えたのですが、せっかくなら最も美しく私に似合う装いでお会いしたいと思い、今日の舞踏会まで我慢していたのです」
ミアナはキラキラとした瞳でイーリオだけを見つめる。
ついに成就する時が来たと疑わぬ目で。
それに対し、イーリオは困ったように笑みを浮かべた。
「あの……。以前もお断りしたかと思いますが、僕はセリアと婚約していて、来年には結婚します。あなたの美しさは多くの方にとって魅力的に映ることでしょう。どうかその美しさに見合う方をお選びください」
ミアナにとって美しさが魅力であるなら、それに見合う人と結ばれたほうがいい。
イーリオにとってはそれは結婚相手に求める魅力ではない。
言外にそう言っているのも同じだった。
しかしミアナは何故まだわからないのかというように、愕然とした顔でイーリオを見つめた。
「イーリオ様……? 何故まだ私を見てくださらないの? 前回よりも早く出会ってもダメ。完璧な姿の私を見せて再会してもダメ……。どうして? セリア様よりも先に出会わなければダメだったの? でも今回はちょっとの差だったはずよ。たったそれだけ。それなのに……」
「ラマゼンダ侯爵令嬢? お具合が悪いのでしたら、人をお呼びいたしましょうか」
「はい。とても具合が悪いのです。ですから、イーリオ様が連れて行ってください。でなければ私は一歩もここを動けません」
ミアナは目を潤ませてその腕に縋りついたが、イーリオは近くにいた給仕を呼ぶと、「ラマゼンダ侯爵を呼んで差し上げて」と頼んだ。
「え? ま、待ってください、お父様は困ります」
「そうですよね。ラマゼンダ侯爵は縁談をお断りした僕なんかと親しくしてほしくないとお考えでしょう。それを裏切るような真似はできませんし、何より僕の腕は僕の婚約者を支えるためにありますので、空いていないのです。申し訳ありません」
そう言ってそっとその手を外すと、駆け付けたラマゼンダ侯爵にミアナを託した。
「お具合が悪いそうですので、お大事にしてください」
セリアも慌てて一緒に頭を下げると、ラマゼンダ侯爵は苦々しい顔で「迷惑をかけたようだ。すまなかったね」とミアナを引き取った。
「お父様! 待って、邪魔しないで! 今度こそ私はイーリオ様と結ばれるのよ!」
「権力でも、成長したおまえの『魅力』でも動かなかった男に、何ができる? もう気が済んだだろう。あとは私の決めた結婚に従いなさい」
「いやよ! だって、おかしいわ! おかしいのよ。こんなはずじゃなかった。何故セリア様は前回よりもなお美しく自信に溢れているの? 平凡な顔立ちも地味さも変わっていないのに、なぜ? あんなにたっぷりと嫌がらせをしたのに……。精神を病むこともないし、怯えて面やつれすることもない、性格が歪んで顔まで醜くなればいいと思ったのに、どうして……」
その言葉に、セリアはぞっとした。
そこまでの意図があったとは。
実はミアナの顔を見なくなって以来、差出人の記載がない手紙に刃物が仕込まれていたり、腐ったものが届けられたり、毎日のように嫌がらせが続いていたのだが。
他に人に恨まれるようなことをした覚えはなく、思い当たるのはあのミアナの憎々しげな瞳だけ。
エスカレートすることもなく毎日地味に続くその嫌がらせは、そのうち屋敷の人たちが事前に堰き止めて処理してくれるようになった。
ダンツも調査してくれ、おそらくミアナだろうということもわかっていた。
相手が侯爵家とあって、しばらくは事を荒立てず様子を見ていたが、あまりに止まないため、ダンツからラマゼンダ侯爵にそれとなく忠告してくれた。
侯爵もはじめは認めなかったが、ダンツの揺らがない態度についに謝罪した。
しかし狂ったように一心にどこかへ向かうミアナを侯爵も持て余しており、エスカレートしないでいるうちはどうか目こぼししてほしいと頼み込まれ、今に至っていた。
それが、ただ嫌がらせをして鬱憤を晴らすのが目的だったのではなく、セリアを内面から害したいと思ってのことだったとは、さすがに衝撃だった。
「ラマゼンダ侯爵令嬢がイーリオを婚約者に望んでいるとわかり、私はイーリオの隣に立つ人間として相応しくあれるよう、努力してきたのです。幼い頃にお会いした時よりも私が内面の成長を遂げていると仰っていただけたのは、それはラマゼンダ侯爵令嬢のおかげでもあります」
「私の……おかげ?」
あなたは敵に塩を送っていたのですよ。
そんな嫌味で言ったつもりではなくとも、そう聞こえてしまっただろうことはミアナの愕然とした表情からもわかった。
「私はイーリオが好きです。もはやなくてはならない存在です。その婚約者として、妻として恥ずかしくないよう生きていきます。認めてほしいとも、見守ってほしいとも言いません。ただ、私はイーリオと生きていくためならばどんな努力も惜しみません。その覚悟だけは知っておいてください」
「僕もセリアが好きです。心から愛しています。幼いあの時よりも、ずっと。だから正直、長年セリアを苦しめてきたあなたを許すことはできません。何故僕のことを知りもしないあなたがそれほど執着するのかわかりませんが、どうか、もう別の道を生きてはいただけませんか。僕たちの道が交わることはないのですから」
二人揃ってそう告げると、ミアナはわなわなと唇をふるわせた。
「また……、また私は間違えたの? なんで? 今度こそうまくいくはずだったのに。意地悪だって、今度こそ見つからないように慎重にやっていたのに」
「ミアナ。もうやめてくれ。どうしてこうなってしまったんだ……。二人も、非礼は改めて詫びよう。だからこの場はもう、どうか――」
セリアはイーリオと顔を見合わせ、ラマゼンダ侯爵に頷いてみせるとその場を離れた。
きっと今は何を言ってもミアナを刺激することにしかならない。
しかし、ガシャンと食器の落ちる音に驚いて振り返る。
立ち上がったミアナがふらついて、テーブルにぶつかってしまったらしい。
足元には粉々に砕けた陶器やガラスが散らばっていた。
「セリア。今日はもう帰ろう」
イーリオに促され、セリアは再び歩き出した。
その時だった。
「待て! やめろ、ミアナ!」
ラマゼンダ侯爵の悲痛とも言える叫びに再びセリアが振り返った時。
セリアの目の前は影に覆われ、何も見えなくなった。
そしてすぐに、ずしりとした重みを感じる。
「イーリオ……? イーリオ!!」
倒れ込むイーリオの背を支えきれず、セリアは共に床にくずおれた。
イーリオの腹には真っ赤な血が滲み、辺りには鉄のような匂いが広がった。
「あ……、ああっっ! どうしてこうなってしまうの!」
呆然とした悲鳴に、それを言いたいのはセリアのほうだと内心で叫びたかった。
だが嘆いている場合ではない。セリアは必死に血の沁みだす腹を押さえ、「誰か! お医者様を呼んで!」と叫んだ。
「今度はイーリオ様が死んでしまうなんて、そんなのダメ! もう一度、もう一度よ……。魔女ライラルガヤ、今すぐにきて。もう一度私と契約するのよ!」
ミアナは血に濡れたガラス片を捨て去り、錯乱したように叫んだ。
その瞬間、辺りにふわりと冷たい風が吹き込んだ。
その風と共に現れたのは、漆黒の長い髪を背に垂らした、真っ赤な唇の魔女。
紫のクッションに座るように浮き、ふわりとミアナの傍へと寄った。
「呼んだ?」
「お願い! また私の時間を巻き戻して、今度はもっと前、十五年前に! そうすれば絶対に私のほうが先にイーリオ様に出会えるわ。今度こそ、今度こそイーリオ様と結ばれるんだから」
「ふん……。前回、先に出会えさえすれば自分の勝ちだと言ってたんじゃなかったかしらね?」
「そうよ! 今回はちょっとだけ遅かったの。だから私を十五年前に戻してちょうだい」
「嫌よ」
はっきりとした拒絶の言葉に、ミアナは愕然と魔女を見上げた。
「なんで……」
「本当にあんたはなんでなんでってうるさいわねえ。自分で考えようともしないんだから。あんた以外は簡単にわかってることだよ。出会った順番が悪いんじゃない。あんたの性格が悪いんだってね。何度時間を巻き戻そうが、あんたの想いが成就することはないよ。それが見えてるのに、何度も付き合うなんて馬鹿げてるわ」
「何を言っているの? セリア様にそんな魅力があるわけがないんだから、先に出会えばイーリオ様は私を好きになるに決まってるでしょう? 義理堅い方だから、一度婚約を結んでしまうと切り捨てられないだけなのよ」
「前回だって、その義理堅さも優しさも何もかも、全部そこの女に向けられたものだったじゃないか。それを見て好きになったっていうんだろう? そんなの、最初からあんたの付け入る隙なんてないじゃないか」
「私を好きになれば、同じように優しくしてくれて、愛してくれるに決まってるじゃない!」
「だからそもそもその前提が間違ってるって言ってるんだよ。いくら巻き戻ったって、誰を好きになるか、好みや嗜好まで変えられるわけじゃないんだから。あんただってこの学院に入学して聞いただろう? そこの二人は近くにいると吐きそうなくらい甘々でお互いにべた惚れだって。だから声をかけられなかったんだろう。豪奢なドレスに身を包んで武装でもしなきゃ顔を合わすこともできなかったんだろう」
唇を震わせたミアナの肩からは、もはや力が抜けていた。
魔女はもう一度「ふん……」とミアナを見定めるように見下ろし、ふわりと傍に舞い降りた。
「契約の対価はもらっていくよ」
「いやよ! 私はまだ――」
「このままじゃあんたは捕われるだろうし、いつ死ぬかもわからないからね。とりっぱぐれるまえに回収させてもらうよ。――あんたの先の長ぁい、寿命をね」
そう言って魔女はミアナの顔の傍で、すうっ、と息を吸い込んだ。
するとまるでそこからミアナの体中の水分が抜き取られていくように、みるみるうちに皮膚はしわがれ、骨と皮だけのようにやせ細り、髪は艶も色もなくしていった。
「いや……、いやぁぁぁぁぁ!!」
その声はかすれて、響きもしなかった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「魔女って、本当にいるんだね」
感心するようなイーリオの言葉に、セリアは、もう! と怒ったように布団をかけた。
「今はそれどころじゃないでしょう? しっかり眠って。いくら命に別状はないって言われたとはいえ、今はとにかく大事にしないと」
「ははは。今度はセリアを守れてよかった」
その言葉に、セリアはイーリオを見つめた。
「イーリオも、『前回』の記憶があるの?」
「ううん? まったく」
「じゃあ、どうして」
「だってさっき、ラマゼンダ侯爵令嬢が今度は僕が死んじゃうっていうようなことを言ってたから、『前回』はセリアだったのかなって」
「そうね……。そうだったのかもしれない」
二度も殺されかけたのかと思うと、よりぞっとするものがあった。
しかし、セリアにとって人生に『前回』などない。
あるのは今だけだ。
たとえミアナの行動によって『前回』と変わったことがあったとしても、そんなものはセリアには知りようがないのだから。
「だけど。巻き戻っても、記憶がなくても、それでも結局僕はセリアを好きになったんだね。これって、どうあっても僕はセリアを愛するってことだよね」
無事だった。けれど顔色の白いイーリオの頬に手を添えて、セリアは目を潤ませた。
「それは私も同じよ」
「セリア。愛してる。もし三度目があっても、四度目があっても。僕はセリアだけを愛するよ」
「私もよ、イーリオ。だから、早く怪我を治して。そしてピクニックに行きましょう」
「うん……楽しみにしてる。あ、あまり遠くない場所にしよう。移動で時間を使うのはもったいない。できるだけ長くイチャイチャしたいからね」
「もう……」
そんな軽口を叩けるようになったのなら大丈夫だ。
安心してセリアは、イーリオの手を握り、自分もベッドに両腕をのせ、頭を下ろした。
時間を巻き戻しても、きっと大事なことは変わらない。
だから、後悔しないように、今を精一杯生きよう。
もしかしたら志半ばで終わってしまったのかもしれない『前回』の分まで。
セリアはそう誓って、イーリオの隣でそっと目を閉じた。