ハイウェイまで行くしかない
午後11時48分。
真夜中だ。
ヒーターの調子が悪い。
凄く寒い。
迷子になっているなんて誰にも言えない。正確には迷子になりつつある、かな。
「プスン、プスン、プスッ、プススススン」
車は静かに止まった。
「エンストかよ、クソッ、これだもん。こんな時にガス欠かい。いや、まだ多少はガソリンが入っているな。エンジンもブレーキも調子が良くないな。サイドブレーキ掛けてと。ダメだ。スマホも繋がらない。マジで、どうしよう? ヤバいな」
こんな山奥でエンストとブレーキの故障とは情けない。中古車の悪いクセが出た。油断したらすぐに5秒くらいで故障するし燃費の悪さは目立つし。予期せぬ時にエンジンの調子が悪くなり、エンストを起こしやすくなって、ブレーキの故障だもの。参ったね。
何回も車のキーを回すが全くエンジンが掛からない。
時刻は深夜12時近く。ちくしょうめ、やっと出張が終わって帰宅途中でこれだもん。本当に自分が嫌になるし中古車も嫌になる。
「近くに電話ボックスか、ガソリンスタンドはないのかな?」私は絶対にあるはずがないと分かって淋しさから独り言を言っていた。
まず山の頂上付近にあるわけがない。こんなところで車を置いて歩くのも辛いし。本当にどうしたらいいのだろう?
「うん? ありゃなんだ!?」私はハイライトからロービームに切り替えた。
こんな山奥で、こんな時間帯に、向こうの方から電動式自転車に乗ったお婆さんがやって来た。
よろめきながらも時間を掛けて私の車の側に来たお婆さんは、テレビのCMで流れていた最新型の電動式自転車に乗っていた。
「どうしました?」と私はお婆さんに声をかけた。
「お前さんこそ、どうしたのさ? こんな夜更けにさ、山奥でさ?」お婆さんは笑顔を浮かべて話していたが目は全く笑っていなかった。どことなく警戒心を見せて話しているようだった。
「エンジンの調子が悪くて、もう少しでガス欠になりそうなんです。おまけにブレーキも故障というアクシデントになっていて困っています」
「おやまあ、大変だわね。ここだと携帯電話も掛からないでしょう?」
「はい、掛からないです」
「オラの家に来るかい? すぐそこにあるんだわ。もう遅いし泊まっていけばいいよ。電話もあるから」
「えっ!? いいんですか!? 助かります!!」
「いいよいいよ。泊まっていけ。オラについておいでよ。車は一晩、そこに置いておけば良いよ」
お互いに優しい口調で会話をしていたが、何処と無く冷ややかな印象を拭うことはできなかった。
深夜に山奥で人に出会う確率はかなり低いし、ほとんどないと言ってもいい。お互いに驚きと不安の気持ちの方が断然大きいだろうから、常に気を張っている状態のままという感じになっていた。
私はお婆さんの後について歩いた。お婆さんは電動式自転車から降りて手押しで歩いていた。
私は車にあった懐中電灯を持参して道路を照らしながら歩いていた。闇の中を歩く恐怖とはこのことだ。虫の声も風の音も何もない無空間に放り出された感覚になっていて、自分の肉体が現実に存在するとは思えないほど頼りなくて心細い状態となっていた。
お婆さんの無言で歩く後ろ姿が何とも嫌だった。一言も口を聞かずに歩くものだから、私はどうしたらいいのか全く分からずにいた。
見ず知らずの他人の支えや助けには心から感謝をしているのだが、馴れ馴れしく会話をして、相手の心に土足で踏み込むようなヤボな真似だけはしたくなかった。
「お兄さん、山の頂きにある森林公園は見たのかい?」突然、お婆さんが話した。
「いえいえ、ないです。今日、初めて来た山ですから森林公園なんて分からないです」
「そこの木を横切ったらさ、すぐ森林公園があるんだわ。行ってみるかい? マイナスイオンだらけだから爽やかだよ」というお婆さんのお誘いを私は受けざるを得なかった。一晩御世話になるのだから我慢のしどころだと自分に言い聞かせてお婆さんに頷いた。
「もうすぐだぁ。すぐそこだぁ」とお婆さんは電動式自転車のスタンドを立てて立ち止まると、腰を伸ばしてから真っ暗闇の一本道を指差したが全く見えなかった。
「はぁ、そうですか」と私は言ったが、もうどうしようもない気分になっていた。
お婆さんは電動式自転車を押しながら無言で歩く。
私はお婆さんの背中を無言で見つめて歩く。
檜山森林公園という大きな看板が2メートル先にあった。看板は点滅する薄暗い電灯に照らされていた。
「ほれ、マイナスイオンだらけだろ?」とお婆さんは言って、街灯の側にあるベンチに座った。
「お兄さん、何を突っ立ってるのよ。オラの隣に座りなさい」とお婆さんは手招きして私を呼んだ。
私はやむを得ず、我慢してお婆さんの隣に座った。
人気のない深夜の檜山森林公園は死者が屯する物悲しい場所そのものに見えた。
押し潰されそうな闇の沈黙は鎮魂と祈りに捧げられた時間のように感じられた。罪深いと教え込まれて育った悩ましげな先人たちの想念が時を超えて彷徨い続けているような世界が存在していても可笑しくはないのだ。闇に沈むナーバスな時間に命を預けてはいけない。
お婆さんは一点を見つめたまま座っていた。
「空気が綺麗ですよね。さすがマイナスイオン効果だなぁ」と私はお婆さんに話を振ってみたのだが、お婆さんは変わらずに一点を見つめて黙っていた。砂の音が響いた。お婆さんは右足だけで貧乏揺すりをしていた。
「そうだそうだ。今から15年前くらいかな~、この檜山森林公園でね、殺人事件があったのよ」お婆さんは何の前触れもなく気味の悪い話を始めた。
「はあ、そうですが。それはどうも」としか私は言いようがないではないか。
「若い女性がね、何者かに首を絞められて殺害されたのよ。新聞にも載ったんだよ。女性は全裸で殺害されていてね、左手の薬指に指輪があったのよ。彼女には婚約者がいてさ、挙式間近だったんだってさ。でさ、その婚約者がね1ヶ月間も警察にマークされていてさ、事情聴取を受けたそうなのよ。ところがさ、婚約者が事情聴取を受けた3日後に話が急展開になったのよ。同じく、ここの檜山森林公園でね、婚約者が何者かに背中を鋭利なナイフで刺されて殺害されたのよ。恐ろしいことに傷は肺を貫通していたんだってさ。警察によると犯人は被害者に対して強い憎しみを抱く顔見知りによる犯行の線が高いんだとさ。でね、無惨な死に方をした婚約者なんだけどもさ、殺害された場所っていうのがね……、今、座っているこのベンチなんだよね」とお婆さんは言って自分の首を擦った。
「えーっ!! はあーっ!? はあー!? ちょっ、ちょっと止めてくださいよ!!」と私は言って勢いよく立ち上がると後ろに後ずさった。
「婚約者はね、ベンチにうつ伏せで死んでいたんだってさ。血まみれの状態でね。今も、まだ犯人が見つかっていないからさ、夜が怖くてね。寝る前には厳重に戸締まりをしているし、番犬を放し飼いにしているんだわ」とお婆さんは言ってポケットから犬の写真を取り出した。
「立派な犬でしょ。ドーベルマンだよ。名前はチロって言うんだよ」とお婆さんは顔を綻ばせて「チロ、チロ、おいでチロ。よしよし」と写真に向かって話し掛けた。
「か、可愛いですね。オスですか?」写真のチロはヨダレを垂らしていて、敵意剥き出しで、今にも飛び掛からんばかりに殺気だっていた。
「そう、オス」とお婆さんは言って、チロの写真に情熱的なキスをしてから胸ポケットに仕舞った。
お婆さんは話を終えると、また一点を見つめて黙ってしまった。お婆さんの表情は真顔なので得体の知れない恐怖が顔全体に浮かんでいた。
「お婆さん、そろそろ寒さも厳しくなるので行きましょうか?」と私はお婆さんに次なる行動を促した。
「そうだね」とお婆さんはボンヤリしながら呟くと、力なく電動式自転車に股がった。お婆さんはハンドルを握ったまま、また一点を見つめたまま動かなくなり、何かブツブツと独り言を言っていた。
「そこの緩やかな坂を上がった所にオラの家があるんだわ」とお婆さんは言って電動式自転車を漕ぎ始めた。
「私は先に行くから。あと50メートルほど歩いたら私の家だから登っておいで。気を付けて上がってきなさいよ」とお婆さんは言って先に行ってしまった。
「本当に助かります。どうもありがとうございます」と私は言ったが、本音はやれやれだった。
ようやく緩やかな坂を上がると大きな一軒家があった。
玄関先にはお婆さんがいて、ドーベルマンのチロを撫でながら待っていた。
玄関にある電灯が点滅していた。お婆さんは私の姿を見つけると手招きをした。私は頭を下げてお婆さんの元へ小走りした。
「すみません、ありがとうございます。一晩御世話になりますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「頭を下げなくても良いってばさ。気にすんな。ささ、冷えるから早くオラの家に入ってけれ。部屋に上がって良いから」とお婆さんは玄関を開けて私を先に促して入れてくれた。
お婆さんの一軒家は昭和風情を醸し出していた。玄関の中は七福神の置物と鮭をくわえた木彫りの熊、壁には赤富士の油絵が飾られていた。お婆さんによると、部屋の中はストーブが点火していて温かい。床は床暖房で更に温かいとのこと。今は寒い秋が終わろうとする11月だ。まさにお婆さんの家は至れり尽くせりだった。
「お邪魔します」茶の間に入るとストーブの側に倒れた黒猫の置物があった。私は黒猫の置物を元の場所に戻した。
ふすまの上にはズラリと5人の遺影が並べられていた。
お婆さんに似た顔の御先祖さんばかりだ。血は争そえない。
「お兄さん、お腹、減ったかい? オラ今から何か作るわ」
「いいえ、お気遣いなく、大丈夫ですから。どうもありがとうございます」
「いいから、食えってばよ。若い男子が夜食の1つや2つ食えなくて日本の未来は支えられんぞ!」
「あはは、ではお言葉に甘えて頂きます」私は頭を下げた。
「そうこなくちゃね。そこに座ってくつろいでいいからね」とお婆さんは言ってピンク色の可愛らしいアニメが描かれたエプロンを掛けて台所に行った。
私はソファーに座って、もう一度、襖の上の壁に並ぶ5人の遺影を眺めてみた。皆、唇を固く結んでいて視線を宙にさ迷わせている奇妙な顔つきをした遺影だった。
お婆さんが戻ってきた。
「オラ、晩飯、カレーライスだったんだわ。15分でカレーライスができるから。3日間煮込んだ特製カレーだから美味いよ~う。遺影は左側がオラの父親で真ん中がオラの母親だ」とお婆さんは言ってしゃがむと布巾でテーブルを拭いてから私の前にビール瓶とコップを置いた。
「ありがとうございます」と私は言ってコップにビールを注いだ。
「お婆さん、残りの3人は誰ですか?」と私は遺影を見ながら言った。
「どうだったかなぁ。あんまり知らないんだよねぇ。何となく思い起こす事はあるけど、今さらだからねぇ」とお婆さんは素っ気なく言って席を立ち上がると台所へ戻っていった。
「し、知らないって、ちょ、ちょっとお婆さん!?」と私はお婆さんの背中に声を掛けた。
『お婆さん、何を奇妙な事を言っているんだよ? 知らないわけないでしょうが。この3人の女性、デンと風格漂わせて並んでいるんだからさ』と私は心の中で言った。3人の遺影の女性は、右から順番に60歳くらい、50歳くらい、20歳くらいに見えた。不思議な事に遺影の女性たちは名前だけしか記されていなかった。右から「遼子」、「沙紀」、「由真」とラベルに書かれていた。
「お兄さん、カレーライス、もう少し待っててね。これ食べてな」お婆さんはボウルに溢れるほどの枝豆を持ってきてくれた。
「嬉しいなぁ、枝豆好きなんですよ。頂きます」と私は言って何気なくお婆さんを見たら、お婆さんは血走った目で遺影を睨んでいた。私は見てはいけないものを見てしまったと思い、ひたすら枝豆を口の中に入れた。
「お兄さん、この家から500メートル先にある一軒家にね、沢田さんっていう若い夫婦と小さな子供たち一家5人が住んでいたのよ」と話した所でお婆さんはエプロンで手を拭いてから台所に行ってしまった。
「沢田さん? それ誰よ?」と私は呟いて全然減らない枝豆を無我夢中で食べ続けた。
そういえば、お婆さんの家にはテレビがなかった。一体どうやって社会的ネットワークを知るのかな?
「はいお待ちどう。特製カレーライスだよ。召し上がれ」お婆さんはテーブルにカレーライスを置くと私の向かい側に座った。
「食べな」お婆さんはニコニコ笑って私を見ていた。そんなに見つめられると食べられないと思いつつスプーンを口に運んでいく。
「美味い!!」私はこんなに美味しいカレーライスを食べたのは生まれて初めてだった。
「でしょ」とお婆さんは言って自分のカレーライスを食べ出した。
私は20分でカレーライスを食べ終えて満腹になった。ネクタイを緩めて息を吐くと緊張感が抜けてリラックスしてきた。
私は何気なくお婆さんに目をやると、またしてもだ、お婆さんは暗い顔つきで一点を見つめたまま動かずにいた。お婆さんのつぶらな目が血走っていて非常に声を掛けづらい。
「さあ、寛ぎの一時だ。デザートはイチゴのショートケーキだよ」と我を取り戻したお婆さんは再び台所へ消えた。
大きなイチゴのショートケーキだった。イチゴが3個も乗っかっていた。
私はイチゴから食べようとした。
「でね、沢田さんの話だけどもさ、今から3年前の秋にね、一家全員が行方不明になっちゃったんだよ。まだ生まれたばかりの子供もいたのに。家族5人が行方不明なんだよ」お婆さんはデザート時に話す内容ではないのに話し出した。
「はあ、そうですか」としか私には言いようがないんだ。
「警察の詳しい発表が無いから沢田さん一家の行方不明の原因は知らないけどもさ、迷惑な話、警察が私に話を聞きたいって言われてさ、玄関先で3時間も立ち話をして大変だったんだよ」お婆さんは眉をしかめて話した。
「いやぁー、本当にそれは大変でしたね」としか私には言えないんだよ。
お婆さんは警察から何を聞かれたのかについては一切話さなかった。それを話してくれないと話は見えてこないのにだ。
「そう言えば、この一軒家の裏にある川でさ、8年前に女性の遺体が上がった事もあったんだわ。まだ若いのにね。女性は苦悶に満ちた悲しい顔をしていたよ」とお婆さんは言って顔を伏せて黙ってしまった。
私も黙ってしまった。お婆さんが何が言いたいのかが全く分からないからだった。
「さあ、夜も深い。お兄さん、そろそろ寝るかい? 隣の座敷に布団を敷いてあるから寝なさい」とお婆さんは言って立ち上がると、「私は2階の部屋で寝るから。おやすみなさい」お婆さんは小さく手を振りながら階段を上がっていった。
私は独り取り残されて遺影を眺めた。
「おやすみなさい」と私は遺影に向かって手を合わせると隣の座敷に行った。
私は布団に横になって豆電気にすると深呼吸を繰り返して天井を見つめた。
私はお婆さんの話が頭をグルグルと駆け巡り気になって寝れなくなっていた。
1 檜山森林公園で若い女性の絞殺遺体が見つかる。
2 殺された若い女性の婚約者が何者かによって同じく檜山森林公園でナイフで殺害される。
3 沢田さん一家5人が謎の行方不明。
4 この家の裏にある川で若い女性の水死体が見つかる。
私は気になって気になって寝れないと思いつつ、良い具合いに瞼が重くなってきた。
私は目を閉じた。
ミシッ
ミシッ
ミシッ
ミシッ
静かに階段を降りる音がした。私は時計を見た。時刻は深夜2時半だった。どうやら私は眠っていたようだ。私は布団から出て襖に耳を当てて階段の音を確認した。
ミシッ
ミシッ
ミシッ
ミシッ
私の動悸が早い。
呼吸もしずらい。
私は万が一の事を考えてシャドーボクシングをした。危険な目に合うなら年寄りは労らない。
足音がこちらに向かってきた。
一旦、足音が止まると向きが変わったようだ。茶の間から他の場所へ移動したみたいだった。
私はグルグルと座敷を歩き回った。
しばらくして足音が戻ってくると、足音は座敷の前で止まった。
静かに襖を開けたお婆さんは、私が起きている事に驚いた。
「お兄さん、どうした? 寝れんのか?」お婆さんは心配そうに言った。
「いやいや大丈夫です。カレーライスとイチゴのショートケーキが胃に溜まっていて消化させたくて」と私は咄嗟に嘘をついた。
「オラがお兄さんを起こしたならゴメンな。年寄りのトイレは近くてさ。オラ、毎晩、8、9回はトイレに起きるんだわ。さっきさ3回目のトイレだったんだわ」とお婆さんは言って襖を閉めた。
「なるほどね」と私は襖に向かって言った。
『もう全部了解です。
あまり考えすぎたら良くないのです。
私は本格的に寝ることに取り組みたいと思っているのです』と考えながら布団に潜り込んだ。
朝の5時。
私はお婆さんに御礼のあいさつを言ってから早々に家を出た。
私は檜山森林公園を横切る時に手を合わせながら歩いた。
霧の山道を下り、アスファルトの匂いを感じながら歩き、オンボロの中古車が見えてきた。
運転席に乗り込んで車のキーを入れて素早く回すとエンジンが掛かってしまった。
『そんなにガソリンは無いが行けるところまで行こう。今はハイウェイまで行くしかないという気持ちになっちゃってる。あっ、確かハイウェイの手前にガソリンスタンドがあったな。そこまで行けば何とかなるはずだ』と私は考えながらエンジンを吹かしてアクセルを踏んだ。
終