1・図書室で
放課後の図書室にいるのは、彼女一人だった。
さらりとした長くまっすぐな髪、すらりとした長身に、作り物めいた美貌。胸元に結ばれているリボンの色は、この学校の最上級生がつける、青だった。
すでに時刻は五時半すぎ。当番の図書委員が来るのに、あと三十分はある。
まだ六月だというのに、太陽は真夏のごとく照りつけて、日が陰る西日でさえその熱気を失っていない。窓から見える学院のシンボル、白のマリア像が長く影を作っているのを、彼女は図書室の窓からぼんやりと眺めていた。
リリアナ女学院は中高一貫性のお嬢様学校である。良家の子女が通い、その校風も他の学校と比べて厳格だった。中学受験を突破して入学した女子たちと、高校からの入学組では意識に少々差が出るが、時間の大半を学校ですごすうちに、簡単に染まっていく。言葉遣い、身だしなみ、果ては歩き方まで。
彼女は長い髪をかき上げて、スカートのポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、耳に着けた。
スマートフォンを操作して、アプリから動画投稿サイトをタップし、お気に入りから動画を表示させる。
『女子学生が号泣実況・美少女ゲーム・聖ルチアーナ学園で泣いてみた』に新規投稿が点滅している。
待っていた更新に思わず笑みがこぼれた。
この行為で実にいくつもの校則を破っている。ささやなか抵抗とも呼べぬ行為に心の中だけで笑う。スマートフォンをタップし、新規点滅している動画を再生させた。
『皆様、どーも! はるんですっ。今回でゲーム実況動画の投稿数が、十個目になりました! 視聴してくださった皆様、コメントくださった方、ありがとうございました!』
軽快な可愛らしい声がイヤホンから流れてくる。
図書室でひとり、少女は微笑んだ。
動画の声は、明るくテンポがいい。聞いていて耳心地のよい声質は、彼女の気分を楽しいものに変えた。勉強のことも、煩わしいプレッシャーも全部このときだけは忘れさせてくれる。
『コメント全部読ませてもらっています。激励ご指摘ほんっとに感謝です! ただ、一つお願いがあります。以前からずっと言ってますけど! はるんをドイツ語にしないでください!』
いつもの前ふりだ。
ドイツ語でハルンはおしっこだ。それを揶揄するコメントがあふれかえっていても、この子は悲壮感なくそれをネタにして、投稿動画は定期的に上がった。
大半は好意的な言葉が多い中、たまに雑じる心無いコメントにも、彼女はめげることなく動画を上げる。
『どうもこの動画の視聴者様は、ツンデレがいらっしゃるようですね。そろそろデレフラグ立ってもいいんじゃないですか? というところで、今日も、聖ルチアーナ学園やっていきまーす』
動画には、鮮やかな髪色をした美少女たちが映し出された。
スタート、ロード、と選択肢が出ている。マウスポインターには、ゲームマスコットの八九三猫が付き添って動く。鋭い目つきと、額に八の字の傷があるという風体の猫だ。
『八猫ちゃんの待ち受け壁紙でましたねっ。ダウンロードしました! 課金すれば、ぎゃおーんって着信音つき! 買った人います? 同志コメントまっています。 …ではでは、続きからスタート。ロードっと!』
画面上の猫がロードを選択すると、黒髪ロングのつんとしたお嬢様が「わたくしの相手が務まると思って?」と小ばかにした顔で言ったあと、画面はセーブデータにとんだ。プレイしているキャラクターがスタート画面に出てくるシステムのようだ。
『この声、めっちゃ可愛いですよね…。声優さん、ほんっと神!』
いいえ、あなたの方が可愛い。
誰もいない図書室でひとり、長い髪をさらりとかき上げて、画面を見てさらに笑った。
はるんの実況動画を視聴するのは、彼女の日課になっていた。楽しそうに語る声に惹かれて、毎回動画が上がるたびこうして再生してしまう。このゲームをやってみたいと思ったほど。でも続きを知ってしまうと、実況を聞く楽しみが減ってしまう気がして、手を付けていない。
『前回はいいとこで終わっていましたよね! お嬢様が未亡人で、相手が享年七十四歳とか色々聞かされて、次のセリフですよ!〈うすよごれた私に優しくしないで〉…スチルこんなに綺麗なのに、うすよごれたとか言っちゃうのが切ない! この泣き顔、笑顔に変えて守りたいっ。 ……ヒロイン人妻とかありえねー(待ってました)と思ったツンデレの方々、沼へようこそ!』
言い回しが面白くて、笑い声が押えられなかった。「あははっ」と肩を震わせて笑う。
「笑顔に変えて守りたい、ね」
思わず、つぶやいた。
はるんの実況は、このゲームの魅力を存分に伝えていた。怒ったり泣いたりしながら、感想を交えて進めていく。この子はこのゲームが大好きなんだ、と心の底から思えた。
動画が更新された時、いつも一つだけ、コメントを入れるようにしている。「頑張って、応援しているよ」と伝わるような、言葉を一つ。
コメント入力欄を開けたところで、手を止めた。
今日はなんて入れようか。
スマホに目を落とす。真沙妃はコメント欄に素早く文字を入力した。
『あなたの声を聞くと、イロイロ元気になる』
はるんの声を聞くと、ストレスがなくなって、楽しい気分になって、体も軽くなって。とても元気をもらえる。
微笑みを浮かべながら、彼女は送信ボタンを押した。
***
『あなたの動画に新着コメントが入りました』
…という通知が来たのは、放課後、図書室へ向かう途中のことだった。
本日は司書の先生がお休みのため、図書室の施錠を仰せつかった。職員室で、先生に「閉めてきて」と言われ、嫌だと言えなかっただけなのだけど。
本当はさっさと家に帰りたい。やることが山のようにあるのに。
ちゃりちゃりと鍵の束を鳴らしながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。校内での使用は禁止だが、どうせ放課後は誰もいない。
マイページから、昨日投稿した動画へ飛ぶ。
どんなコメントが来ているだろう。この瞬間はとてもわくわくする。やっぱり「動画面白い」とか「がんばって」と言われるとうれしい。心無いコメントもなくはないが、今のところ、えげつなくひどいものは、見受けられない。NGワード設定で、ひどい言葉は自動的に対策されているが、かいくぐって送ってこられるのが現状だった。
…案の定、コメントをみて、「うげっ」と顔をしかめた。
『あなたの声を聞くと、イロイロ元気になる』
廊下の真ん中で、思わず歩みを止め、「こいつ、いつもギリギリ気持ち悪い」と心の中だけでつぶやいた。同一ハンドルネームで、『あなたの実況でヤってみたい』と書かれたこともあった。
ゲームの内容や実況への感想であれば、多少過激でも笑えるが、セクハラまがいのメッセージはいい気がしない。
これくらいで目くじら立てていたら、美少女ゲーム実況者は務まらない。気持ち悪いが、無視しよう。家に帰ったら、他のメッセージも確認して、検討しているソフトも見なければ。できればセール時に入れたい…母におこづかいアップの交渉もしたい。
春川遥という実によきネーミングセンスを持つ親から名付けられ、すくすくと育ち、現在、リリアナ女学院高等部一年生である。はるん、というハンドルネームでゲーム動画を投稿している。現在は、一押しゲーム、聖ルチアーナ学園という美少女ゲームの実況動画を上げていた。
このゲームに出会ったのは、ただの偶然だった。中学受験に失敗し、ドン鬱だった時に、ネットで「絶望、鬱、失敗の人生、学生、自殺、負け犬、生きる意味、勉強、遺伝子、闇堕、精神病、受験失敗 睡眠薬」などなどをつらつらと検索していた。その時に、なぜかこの美少女ゲームが出てきたのだ。かわいらしいアニメ調のイラストで、女子学生が出てくる恋愛ゲームだと思っていた。パソコンゲームなんてしたことなかったが、ぽち、と無料体験ダウンロードを押してしまった。
…で、どハマり。
きれいなイラストとは裏腹な、ど鬱展開、サスペンス要素満載なシナリオで、当時それを泣きながらプレイした。すべてのシナリオがが欲しくて、母に「中学受験失敗したけど、次のテストで十番以内に入るから、このゲームに課金して」と言って、その通りに買ってもらった。
まさか母もそんなゲームをしているとは思っておらず、成績を落とさないなら、としぶしぶ了承してくれた。驚いただろう。一心に勉強する娘の姿に。
ルチアーナ学園は、会話やミニゲームでヒロインとの信愛度のパラメータを上げ、その中でイベントやエンディングが変わるという、ありふれたゲームだ。
もともとこのゲームはパソコン同人ゲームで、今実況している全年齢版と違い、流血、グロテスクありの過激な内容だった。着いた異名が「そして誰もいなくなった」「十八禁詐欺」など。レビューも相当ひどかった。不幸エンド回収ゲーム、非恋愛シュミレーション、体験版詐欺、こんな最後のために頑張った(周回した)んじゃない。などなど。
というのも、ゲーム内で選択肢を間違ったら全員死ぬ。正解してもヒロインは確実に死んでしまう。設定が「二十歳まで生きられない遺伝子持ち」などという寿命タイムリミットがあり、暗重陰鬱エンド必至、というシナリオのオンパレード。
それらをすべてクリアして、泣いた。
シナリオが緻密で、出てくる女の子が全員過去を持っていて、すべてのエンディングをみて、謎が解けるという、壮大な物語だった。
ゲームのプロローグで、主人公は夏休みの最中、美少女たちに出会って、試練を超えて心を通わせて、彼女たちに愛されながら、ひとりとして結ばれないという悲しい結末。敵キャラの思惑や、なぜその学園ができたのか、という謎まで満載で、泣きながら夜通しパソコンの前にかじりついた。
このシナリオ、書いた人すごい…天才!
この魅力をわかってくれる人はいないだろうか。私が感動した場面、じんとしたセリフ、息をのんだイベント、ちりばめられた伏線。
このゲームを好きになってもらうには。レビューでは足りない。きっと生の声に勝るものはない。
次に母に言ったことは、「リリアナ女学院の中等部には落ちたけど、次高等部に受かったら、動画投稿させて(母の名前でアカウントを作って)」
見事合格して、今がある。
長かった。実に。
デスクトップ型の自分専用のパソコン、補助モニター、動画編集ソフトやら、ゲーマーズヘッドセットなどを検討しまくって、それらも成績と引き換えに、一つ一つそろえていった。
餌があったので今までは勉強にも身が入ったが、偏差値かなりお高めのこの学校で、以前のような順位が取れるとは思えない。
実況に必要不可欠なアイテムはそろえたので、あとは適当に卒業できればいいか、などと思っていたのだが、新規ソフトのアップデートが素晴らしいと前評判を聞いてしまい、次のテストの及第点はどのあたりが…と悩ましい。
動画編集の効果音や装飾効果を考えながら、図書室へと廊下を歩く。
扉の前まで来た時だった。
ぎゃおーん! ぎゃおーん!
スマートフォンからの着信音だった。ゲームマスコットの八猫の声で、先日課金したものだった。これはおこずかいで買えたので、成績は関係ない。
電話の相手は母だった。通話ボタンを押して、「おかーさん? どうしたの?」と声をかけた。
『遥? 今帰り? 駅前のスーパーで牛乳買ってきて。いつもの白菊牛乳ね』
電話とは、さすが母。もしメッセージだけであれば、未読スルーして、気がつかなかった、と言えたのに。
スーパーと家とは反対方向だ。歩きで往復時間を考えると、三十分以上は余計にかかってしまう。
「いいけど…。近くのコンビニのじゃダメなの?」
『コンビニに白菊牛乳は売ってないでしょ。頼んだからね』
「別に、美味しい牛乳でも…」
別のメーカーを提案しようとした矢先、電話は切れた。
家に帰ったら、速攻でコメント確認して、動画の編集作業をする予定だった。昨今の流行にしたがって、全編文字入れしようかと思っていたのだ。音声自動変換のシステムを検討して、などなど計画があったのに。
舌打ちしたい気分で、図書室の扉をあけようと、して。
がらっと横開きの戸が開いた。
目の前に、長身の美女。身長は百七十手前くらいだろうか。さらりとした黒髪に、精巧に整った容貌、長いまつ毛に彩られた、闇色の瞳。
なぜかそれが驚愕に目を見開いて、こちらを見下ろしている。胸元のリボンが青くゆれる。三年生だった。
ふわりと花の香りがして、一瞬見惚れてしまった。
美人だっ…。
きっと、ゲームのお嬢様が実在すれば、こんな感じかもしれない。などと不届きなことを考えながら、会釈をした。
「すみません、先生に施錠するように言われて来ました…」
こちらが話す声に、さらに相手は目を見開く。美しい唇に、ゆっくりと笑みが刻まれる。闇色の瞳がきらりと輝いて、楽し気なものに変わった。
美女はゆっくりと口を開く。
「電話をしていたのは、あなたね?」
「はい…あ、母からですよ! 何なら着信履歴を見てもらっても」
校内スマホ使用禁止だったと、改めて気づいて、言い訳する。
確か親族からの連絡はその限りではなかったはず。
上級生に目をつけられて、穏便な高校生活にヒビが入ると厄介だ。
あわてて、スマホの画面を表示させる。通話履歴を出そうとして、画面を美女に向けた。
スマートフォンの待ち受け画面に、この前ダウンロードした八猫がこちらを睨みつけている。学校では無難な壁紙に変えておこうと心に誓った。
…この判断が、遅すぎたことに、私は気が付かない。
目の前の美女はたまりかねたように、笑い出した。
「あはっ、あはははは!」
美人は爆笑しても美人だと知った。声も仕草も、どこか可愛いのだ。でも、なぜ笑っているのかわからず、首を傾げた。
こちらにきちんと向き直り、視線をしっかり合わせてくる。
「風紀委員長の和泉野宮真沙妃です。…あなたは?」
げっ。風紀委員長だったのか。にらまれたらとてもとても面倒だ…いや、まて。私は母と電話していただけだ。何を恐れることがあろうか。
「一年A組の春川遥です」
美女は口元を歪めて嗤った。それをみた瞬間、蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなった。
何か、まずいことをしただろうか。
美女はにっこり笑いなおし、こちらに向き直った。
「SNSアカウントの開設、利用、配信は校内規則第三章十五条で禁止されていること、ご存じ?」
「え?」
なぜ、ここでその話? 校内でのスマホ利用違反の話ではなかったのか。
こちらがぽかんとしていると、美女はさらに笑った。
「明日の放課後、生徒会室で会いましょう」
勝手に決めてしまった美女は、こちらが断ると思っていないように言い放つ。
いやいやいや。明日は続きプレイして、ミニゲーム周回してアイテム集めないと、次の投稿がひっぱくする。一応撮り貯めしているけど…と思いながら、はっとする。さきほど、なんて言われた? アカウントの開設、利用、配信は禁止…?
まさか?
「えっと…私、何か」
言い逃れてみようかとそっと後退りしてみた。
美女は笑いながら距離を詰め、一瞬で至近距離まで近づいた。
黒く長い髪がさらりと目の前で垂れる。そっと見上げると、ぞっとする笑顔の美女と目が合った。
「心あたりはない?」
美女は長く綺麗な指先で、こちらの髪に触れてくる。そのまま頬へ指先を伸ばす。輪郭をなぞるようにつつつ、と移動され、あごを持ち上げられた。
「い、いや、あのっ」
面倒事が大きくなる予感に、首をふる。
作り物のように整った容貌がこちらに近付いて、形いい唇が耳元による。
次の瞬間、愕然とした。
「はるん?」
ささやきは、やさしかった。
え? 一瞬思考が停止する。責められている気配は全くなかった。
ただ、それが相乗効果で、ざっと背筋が凍った。茫然と美貌の顔を凝視していると、美女はくすり、と笑って離れていく。
状況をうまく把握できていないこちらの様子を笑うかのように、美女は笑みを絶やさない。
「では、また明日。生徒会室で」
断るとは思っていない口ぶりで、美女が言い放つ。
なぜこうなった? 電話を咎められたわけではなかった。なぜ、『はるん』が私だとバレている?
和泉野宮真沙妃が目の前から消えていることに気が付いたのは、最終下校を促す放送が入った後だった。
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