終わった
「――何か変化はあったか?」
先に聞いたのはバシレウスだった。
体内にある違和感がアンドレイアにもあるのか、確かめたかった。
問われた彼は小さくため息を漏らす。
「能力が完全になくなっちまった」
「私もだ。微量の魔力すら練られない。どうやら法則そのものが消滅したようだな」
視線を氷竜たちへ向ける。
動揺は見える。
しかし、落ち着いていた。
先程までワンのいたところをしばらく見つめ、目を伏せる。
そして、憎しみを込めた眼差しをバシレウスに向けた。
「……貴様、創造主さまを、よくも」
「お前は状況の何割を理解して話している? だいたい、さっきまで棒立ちだったではないか。止める時間はいくらでもあった。今更何を言う」
「我とて、きちんと理解して行動をしようとしたのだ。しかし、貴様らの話は全くわからぬ! 入り込む隙もないまま、創造主さまはその姿を消された。その途端、我々の身体も重く、苦しくなった。もはやここから動き、お前を痛めつけることもままならぬ」
彼の言う通り、小さな彫像だった炎竜などは地面に転がって足をじたばたとさせている。
真鍮製の身体が重すぎて自力で起きることもできないのだ。
「魔力のない状態に慣れていないだけだ。じきに慣れる」
「慣れの問題ではないのだ。我々は肉体を創造主さまより承った。だから主さまに仕える義務がある。しかしお前にそそのかされて、主さまは消えられた。我々は、どうしたらいいのだ。こうして特殊な魔力も失った今、ただの金属の塊にすぎない。生物ですらないのだぞ。どうすればいいのだ!」
混乱からの激昂。
今や、目的を持たないただの塊にすぎないと彼は言う。
バシレウスからしてみれば、それは大きな間違いだ。
「そう腐るでない。確かに魔力の消滅により鱗も効力を無くしているであろう。お前たちは何もかも失った。しかし、生を賭した目的や使命を持っている生き物などどれだけいるか。そんなものは後からいくらでも作れるのだ。これから積み上げてみせよ。さすれば、やつのいる空にまで届く」
「空……?」
「そうだ。上位の空間、とでも言えばいいか。やつは死んだわけではない」
純粋な魔力の式のみで構成された肉体が、その楔から切り離され、空間と時間を越えて、位に縛られない存在となった。
それは死とは違う。
存在の消失とも違う。
生物として誇らしい、全ての生き物が向かうべき場所なのだ。
氷竜はある程度納得したのか、諦めたのか。
膝をつき、黙ってうな垂れていた。
「さて、私の目的はほとんど果たされた。知りたかった特異能力者の行く末も見守ることができた。非情に満たされたのだ。アンドレイア、お前はどうだ? 清々しい気分にはならないか?」
「……何て言うか、ようやくお前がどういうやつかわかったような気がする」
「ほう、それは良かった」
アンドレイアは剣を抜いた。
柄にエメラルドのような宝石の嵌まった、見たことのない剣だ。
ワンと共に魔力がなくなったこの世界で、特殊な剣は存在しないはずだ。
「お前もあてられたか」
「――お前、このあと姿を消すつもりだっただろ」
「だとすれば、どうする?」
「ここで殺す。初めから俺はそのつもりだった」
「随分と悠長だったな。回りくどかっただろう」
「微量にでも魔力の存在する状況だったら、とてもじゃねえがお前に闇討ちなんて仕掛けられねえよ。でも今なら刺せる」
「高い評価を得られているようで私も鼻が高い。しかし、もう良いのではないか? 今までの続きを、またここでも繰り返すのか?」
「続き? 終わったつもりだったのか?」
「まあ……。環境が変わって、お前の気も変われば、と思っていたのだが」
それは嘘偽りのない本心だった。
人間を含む全ての生物を鏖殺していた彼と言葉を交わすのは、やはり不可能だったのだ。
――なぜそんなことをするのか。
アンドレイアがその疑問を浮かべたのは、魔王軍相手に戦いを始めてすぐのことだった。
魔物が相手でも一歩も引かないその雄姿は、多くの弱者に夢と希望を与えた。
しかしそれだけにとどまらず、その過剰なまでの安心感は、今度は彼らに暴力を行使する機会を与えた。
自分がやられる心配がないと分かった途端、弱い魔物の子供たちや手負いで碌に動けなくなった者たちを、今までの鬱憤を晴らすように、執拗に虐待し始めた。
アンドレイアも最初は止めた。
それなりに影響力のある彼の発言で、人間たちは一度は留飲を降ろしたのごとく、静かになった。
しかしまた、アンドレイアの目が届くなると、その因習は再開された。
どうしようもない。
アンドレイアは絶望した。
知性のある生物がいる限り、この恨みの連鎖は消えない。
きっと、人間が統治する世の中になっても、次の世代が生まれた時に、人間が支配者としての傲慢さを隠せなくなり、また同じことが起こる。
この連鎖を止めるには、一度全員を殺すしかない。
抑圧のモデルを無くすことから始めればいい。
そして、あとは自分だけが生き残っていれば、次の世代が現れた時に手助けができる。
ダメなら、また絶滅させればいい。
それを繰り返していけば、いつかは平和な世界が訪れる。
気の遠くなるような時間がかかるかもしれない。
しかし、やるべき意味のある、大義だ。
魔力と空間を操る能力さえあれば、寿命で死ぬことはほぼない。
死因となりうるのは、外的要因だけだ。
特異能力者であるアンドレイアに届きうる牙を持っているのは、もうひとりの特異能力者である魔王バシレウス。
アンドレイアは生き物を死滅させていくついでに、バシレウスも始末することにしたのだ。
その最中、予想外の邪魔が入った。
しかし、それももう取り除かれた。
ならば、本来の目的を果たそう。
そして、この世界でも、己の使命を果たそう。
魔力がなくなったとて、培った経験と技術がある。
どれだけできるかなどわからない。
それでも、やってみせよう。
自分の手が届く範囲だけでも、皆殺しにして見せよう。
能力を失ったアンドレイアの残りの寿命は百年ほど。
この世界の人間を死滅させるには、十分な時間だと確信していた。
百合花は突然目を覚ました。
一気に体中の力を吸われた感覚がして、意識を保てなかったことをまずは悔しがる。
どれほどの間気を失っていたかわからなかったが、雪花の顔を見てひとまず危機は去ったのかと安堵する。
隣にはセシリアが寝かされていた。
寝息も聞こえないが、死んでいるようにも見えない。
彼女に関してはもう深く考えない方が良さそうだ。
それに、考えられるだけの思考力もまだ戻っていない。
「……どう、なった?」
百合花は息絶え絶えに言う。
「ここからでは会話も聞こえませんし、わかりません。でも、空気が張り詰めています。まだ私たちの力が必要になるかもしれません」
雪花の視線は真っ直ぐにバシレウスたちの方を見ていた。
百合花もやっとそちらに視線を向ける。
アンドレイアが、剣を抜いて構えていた。
バシレウスは手ぶらで、迎え撃つ様子にも見えない。
まだ交渉の段階なのだろうか。
「あの方々は、仲間ではなかったのですか?」
「利害の一致、らしい。だから、このタイミングで戦闘になってもおかしくない。どちらも相手を殺せる距離にいる、から」
「殺せる距離……」
確かにふたりの間合いは剣の間合いだ。
既に剣を抜いているアンドレイアが有利か、と考えて気がつく。
バシレウスは剣を持っていない。
少なくとも、持っているところを見たことがない。
だとすれば、今の状況は五分ではない。
臆面にも出していないが、恐らく追い詰められている。
「……雪花」
「はい?」
「面を、貸してくれ」
雪花のしていた猿の面を、百合花は受け取る。
装着して、百合花は立ち上がる。
どちらにつくか、まだ決めていない。
この状況ではまだ、何が起こっているのか判断できない。
それでも、全員が疲弊している今、新たに争いを起こすことは、力比べや喧嘩ではないくらいはわかる。
確実に命をとるための戦いが起ころうとしている。
アンドレイアが切りかかったら迷わずバシレウスを庇おうとしていた。
だが、少しでも近寄ろうとすると、足がすくむ。
その周囲の空気だけが明らかに異質で、立ち入るなと暗に命令されているような気分にさえなる。
面の内で、異なる自分をイメージする。
一度精神を落ち着かせ、さっきの湖の情景を、心の中に思い浮かべる。
対岸が見えないほどどこまでも広がる湖面は波ひとつなく、早朝のように薄い霧が立ち込めている。
ここがどこなのか、百合花にはわからない。
しかし、これが自分の力なのだということはわかる。
肉体の器が壊れないよう、湖のゆらぎを感じ取り、全身に巡らせる。
これは『気』だ。
なんとなく、そんな感覚がする。
武術の修行で気の概念はよく出現する。
しかしそれはただの精神論で、そのものが力を持つという話は聞いたこともないし、感じたこともない。
――だが、これは気の奥義のようなものだろうか。
身体中に満ち満ちているこれは、限界を迎えていた百合花の体を動かす。
アンドレイアが、じり、と足を動かした時、百合花はふたりの間に割って入った。
「待ってください。何が起こっているのですか」
「どけ。説明してもわからねえよ」
アンドレイアの威圧感に、ぴりぴりと全身が粟立つ。
彼の本気の殺意がこれほどまでの圧力をもつとは想像もできなかった。
百合花は彼には一度負けているし、今でも勝てるイメージがわかない。
しかしそれでも、ここで引くわけにはいかないと百合花は直感的に感じていた。
「百合花、やつは急な感覚の消失にまだ身体が慣れていない。平気そうに見えてかなり疲弊している。戦闘技術だけは以前のままだが、今ならばお前でも勝てる」
バシレウスが何の緊張感もない口調で言う。
「本当ですか? 緊張がすごいんですけど」
「壁を、超えただろう? アドバンテージはある」
「壁? あれは、あなたの……?」
「――言葉を交わしている暇はないぞ。眼の前の敵に集中したまえ」
百合花はアンドレイアの全身から目をそらしてはいない。
しかし、注意を少しでも怠れば、胸を貫かれているイメージができる。
両手を開いての構えをとる。
職業上、対武器術の心得もある。
しかしそれでも、素手で対峙するのはあまり賢いやり方ではない。
やりたくはないが、ここで逃げるのは死ぬよりも苦痛だ。
できる限りのことはやる。
そう心に決め、アンドレイアの剣の切っ先がわずかに上を向いた瞬間、百合花は踏み込んだ。
百合花の拳法は力重視の剛術で、早さはそれほどない。
だから、必ず先手を取らなければならない
剣が振り上げられるまでの間に、目前にまで近寄る。
視線の僅かな動き、呼吸の乱れ。
経験から分かる。
明らかに対応できていない。
(――これなら刺さる!)
握った拳が、アンドレイアの胴を撃つ。
以前よりも感触が軽く、一撃で、アンドレイアは吹き飛んで転がる。
剣が地面を転がっていくところを見るに、無傷では済まなかったはずだ。
ようやく拳の真髄を味あわせることができて、百合花はそっと笑みを浮かべ、すぐに気を引き締めた。
アンドレイアが弱くなったのか、百合花が強くなったのか。
何にせよ、あの時のような人外の頑丈さは確かに失われている。
――だが、しかし。
この程度で倒れる男でないこともまた、知っている。
「フェイクだ」
バシレウスが呟く。
(まったく、対人戦闘技術が未熟だって話はどこにいったんだ?)
苦笑を浮かべる。
直撃の直前に、彼は後ろに跳んで衝撃を逃がしたに違いない。
感触が軽かったのはそのせいだろう。
ゆっくりと立ち上がるアンドレイア。
怒っているような表情でもない。
ただ、こちらを観察するような眼だけが異様に鋭く見える。
次の瞬間、突然アンドレイアが屈んだ。
そして、頭のあったところを、雪花の流星錘が通り過ぎる。
「雪花!?」
「何を呆けているのですか! 彼は敵であったというだけのことでしょう!」
「いや、別に呆けてなんか……」
同じ組織内に敵がいたなどということは、往々にしてある。
寝食を共にしていた仲であっても、裏切られることはある。
百合花も別にショックを受けているわけではない。
ただ、彼の強さを何度も目にしている以上、どうしても思い切った追撃を撃てないのだ。
アンドレイアの姿が視界から一瞬消える。
やはり、緊張と緊張の間――呼吸の隙間を狙うのが信じられないほど上手い。
だから、相手がどんな人間であっても後れを取らずに戦えるのだろう。
しかし今は、前提条件が異なる。
百合花は再び震脚を行う。
力を溜めるためではなく、威嚇のために。
眼の端に捕えた黒い影を追い、身体を捻って掌打を放つ。
――だが、それは空を切る。
そして、何かが見えたと思った時には目つぶしをくらっていた。
瞬きの間にも満たない時間の攻防に負けた。
百合花は死を覚悟したが、その後の追撃はない。
雪花がアンドレイアを抑えているのだ。
足音と拳が空を切る音で分かる。
アンドレイアは初見の際には様子見をする。
だから、分析されるまでは雪花が攻撃されることもない。
音の位置から、雪花の姿を想像する。
彼女がどういう攻撃をして、アンドレイアがどう回避するか。
ふたりを知る百合花だからこそ、イメージが鮮明に描ける。
眼が見えずとも、視える。
放ったひじ打ちがアンドレイアを捉える。
これも先程から充実している『気』のせいなのかもしれない。
感覚で、誰がどこにいるのかわかる。
吹き飛んだ感触、地面に伝わる振動、音。
五メートルは飛んだか。
百合花は視力を回復させるため、袖で拭う。
失明はしていないが、かなり強く叩かれたらしく、まだ少し視界はぼやけている。
「百合花、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。もうじき戻る」
アンドレイアはまた立ち上がる。
また綺麗には入っていないのだろう。
だが、確実にダメージは蓄積しているはずだ。
「百合花、ふたりでやりましょう。このままでは恐らく――」
「わかっている。こっちの呼吸が読まれている感じだ。長引かせたら負ける」
彼女も理解したのだ。
アンドレイアの順応の早さを。
もうあと二回も攻撃すれば、それに合わせて反撃の手を打ってくる。
その前に、仕留める。
雪花とふたりで挟み込む。
どう動いても、同時に両方に攻撃はできない。
どちらかの攻撃は入れられる。
アンドレイアのつま先がじり、と動いた瞬間、百合花は跳ねた。
ほぼ同時に雪花も流星錘を放つ。
左手に熱を感じる。
アンドレイアは両方に向けてナイフを放っていた。
どこに隠し持っていたのか、顔を向けずにこの精度で投げられるものなのか、といくつもの疑問が瞬時に浮かぶが、それを振り払い、百合花は攻撃の手を緩めない。
空いた方の右手で、胴に一撃をお見舞いする。
今度こそ、完全に決まった。
内臓にまで達する気の波動によって、ろくに呼吸もできないはず。
倒れるアンドレイアから視線を外して、雪花の方へ目をやる。
「雪花……!!」
「わ、私に、構うな!」
雪花の胸の中心に、ナイフが突き刺さっていて、おびただしい量の出血が起こっていた。
「早くとどめを!」
雪花の言葉で我に返り、アンドレイアの頭を踏み潰そうと足を持ち上げる。
その瞬間に、軸足の方をすくわれて、背中から転ぶ。
「あー、痛ぇ……」
アンドレイアが馬乗りになり、ぐしゃぐしゃになった自身の髪をかき上げる。
彼も口からは血を流しているが、微笑を浮かべていた。
「なぜ動ける」
「……我慢強いから? それにしても、お前、強いな。喧嘩の時は全然本気じゃなかったってことか」
「殺すつもりでやった方が強いって話は、したはずだけど?」
「そうか、そうだな。俺もそんな話をした気がするよ」
アンドレイアは上着を脱ぐ。
露わになった上半身には無数の傷跡があった。
「まあでも、お前くらいのやつなら、百人くらいはいたよ。いや、百匹って数えるべきか。とにかく、もう終わりだ。最後に言い残す言葉があるなら聞いてやるが」
「へえ、優しいね。だったら最後に言わせてくれよ」
「何だ?」
「あまり舐めない方がいい」
次の瞬間、アンドレイアを流星錘が吹き飛ばす。
雪花――雪麗は、たとえ胸元にナイフを突きさされようと、その犯人と相打ちにもっていくくらいの根性を持っている。
彼女は根性と気合が人の形をしているような人間だ。
他に似た人を、百合花でも知らないくらいに。
「終わった……」
「ああ、終わりだ」
アンドレイアは今度こそ、立ち上がれない様子だった。
その傍らへ、バシレウスが立つ。
王は自ら手を下さない。
優秀な人材を適切な場所へ動かしてこその王だと、バシレウスは思っていた。
しかし、今だけは、自分でやる必要がある。
「敗北はどんな味だ?」
「最悪だな。何度味わっても慣れねえ」
「死を経験するのは初めてだったか」
「それは、初めてだな」
バシレウスの手には、柄が緑色の金色の剣が握られている。
アンドレイアが落としたものを拾っていたのだ。
「怖いか?」
「いや、別に。誰にだっていつかこの日は来るだろ。自分だけが特別だなんて思ってねえよ」
「……お前が死んでも悲しむ者はいない。思い出す者もいない。お前はそういう生き方をしてきた。全ての生物を殺していくというのはそういうことだ。深く暗い穴で孤独に落ちるがいい。悪鬼よ」
首を切り落とそうとした時、いつの間にか目を覚ましたのか、セシリアが剣を握っている手を止めた。
彼女も呼吸がやっとというような様子だった。
「……待ってください」
「セシリア、やめた方がいい。こいつに改心という言葉はない。ここで見逃してもまた同じことを繰り返す。そのたびに、大勢が死ぬ。こいつ以外、誰にも責任のとれないことだ」
「それでも、嫌です。私の友達が誰かを殺すのなんて、嫌です」
「……こいつが他の誰かを殺しても、か?」
セシリアは黙る。
彼女も自身の感情論に気がついてはいるようだ。
そして、今この場を納める方法が他にないこともわかっている。
だから、黙るしかないし、手を握って止めるしかない。
「こいつは罪人として処分しても死罪になる。私が元の世界から連れてきたのだから、他の誰にも裁けない罪人だ」
「でも、まだこの世界じゃ罪なんて犯していないじゃないですか」
「いつか大罪を犯す。私はその可能性を放置できない」
「それでも! もう一度機会を与えてはもらえませんか!?」
「…………ふむ」
バシレウスはセシリアの真剣な眼差しに剣を降ろす。
彼女の必死な訴えに耳を貸したわけではない。
ただ、魔力のなくなった世界ではもう空間を支配することはできない。
以前のような大量虐殺は起こせない。
今、百合花たちがやったように、熟練の武術者が複数人いれば抑え込める。
抑止力が全くないわけではないのだ。
「――雪麗皇女、彼の処遇を任せたいのだが、いかがか?」
「雪麗はまだ喋れるような怪我じゃ!」
「もう治した。時間を巻き戻したのだ。私の最後の力だ」
自身の構成していた時間の切れ端を用いて、雪麗の傷を無かったことにした。
これは最後の保険のようなもので、使用すれば、バシレウスはその存在を保てなくなる類のものである。
彼らに託してもよいと考えたのは、単なる気まぐれだ。
アンドレイアが厄介極まりないのは本当のことであるし、彼を捕えられているのも今だけかもしれない。
だが、アンドレイアがこれからこの世界で生きていくのだとすれば、これからのことは、これからの者たちに任せるのも悪くはない。
彼自身は負債だが、まだ信じたいと思う人間がいるのなら、その意思は尊重したい。
アンドレイアも口ではああ言っているが、まだたかだか百年ほどしか生きていない。
これから物の見方が変わる可能性も十分にある。
事を急くと仕損じる。
もっと長い目で見てみよう。
そう考えられるくらいに、今は余裕がある。
今まで時間を支配していたが、未来のことは誰にもわからない。
物理的な肉体が、指先から少しずつ霧散していく。
意外にも意識ははっきりしている。
自身を構成する式を取り除くとはこういうことか、と先程消えたワンに思いを馳せる。
こんな時でさえ、呆気にとられている皆の顔がよく見える。
これは死ではない。
バシレウスの生はまだまだ続く。
この世界からまだ先がある。
(短い期間だったが、一時の休息程度にはなったな)
次なる探究心を満たすため、バシレウスは旅立つ。
未だ見ぬ、高次の世界へ――。
バシレウスは数秒もしないうちに完全に消えた。
塵ひとつ残さず、風や空気のように。
怒涛の展開に追いつけていなかった百合花たちをまとめたのは、皇女としての雪麗だった。
何をすべきか、瞬時に判断する能力に長けている彼女はそれぞれに指示を出した。
とにかく、すでに気絶寸前で戦う能力を失っているアンドレイアは縛って雪麗自らが連れていく。
肉体が万全でない百合花は、身体をうまく動かせないセシリアに付き添う。
氷竜は炎竜を抱き上げ、無言のまま同行していく。
雪麗は彼らにも生き方を与えられるだろうか。
ただでさえ、やらなければならないことが山積みになっているのだ。
この数日で崩壊した帝国と王国。
戦争でも何でもなく、災厄のような崩壊の仕方をした。
今はふたつの国の民に対して救いの手が必要だ。
少なからず皇国に疑いの目は向けられるだろうが、現地に居た者たちから皇国とは無関係との証言はすぐにとれるだろう。
百合花はこれからどうしたものかと、歩きながらずっと考えていた。
わずかばかりに触れた『気』の真髄を追いたいが、そんな暇もないほど忙しくなるだろう。
特にアンドレイアの処遇は、百合花が付き添うものだと思っていた。
二度負けたとはいえ、他の者では足止めにもならないだろうからだ。
そんな想像とは裏腹に、雪麗から正式に下されたアンドレイアの処遇はもっと考えもつかないことだった。




