壁か
百合花は彼らの会話の半分も理解できていなかった。
情報の理解に集中していると、バシレウスが壁に打ち付けられていた。
あのセシリアがこんな力を出すなんて考えられない。
見た目からは想像もできないほどの、兵器のような力。
これはまるでバシレウスのようではないか。
セシリアはより近くにいるアンドレイアの方を向く。
「百合花!」
雪花が名を呼ぶ。
セシリアがアンドレイアの方へ行くと、ワンの相手を百合花たちでしなくてはならない。
氷竜と炎竜は静観したままで、手を貸そうとはしていない。
魔力に対する知識のない百合花たちでは、ワンと戦えない。
百合花は雪花へ力強く頷く。
「アンドレイア! あの妙なやつは頼むぞ!」
百合花は叫びながら、懐のナイフをセシリアに向けて投げる。
彼女の頭部に命中したが、まるで金属の兜に当たった時のように甲高い音を立てて、弾かれた。
刃物は効かなかったが注意は引けたようで、こちらに向かって走り寄って来る。
どうにかして彼女を止めたいが、腕が治っているところをみるに、怪我の類はすぐに完治してしまうに違いない。
殺さずに制するには、回復不能な怪我を負わすか、気絶させるか。
どちらにせよ、百合花の一撃で全く動じなかったバシレウスが吹き飛ばされるほどの力だ。
全力で戦わねばこちらが殺される。
念のため背に持ってきておいた棍を構えて、セシリアが間合いに入るのを待つ。
戦闘の素人ならば簡単に倒せるなどということはない。
それはあくまで人間相手の話だ。
向こうは遙かに強力な猛獣、怪物だ。
棍を握る手に汗が滲む。
バシレウスに全く打撃が通用しなかったことを思い出して緊張が高まる。
セシリアが間合いに踏み込んだ瞬間、顎をかちあげる。
やはりまるで手ごたえがない。
だが、百合花も止まらない。
止まれない。
百合花の連撃に、セシリアは足を止めた。
まるで正面から豪雨が吹き荒ぶかのような激しさに、前に進めないのだろう。
勝機は感じられないが、体力の続く限り、時間を稼ぐことはできる。
そう思った矢先、棍の先端が動かなくなった。
「バカな……」
セシリアは俯いたまま、右手で打ち込まれた棍を握っていた。
百合花の力では、押すことも引くこともできない。
手を放して素手での攻撃を試みようとした時、セシリアが棍を手放し、ぐらりと揺れた。
脇腹に突き刺さっていたのは、鎖付きの鉄球、流星錘。
「手を出すな! 危険だ!」
百合花の言葉に、雪花は怒った顔で言う。
「我々は仲間です! 互いに補い合わなくて勝つつもりですか!?」
「もしものことがあったら!」
「貴方が死んでも同じことでしょう!? 勝つ可能性は少しでも高い方がいいに決まっています!」
雪花はセシリアを挟み込む形で回り込んだ。
どうやらセシリアは、最後に攻撃してきた者を追うようになっているらしく、標的を雪花へと変える。
彼女も一撃ではやられないだろうが、有効打も持っていないはずだ。
雪花の武器は打撃の他に、鎖を用いての捕縄術に近いこともできるが、筋力差を考えると、逆に引きずられかねない。
彼女が接近するまでの僅かな間に、百合花は何か手段を考える。
持っているもので、彼女に通用しそうなもの。
いくら頭をひねっても出てこない。
鍛えた技以外、何もない。
『――壁を越えろ』
声が聞こえた。
聞こえた気がしただけかもしれない。
しかし、確かに、この感覚は前にも味わったことがある。
アンドレイアを前にして、絶対に音声を発するような瞬間はなかったのに、声が聞こえたことが、ある。
『お前はすでに手にしている。あとは身体に馴染ませるだけだ』
その声は、百合花の内側から聞こえているような気がした。
これは自分自身の声だろうか。
それとも、他の誰かの……。
「考えても、仕方ないか」
百合花は走り出していた。
雪花とセシリアにこちらを気にする余裕はないはずだ。
セシリアの背後から、百合花は掌打をくらわせる。
常人ならば背骨がへし折れるくらいの力加減だが、クマやトラを相手に打撃を打ち込んだような、まるで手ごたえのない感覚が手の平に残る。
セシリアの大振りな反撃を躱し、脇腹に肘を打ち込む。
少しバランスを崩したところで足をすくい、転ばせて本気の下段突きを下腹に放つ。
確実に入っているのに、それでも、彼女はまだ、機械的に起き上がり、反撃を試みようとして来る。
「代わりなさい、百合花」
今度は雪花がセシリアを背中から襲う。
(僕が、彼女を恐れていることを、察したのか……)
表情には出していないつもりだったが、百合花はまだセシリアが怖い。
その身体能力の高さよりも、主に人形のような反応の無さに対する気持ち悪さだ。
戦っているのに戦っている気がしないというのは、想像以上に精神を削る。
だから、雪花は交代で戦うことを提案したのだ。
その不気味さは、ひとりで背負えるほど軽くないと察したのだろう。
「壁、か」
この恐怖こそが壁であるというのなら、乗り越えた先に何かあるのか。
必死に足止めをして、アンドレイアが全て解決してくれるのを待つだけしかできないと思っていたが、自分にも何かできるのだろうか。
集中と脱力を極限まで高めるため、百合花は言う。
「雪花、二十秒頼む」
「知道了!」
二十秒、彼女に持ちこたえてもらっている間に、百合花はまず呼吸と心拍数を整えた。
このままだと、いくら攻撃しても有効な傷は与えられない。
壁の向こう側、そこへ打撃を届かせるイメージをする。
(――見えた)
壁の向こうに広がる、波ひとつない大きな湖。
そこに満ちる、力の本質。
気を十分に充填させ、構える。
一歩踏み出す。
震脚で、地面がひび割れる。
これほどまでに身体は熱いのに、心は澄みきっている。
まるで自分ではない自分がそこにいるような気分だ。
力が溢れているのを感じる。
あの湖から、力の水が流れ込んでくる。
「雪花、空へ」
防御に徹していた雪花は、指示通り、上へと跳ぶ。
セシリアの視線は上を向く。
その隙に、百合花は懐へ潜り込む。
――鉄山靠。
地面がひび割れるほどの溜めによって放たれた、究極の一撃。
常人なら粉々になって吹き飛ぶほどの力で放った。
セシリアの身体がぐらりと崩れる。
先程までとは違い、完全に入った感触がした。
セシリアは倒れそうになる身体を起こそうと、足を大きく開いてバランスを保っている。
しかし、もう、それ以上動くことはできなかった。
いかに強靭な意志で操られていようと、物理的に破壊してしまえば、立つことはできない。
百合花が彼女に与えたダメージはそれほどまでに深刻なものだったということだ。
フッと我に返ると、身体に満ちていた力が一気に抜けていった。
その途端、冷や汗が大量に吹き出て、目の前が白黒と明滅する。
倒れないようにこらえ、雪花の方を見る。
慌てて駆け寄る彼女に微笑もうとした時、意識を繋いでいた細い糸が切れ、百合花は気を失った。
「お前さ、戦うようなタイプじゃないだろ」
アンドレイアはワンに告げる。
老人と化したワンの眼には憤怒の色が見えるものの、彼自身が何か仕掛けてくる様子はない。
「魔力の支配はできても、それを使っての殺し合いとかしたことねえんだろ? だからせいぜい火や氷なんて原始的なことしかできない。話にならねえよ」
「やかましい。貴様に言われずとも……」
「覇気がねえよ。殺意どころか戦意すら持ったことないんだろ。前の世界じゃ戦うことなんてなかったもんな」
「…………」
ワンは口を噤んで答えなかった。
アンドレイアは深く考えて喋っていない。
ただ、感覚として、ワンが戦う人間であるとは思えなかった。
「お前、結局何がやりてえんだ。俺たちを呼んで、この世界をどうしたかった」
「完璧な世界を作るのだ……。格差のない、平等な……」
「だったら、なんで半端なことをした?」
「半端なこと?」
「魔力だ。ごく微量にしたとお前は言っていた。完全に無くしてしまえばいいだろ、そんなもん」
「しかしそれでは、我々の存在がどうなるかわからない。我々は存在をあまりに魔力に依存しすぎている」
「あのさぁ……」
アンドレイアは足元に落ちていた石ころを拾って、空間を支配して空中に固定する。
「例えばこいつから完全に空間を奪うとどうなると思う?」
「……何?」
「今ここにあるこの石ころは果たして消滅するのか、どうか。簡単な話だ」
アンドレイアは石ころを作り上げている空間を完全に取り除いた。
すると、石ころは、そのまま落下して地面に転がった。
「どういうことだ。空間が消滅すれば物質は存在できないはずでは……」
「いや、それは違う。消滅したように見えるだけだ。存在ってのはそんなに単純なものじゃない。目に見えるものだけが全てだと思っているから、視野が狭くなる」
「どういう意味だ……?」
「消えてないんだよ。ここにあったという記憶が俺たちの中に残っているだろ。だからこの石はここにある」
「詭弁だ。そのようなものが何の役に立つというのだ。儂の創造したい世界とはかけ離れている」
「全部ぶっ壊したくてもできねえってことだよ。たとえお前がこの世界の魔力を全て奪ったとしても、一切の物質は消えねえ。別の法則で足りなくなった部分を補うだけだ。お前はただビビっただけだろ。もしかしたら自分自身も消えてしまうかもしれねえって恐怖に抗えなかった」
図星だったようで、彼は押し黙った。
魔力のみで構成されていた身体を捨てる覚悟もなしに世界を作り変えようなど、そのような半端な覚悟で何ができるというのか。
世界を変えるには覚悟がいる。
どこまで自分を犠牲にできるか。
その身を削ることができるか。
例え、精神が虚ろと化して何も感じなくなろうとも、歩みを止めずに進められるか。
「で、どうする。戦闘経験の碌に無いお前が、今から逆転の手があるようには思えん。俺はその気になればすぐにでもお前を殺せる。お前が降参するなら、俺はここでやめても構わん」
「くっ……」
彼は負けを認めたくないだろう。
ここまでお膳立てして、上手く事が進んでいると思っていたのだから、余計に悔しいのだろう。
アンドレイアも把握しきれていないが、そのような小賢しい企みなどバシレウスがかき回したはずだ。
だから今、彼はこうして追い詰められている。
本来ならば彼が作ったマギアであるはずのクリスタも助けに入る様子はない。
どちらにつくか迷っている様子もなく、ただ巻き込まれないところから傍観している。
彼らも知りたいのだろう。
自分たちの創造主のことや、行く末のことを。
魔力がなくなれば、最も影響があるのは、彼らのような生命力の根幹を魔力に依存している者たちだ。
ここにいるマギアは彼らとセシリアだけだが、外に存在している竜たちも同じだ。
しかしすでにアンドレイアとは力の差を思い知らされているクリスタが、ここに割って入る理由はない。
彼らはもうすでに、ただ見守るしかないのだ。
「――やりゃいいじゃねえか。魔力のない世界ってやつをよ。そりゃあ、俺やお前のこの特殊な力もなくなるだろうけどな。でもそれで争いのない世の中を実現できるなら、安いもんだろ」
「その言い方だと、お前も、そういう世界を望んでいるように聞こえるぞ」
「争いなんて百害あって一利なしだろ。何言ってんだお前」
「力の誇示をするために、戦っているのではないのか……?」
「力につき従って来る奴らがどういう奴らか知らないから、そんなことが言えるんだろうけどよ。強さ自体に価値なんてものはねえ」
アンドレイアはきっぱりと言い切る。
「俺はこの力を、自分の好きにしていいものだと思っている。他人のために使うなんてことは絶対にしねえ。だから、お前もお前の目的を果たすために使えばいい。戦うなら止めねえよ。でもな。本来の目的が何だったか、しっかり考えろ」
「本来の目的……」
ワンはしばらく考え、そして口を開く。
「儂は、儂は……。この世界から魔力を全て消し去る。そして、生物が、自分たちの力だけで生きていける世界を、作る。理不尽な種族の差などなく、それぞれが平等な、世界を――」
ワンは両手を合わせ、魔力を練り上げていく。
やがて光を放ち始め、一体は眩い白い光の中へと消える。
アンドレイアが次に目を開いた時、ワンの姿はそこにはなかった。
ワンの消滅と共に、セシリアはその場に崩れ落ちた。
雪花は彼女を抱きかかえ、呼吸の有無を確認する。
彼女は息をしていた。
命令を失うと共に、身体から力が抜けて気絶したのだろう。
こうしてみると彼女も普通の人間と変わらない。
だから、雪花も普通に接することに決めた。
たとえ、あの百合花の一撃で怪我を負うことのない人外の頑丈さであろうとも、この件の被害者のひとりだ。
雪花の性格上、彼女のような人は見過ごせない。
利用され、捨てられていく人を保護するのも、皇女である彼女の務め。
小脇に抱きかかえ、反対の手で気絶している百合花を引き摺りながら、離れたところへ連れていく。
戦いはまだ終わっていない。
直感的に、雪花はそう感じていた。




