僕は降りることにした
絢爛豪華という言葉が安っぽく思えるほど、彼女の寝室は煌びやかだった。
木造でありながら、美しい朱色に彩られ、所々に見事な金細工がちりばめられている。
オークロス皇国の若き女帝雪麗は、すでに朝支度を済ませていた。
公務は朝日と共に始め、日没と共に終える。
この主義だけは一貫して行っている。
今日は朝から客人の予定があった。
侍女に迎賓の準備をさせ、自分は広間の玉座に腰かけて、彼の到着を待っていた。
「雪麗さま。到着されました」
侍女が恭しくそう伝える。
平静を装ってはいるが、そわそわと落ち着かない。
今日は久方ぶりに戻って来るのだ。
愛しの彼が。
広間の扉が開かれ、その顔が見えると、雪麗は思わず立ち上がった。
「百合花!」
「やあ、久しぶり」
百合花は深くお辞儀をしながらも、口ぶりは軽く、簡単な挨拶をする。
彼は昔からそうだった。
自分だけに柔らかい表情を見せてくれる。
「長い間の業務ご苦労さまでした。お怪我はございませんか?」
立ち上がって駆け寄ろうとしたところを、侍女にたしなめられる。
百合花はそんな様子を見て笑っていた。
なんと美しい笑顔だろうか。
彼の前ではどんな芸術品ですら霞んでしまう。
雪麗は百合花と幼馴染だった。
彼は高官の息子であり、地位はそれほど高くないのだが、同じ年齢の子供がいなかったこの宮中において兄のような存在で、昔からよく懐いていた。
事情を知っている侍女たちは、今更彼の態度を咎めることもない。
しかしさすがに、雪麗にも立場がある。
皆の前では畏まる必要があるために、今日は他の役人たちは昼までここへは立ち入らないよう伝えてある。
「ないよ。僕は無事だ。商いも順調だしね」
「では、なぜお戻りになられたのですか? まだ任期が残っていたはずでは?」
「そのことなんだけど、手紙じゃ他の人に読まれるかもしれないから、直接伝えに来たんだ。簡単に言うと、僕は降りることにした」
「え――」
言葉に詰まる。
聞き間違いだろうか、と目を見開く。
「な、何を申しているのですか? オウマ王国は風前の灯。降りるも何も、もうすでに滅んでいるようなものではありませんか?」
「僕も少し前まではそう思ってたよ。だから商会を作って国内の資源回収を行ってたんだからね。でも、少し風向きが変わり始めた」
「詳しく、お聞かせ願えますか」
雪麗の顔が女帝のものへと変わる。
百合花の話は、突然現れたふたり組のことだった。
普通ならば、たったふたりで国をどうにかできるはずなどない。
「立ち合いであそこまで完璧に負けたのは初めてだったよ」
「あなたが負けたことは信じられませんが、それでも、ただ腕っぷしが強いだけで、何の障害になりましょうか」
「僕が危険を感じたのはもうひとりの方さ。出会った日に僕が商会の会長だと看破して、商会内の不満を持つ者たちを見つけ出して唆して、反乱を起こさせることのできる洞察力と判断力を持つ、理外の化け物だ。竜すらも彼らの敵にはならなかった」
「それは過剰に評価をしすぎているのではありませんか?」
「試しに竜にぶつけてみたんだ。ひとりで、無傷で、簡単に倒してみせたって報告を聞いたよ」
「そんな馬鹿な話……」
竜は、オークロス皇国でも手を出してはならない神のような存在だ。
怒りを買えば国が亡ぶと言われている。
それに恐ろしく強く、その討伐は兵士に死を命じることに等しい。
いかにその鱗が強力であろうと、普通ならば選択肢にすら上がらないことなのだ。
「彼らがいなければ、誰にも知られることなく、赤い竜の逆鱗は正当な手段で商会のものになっていた。――あくまで表面上はね。そのために茶番の大会まで開いたんだ。でもその茶番のせいで、彼らは逆鱗の存在を知ってしまった。オウマ王国に協力するかどうかは置いておくにしても、必ず青の方も手に入れてくるだろう。正体がバレているかもしれない僕には、もう密偵の役割はこなせない」
「あなたがそこまで仰るなんて……」
「これでも彼らの実力を低めに見積もっているんだよ。まだ彼らとは友好的な関係を築けている。手を引くタイミングを間違えたら、僕も無事じゃ済まない」
「いざとなれば倒してしまえばいいではありませんか!」
「負けてるんだよ」
「それでも、本気なら……!」
「向こうも同じさ。本気じゃなかった」
百合花は自嘲気味の笑顔を浮かべながらも、少し下唇を噛みしめる仕草を見せる。
一番悔しい思いをしているのは彼なのだ。
「しかし、百合花、あなたがここで作戦の中断をするとなると、私も相応の罰を与えねばなりません。あなたに与えられていた仕事の中で重要なのは逆鱗。それをふたつとも欠いたとなると、私とて庇いきれません」
怪しまれるわけにはいかなかったとはいえ、王国の宝物庫に逆鱗をしまわざるを得なかったことは、十分に処罰の対象となる。
「大丈夫だよ。僕はここからも去る。皇国から出るよ」
「は――――」
またしても、言葉を失う。
「仕事から降りるって言ったんだ。例え僕の中で確固たる自信があったとしても、これを材料にみんなを納得させることはできないと思うし、命令に背いた人間に居場所はないだろ? 国外追放とでも言ったらいいさ」
「いえ、いえ、それでも、商会だってありますし、どこへ向かうおつもりなのですか」
「僕は王国に戻るよ。僕にとって商会はもう必要なくなってしまった。いずれ商会から分けて荒事を行うために隠していたマルコシアスの名も明かされてしまったことだしね。隠れ蓑としての役割は果たせない。経営権は副会長に譲ってくれ。彼でも十分に利益は上げられる」
「そんな、いけません! あなたがこの国から去ってしまうことなど! 皆が悲しみます!」
「そんなことはないさ。僕も自分が煙たがられていることくらいわかっている。君に気に入られているからね。それに、これは何の意味もない行動じゃないんだ。やがて彼らが王国を手中に収めたとき、便宜を図ってもらうため、自分を人質として置こうと思っているんだ」
「あなたがそこまで言うなんて、信じられません。しかし、あなたの勘を信じるのなら、最善の手かもしれません」
動揺を隠せず、雪麗は相反する気持ちを思わず口にする。
個人的には彼の判断を信じたい。
しかし、彼の言う通り、主観だけの情報では皆を説得することは難しい。
情報のほとんどないうちから、正体を見破られたのは事実だ。
商会に潜ませていた皇国の人間を唆したことも事実。
常人では考えられない賢さ、それにそれを実行する精神性。
想像の通りであるならば、敵に回すにはあまりに恐ろしい。
「――百合花、ひとつ、確認したいことがあります。帝国はこの件を知っていますか?」
「いや、知らないはずだよ。王国内でもまだ目立ったことはしていないし、僕の知ってる向こうの密偵とはまだ接触していない」
「ならば、これを利用しない手はありません。彼らに帝国を潰してもらいましょう」
「それは、皇国は彼らを支援するってことになるけど」
百合花の不安は当然のものだ。
彼らと手を結ぶということは、彼らの行動の結果が皇国の立場に影響するということにもなる。
「今はまだ、王国にも正式には与してはいないのでしょう? でしたらいっそ、我々がそのふたりを囲ってしまいましょう。もちろん、秘密裏に行います。表立って味方することはしませんが、その方々と王国に不満を持っている者たちの逃げ場を、さりげなくあなたが作って差し上げるのです。そうすれば今よりももっと自由に働けることでしょう」
「裏に皇国がいることくらい、すぐに勘付かれるよ」
「ならば話してしまえば良いでしょう。あなたが見込んだ通りなら、利害の一致している我々と関係を持ちたいと思うはずです」
それを聞いた百合花は、少し悩んでから言葉を発する。
「いや、僕は交換条件を提示してくると思う。権力に従わないから今の彼らがある」
「条件の内容は予測できますか?」
「……おそらく、全ての密偵の撤退だろう。今の彼らにとっては敵の誰がどこに所属するかわからない。候補となる数は減らしたいだろうからね」
「許可します。すでに王国には元に戻るだけの体力はなく、我々にも新たに得たい情報もほとんどありません。しかし、あくまでもそれは彼らとの協力が確約された後の話。帝国を滅ぼせるのならば、という条件付きです」
「欲張りな皇帝さまだ。内部の皇国民を撤退――巻き添えをくわないよう避難させる代わりに帝国滅ぼすの手伝えって、それ、けっこう無茶だぞ」
「皇帝とは誰よりも欲張りで我儘なのですよ。そしてその無茶を、部下に押し付けるものなのです」
雪麗は優しく微笑んだ。




