2ー1・宇宙から失われたもの
かつて《地球》と呼ばれた惑星に(直接的にせよ、間接的にせよ)起源を持つとされるジオ族の宇宙、正確には宇宙領域において、"世界樹"は辺境の銀河フィラメントとされる。
それは科学者たちの銀河フィラメント。どれほど想像力が豊かな者が描く永遠より長いかもしれないような時間をかけても、まだ底が見えてもこない叡知の深淵に潜らんとする、身の程知らずたちの世界。
そんな世界の中の、さらに辺境の惑星である《フラテル》の地を、ある時リーザは踏んだ。
彼女は"世界樹"の外から来た。思い出から逃げてきた少女だった。
そして彼女は、《フラテル》でミーケという少年と出会い、とても短くて、だけど2人にとってはとても長い時間を、一緒に生きてきた。
ミーケは記憶を失った少年だった。
それだけなら珍しくはあるが、とりたてて奇妙というわけではない。
奇妙なことは、彼自身が確かに持ち続けていた、その断片的な情報。どこか、特殊な管理なく存在する水辺の近くに生きていたかもしれないこと。
また、本人も長らく知らなかったことなのだが、彼は意識的に、水という物質をコントロールする特殊能力を有していた。それもおそらくは、どこか水が普遍的に存在する環境で授けられたもの。
しかし普通に考えると、そんなこと、ありえなかった。
はるか昔、途方もない昔。ジオ族の内、今生きている誰であっても、まだ存在していなかったくらいの昔。おそらくかつては、別宇宙とも呼ばれた領域も全て合わせたこの唯一の宇宙(ユニバース)で、最もありふれた物質だったとされていた水。今はもう、それはどこからも失われてしまったとされているから。
正確にはこの宇宙は、水が安定して存在できる環境ではなくなってしまったのである。そのありえないような物質構成の大規模変化は、しばらくは大災害と呼ばれ語り継がれたが、もはやそんな話も、遠い昔の伝説になりすぎてしまった。
だが、最も長く生きてきたジオ族であろう男エクエスは、大災害に関するかなりはっきりした記録のいくらかを、その世代の者から直接的に受け継いでいた。
そして、エクエスはまだかなり若い頃、大災害とは結局何だったのかを研究しようと決意し、そのための研究組織『水文学会』を立ち上げもした。もっとも、それだって大昔のことであり、彼自身ほとんどのことを忘れてしまってはいたが。
水の記憶を持っているのかもしれないミーケと、かつて宇宙から水を奪った大災害の研究をしていたエクエス。二人を巡り会わせたのは、小国《アズテア》の姫であり、現在の"世界樹"における最大の科学結社『学術委員会』に所属する地質学者の少女ザラだった。
ザラは、不世出の科学者であった母ミラの、不吉な予言とも呼ばれる論文に端を発する、神々の敵と表現できるような存在に関する研究をしていた。
わかっていることはあまりにも少なかったが、何もかもわかっていなかったわけではない。
かつて、宇宙の様々な領域を行き来できる神々と呼ばれる存在|(生命体?)がいた。その神々はおそらく、ある領域が現れてから崩壊するまでの時間ではとても足りないはずの、知的生物の誕生を促した者たちでもある。
そしてある時、神々は何かに滅ぼされた。その何かはおそらく、全ての領域の生物にとっての共通の敵であった。
この敵が、どのような存在なのか正確にはわかりようもないが、物質を使うことは間違いないようだった。そして最もありふれていた物質である水を使い、この唯一の宇宙の全ての領域を、おそらくは滅ぼそうとした。
しかし、神々が滅ぼされた後も、それによって繋がれていた様々な領域の絆はまだあって、その恐ろしき存在、神々の敵に立ち向かう、強い抵抗勢力となった。
それでも結局、この敵を殺すことは誰にもできなかった。そして誰かが最後の賭けに出た。
つまり、敵が使っていた最もありふれていた物質、水を、宇宙から奪い去ったのだ。
それを行ったのはジオ族ではないだろう。ジオ族は神々も、その敵も覚えていないし、ただ、水の消失を大災害としてだけ記録した。
だが誰がそれを行ったのかというのは今となっては大した問題ではない。重要な問題は、その誰かは、あえて永久的に水を消したのだろうこと。それはつまりその誰かが、それで敵を滅ぼすことができるとは考えていなかったことを意味していた。
神々の敵。
その研究が重要であることは、ミーケもエクエスもすぐに理解した。そうして、母への愛だけを原動力にしていたザラの研究は、彼女たちの研究になった。
それからザラたちはまず、『水文学会』の研究成果をまとめた記録盤の欠片を探し始めた。
3つのレコードの欠片の内、1つはエクエスが持っていて、残りの2つを求める過程で、仲間も増えていった。
"世界樹"でも有数の教育機関である《カルディラ大学》で、特に設計の天才とされながらも問題児とされていた、ヒキコモリ少女のスブレット。
無法地帯な銀河系の惑星で、長く孤独な戦いを続けていた、守るために強くなった永遠少年(ネオテニー)のルカ。
"世界樹"に深く浸透した宗教であるレトギナ教の修道士であり、体の一部が常に異常に冷たいという、超凍結質と呼ばれる特異体質を有する女性、テレーゼ。
そしてついに彼らが、レコードの最後の欠片にたどり着いた時。それは現れた。
この〈ジオ〉の領域に現れた。
それがミーケたちの、むしろジオ族にとって、大災害以降、初めての遭遇。
神々の敵、《虚無を歩く者》との遭遇。
ソレはどうやら、ミーケを感知して来た。ミーケのような力を持つ者を錬金術師と呼び、なぜか恐れているようでもあった。
ミーケの方も、ソレを覚えていた。思い出した。
エクエスも、今は思い出の中だけの存在であった妹リウェリィの姿を借りていたそいつを、知っていた。
《虚無を歩く者》、ソレに対抗することは決してできないことを知っていた。
リーザは違う考えだった。
彼女は、〈ジオ〉の領域において、その全歴史において、最大の軍事国家《ヴァルキュス》で生まれ育った規格外軍人少女。
戦うべき時を知っていた。
この宇宙に干渉するために物質を使わなければいけない。この宇宙に滅びをもたらそうとしている以上、感情と呼ばれるものを持つはず。それならどんな特殊な存在だろうと、生命体ではあるはずだ。
そして生命体であるならば殺せないはずがない。同じく生命体である自分たちに立ち向かえないはずがない。大災害によって、あらゆるものが失われたのだろうが、残った者たちは強くなったろう。だから戦えると信じた。
信じて戦うしかなかった。ミーケとも、エクエスとも、また違う次元で、彼女はソレを理解していたから。自分が今ソレを止めなければならないこと。そんな好機は、この時しかないだろうこと。
リーザは正しかった。
水の代用として開発されたとされる特別な物質要素、スフィア粒子と緑液、それを得て、かつてよりずっと高まったジオ族の強さを、ソレはまだ知らなかった。
どんな物質も破壊することができる強さを秘めた、文字通り規格外の彼女の全身全霊を込めた一撃。それによって、ソレはまた、無に近い状態へと還されたのだった。
そうしてとりあえず、今に迫った危機はなんとか回避できたわけだが、ソレはおそらく、物質の破壊だけでは殺せない。
また、いよいよ欠片の揃ったレコードから得られた情報も、ほとんどは〈ジオ〉という領域のみを中心とした歴史と、推測くらいはされていた事実ばかりだった。
だが、まるで無駄だったわけではない。
水を消失することを知っていた可能性があると、エクエスが考えていた3人。スフィア粒子の開発者ミーヴィリに、彼の親友ウィンター。そして彼らの師メリセデル。
その最後の名前メリセデルのことを、エクエスは今も知っていた。やはりかなり昔に会ったという、水を操る少年を助手として連れていた科学者。
それはおそらく、ミーケが有する力と同じ。《虚無を歩く者》が錬金術師と呼んでいた者の力。
ますます謎は深まったとも言えるだろうが、それは確かに大きな手がかりとなりえそうな情報でもあったろう。
さらに、レコードを集める過程で、巨大国家《ルセドラ》を乗っ取り、ザラの国《アズテア》は、"世界樹"でも最大の国家に。その上、多大な影響力を有するレトギナ教の後ろ楯も得た。
そうして、ザラの孤独な母が始めた、神々の敵の研究は、今や叡知の銀河フィラメント"世界樹"の研究となった。
だが、ここまではまだ始まり。この、たった1つの銀河フィラメントの、宇宙の全ての生命体の未来をかけた戦いの始まり……




