41・戦うべき時(冷たい手の修道女7)
少女が見えた時から、エクエスのその震えは明らかに顕著になっていた。
「ミーケ、なんて言った?」
その顔は、今はまた惨殺死体だけが映ったモニターに向けたまま、彼は聞いてきた。
「あいつは《虚無を歩く者》。何もないところに存在する唯一の存在。何もないから、直接何かに干渉することができない。ただ、干渉なんてできないはずなのに、特定の物質を媒介にして、この世界に現れることができる。さっきのあの姿も、あの女の子も本当の姿じゃない、あいつに本当の姿なんてないんだ、この宇宙に、あいつの姿なんて本当はない」
なぜかなんて、今はどうでもよかった。
ミーケはとにかく、自分が理解できている限りの、ソレに関する情報を言葉にした。
「あれが、実体なきもの」
リーザはリーザで、何か思うところがあるようだった。
「今、わたしが理解できた限りの上での疑問なのだが、あれはこっちに来るんじゃないのか? そういうことができる存在のように思えるが」
さすがにあからさまではないが、カルキレも恐れているようだった。
「わたしも、そう思います」
その、しっかり装着している限りは素肌と見分けのつかない、肘までの長い手袋を、両手それぞれの互いで掴むテレーゼ。
《虚無を歩く者》
おそらくはラリーという男を殺したろう何者か。
何者にせよ、絶対に許せるような存在なんかじゃない。テレーゼも、それが来るというなら、戦う覚悟だった。
「来られないはずだ、ここには。あいつはテミスフィア質の素材を越えられない。まだ対応してない。それにはあまりにも時間がかかる。そして、十分な時間よりも昔に、こんなものはなかった」
ただひたすら頭に浮かんでくる言葉を読んでいるようだったミーケ。
「テミスフィア。非常に重要なもの、じゃあこれはやっぱり武器、この船は」
母の残した、それに関するあらゆる情報を思い返すザラ。
「あの、てことはさっきの、その《虚無を歩く者》とかいうのが例の」
ルカも、そうなのだろうと察しがついた。
「神々の敵」
スブレットも。
「そういう事なら、アレが今姿を見せた理由ははっきりしたな」
いつのまにか、震えは止めていたエクエス。
「おれもどうやら、アレのことを少しは知ってるみたいだ、だからわかる。レコードを奪ったんだ、そのためにラリーを殺した。そして、それを手に入れようとする者たち全員を殺すために。そうするつもりだ。あいつは、水文学会の研究記録を見られたくないんだ。そこにある情報が、自分にとって危険かもしれないことを理解して」
「違う」
いきなり大声でエクエスの言葉を遮ったミーケ。
そして彼はさらに、普段の緩やかな雰囲気とはかけ離れた、取り乱した様子で続けた。
「あいつに危険なんてないんだ、あいつは殺せない。あそこに何があるのだとしても、誰も行くべきじゃない。誰かが行ったら死ぬだけだ」
「ミーケ」
「だめだから、リーザ」
彼女が行こうと考えていることがわかったから。
だからこそミーケは、とにかく必死で止めようとした。
そうすることしかできなかった。
「行ったらだめだ、殺される」
彼女がその気なら、そんなこと絶対に無理なんだとわかっていても、ミーケはリーザの腕を掴み、力づくでも行かせまいとする。
「リーザ、お願い。きみが死ぬなんて嫌だから。おれは、おれ、きみがいないと」
まるで本当に子供のように、涙すらみせていたミーケ。
(ミーケ)
どうしたってそれは止められないだろう。
胸に熱いものがこみ上げた。
心が震えた。
しかしだからといって、今自分が出ないわけにはいかない。
(ごめんね、それに)
ミーケは《虚無を歩く者》と言った。リーザにとっては、それは物質世界に現れた、物質の超越者。
この宇宙に、ジオ族に、それと戦えるものなんてどれだけいるか。
そして、ミラの予言も、エクエスの恐れも、ミーケの記憶も、リーザ自身の本能も、それが敵なのだと告げている。
もはやレコードとか、ラリーの仇とか、そういう次元の話でもない。
今なら自分がいるのだ。
こんな機会が再びくるなんて、限りなく低い可能性だろう。
今、戦うしかないのだ。
それは物質の型をとって現れた。
ミーケの言う通り、その本体を殺すことなどおそらくできないのだろう。だが、その型を壊すことなら……
「ありがとう、ミーケ」
なんとかルカが、そういうふうに動いたのだろうことを気づけたくらいで、他の者たちには、まったく何がなんだか、訳がわからなかった。
それほど素早く、しかし優しく、大好きな親友の掴む手を離させ、軽くショックを与えて、その意識を奪ったリーザ。
「最後じゃないよ。あなたに伝えたいこと、まだたくさんあるんだから」
仮に、まだしっかり意識があったとしても、聞こえるかどうか微妙なくらいの小声で、そう言ったリーザ。
「みんな、わたし」
「リーザ」
たった1人で、敵と戦おうというのだろう彼女を、今度はルカが止めた。
「ぼくもいく。一緒に戦うよ」
無知ゆえか、勇気ゆえか、ただ怖がってなんかいないし、迷いもなかったようであった。
「ルカくん」
しかし、リーザは今は冷静に、彼の気持ちを汲み取ったりなどしない。
しっかりとその動きに気づき、ガードしたはずだった。だが、両腕で受けたリーザの拳からの振動を受けて、かなり派手に吹っ飛ばされると共に、ミーケ同様、ルカも意識を失わされてしまう。
「あなたの強さはわかってる、あなたの気持ちも。だけどね」
その意識を奪うのに、ミーケと違い、かなり強引にするしかなかったことこそ、ルカの尋常でない強さの証明でもあった。
だがそれでも……
「その強さでも足りない。この戦いには」
リーザでも、正直なところ、絶対に勝てる自信があるわけじゃない。
もしかしたら戦いにすらならない可能性だってあるくらいだろう。
「ザラさん、今回ばかりは、わたしにも万が一てことがあるかもしれないから、その時は」
「こちらは心配しないでください。今は自分のことだけを」
本当はザラだって止めたかった。
だが、ミーケが止められないリーザを、自分が止められるはずがない。
「エクエスさん。あの女の子の姿」
「おまえなら言うまでもないと思うけど、遠慮はするな。ただ」
さすがにリーザは勘がいい。エクエスと、アレが姿を借りている元の人物に、何か深い関係があるということをもう確信しているようだった。
だが、伝えるべきことは、自分に対して配慮をするなというようなことじゃない。それより、本当にアレと戦うなら、絶対に伝えておくべき、ずっと重要なことがある。
「リーザ、おれがこれを何で知ってるかなんて今は聞かないでくれ。ただ、アレがここに現れるのに用いたのは、アレ自身の能力じゃなく技術だ。スペースゲイトだ。だが、この船からなら、おれはそれを邪魔できる。確信ができたら合図を送るから、その時にもしも、相手が自分を消そうとする手に気づいたら、絶対にかわすな。不意をつける」
「なかなか、無茶いうわね。だけど了解」
ただ、信じるというよりも、むしろ信じるしかないというのが現状ではあった。
少なくとも、かなりいい作戦ではある。確かに、そうして不意をつけるなら、なんとかできる可能性は跳ね上がる。
「ザラさん、対象をモニターに映ってる場として、個人用のテレポートシステムの使用に、必要なエネルギーは」
「十分にあります」
「それじゃあ、お願いします」
そして、ミズガラクタ号に備わった、一時的な人工空間経路を利用した空間跳びで、その敵のところへ送られる瞬間。
それは結局、軍事国家で兵士として育てられた者の、どうしようもない性だろう。
これまで経験したこともないような、恐ろしい存在との戦いを前に、リーザはそれでも笑みを見せた。




