38・素直じゃないふたりの善悪の議論(冷たい手の修道女4)
テレーゼに頼まれて、エクエスがしたことはと言えば、ウォーケルという詐欺師の詐欺を暴いたことだけだ。
それで十分なことではあった。ただそれは、普通にはとても難しいことでもある。
エクエスは普通でなかった。
ウォーケルが構築した、演出のシステムを全て乗っ取り、それらの効果をすべて裏目に出させてやった。愚かな信者たちの目を覚まさせるのに、2ヶ月程度で済んだ。
エクエスは、そのままではなぶり殺しにされていたろう、元教祖をあえて助けてやった。とりあえずは、一時囚われ、問答無用の死刑を待つ彼を、こっそり逃がしてやったのである。
そして、やはりというか、テレーゼはそれにはかなり納得しなかった。
「あんなやつ、助ける価値なんてない。あんた、善良な人たちを見捨てようとしたのに、あんな悪人を助けるっての」
後先を考えてないのか、最初からその気だったのか、《リドセア》の家へ帰るエクエスの宇宙船に、勝手に乗り込んできていたテレーゼ。
「もう二度と悪事はできないさ。そういうふうにしといてやった」
素直にかなり面倒くさそうだったエクエス。
「悪事はできないけどまだ悪よ。取り返しがつかないほど心が壊れてるのよ。いっそ殺してやるのがあの人のためなのよ」
悪とか善とか、実に未熟な考え方だ。
「あいつを殺したとしてな、それで何になる? あいつの被害者たちの復讐心が満たされるくらいだ、そしてそれは何の意味もない。そもそもが、あんな奴に騙されるような連中だ、機嫌なんてとってやったところで、役に立つようなものではないよ」
実際、テレーゼの言う通り、エクエスは彼らを見捨てようとしたが、そうしたところで、"世界樹"というフィラメント自体の物質的損失はほとんどなかったろう。
「だとしたって、あいつを助ける必要はやっぱりないわ」
「いや、そうとも言えない。むしろあんなやつの方が、生かしておいたら役に立つ可能性もある。だから逃がしてやったんだ、そっちの方がもっと大勢の未来のためになるだろうから。それも正義とは言えないか、助かる数が多い方の選択をあえて選んでやったんだ」
「きゃっ」
その、まさしく凶器である冷たい手で、殴ってこようとしたテレーゼの攻撃は読めていた。
「くっ、この」
神経系の情報伝達を部分的に断絶させるスライムのようなもので、手足を包まれたテレーゼ。文字通りに手足を、まったく自分の意志で動かせなくなってしまう。
「あんたも悪党よ」
「その悪党に、プライドを捨てて頭下げて、別の悪党にいいように利用されるマヌケどもを助けてやったお前は、正義というわけだな。 ご立派なことだ」
バカにしてるような雰囲気でもなかったが、テレーゼにはそうとしか思えなかった。
「あんたなんて嫌い、大嫌い」
テレーゼが、それから何度も言うことになる言葉だった。
「そうか」としかエクエスは返さなかった。
それから、宇宙船が《リドセア》の、エクエスの家の前に着陸するまで、2人の間に特に会話もなかった。
ーー
「それで、おまえ、これからどうするんだ?」
とりあえず訪ねるエクエス。
「わたしはあんたと過ごすことにする」
まだ動きを封じられたまま、怒りを見せながらも、テレーゼはそう言った。
「強くなりたいわけか。誰かを助けられるくらい」
おそらくはその時が初めてだった。
エクエスがテレーゼとしっかり向き合ったのは。
「その通りよ。あんたは助けてくれないから、わたしが、弱くて今も苦しんでる人たちを助けてあげるんだ」
「その体質を考えたら、はかない希望だな」
そしてエクエスは、右手のスライムを外してやり、代わりに自分の手で、彼女の冷たさを実感した。
「やめろよ、何のつもり」
「何も驚くことないだろ。さっき自分がしようとしたことも忘れたのか?」
「こんな長い時間、触りすぎだよ、だめだよ」
どこかで経験があるのだろう。
彼女は自分でよく知っている。
少し触れる程度なら、痺れが走ったり、単に痛いという程度ですむのだろう。
だが、数十秒以上でも触れあおうものなら……
「おまえには説明しても、今はわからないかもしれないが、この現象は物理的には、緑液の伝搬性と、神経系システム内の特に警戒、それにその特別に異常な冷たさゆえの空間エネルギーの乱れが原因だ」
冷たさよりむしろ、高温の炎であぶったかのように爛れて、手首より先のむき出しになった骨も、その場で取れ落ちてしまったエクエス。
その昔。
生体で機能する最重要の液体物質が、今は失われてしまった水だった時代なら、真っ赤な血液というものが流れたことだろう。そうならないのは、水にとって変わった緑液の性質に関係しているということは、エクエスもいちいち説明しなかった。
まず目の前の少女が、水が普通に存在していた時代など知っているはずもないのだから。
「だけど、おかげで手が1つですみもする。そしてこんなもの、おれには、修正の利く道具にすぎない」
今やかなり唖然とするテレーゼに対し、エクエスは冷静に続けた。
「よく聞けテレーゼ。おまえが本当に誰かを助けたいと思うなら、決して表舞台に立たないことだ。お前自身がどう思おうと、おれみたいなやつがどれだけ気にしなくたって、その体が恐ろしい武器であることに変わりはないんだ」
「戦いの武器なら、それなら誰かのために、正義のために戦えるわ」
「小娘」
一瞬、一瞬だった。
本当に、寸前までの彼と同じとは思えないくらいに、恐ろしい雰囲気を見せたエクエス。
「おまえには決してそれはできない。できないことを言い訳にするな、おまえがせめて正義でありたいと望むなら」
この時は、テレーゼももちろん知らなかったのだ。
エクエスが、どれだけの長い時間を生きてきたのか。
どれだけの長い時間の中で、多くの戦い、悪を、恐ろしいものを、虐げられる者たちを、誰かだけが正義だと信じきっている者を見てきたのか。
「エクエス、あなたは」
この時に、彼女はいやでも知ったのだ。
彼は彼女が想像していたよりも、ずっと、ずっと……
「それでも、あなたは知っているんじゃない? わたしが、どうするべきか」
「おまえ自身よりはずっと知ってるだろうな」
初めからそうする気だったのかもしれない。
本当は彼女がここまで来てついてくることまで、どこかで計算通りだったのかもしれない。
エクエスは自分でそれがわからなかった。
だけどそんなことも、どうでもいいことでもある。
「おまえはレトギナの民なんだろ。なら目指すべきはそこだな。あそこなら、おまえの体質を気にされないまま、おまえが望むようなこともできるだろう。おまえは仲間たちに守られ、おまえ自身も彼らの役に立てる。おまえが考える正義を、同じ志の者たちと一緒に、実行もできるだろう」
親切心じゃない。ただの気まぐれでもない。
エクエスはただ、そうするのは自分のためだと、自分で解釈した。
テレーゼが、エクエスが望んでいた、中途半端に孤独な生活において、邪魔者であることは間違いなかった。だから彼女を自分の元から去らせる理由が欲しかったのは、間違いない事実。
ーー
エクエスとテレーゼが一緒に過ごした期間は、200年ほどであった。
それはテレーゼにとっては修行の日々ともいえるだろうが、エクエスにとってはどうだったろうか。
2人とも、出会った時から別れの時まで、その性格や思想が全然変わらなかったのは確か。
テレーゼは、それこそ数えきれないほど、彼と一緒にいる時間のかなりの部分で、彼に対し怒りをぶつけた。世界に悪があるように、善があると信じたテレーゼに対し、エクエスはそんなことに興味のかけらもないようで、テレーゼが口出ししなければ、見捨てられた不幸な者たちも大勢いた。
ただ不幸というのは、あくまでもテレーゼが考える基準だ。エクエスはいつでも、そういう者たちを救っているつもりはなかった。
ーー
「研究者仲間、科学者としてのあなたか。人嫌いなあなたと違うの?」
800年ぶりくらいだろう。
再会した彼女は、エクエスの記憶にあるよりも大人の見かけ。
「長く生きていてもわからないものさ。子守りは面倒くさいが、科学は楽しい。きっといつまでもな」
もう完全に2人だけのような空気で、他の者たちは、かなり口を出しにくい。
「ねえエクエス」
彼女も本当に成長した。
きっと悔しさからだった。ため息をついてから、テレーゼは、別れてからずっと、ずっと言えなかったことを後悔していた言葉を、ほとんど自然的に口にしていた。
「ありがとね」
「ああ、どういたしまして」
結局、2人には似てる面もあった。
素直になかなかなれないところ。
「本当は長く1人でいすぎてさ、きっと寂しかったんだよ。だからテレーゼ、おまえと会えたのはよかった。楽しかった」
そういうこと。
長い時間を離れて暮らして、やっと2人は、素直になれたわけだった。




