1・田舎惑星のふたり(不吉な予言1)
かつて、この宇宙には水が溢れていて、生命体のはじまりも水の中にこそあった。今は誰も覚えていない。
そういうふうに言われることもある。この〈ジオ〉の領域においては。
銀河系群の密集領域、フィラメントのひとつである"世界樹"。その"世界樹"に2111ある星系国家のどれにも所有されていない、9476万5381個の国家外惑星のひとつ、《フラテル》。
その《フラテル》に現れた時より以前の、ミーケの失われた記憶の、ほんの少しの断片は奇妙だった。この、遠い昔に水を失ってしまった宇宙において、とても奇妙だった。
でも、それだけは確かなことみたいに思えた。
ミーケは、彼が生きてきた全ての時間の中のどこかにおいて、多分、水辺の近くで暮らしていた。その時の彼の名前が今と同じであったかもわからない。おそらく違うだろうが、それも謎だ。どこの星だったのか、星系だったのかも、ミーケは覚えていない。
覚えているのは、それがどこか水の豊かな地域だったこと。そして何か、とても大切な存在が近くにいたこと。なんとなくそんな気がしていて、だけどどうしても思い出せなかった。
ーー
惑星フラテル第三地帯。
直径5000メートルほどの円形に木々が広がる、静かな、と称される森。
少し力を込めて握れば、簡単に折れてしまいそうな細い幹や枝ばかり。しかしそれらの葉に関しては、毛むくじゃらの怪物でも想像できそうなくらいに茂っている。
森が円形であるのは意図的なもの。それを作る木々の養分をすべて、決められた範囲を循環する流体物質に付属させてループさせ、その円形を維持させているのである。
前の持ち主からその森を買い取ったミーケが、その養分循環システムを基礎とし、森自体をそのまま多機能計算機に改造したのは、ほんの2週間ほど前のこと。
遥か古の時代とは異なり、少年少女、男女、老爺老婆のような言葉は、今は性別と見た目だけを基準に使われる言葉だが、その基準においてはミーケは少年。
クセが強めで、透明感ある青色の髪。その髪に比べると、やや白を混ぜてるような薄い青の瞳。褐色な肌に、一見は頼りなさげな、華奢な体つき。幾何学模様の柄が目立つ服装や、右耳だけにつけられた金色に輝く三角の耳飾り。田舎惑星の住人としては、ちょっと気取ってる印象もある。
「ミーケ」
自身の名を呼ばれ、森コンピューターの気体物質製コントローラーを、それを崩すことで離し、彼は振り返る。
声の主はミーケと同じくらいの年代に見える少女。
「リーザ」
それが彼女の名前。
肩にかかるくらいの、ミーケと対照的にストレートな金髪の少女。綺麗な黄緑の瞳に、白めな肌。オシャレや女性的可愛さというものに無頓着なのか、元々大きいというほどではない胸の膨らみを、少し大きめな味気ないパーカーがさらに目立たなくしている。
「えっと、ご飯できたから呼びに来たんだけど、お邪魔しちゃった?」
「いや、全然大丈夫だよ」
2人の付き合いはそれまでで20年くらい。今の宇宙においてそれほど長い時間ではない。
だけどヒトという生命体にとって短いわけでもないだろう。友情や恋と呼ばれるものを育んで、互いにかけがえのない無二の存在になるには十分すぎる時間。
そう、20年前だった。それよりさらに半年くらい前から《フラテル》に暮らしていたリーザが、倒れていたミーケを発見したのは20年前。
半年程度の新参者として、土地にあまり馴染めていなかったリーザと同じくらいに、ミーケも人付き合いが得意というわけではなかった。しかしたった1人にせよ、仲間ができたことはやはり心強かった。
それから、普通の家族のように一緒に暮らし始めたリーザとミーケは、些細なことでも一緒に協力しあって、二人三脚で《フラテル》での20年を生きてきた。今では互い以外の友人もいるし、まるではなからそこにいた住人かのように馴染んでもいる。
-ー
定期的に構造外部の"栄養回路"を利用し、化学物質を交換する。ようするに食べ物を食べることは、今、普通のヒトにとって、必ず必要な行いという訳ではない。
《フラテル》において、ただの文化的なものだ。しかしミーケもリーザも、もうすっかりそれに馴染んでいる。
「10時間くらいしたら、一緒に森に来てほしいんだけど、用事とか大丈夫そうかな?」
食事を食べ終えた後で、テーブルを挟んで向かい合うリーザに、ミーケは聞く。
「それは、大丈夫だけど」
「よかった。大事な話があるんだ」
「う、うん。わかった」
それから席をたって、多分寝るつもりなのだろう、自分の部屋へとミーケは去った。
「だ、大事な話ね」
(お、落ち着きなさいよ、わたし。あのミーケだからね。99.999パーセントくらいで、わたしが今考えているような話じゃないからね)
しかしどうしても、そういうことかもしれないと、期待、と言ってもいいような気持ちをリーザは抱いてしまう。
リーザはミーケを特別な存在として好意を抱いている。それは確かなこと。しかしそれが恋愛感情と一般に言われるようなものなのかは、今のリーザにとっては悩み事のひとつだった。
確かに、ミーケが自分以外の誰かと恋人と言われるような関係になったと想像すると、とても胸が苦しくなるし、絶対に悲しい。だけど、自分が彼とそういう関係になりたいのかというと、何か違うような気もした。
《フラテル》ではない、"世界樹"ですらない、自分の故郷に今もいるであろう、古い友人たちならなんて言うだろうか。そこでは、男女の恋愛というものは、本当にどこでもあるような普遍的な現象だった。遺伝的なものなのか、文化的なものなのかはわからないが、人は誰でも恋愛するものとか、異性に惹かれるものというふうに、まったく自然と考えてる人も多かった。そして、今がまさにそうであるように、ある程度以上の時間、身体的な障壁もない男女が二人だけの共同生活をしていたら、むしろそういう話にならない方が異常だと考えられてたろう。リーザのような、少なくとも大多数に比べると変わっていた者ですら、それでも恋愛というものに関心を持っているのは、ほとんど基本だった。ミーケに対して現在抱いている気持ちに比べたらずっと弱いことだけは断言できるが、恋と言えるかもしれない憧れの気持ちを、尊敬していた人に対して持ったこともある。
(わたしは、ミーケとの今がずっと続いてくれたら、それでいいのかな)
本当はただの身勝手な願望なのかもしれない。ただずっと今のままで、もう捨てたつもりの過去には決して味わえなかった、今の楽しい時間が続いてほしいだけ。平均的な感覚から言えば、退屈な毎日があるだけと言っていいような、変化の乏しい田舎惑星で、それでもミーケと生きるのが楽しいのは、間違いない真実。
(恋愛、か)
"世界樹"は、恋愛というものの価値があまり高くは考えられていない。恋愛という概念がないわけではないが、関心をまったく持たない者も多い。リーザとしては、同性同士の、特に女性同士のカップルが多いことや、結婚という概念が実質ほぼないというようなことも、かなりカルチャーショックであった。
実際問題、ミーケが"世界樹"の出身かは謎である。しかし彼が少なくとも、"世界樹"で最も典型的とされるような人種であることは、間違いのない事実だった。つまりは、好奇心や探求心といった感情の申し子、科学者である。そして、"世界樹"の科学者は、自分の研究に役立つことのない恋愛なんて、むしろ意図的に避けている者が多い。
ただ、個体同士の繋がりによって得られる快楽的刺激への欲望に関しては、むしろいくつもの知能研究、文化研究の余波として、他の多くのフィラメントよりも、"世界樹"の方が浸透しているらしいと、リーザも聞いたことはあった。ミーケもそういう欲望があるのか、強いかなんて、(実際にそうなのかもしれないが)意識しすぎているみたいで恥ずかしく、聞けやしないが。
(うん、でも、やっぱり、とりあえずは考えられないや、ほんとに愛の告白をしてくるにしたって、それをわざわざ大事な話なんて前置きするミーケなんて)
そして実際にミーケの話は、そういう類の話ではなかった。しかし確かに、ミーケにとって、そして少なくとも彼と親友ではあるリーザにとって、とても大事な話ではあった。
-ー
また森に来てから、ミーケは、近くに置いていたカバンから、丸い電子コンピューターと、それとリンクしている四角い半透明モニターを取り出す。そして、計算していたデータをその電子コンピューターへ入れて、モニターにそれが示すものを可視化する。
モニターに映し出されたのは、明るく輝く1つの恒星。とその周囲を巡っている、灰色の惑星。柿色ぽい惑星。それに青色が目立った惑星。
「これは、《ジオ》の?」
すぐにそうだと気づいたリーザ。
歴史に特に関心があるわけでもないリーザも当然のように知っている。かつて《地球》と呼ばれていた惑星。
「うん、距離は厳密でないけど、《ジオ》の属していた恒星系の中心の方だよ。真ん中の星が《太陽》という恒星で、それと一番近いのが《水星》、次が《金星》、一番外側が」
「《ジオ》」
この宇宙で最も繁栄した生命体群の一つ、ジオ族、あるいはジオ系。かつては《地球》と呼ばれた《ジオ》は、そのジオ族が発祥した世界か、最初に文明を築いた星。現在でも、標準的な時間概念を定義するための縮小版模型ミニジオがよく知られているため、その見た目もかなり有名な惑星。
ミニジオは《地球》を模したとされるある種の玩具。一般的にジオ族の間では、その自転一回分の時間を1日、24時間、1440分、86400秒とする時間概念が、普遍的に利用されている。
「これの、時代はいつくらいなの?」
《地球》があった恒星系は、はるか昔に、とっくにこの宇宙から消え失せている。それは"世界樹"でなくとも、科学者でなくとも、かなり常識。
「一応は第一時ジオ暦の1000年ぐらい。だからクリエイター単位で643億1954万4723くらい前になる。おれが持ってる記録データが正しかったらの話だけど」
西暦とも呼ばれていたらしい第一次ジオ暦は、太古の《ジオ》で広く普及していたという何らかの宗教の教祖が生まれた日からの暦と伝えられている。
クリエイター単位は、外部から隔絶された、平均的な銀河フィラメントが構築を開始してから、崩壊してしまうまでを1とした時間の単位。
そして、第一時ジオ暦が使われていた時代とは、途方もない時間を表現するためにあるクリエイター単位を使ったとしても、643億という大きな数字が現れてしまうくらいに、もう昔のこと。
「この《ジオ》の青色は全部水って説があるんだ」
今は通常、《ジオ》とだけ呼ばれる《地球》を指差して、ミーケはそう言った。
水は、今の宇宙では、自然下で不安定なために、特別に管理された特殊な環境でしか存在できない液体物質。しかし、かなり古い時代の宇宙においては、それが安定している環境で、大量に存在していたとする説もある。《地球》の青色は、それが水だとするなら、水が安定していた有力な証拠だとされる。
「あなたはそうだと思うの? これが水だって。 でもこれの時間設定って原始時代なんでしょ。その時代って確か、"基底物質"の操作技術はなかったんじゃ」
基本的に第三次まであるジオ暦が使われていた時代は、原始時代と呼ばれている。
また基底物質は、物質を構成する中で直接的なコントロールが可能な最小の部分である素粒子以下のスケールの物理要素の総称。
「基底物質の操作なんていらないよ。水が安定していた時代なら、素粒子の構成も、今と異なってる可能性が高い」
「えっと、てことは、これ全部、天然ってこと、天然の水?」
今この宇宙に生きているほとんど、というよりおそらくすべての生物がそうであるように、リーザも、人工的に作られたものではない天然の水というものを、生まれてから一度も見たことがない。
「うん、そんな感じの色にも見える」
「思い、だしたの? いえ、覚えているの? 天然の水の色」
「覚えてるような気がするんだ。確かにこの色だったよう、な」
しかしそこで急に、一応は強制保存された上で強制終了したシュミレーション。
「どうしたの?」
「まだわからないけど、ちょっと待って」
そしてすぐに森コンピューターを少し操作し、近くの岩にいくらかの記号によるデータを表示させたミーケ。
「これって」
その表示されたデータに関しては、説明されなくても、リーザにもわかった。"世界樹"で標準的に使われている表示方式だが、とてもわかりやすい。
「戦艦、よね?」
「戦艦だよ。明らかにここに、《フラテル》に向かってる。近づいてきてる」
そのまったく唐突な訪問が、全ての始まりとなった。