パラダイス・ロスト
地の底で、エマコは目を覚ます。
連邦政府の管轄下に入るニューエデンは、もはや安全な場所ではない。米日両政府は引き渡し条約でつながっているのだから。
ゆえに、ニューエデン放棄についてヴェラから伝えられて以来、エマコは海外逃亡のための準備にいそしんでいるのだった。
その作業が一段落着いたので、エマコは仮眠を取るためにベッドに入った。
そうして、今、目が覚めたのは、投薬ナノマシンを使って3時間後に効力を発揮するよう自らに投与した薬物が、精確に作用したためだろう。
エマコは眼鏡をかけてベッドを出る。
そうしてクリアになった視界で、自らの寝室を探索し、気持ちを作業に向けるための白衣を見つけて羽織り、退出。
廊下を少し歩んだ後、<プソイド・カライド>地下移動用のエレベーターに乗りこみ、研究室へ向かう。
「良く来たね、エマコ」
角を曲がったところで、天使のような美しい声に迎えられる。
驚いて声の方を見ると、神々しい美貌の少年がいた。
輝く金髪、サファイアの青き双眸、白皙の肌、黄金比の均整を見せる完璧な身体。
造形美の極地を少年の形に高めた、天より来たれる輝けるもの。
陽も月も星々もおよばぬ、至上の美を体現した、夢ときらめくまことの貴公子だ。
「アルフ? どうしたの、お腹空いた?」
エマコはそう言ってから、ふいに違和感を覚えた。
この美少年はアルフなのだろうか? 顔の造形美に違うところはないが、何か違和感があった。
そうして、美しい少年の輪郭を正確に把握することができないことにも気づいた。
正確には、視覚的にとらえられないわけではない。
ただ、その服装が紺色のディナージャケットだと思えば、漆黒のゴシックスーツのようにも見え、また白っぽい都市迷彩戦闘服のようでもあり、印象が定まらないのだ。
照明が、何故か壊れてしまっているからだろうか。
研究室間をつなぐ廊下は、いつのまにか暗くなっていて、そこが地下であることを否が応でも思い出させた。
「――アルフ?」
「うん、アルフだよ。
僕はアルフ。アルフレッド・ドゥンスタン・アダム・モントフォート。
エマコが大好きなアルフ、エマコが昔書いてたお話のキャラと同じ名前をもらったアルフ。
エマコとこの地下のお家で一緒に暮らしてきたアルフだよ」
アルフがこのように、大げさな言い回しをするだろうか? 否だ。
「……君、アルフじゃないよね。誰だろ。
アーサー?」
「いいえ、エマコ。
僕はエマコと一緒に暮らしていたアルフだよ。
アーサーがここにいるはずないでしょう。地下の研究室に来たことはあったのだったけれど。
でも、今、ここに来るはずもないよ。
ここはエマコの夢の中で、エマコは夢に見るほどアーサーに興味を持ってはいなかったのだから。
アクトウェアなどの技術を実証するためだけに生まれてこさせられた、僕と同じ顔の他の子たちと同じように、殺処分用炭酸ガス室で死のうがどうだろうが、別にどうでもいいでしょう」
ヒト脳搭載型生体ドロイドを作り上げる過程で行った、ちょっとした作業のことを思い出す。
アルフと同じ顔の美少年たちを作業的に大量殺戮したときの記憶が、エマコを苛む。
不要になったサンプルを処分した当時の無感情さが、かえって今は苦しかった。
いくつものパン生地をオーブンで焼くように、アルフと同じ顔の無数の少年たちを一挙にまとめて自らの手で殺すなど、思い出すだけで息苦しい。
「……君は、誰なの?
……アルフは、そんなこと知らないはず……」
エマコはその場に立ちすくんで、何とか声をしぼり出して、美しい少年に問いかけた。
「僕はアルフ。
いろいろ知っているのは、ここがエマコの夢の中だからだよ。エマコが知っていることはわかる。
たとえば、この地下のお家はこわされてしまったこと。エレベーターは動いていないし、この辺りには瓦礫が落ちていること、とか」
「――!?」
指摘を受けて、エマコは足元の瓦礫に躓いて転ぶ。
その衝撃で眼鏡がずれ、視界がにじむ。
「それと、今のエマコは目が悪くないこと。
僕が生まれるずっと前に、万能細胞で作った新品の身体に脳を移植したから、眼鏡がずれたからって見えるものは変わらないよ。
気分を仕事モードに切り替えるために、度の入っていないものをかけているだけでしょう?
視力が悪いころの癖が、今でも心に残っているみたいだね」
「……そう、だね。こんなもんいらねえや。
壊れたって、どうせ夢なんでしょう?」
へたり込んだエマコは眼鏡をはずして放り捨て、クリアな視界で美しい少年を見上げて問いかける。
「うん。その通り。
では、僕が誰であるか、どうしてエマコに会いに来たかもわかったね?」
「わかんないよ。
アーサーじゃないなら、実験用に作って殺した子たちの霊の集合体とか、そのあたり?」
「いいえ、エマコ。幽霊なんて信じていないでしょうに。
僕はアルフ。
エマコの家族ごっこにつきあって、一緒に暮らしてたアルフです。そうだと言っているでしょう。
これはエマコの夢で、僕もエマコの夢なのだから、何一つわからないことはないはずだ。
それなのに、どうしてわからないなどと言うのだろう?」
「……本当にわからないんだから、しかたないでしょう……」
エマコは泣きそうな声で、ひょっとすると本当に泣きながら、言葉をしぼり出した。
「そうだね。そうやって見かけ上の自己否定をして、自分を守るのが人間だ。
では僕から話すとします。
僕はお別れを言いに来たのです、エマコ。
死んでしまった僕を残して、エマコがニューエデンから永久にいなくなってしまうから。仕方のないことではあるのだけれど」
「君は、誰なの?
アルフは生きてる。死んでしまった存在なら、アルフとは違うはず」
「もうわかりきっているでしょうに。まだ問うてくるのですか?
僕はアルフだよ、エマコ。
3000万ドルで裏切ったエマコに眠らされて、ニューエデンのさびしい路地裏で、パトリック・マクライナリに頭を撃たれて、死んでしまったアルフです。
助けに来てくれた、と思ったのだけれどね」
「君はアルフじゃない……! アルフじゃないよ……!
アルフは生き返ったんだから……!
マクライナリに渡された3000万ドルだって、アルフを生き返らせるのに使った……!」
「確かに、あのお金のかかった実験で生まれたあの子も〝アルフ〟だね。
彼は僕と同じ記憶を持っているし、自分の事をアルフだと思っている。
一度死んで生まれ変わったとか、別人だけどアルフに記憶ごと成り替わったのだ、とは全く思いもしないだろうから。
でも。僕とあの子は違う。
僕はエマコと一緒に暮らしてきたのに裏切られて死んでしまった、最初のアルフで、彼は僕の記憶を引き継いで新しく生まれてきた、2番目のアルフだ。
あの子はエマコとニューエデンの外に旅立っていけるだろうけれど、僕はそうじゃない。
僕の人格を存在させていた脳は銃弾に吹きとばされてしまって、大半はあそこの路面の汚れになった。
そのあと竜が暴れてあたり一帯を壊して、今は戦争も終わって、そのうち再開発とかされるだろうから、道の汚れとしても残らないね。
壊れた頭蓋に残った脳も、僕の身体を培養槽に入れる前に取り出されて、医療ゴミとして捨てられてしまった。
あの子が生まれてくるためのスペースを空けるためにね。
だから、エマコ。
僕、つまりこの地下のお家で、あなたと一緒に家族ごっこをして過ごしてきたアルフは、もう死んでしまっているんだよ」
「違う……! アルフは生きてる……! 君はただの器官だ……!
脳は人格を成立させるのに不可欠の器官ではあるけれど、多少損なわれたからといって、人格が消えるわけじゃない!
既存の医学には死亡と誤診されるけれど、実際には治療可能な脳の負傷から、アルフは回復したってだけだよ!」
「その言葉にどう反論されるかも、エマコならわかっているはずだよ。エマコは賢いのだから。
ただ負傷から回復しただけだと言うのなら、脳の構築のために算出した、あのデータはなんだろう?
あのデータが示すとおりに、つまり第二のアルフを生んだのと同じように脳を構築すれば、〝エマコに眠らされた直後のアルフ〟は、何人だって作ることが出来る。
1年後であれ、10年後であれ、老化や成長の機能を持たない生体ドロイドの身体の、物理的耐久年数をはるかに越えた未来にあってさえ、いくらでもね。
本人の寿命を超えたところで、かつまた複数現れうる存在が、どうして本人との同一性を持っていると言えるのかな?」
「……そ、れは。
私が、既成概念にとらわれた人間だか――」
「昼間のエマコは僕のことは忘れてしまって、新しいアルフと仲良くしているようだけれど、こうやって夢に見る程度は、僕のことを覚えているみたいだね。
では、さようなら。
エマコは僕を愛してはいなかったのだろうけれど、僕はエマコが好きだったよ。
きっと、植え付けられた幻影の母様や父様よりもね。
エマコは悪い人だから、愛してあげることはできないだろうけれど、愛しているふりくらいはしてあげると、新しいアルフも喜ぶと思う」
言いおわると、アルフは美しい微笑みを浮かべた。
凄絶なまでに美しく、エマコの胸は強く痛んだ。
そうして、アルフはゆっくりと歩き出す。
「!? ま、待って――!」
エマコの心臓が跳ねる。
すぐさま立ち上がって、アルフの後を追おうとするも、足が動かない。
アルフは、瓦礫に足を取られることなく、壊れた廊下を進んで行き、ある研究室の戸を開く。
培養槽――アルフが生まれ、そして死後入ることになった培養槽のある部屋に、アルフは消える。
後ろ手に戸が閉じられる。
わずかな隙間もなく、戸は完全に閉ざされた。
もう二度と戸は開かない。
永遠に。
†
「……待って、アルフ! 待っ――!?」
今度こそ、本当にエマコは目を覚ます。
そこは住み慣れた地下の自宅の寝室ではなく、虚しい豪奢さで満たされた、最高級クルーズ船の客室だ。
「……帰らなきゃ……!」
ニューエデンを離れてしまったことに気づくと、抗いがたく激烈なノスタルジーめいた衝動がエマコに襲い掛かった。
一切は失われてしまった。
尊いものも、愛しいものも、懐かしいものも、既に何もかも失われてしまったあとだ。
何をしたところで、取返しなどつきようもない。
一切は、真実失われてしまったのだから。
だがそんなことは問題ではない。
エマコは我が家に帰らなくてはいけないのだ。
死んだアルフの眠る培養槽、かけがえのない日々をエマコと共にニューエデンで過ごしてきたアルフの元に帰らなくては。
そうしてエマコもそこで死に、地の底でアルフと共に永遠に眠るのだ。
もう二度と、永遠に二人は離れ離れになってはいけない。
是が非でもそうしたい。何があろうとそうしなくてはいけない。
失われてしまったものはあまりに大きすぎ、もはや取返しなど付くはずもない。
それでもエマコはアルフの元に帰らなくては。
取り戻すことができずとも、尊いものが失われてしまったことを受け入れてしまえば、その尊ささえ失われてしまう。
既に我が身は問題ではない。
エマコは、アルフに出会って、ともに死にゆくためだけに生まれてきた。それが運命だったのだ。
あのとき、アルフを銃弾が襲ったときに盾になり、先に死んでおくのが唯一の正解だったのだ。
だがその機会は失われた。永遠に失われた。
だからせめて、同じところで死んで眠りにつかなくては。
現実に立ちはだかる幾多の障害など何の問題でもない。ニューエデンの地の底には、アルフが眠っているのだから。
大西洋を泳ぎ渡り、官憲の目を潜り抜け、エレベーター・シャフトに飛び込んで、壊れた階段を駆け上り、開かずの戸をも開けて入り、アルフの元に帰るのだ――!
そのような郷愁めいた衝動に突き動かされてベッドを出たところで、エマコは悪夢に踊らされた自分を省みた。
「……嫌な夢見ちまったな……」
そして矛盾の多い夢だ。
まず、アルフは生きている。
隣の寝室で、イヴやぬいぐるみたちに囲まれて穏やかに寝息を立てていることは言うまでもない。
また、夢の中で神々しい美貌の少年が話したことも、正当であるとは判じ得ない。
夢の中のうろたえたエマコでさえ、彼の言葉に反論しようとしていた。
絶対的な喪失感を伴う、激烈な回帰衝動のために理性と気力を呑みこまれてしまったが。
まず〝同じ人間は2人といない〟という命題は誤りだ。
実際には同一人物が複数人存在することはあり得る。
スパコン五台を使ったあの実験以前には、複数人を存在させる手段を、エマコの知る限りでは誰も知らなかった、というだけのことだ。
〝同じ人間が同時に複数することはあり得る〟という命題は以前から正しかったし、今も正しいままだ。
SNSなどのある特定のアカウントに、複数のパソコンや携帯端末から同時にログインすることが可能であるように、同一人物が複数存在することもまた可能なのだ。
〝パトリックに射殺された脳の人格がアルフであるのと同等に、新しく全く同じに構築された脳の人格もまた同じアルフである〟は真である。
人格の一回性・唯一性という誤った観念に立脚するならば、矛盾も見られよう。
だがSNSの比喩で明らかなように、人格は一回きりとも唯一のものともいえないものだ。
そしてこのSNSの比喩は、あくまで比喩だ。
比喩とは嘘である。
ある部分の真実を説明・理解するのに有用な、しかし真実そのものと完全に合同ではない、単なるたとえ話だ。
〝人格がSNSのアカウントであれば、SNSのサーバーに相当する人格の本質が存在するはずだ〟という誤った結論に誘導され得るが、これは比喩と真実を混同するが故の誤解だ。
ただ一つの実体として、人格は存在するわけではない。
同一人物を複数存在させるための手段は、全て人格の本質と呼びうるが、決して唯一ではないものだ。
パトリックに射殺されたアルフの脳も、新たに構築されたアルフの脳も、そこから一か月分成長した今日のアルフの脳も、等しく愛しいアルフなのだ。
ニューエデンの路傍にも、廃墟となった地下研究室の廃棄物置き場にも、アルフは置き去りになどされはしない。
アルフは今を生きているのだから。
エマコと共にどこへでも、そしてエマコが死んでからも、どこまでもどこまでも旅立っていけることだろう。
だから何一つ、心配するべきことはない。
ないはずであるが、エマコは先ほどの夢がもたらした非現実的で激烈な衝動の影響から、完全に抜け切れたわけではなかった。
現実問題として、自らをアルフと認識する人格が、今現在一つしか存在していない以上、何を考えたところで問題が起きるわけではない。
哲学めいた無用なお喋りを、エマコが誰かに話したりせぬ限りは、悪夢の中の戯事で済んでしまう。
そして起こっていない問題を、解決する必要はない。
机上の空論を弄びたいときに、空しい答えを探して遊べばかまわない。
とは思っているのだが、やはりエマコは不安だった。
隣の部屋の寝室で眠っているはずのアルフが、いつのまにか消えてしまっていそうな不安が、絶対にありえないと理解しつつも兆している。
エマコは自らの寝室を去り、隣室へ。
闇に慣れた目を保ったまま、眠るアルフの生存を確かめに向かう。
金か真鍮のドアノブを操って静かに戸を開けると、当然のように少年と童女の穏やかな寝息が聞こえてきた。
エマコは入室するなり後ろ手に戸を閉め、忍び歩きでベッドに近寄る。
星明りが、ぬいぐるみに囲まれて眠る金髪の兄妹めいた2人を照らしていた。
エマコは床に座り込み、呼吸に合わせて上下するアルフの腹部と思しきところに目線を向け、見つめる。
全く変化のない光景ではあるが、すばらしい光景である。
生きた命の、光学的には捕らええないかがやきが、確かなものとしてそこにあった。
エマコは少しずつ安心を取り戻していく。いつまでもこうしていようと思った。
座ったまま眠ってしまうのも、たまには悪いことではないだろう。
高級なベッドで横になってさえ、悪夢を見ることがあるのだから。
そうして眠りと目覚めの境を行き来していると、寝室のドアが立てる音が、エマコの神経をとがらせた。
入口の方を振り向くと、不安げな顔のヴェラがいた。
「……ヴェラちゃん何の用? 見ての通りアルフは寝てるけど」
声を抑えて、エマコはヴェラに問いかける。
「……きっと、あなたと同じです、エマコ」
「……あ、そういう……君もつらいよね……」
ヴェラもまた、家族を喪ってニューエデンを去ったことをエマコは思い出した。
そして、ヴェラの父やジュディアは、死んだままなのだ。
永遠に死んだままなのだ。
今日もプソイドカライドをご覧くださりありがとうございます。
皆様に良きことのありますように。