第3話 月の女神
やがて夜が来て、王太子はローズを泣かせたことを少しばかり反省していた。何も抵抗せずにいるものを叩き付けて泣かせたことに罪悪感があったのだ。
「しかしあいつは父上を殺そうとしている……」
窓から王太子妃の部屋が見える。大きなバルコニーの庭園の奥は向かい合わせて王太子妃の部屋。普段は見向きもしないのに、あちらの灯りの中では人がバタバタと動いているのが見える。おそらく宮殿を出る引っ越しの準備をしているのであろう。
「素直に出て行ってしまうのか。まぁいい気味だ。……しかし5年も不平も言わずあの部屋にいたのか」
王太子は起き上がり、バルコニーに出るとそこは庭園。昔は亡き王妃の庭園だったものが荒れ果てていたので、気まぐれにローズに贈ったものだ。
「あの女には丁度いい庭園だと思ったが、今ではこんなに立派なバラ園なのか……」
王太子が月夜に輝くバラを眺めていると、かすかにフルートのような歌声が聞こえる。
美しいがとても悲しい。思わず胸が詰まって涙をこらえなくてはならないほどだった。
「いったい誰が歌っているのか……」
バラ園の中に入り込み、歌声の主を探すと、噴水を眺めながら歌っているのは白い薄絹をまとった美しき女性。
長い濡れたような黒髪。月の光に輝く白い肌。大きな目に高い鼻。まるで女神が降臨したかのような姿に王太子は言葉を失いただ見惚れるばかり。それが歌いながらさめざめと泣いている。
これこそが美の女神の祝福を受けたローズの本来の姿。
愛する人と結ばれるか、満月の光を浴びなくてはこの姿にはなれない。
普段は不用意に満月の光を浴びるなどということはしないのだが、王太子に嫌われ、この庭園も見納めと自暴自棄となり、散歩しながら自慢の美声で現在の心境を歌っていたのだ。
玉のように輝き落ちる涙に、王太子は憐れでならない。今すぐいってその涙を拭ってやりたいが、彼女が一体誰なのか分からない。妖しき美女に心を奪われただ見つめるばかり。
自分にはシンディがいる。そう言い聞かせるが、まるで夢遊病者のようにローズへと近づいて行く。
ローズの方ではそれに気付かずに、部屋へと戻ってしまい、寝室へ入るとベッドに顔を伏せてまた泣き出してしまったが、その時はすでに月の光の魔力は消え、仮の冴えない姿と変貌していた。
王太子は彼女はひょっとしてローズの侍女だったのかも知れないと、初めて庭園から部屋へと入っていく。するとソフィアとレダもそれに気付いて、前に立ち塞がった。
「王太子殿下! 何用にございます。姫様はすでにお休みです。ご用件をお伺いいたします」
先ほど、尼寺へ行けなどとの言葉を自分の主君である姫に通告した者への拒否感。二人の侍女は眉を吊り上げたが、王太子は二人をかき分けて部屋へ入り彼女を捜そうとする。
「殿下なりませぬ!」
「ええい。自分の妻に会うのになんの断りがいる!」
と言うと、途端に二人の表情が和らいだ。
「そういうことならば……。王太子殿下、姫様のお部屋にお渡りィ」
ソフィアが声高らかに宣言すると、ローズもハッと跳ね起き、いつもの黒いローブを羽織って王太子のいる場所へとモジモジしながらやってきた。
王太子の方では、あの美しい女性はどこかと部屋中を見渡したがその影もない。
ただローズの案内で小さなテーブルに迎え合わせで腰を下ろすと、侍女が王太子の前に手際よく淹れたばかりのお茶を差し出す。
それには先ほどの庭園にあったバラの花びらが浮かびとてもよい香りがするのですぐに一口すすると余りの旨さに驚いて声を上げた。
「う、うまい!」
「さようでございますか?」
「熱さも丁度良い。味も深みがある。そしてこの香り」
「そうでございましょう。ジカルマ産の最高級の茶葉ですから」
レダがすましながら厭味っぽく言うと王太子は小さく唸った。
「これ。そなたたちは下がりなさい」
「はーい」
二人は大きく礼をすると奥の間へ引っ込んで行く。
これで二人きり──。