第四章~均衡~ 第一節:神話 第二節:激突 第三節:恢復 第四節:未来
古代の「技」を身に着けた三人。いよいよ決戦の時が迫る。その三人に、思いがけない人が、思いがけない物語を告げる。
第四章~均衡~
第一節:神話
「雄一郎さん、タイホされちゃったの?」萌が叫んだ。
「タイホ、じゃないよ」スマホのメールを見ながら、優が言った。「参考人として話を聞きたいって、警察に呼ばれたんだって。」
「だったら、すぐ出てこれるね」菫が言った。
「どうだろう」優が言った。「話の辻褄が合わないと、警察は徹底的に追及してくるだろうし。私たちのことがばれるのは時間の問題じゃないかな。」
「急がないといけないけど」菫が言った。「雄一郎さんの車をあてにできないのは痛いな。」
鬼のまな板に乗り込んで、残る「鬼」たちを殲滅し、裂け目を塞ぐ、として、鬼のまな板の近くまでは、雄一郎の車をあてにしていた。鬼のまな板があるのは、百坂山からさらに平坂山系に延びる山奥だ。「狐憑き」の足でも、相当な距離がある。
「『狐憑き』には持久力がないから」イブキが言った。「戦いの前に、移動するだけで消耗してしまう。」
「私の『技』でも、飛翔距離には限界がある」優が言った。「一番近い登山口までは、雄一郎さんの車で、と思ってたんだけどね。」
「親に頼る?」萌が言った。「私がおねだりすれば絶対おっけーだけど。」
菫と優が顔を見合わせた。「それは避けたいなぁ。」
萌の両親は、あまり事情がよく分かっていないし、なんとなく状況を察している菫の両親も、あまり戦いに巻き込みたくない。優の両親は、
「論外でしょ」優が言った。「あれだけ説明しても、あの態度だよ。」
菫は、何か言葉を探すように口を開いたけれど、何も言えず黙ってしまった。
昨夜、優の部屋から、いきなり現れた菫と萌を見て、優のママはまさにパニックに陥った。菫が、テーブルの上にあった新聞紙を一瞬で灰にしてみせて、「鬼」に出会った時から、三人が特殊な能力を身に着けた、と説明しても、三人を見る怯えた視線は変わらなかった。桃太郎伝説と、百坂山の話をしたところで、優のママは、手を振って、「ちょっと黙って」と言った。「一人にしてちょうだい。」
そして今朝。優の家に二人が来ても、玄関に顔も出してくれない。
「私たちの中に、『狐』がいる、なんて話をしたら、多分気が狂うと思う」優が言った。
「仕方ない、足のことは別に考えるとして、『裂け目』を塞ぐ方法だな」菫が言った。
「優の『智恵』でも見えないの?」萌が言った。
優は目を閉じた。「裂け目」を塞ぐ、と心に念じてみる。心の中の「眼」が、時を超えていく。鏡に封じこめられた「技」の持ち主、古き時代の、「狐憑き」の戦士の視線に。
「夜の山が見える。星がとてもきれい」優が呟く。「山のところどころに炎が上がっている。山を丸く囲むように、明かりが見える。何人かの戦士が集まっている。『狐憑き』だけじゃない。人間の戦士も。松明が燃えている。みんな傷だらけだ。激しい戦いのあとみたいだ。」
「『鬼』をやっつけた後だね」萌が言った。
「松明を持っている人の輪ができている。その中心に、誰かが立っている。女の人だ」優が言う。
「女の人?」菫が言う。「戦士じゃないの?」
「戦士じゃない。地響きがする。何か巨大なものが動いている。黒い影が次第に沈み込んでいくような」優は目を開いた。「ここまで。」
「それだけ?」菫が言う。「なんだかよく分からないなぁ。」
「何か、最後の瞬間に、目をつぶっていたみたいなんだよね、この『狐憑き』の戦士が」優が言った。
「なんで大事な時に目をつぶるんだよ」萌が口をとがらせた。
「場所は?」菫が言う。
「暗くてよく分からない」優が言う。
「千曳が淵だと思う」声がした。優の部屋の入口に、優のママが立っていた。
「昨日、菫ちゃんが、桃太郎伝説と、百坂山の話をしたわね」優のママが言った。「百坂山、犬塚古墳、猿久保稲荷、鳥居ヶ池と、さらに平坂山系には『鬼』という文字のついた巨石遺跡が点在している。この土地は、桃太郎伝説と深い関係がある。それと、日本神話とも。」
「日本神話?」菫が言った。
「古事記」優のママが言った。「日本史で習ったでしょ?」
「日本史、赤点だったんだってば」菫が小さな声で言った。
「イザナミとイザナギの神話。知ってる?」優のママが言った。
「黄泉の世界に奥さんを探しに行って、逃げてくる話?」優が言った。
「そう。」優のママが言った。「黄泉の国でイザナギが見つけたイザナミは、8頭の鬼を従えた恐ろしい黄泉の支配者に変わっていた。逃げ出したイザナギは、黄泉の国からの追手に追われ、鬘を投げ、櫛を投げ、桃の実を投げて難を逃れる。そして、黄泉の国と現世の間に、巨大な岩を置いてその道を塞ぐ。
「『ここに千引の岩をその黄泉比良坂に引きさえて、その岩を中に置きて、各々むかい立つ。』」
三人はぽかんと、優のママを見つめていた。
「古事記の一節よ」言いながら、優のママが、手にした少し色あせた、薄い冊子を優に渡した。「平坂市は、黄泉比良坂。八櫛の滝は、イザナギが投げた櫛、百坂山は、桃の実。千曳が淵は、黄泉の国とこちらを塞ぐ千引の岩。そして、禊川は、黄泉の国から戻ってきたイザナギが、身を清めた川。」
「『平坂市周辺の地名と、日本神話、あるいは桃太郎伝説との相関についての考察』」優が冊子のタイトルを読み上げた。「これ、誰が書いたの?」
「私」優のママが言った。「私の大学の卒論。」
「最初から、優のママに聞けばよかったんじゃん」萌が茫然と言った。
「親を、なめるな」優のママが言った。
「昨日の夜中に、百坂山の近くで、大規模な停電があったらしい」優のママが言った。「送電線が何本か、切られたらしいよ。」
「あいつらだ」優が言った。「8人いた子供の半分を殺された。力を強くして、総力戦で、私たちを潰す気だ。」
「今日にも襲ってくるだろうね」菫が言った。
「勝てるの?」優のママが言った。
「あいつらがどれだけ強くなってるか、分からない」優が言った。「でも、私たちも強くなっている。」
「はっきり言って」と、萌が言った。「負ける気しません。」
「勝たないといけないんです」菫が言った。「勝たないと、もっとたくさんの人が死ぬ。」
しばらく沈黙して、優のママが言った。「私が車を出します。」
「あの服着て行こうよ」萌が言った。「TVで戦ってる優、かっこよかったもん。あれでいこう」
「正面突破だからね」優が言った。「いいかも。」
「翼の人形も持っていくよ」菫が言った。「私を守ってくれた人形だ。」
「いいよ」優が言った。
「絶対勝とう」菫が言った。「私たち三人で。」
「六人だよ」萌が言った。「優のママも入れれば、7人。」
「警察と戦っている雄一郎さんも入れたら、8人だね」優が言って、ちょっと笑った。
「どうしても行くのね」優のママが、車のハンドルを握って、言った。
「はい」菫が言った。
「自衛隊にでも来てもらいたいくらいだけど」優のママが言った。「あいつらはすぐにでもあなたたちを襲ってくる。時間がない。警察では歯が立たない。」
「あいつらを倒せるのは、私たちだけだ」優が言った。
「自分の子供をあんな化け物と戦わせたい親なんか」優のママが言った。「いるわけない。」
いいながら、ギアをドライブに入れて、車を発進させた。
登山口に着いた時、優のママは、優だけを呼んで、二人だけで話をしていた。
「萌のママは、なんか言ってたの?」菫が言った。
「別に何も」萌が言った。「私は優みたいに、TVで暴れたりしてませんから。」
「うちの親は薄々感づいてるみたい」菫が言った。「でも、ここまでは想像してないかな。」
「優のママ、すごいね」萌が言った。「あんなに腹くくっちゃうと思わなかった。」
優のママと優の話が終わって、優のママが、しっかり優を抱きしめているのが見えた。
「行こう」優が唇をぎゅっと引き締めて戻ってきた。「あいつらが固まっている姿が見える。まだ眠っている。電気ショックの影響がまだ残っているみたい。今なら、先手を打てる。」
「今日も暑いなぁ」萌が言った。「蚊よけスプレーと日焼け止め、ちゃんとした?」
「跳ぶよ!」菫が言った。
優。
私が病気で死の床にあった時、私はあなたのことばかり考えていた。
あなたを残して逝ってしまうこと。
あなたが大きく成長していく姿を、あなたの未来を見ることができないこと。
そして、ただ祈った。あなたの未来が幸福であることを。
素晴らしい友人に恵まれること。
そして、強くなってほしい、と願った。
母親を失っても、支えを失っても、一人で生き抜いていける、耐えられる、強い人になってほしいと。
今、こうやって生きながらえて、あなたを見守ることができる身体になって、
正直、あなたに危険な思いはさせたくない。
どんなに強い仲間がついていても。あなた自身が強くても、
安全な場所にいてほしい。
そんな危険なことは、人に任せておけばいいのにって、思う。
でも、あの時、あなたに、強くなってほしい、と願った母は、
あなたをただ見守るしかない。
私は、今、ここにいなかったはずの母だから。おまけの人生を生きている人間だから。
あなたが自分で決めて進もうとする道を、邪魔することができるはずのない、母だから。
でも、私の知っていることを伝えることはできる。
もう少し大人になって、読んでくれたらいいな、と思っていたあの論文。
私の学生生活の思い出が詰まった論文。
こんな風に役に立つとは思わなかったけど。
「鬼」に追われたら、3つのものを投げなさい。
必ず、あなたたちを守ってくれるはず。
そして、一つ、これは、心配ごとでもあるのだけど。
櫛、という地名と、八、という数字にも、何か意味がある。
日本神話には、ヤマタノオロチという大蛇の化け物が出てくるでしょう?
あのお話のヒロインは、クシナダヒメ、という。
クシナダヒメは、ヤマタノオロチにささげられる、生贄なの。
櫛、という言葉には、生贄との関連がある。
そして、千曳が淵には、生贄にされた母娘の伝説が残っている。
あなたが見た、女の人の姿は、「裂け目」を塞ぐためにささげられた、生贄かもしれない。
裂け目を塞ぐためには、何かしら犠牲が必要だ、ということなのかもしれない。
だから、「智恵」の戦士は、目を閉じたのかもしれない。その姿を正視することができなくて。
無茶しないで。気を付けて。
必ず無事で、戻ってくるんですよ。
第二節:激突
「鬼」たちの眠りは浅かった。
身体の中に流し込んだ新たな力が全身に満ち、強烈な血への渇望が身体を焼く一方で、新たな力は激しい痛みも伴った。痛みは眠りを妨げ、半ば覚醒した意識の中で、「鬼」たちは血の夢を見て悶えた。同じ意識で結ばれた兄弟たちは、同じ夢の中で、無数の人を屠り、「狐憑き」を引き裂き、その体の中から「狐」を啜り出し、全身を貫く恍惚感に酔った。
それでも、彼らは生まれつきの戦士だった。眠りの中にあっても、周囲の微妙な変化に対する警戒が切れることはなかった。その警戒の網が、わずかに、小さく揺れた時、一頭の「鬼」が、はっと目を開いた。
森の奥、「鬼」の群れからかなり離れたところで、何かが、動いた。
「鬼」の餌にもならない小動物の類か、とも思われたが、目を開いた「鬼」は、少し上半身を上げて、森の木々の隙間を見つめた。何も見えない。森は静まり返り、遠く鳥の声や、風の音、そして、少し離れた高速道路を通る自動車の音がするだけだ。
自動車か。半ば眠っている「鬼」たちの共通意識の中に、苦い思いが湧き上がる。あの自動車と、自動車を動かしているものの力で、一頭の兄弟を失った。あちらの世界に比べて、こちらの世界には、「鬼」の力に対抗できる様々な「機械」がある。「繭」にした人の記憶の中にも、自動車だけでなく、さらに巨大な破壊力を持つ「機械」があることが記憶されていた。あの「機械」に対抗して、もっと「鬼」を増やすには、「鬼」の側でもあの「機械」の使い方を知らねばだめだ。
あちらの世界で子を産む力を失った「鬼」にとって、この世界は楽園だ。「狐憑き」は三匹しかおらず、その他の「人」は、「鬼」に対抗する術を知らない。唯一「機械」が対抗手段ではあるが、それもこちらの道具にしてしまえばいい。何よりも、「人」を食うだけで十分繁殖できるほどに、こちらの世界の大気や水が、「鬼」の身体に馴染む。そして新たな力の源、電気。
あの三匹の「狐憑き」を殲滅し、まずこの近辺の「人」を全て喰うか、「繭」に変える。そのためには、我ら親子兄弟だけでは数が十分とは言えない。新しい仲間をこちらに連れてこなければ。それもまとまった数の群れを。
「鬼」の群れが、人を蹂躙していく様を夢見て、「鬼」の兄弟たちはまた、陶酔の唸り声を上げる。「狐狩り」が終わったら、この世界で、「鬼」に対抗できるものはいない。存分に人を喰らい、「繭」にしてやる。「狐狩り」が終わったら・・・
その時、周囲の森が爆発した。
「バーベキューになっちゃいな!」萌が木の上から叫んだ。鬼のまな板の周囲の木が燃え盛っている。菫の「声」で、一瞬で上がった炎だ。
「そう簡単にはいかない」優が言うなり、炎の中から、3つの影が飛び出した。その一つに向かって、萌が右手を一閃した。爪が五つの炎の塊となり、「鬼」の背中に向かって矢のように飛ぶ。「鬼」が絶叫と共に森の中に墜落する。
「萌ちゃんの『技』も進化してますからね!」萌が叫ぶ。
もう一頭の「鬼」に、菫の「声」が命中し、「鬼」が一瞬で蒸発した。「すごいな」優が呟く。
「『技』に慣れてきたんだ」トンビが言った。「威力を集中できるようになった。」
「優、飛ばして!」萌が叫ぶ。さっき、萌の爪の攻撃を受けた「鬼」が、炎に包まれた森の中をよろめきながら走っているのが「見える」。
「飛べ!」優が叫んだ。途端に、よろよろと走っていた「鬼」の身体が、宙に弾き飛ばされるように飛んだ。萌の「爪」が、その首を切り裂いた。血を撒き散らしながら、「鬼」が落下していく。
「ちょっと手ごたえないんじゃないの!」萌が叫ぶ。
「油断しちゃだめ!」優が言う。「まだ2頭、あと3頭!」
「親の姿が見えない」逃げた「鬼」を追いながら、菫が言った。
「もう一頭いないよね」萌が言った。「朝のお散歩かな?」
「まずは目の前の一頭」菫が言った。「優、跳ばせ!」
三人は一気に飛翔した。
優のママは車を降りて、八櫛の滝に向かう道を登っていた。道の先から、ハイキング客の声が聞こえる。足を速めた。
「ここから先は危険ですよ!」5人連れほどのグループだ。振り返った。
「どうかしたんですか?」年長の男性が尋ねてくる。
「例の怪物が、この近くに出たらしいんです」優のママは言った。グループの全員がおびえた顔になった。「さっき、下で、別の人が言ってました。警察ももうすぐ来るって。」
「戻ろう」男性が言った。
「この先に登って行った人はいませんか?」優のママが聞くと、男性が、「僕らの前に1グループ、10人ほど」と答えた。優のママは、坂道を駆けあがった。
目の前の森の中で、赤黒い背中が一瞬見えた。優が「眼」で捕獲して、空中に跳ね上げる。手足をばたつかせ、なす術もなく森の上空に放り出された「鬼」を、菫の「声」が直撃した。ぼっと炎が上がり、細かい灰が宙にまき散らされて、「鬼」は蒸発した。川原を見つけて、そこに降り立つ。火照った体を、浅瀬に浸した。萌が歓声を上げる。
「あと二頭」菫が言った。息が上がっている。三人とも、疲労の色が濃い。
「空中戦続けると、思った以上に消耗するね」優が言った。「ちょっと休みたい。」
「チョコレート欲しい」菫が言った。「持ってる?」
「ちょっと最近ウェイト心配なんで」萌が言った。「飴なら持ってる。」
「さすが」菫が言う。
その時、森全体で鳴り響いていた、蝉の声が、一斉に止んだ。
山全体が静まり返った。ただ、川のせせらぎの音だけが聞こえる。
遠くで、低いうなり声や吠え声、複数の人の叫び声が上がった。
「なんか」萌が言った。「嫌な感じ。」
「あと二頭じゃ済まないな」菫が、飴をバリバリ噛み砕きながら呟いた。
襲ってきた吐き気をこらえながら、優のママは茫然と、千曳が淵のあった場所を見つめていた。
千曳が淵の底が隆起していた。巨大な岩が露出し、水の流れはその周囲に引き裂かれている。
露出した岩が重なる頂上に、巨大な穴が見える。
そして、その周囲は、血の海だ。
血にまみれたリュックサックが落ちている。
その紐に、引きちぎられた人の腕が引っかかっているのに気づいて、優のママはたまらず吐いた。
「『裂け目』から群れを呼んだのか」菫が言った。
「朝のお散歩じゃなかったんだね」萌が言った。
「少なくとも十頭はいる」イブキが言った。「気配が、こっちに向かっている。」
「いいんじゃない」萌が言った。目がぎらぎらしている。「手ごたえがなくって、イライラしてたのよ。」
「森に引き込む」優が言った。頭の赤いリボンを外した。「ゲリラ戦だ。」
片目の「鬼」は、異変に気づいて、群れの進行を制した。森の奥が燃えている。巣の方向だ。
先手を取られた、と分かって、片目の「鬼」は歯ぎしりした。電気の力を試す前に、「裂け目」から群れを呼べばよかった。あれで一晩無駄にした。おかげで、「狐憑き」に襲撃の時間を与えてしまった。
この手勢で、あの「狐憑き」を殲滅できるか。それとも、「裂け目」に戻って、援軍を呼んだ方がいいか。
あの三匹を侮ってはならない、という思いが一瞬浮かんだとき、森の中に、赤い色がひらめいた。
すかさず、跳躍した。
群れが後ろから殺到する。
ただの赤い布が、枝に引っかかっているだけ、と気付いて、しまった、と思った時には、群れの後方の「鬼」が数頭、絶叫と共に蒸発していた。
同時に、2頭ほどの「鬼」の身体が上空に吹き飛ばされた。
片目の「鬼」の周囲に、火の塊がびしびしと落ちてくる。
吠えた。
その声を合図に、群れが一斉に、森の中に散った。
その後に、2頭の「鬼」の身体が落ちてきた。2頭とも、首筋を断たれて絶命している。
再度吠えた。とにかく一旦戻って、陣営を立て直す。「裂け目」から来たばかりの「鬼」は、あの三匹の戦い方が分かっていない。
片目の「鬼」は身をひるがえして、「裂け目」に向かって跳んだ。
五頭ほどの「鬼」が、森の外への道筋を探して駆けていく。その視界に、真っ赤な色が飛び込んできた。
思わず立ち止まる。
木の枝にひっかけられた、赤いもの。裂け目の向こうでは見たことのないものだ。
少し光沢のある赤い色に惹きつけられ、五頭の「鬼」は、吸い寄せられるように近づいていく。
水の流れに沿って、なんとか滝の方へと進もうとして、優のママは硬直した。
絶え間なく落ちてくる滝の水の傍らに身を潜めた。
赤黒い巨大な「鬼」の姿が見えた。TVで見た「鬼」よりも、二回り、いや、もっと大きい。
振り返った顔の片目がつぶれている。これが、菫に目を潰された親の「鬼」か。
その後ろから、青光りする肌の、もう一頭の「鬼」が現れた。片腕がない。
腕の切断面と背中から激しく出血して、ふらついている。
さらにもう一頭。足を引きずっているが、他に傷は見えない。
他の「鬼」の姿はない。3頭も、消耗しきっている。
優のママは確信した。これは敗走する戦士の姿だ。優たちは勝った。
片目の「鬼」が、傷の軽い「鬼」に向かって、一声唸った。声をかけられた「鬼」が、滝壺に露出した巨大な穴の中に、姿を消した。
ふらついていた青い「鬼」が、がくり、と膝をつき、地響きを立てて倒れた。
片目の「鬼」が、そのそばに駆け寄った。助け起こす。
親子か?
優のママは身を乗り出して、二体の「鬼」の様子を見ようとした。
その時、片目の「鬼」が、こちらを見た。
第三節:恢復
「最初はリボン、次は靴」優が呟いた。「3つのものを投げろって、ママは言った。」
「3つのもの?」菫が言った。
「日本神話だよ」優が言った。「鬘、櫛、そして、桃。」
「森の中にはもう奴らは残ってない」萌が言った。「靴フェチの連中も全部片付けたしね。」
「片目の『鬼』を仕留めていない」菫が言った。「あいつを含めて、残るは数頭。」
「残っているとしたら、『裂け目』に行ったはずだ。援軍を呼びに」優が言った。「急ごう。」
片目の「鬼」の万力のような力が、優のママを地面に押し付けた。息が詰まって声も出ない。
上半身と足が、がっちり固定されて微動だにしない。
腹の部分に、青い「鬼」の尾が近づくのが見えた。弱々しい動き。しかし、尾の先に管のようなものが見える。卵管?
卵を産む気だ。優のママの全身が震えだした。瀕死の「鬼」が、最後の「卵」を私に産み付けようとしている。
片目の「鬼」が吠えた。青い尾が、最後の力を振り絞るように振り上げられ、ママの腹に卵管が突き立った。
激痛に絶叫した。そして、腹の中に、熱いものがどくどくと流れ込んでくる。
「鬼」が、私の中に流れ込んでくる。
私を全て食い尽くそうと。
優、助けて。
身体を抑え込んでいた腕が突然離れた。
その瞬間、青い「鬼」の身体が蒸発した。
「ママ!」優が絶叫して、ママの身体に取りつく。ママの身体にまだ突き立っていた「鬼」の尾を、「眼」で跳ね飛ばした。尾が刺さっていた穴から、白い糸が噴出する。
「どうしてここに来たの!」優が叫ぶ。
「『繭』になってしまう」萌が早口で言った。言いながら、白い糸を、爪ナイフで切り裂く。「早く、なんとかしないと。」
「『鬼』が一頭、『裂け目』の向こうに逃げた」ママが声を絞り出した。「『裂け目』を塞ぎなさい。早くしないと、『鬼』の援軍が来てしまう。」
「ママを助ける方が先だよ!」優が叫んだ。
「私が生贄になる」優のママが言った。「それで、『裂け目』は塞がる。」
「いやだ!」優が絶叫した。
菫の前に、片目の「鬼」が立っていた。優のママのことが心配だったが、今は頭から切り離す。この敵を倒さないと、次がない。
「また大きくなってるな」イブキが言った。「電気の力で、さらに巨大化している。」
そして、敏捷さも増している、と、菫は思った。さっき青い「鬼」を蒸発させた「声」は、二頭一度に命中させるつもりで放ったのに、一瞬で見切られた。しかもこいつは、自分の命を捨てることを恐れていない。自分の目をつぶし、自分の子供たちを全滅させた菫を、叩き潰すことしか考えていない。
滝の音が遠くなる。一つだけ残った目にみなぎる殺気に集中する。
ふと、優の言っていた言葉が頭をよぎった。日本神話。三つの物を投げる。
「鬼」の目の殺気が爆発した。
「鬼」の姿が一瞬、目の前から消えた、と思ったら、「鬼」の拳が、視界の下から、嵐のように襲ってきた。
殺気のこもった拳に向かって、菫の手から、小さなものが飛んだ。
薄汚れた、テリアの人形。
「鬼」の殺気が一瞬、乱れた。
その一瞬の乱れを、菫は逃さなかった。
渾身の「声」の一撃が飛んだ。
「鬼」の頭が、一瞬で蒸発した。
「鬼」の一撃が、菫の顔をかすめて、衝撃で菫の身体が吹っ飛んだ。
首を失った「鬼」の巨体が、川の中に倒れ込んで、水しぶきが上がった。
萌が、糸を切り裂く動作をやめた。優のママの全身を覆い始めた糸の動きは放置して、ママの頭を自分の膝の上に乗せた。「優、ママの手を握って」萌が言った。
「優!」菫が跳んでくる。「菫、ママの手を!」萌が言った。
優と、菫で、糸に覆われた優のママの手を握った。握りしめた二人の手も巻き込んで、粘着質の糸がママの身体を覆っていく。萌が目を閉じて、両手を、ママの額の上においた。その手の上にも、糸がみるみる絡んでいく。
「ママの身体の恢復力で、鬼を外に追い出す」萌が言った。「優のママの生命力を強めるんだ。手を握って。強く握って。」
「諦めないで」菫が言った。
「ママ!」優が叫んだ。
ママは昔、言ったよね。
私は一度死んだ人間なんだって。
今ある人生は、おまけの人生なんだ。
私は今、ここにいるはずのない母親。
だから、優は、自分の好きにしていいんだよって。
違うよ、ママ。
ママは、今、ここにいるんだ。
ママの人生は、終わってなんかいない。
自分の人生、ポイ捨てしちゃだめだ。
終わらせたりなんかするもんか。
生きて。
生きて。ママ。
優のママの腹部から、白い塊が脈動しながら絞り出されてくる。優はそいつに意識を集中した。菫と顔を見合わせ、頷き合った。
「飛ばせ!優!」菫が叫んだ。
白い塊が、ママの腹部から、繭を突き破って空に飛び、菫の「声」が、それを蒸発させた。
萌が、手を、ママの腹部に置く。
「ママ」優が涙声で言った。
「気を失ってる」萌が言った。「でも、もう大丈夫。傷口は塞いだ。」
「こっちの傷口を塞がないと」菫が立ち上がって、滝壺の穴を見た。「『鬼』の援軍が来る。」
「どうやって?」萌が言った。
「さっき、飛んできた時に、ちらっと見えた」優が言った。「多分間違いない。もう一度、飛ぼう。」
「人使いが荒いなあ」萌がぜいぜい言いながら、立ち上がった。
「もう少し高く飛ぶ!」優が叫ぶ。
「大丈夫なの?」萌が言う。
「私、高所恐怖症だった」菫が呟く。
眼下に、百坂山の全景が見える。鬼のまな板あたりの森が燃えているのが見える。
「何が見えるの?」菫が目をぎゅっとつぶって言う。
「八角形」優が言う。「魔法陣みたいに、千曳が淵を囲んでいる。」
「何も見えないけど」萌が言う。
「可視光線では見えないよ」優が言った。「赤外線まで広げると見える。」
「優の『眼』って、便利だねぇ」萌が感心したように言う。
「大きすぎる。全体に意識を集中できない」優が言った。「手をつないで、目をつぶって。同じビジョンを共有する。」
三人は手をつなぎ合った。目をつぶると、優の目に映る百坂山の全景が見えた。千曳が淵を中心に、八つの点が白く浮かび上がっているのが確かに見える。地中に埋められた、巨大な岩か。
「あれをどうすりゃいいの?」菫が言う。
「一人が、一つの点に意識を集中して、『閉じろ』と念じるんだ」優が叫んだ。「私が、東北、鬼のまな板に近い点!」
共有しているヴィジョンの中で、その一点が輝くのが見えた。「トンビも!」優が叫び、もう一点が輝き始める。
「じゃ、私とマドカが、これとこれね!」萌が叫ぶ。
輝く光の点が増え始める。菫とイブキが選んだ二点も、光り始めた。
「二つ足りない!」菫が叫ぶ。
「ある分でなんとかするしかない!」優が叫びかえした。
優のママのぼんやりした意識の中で、地面が震えるのが感じられた。百坂山全体が鳴動している。自分のすぐそばで、何か巨大な力が蠢動しているのが分かる。
あの子たちだ。優のママはぼんやり思った。あの子たちが、この世の「釣り合い」を戻そうとしている。
「『裂け目』が閉じはじめた」萌が言う。「もう少し。」
「やっぱり六つじゃ足りない」優が叫ぶ。「誰か助けてくれる人はいないか?」
「私たちと一つになれる人」萌が叫ぶ。
「雄一郎さん!」優が叫んだ。
「優ちゃん」雄一郎が立ち上がった。
「ちょっと、ちゃんと質問に答えてくれるかな?」刑事が言った。
「南西の点」雄一郎が言った。「分かった。」
雄一郎が目を閉じた。
「ちょっと!」刑事が怒鳴った。
「優のママは!」萌が叫ぶ。
「無理だよ!」優が叫び返した。
ごめん、その通りだよ、優。
声は届く。思いは届く。でもごめん、今の私には、力がもう残っていない。
「裂け目」の奥から、何かが吠える声がする。敵が近づいている。急いで。優。菫。萌。
誰か、あの三人を助けて。誰でもいい。あの三人の戦いを、ビジョンを、共有できる人。
「『裂け目』が閉じない」優が絶望の叫びをあげた。「もう少しなのに!」
「閉じろって!」萌が叫んだ。「開けっ放しじゃ、用心が悪いでしょ!」
「もう高度が保てない」優が苦しげに叫んだ。「落ちる!」
「諦めるな!」菫が叫んだ。
諦めるな。
生きろ。
生きて。
私の分まで、すぅ。
決して諦めないで。
最後の一点が突然光を帯びた。
「『裂け目』が閉じる!」優が叫んだ。
激しい鳴動がしばらく続いたあと、山全体が身震いするような、ひときわ大きな山鳴りがして、ふっと静かになった。
優のママの耳に、滝の音が遠く聞こえ始めた。
また気が遠くなっていく。
小さな3つの影が、空の高みから、ゆっくりと舞い降りてくるのが見えた気がした。
そして、何も見えなくなった。
第四節:未来
「あの子、一日中、眠っています」優のママが言った。「しばらく休ませてあげようと思って。」
「お母さんも、大変だったんですね」雄一郎が言った。「もう、大丈夫なんですか?」
「一晩眠ったらすっかり」優のママが言った。「萌ちゃんのおかげです。でも、明日にも、精密検査を受けろって。何か体内に残ってないか、調べるそうです。」
「僕も、警察に、またすぐ呼び出すぞって言われてます」雄一郎が言った。「三人のことを秘密にし続けるのが、正直しんどいです。」
「いつかは知られてしまうでしょうね」優のママが言った。「マスコミ対策とか、考えないと。」
優のママが、少し視線を上に上げた。二階でこんこんと眠っている、優のことを考えている、と、分かった。
「あの時、優が見せてくれた、百坂山の映像」優のママが言った。「八つの光が見えましたね。」
「はい」雄一郎が言った。「僕も、手伝えた。すごくうれしかったです。一緒に戦えて。」
「一つはあなた。あと三つは、あの子たち。そして、残りの四つは?」優のママが言った。
雄一郎が黙っていると、優のママが言った。「どうも、あの子たちの中に、何かがいるみたい。私の中に入り込んで、私を乗っ取ろうとしたものと、同じ種類の生き物が。」
「でも」雄一郎の言葉を制して、優のママは微笑んだ。「同じ種類だけど、人との関係はまるで違う。私の中に入ってきたものは、私を食い尽くそうとした。でも、あの子たちの中にいるものは、あの子たちと共に生きようとしている。まるで正反対の生き物。奪い尽くそうとするものと、ひたすらに与えようとするもの。」
「あの子の中にいるものは、全部で3匹。あの子たちは3人。そして僕と、あなた」雄一郎が言った。「8人の力で、『裂け目』を塞いだんですね。」
「そうじゃないの」優のママが言った。
「そうじゃない?」雄一郎が言った。
「あの子たちも、あなたも、8人目は私だったと思っているようですけど、違うの」優のママは言った。「私は『鬼』を身体から追い出すことで、気力を使い果たしていた。最後の八番目の点を輝かせる力は、残っていなかった。」
「じゃ、誰が?」雄一郎が呟いた。
「翼の人形」優のママが言った。
「は?」雄一郎が言った。
「あの時、菫ちゃんが、『鬼』に向かって投げつけたって言った、テリアの人形。出てこないんです。あれから」優のママが言った。「昔、人身御供のような生贄の習慣が、あまりに悲しいと、犬などの小動物を代わりに捧げることが行われたそうです。それがさらに、人形や、護符といったものにとって代わるようになった。」
「それが、八番目の光だったんですか?」雄一郎は言った。
「違うでしょうね。生贄の身代わりは必要だったけれど、それだけでは『裂け目』を閉じることはできない。やはり、八人目がいたんです」優のママは微笑んだ。「あの犬のお人形はね、菫ちゃんのお姉ちゃんが作ってくれたものなんです。光お姉ちゃん。」
「病気で亡くなった」雄一郎が言った。「まさか。」
「あの子たちには、守護天使が一人、ついているんですよ」優のママは言った。
二階から、携帯の呼び出し音が聞こえてくる。優が答える声がした。
「起きたみたいですね」雄一郎が言った。
「多分、萌ちゃんからの電話」優のママが微笑んだ。「声の調子で分かります。」
「ちょうどいいや」雄一郎が言った。「今から会おうよ、みたいな話になるでしょうし。車で送っていきます。」
「お願いしちゃっていいのかしら」優のママが言った。
「いいんです」雄一郎が言った。「美香の代わりに、妹が三人できたみたいな気分なんですよ。」
「それは大変」優のママが微笑んだ。「苦労しますよ。」
「バカなこと言わないの」ひときわ高く、優の声が聞こえた。
「一つ、心配ごとがあるんです」優のママが言った。
「なにか?」雄一郎が言った。
「『釣り合い』が崩れたのは、ここだけなんでしょうか?」優のママが言った。
雄一郎は絶句した。
「『鬼』の伝説は、日本各地に残っています」優のママが言った。「『裂け目』も、ここだけではないのかもしれない。だとすれば、『鬼』は、他の土地にも現れるかも。」
「そんなことになったら」雄一郎が言った。
「そんなことになったら、この世界は大変なことになる」優のママが言った。「あなたはそう思うでしょうね。でも、私は優の母親だから、別のことを考えてしまうんです。そんなことになったら、あの子たちはどうなるんだろうって。この世界で、『鬼』と戦える力を持つ、数少ない戦士になってしまったあの子たちは、どうなるんだろうって。」
「ママ!」優の声と一緒に、階段を駆け下りる軽やかな足音がした。「萌と菫が、服、買いに行こうっていうんだけど、いいかな?マスコミに追っかけられた時に、お揃いの服だったらかっこいいとか、萌がバカなこと言ってるんだけど。」
「あの子たちだけには戦わせませんよ」雄一郎が言った。「僕らも一緒に、一つになって戦います。」
「雄一郎さん、来てたんですか?」優の明るい声がした。
(了)
ついに「裂け目」は閉じ、世界は「釣り合い」を取り戻しました。ここまで連載してきたこの物語、次回にて最終回。「番外編 ~喝采~」をお届けします。お楽しみに。