表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第二章~増殖~ 第一節:拡大 第二節:再戦 第三節:孵化 第四節:解明

BABYMETALの三人にインスパイアされた伝奇アクション、第二章です。「鬼」の脅威が広がる中、「狐憑き」の力を得た3人は、「鬼」の力を見極めようと動き出します。

第二章~増殖~


第一節:拡大


 <猿久保3丁目、加藤雄一郎(21歳)>


 美香は、4つ下の妹です。

 僕は東京の大学に通ってます。今は、夏休みで帰省中でした。

 熊のニュース?知りませんでした。

 知ってたら、二人で出かけなかったかな。

 そんなことないと思う。

 あんなことが起こるなんて、誰が想像できますか?


 久しぶりの帰省だったし、美香が、親には相談できないこと、色々話したいっていうから、二人して、犬の散歩に出たんです。

 大学進学のことです。美香が東京に出てしまったら、両親二人だけになってしまうし・・・そういう心配ごとです。

 そうですね。仲のいい兄妹でした。結構なんでも話ができて。

 僕、過去形で言ってますね。


 百坂山を背に、禊川を下っていく方向に歩いてました。夕焼けが正面に見えたから。

 いつもの、犬の散歩ルートです。

 犬は、僕が連れていました。ミニチュアダックスフンド。

 僕が先に立って、土手を下りて、街に戻ろうとしたんです。

 美香はまだ土手の上に立って、ちょっと夕焼けを見ていた。

 きれいな夕焼けでした。


 犬が狂ったように吠えはじめた、と思ったら、大きな地響きと、水音がした。

 川の上流の方からでした。いえ、遠くから近づいてくるような音じゃない。

 近くまで音を立てずに忍び寄ってきて、突然跳びかかってきたんだと思います。

 土手の上の美香の姿が、一瞬で消えました。

 悲鳴を上げる暇もなかった。

 美香の立っていたところに、あいつが立ってました。

 犬はぎゃんぎゃん吠えていました。

 あいつは、美香を腕に抱えたまま、ちょっと上を見上げて、僕の犬を見て、歯をむき出して唸った。

 そして、一瞬で姿を消した。


 美香は、気を失っていたようでした。

 いえ、血を流したりしてません。

 まだ生きていたと思います。

 服装ですか?

 黒のタンクトップに、赤いセミロングのスカート、靴も赤かったと思います。


 お巡りさん。

 あいつは、なんで、僕を襲わなかったんですか?

 なんであいつは、美香を選んだんですか?

 一緒に並んで、川べり歩いてたんですよ?

 食い物にするんなら、僕の方が大きいじゃないですか?

 なにも、ちっこい美香の方を選ぶことないじゃないですか?

 美香は、ちっこくて、泣き虫で、臆病で、いつも僕の後ろについてきた。

 僕と一緒だと安心だからって。

 あの時だって、お兄ちゃん、一緒に行こうって、子供の時みたいに、無邪気に。


 僕は、何もできなかった。

 美香を守ってやれなかった。


 <鳥居町2丁目、春日文恵(45歳)>


 山で人が熊に襲われたっていうニュースは聞いてました。

 聞いてたけど、あの日、あの音を聞いた時、頭の中で、熊の話とは全然結びつかなかった。

 あの音を聞いて、熊と結びつける人はいないと思います。

 熊じゃない。あんな熊がいるわけないじゃないですか。


 最初、ガス爆発かな、と思いました。

 夕方の食事時でしたから、どこかの家で、ガスコンロが爆発したのかな、と。

 そんなことじゃない、もっと大変なことらしい、と思って、何かが落ちてきたのか、と思ったんです。

 飛行機の部品とか、隕石とか。

 とにかく、ばりばりばりって、ものすごい音でした。

 うちの家が振動するくらいの凄まじい音。

 実際、あれは、屋根を突き破って侵入してきたんですよね。翌朝、壊れた屋根を見ましたから。

 赤い屋根に、車が飛び込んだくらいの大きな穴があいてた。


 あまりすごい音だったから、ちょっと腰が抜けてね。

 身動き取れないでいたら、隣の家から、悲鳴が聞こえたんです。

 奥さんの悲鳴、旦那さんの叫び声。

 お隣には、息子さんが二人いらっしゃったんです。

 上が大学生で、下が高校生だったと思います。

 4人とも、ご在宅だったと思います。息子さんたちの叫び声もしましたから。


 人の声にかぶさって、何か大きなものが暴れている音がしたんです。

 色んなものが壊れる音。

 割れる音や、大きな家具が倒れたり、扉が壊れたりするような。

 外に出る勇気は出なかったです。家の中で震えてるしかありませんでした。

 夫もまだ帰宅していないし、子供も塾で、私一人しか、家にいなかったし。

 怖くて・・・ただ怖くて。

 恐ろしいことが起こっていたのに、私は本当に、何の役にも立たなかった。


 叫び声というか、何か獣じみた音がして、ちょっと静かになったんです。

 怖かったけど、何が起こったのか、確かめないと、という気持ちが勝って。

 隣の家が見える窓のカーテンを少しだけ開いて、外を窺ってみました。

 全身ががくがく震えていたのに、好奇心って、恐怖を上回るんですね。


 お隣の家の、リビングの窓が見えました。

 灯りがついていたけど、カーテンが閉まっていたので、中の様子は分かりませんでした。

 カーテンに、変な模様がついている、と思いました。

 見慣れたカーテンと違っている、と、まず、そう思いました。

 それが、カーテン全体を覆うような、大量の血を浴びた痕だ、と気が付いて、全身の震えが止まらなくなって。

 立っていられなくなって、その場に座り込みそうになった時です。

 窓が、窓枠ごと内側から吹き飛んで、巨大な影が家の中から飛び出してきました。

 人の形をしていました。でも、人じゃない。

 動物園で見た、象くらいの大きさのように見えました。

 腕の中に、2人の人を抱えていました。

 いえ、動いていませんでした。生きているか死んでいるか、分かりません。

 本当に一瞬のことでしたから。

 そしてそのまま、夕闇の中に消えていきました。


 旦那さんと奥さんは、家の中で見つかったんでしょう?

 だったら、あれは二人の息子さんですね。

 大人はすぐに殺して、若い子だけ、さらっていったんですね。


 熊のやることだと思いますか?

 熊が、大人と若者を見分けますか?

 あれは熊じゃない。もっと、もっと、凶暴で、もっと、もっと・・・


 人に近いものです。


 <犬塚町1丁目、橋本慶(17歳)>


 部活の帰り道でした。

 僕ら5人は、家が同じ方向なんで、いつも一緒に帰るんです。

 多少だべったりするけど、時間が時間なので、腹減ってるから、あんまり寄り道とかしないで、真っ直ぐ帰ります。


 19時ちょっと前だったと思います。夕焼けが綺麗だったの覚えてる。

 夏休みの部活なんで、みんなユニフォーム姿でした。

 うちの高校のチームのユニフォーム。赤いユニフォームです。

 僕はゴールキーパーなんで、黒なんだけど。

 みんなで自転車こいでて、僕がちょっと自販機でジュース買おうって、自転車止めて。

 ついでにみんなの分も買ってやるよって話をして、みんなで自転車止めて。

 みんなは、川べりにいました。

 何の話してたか覚えてません。

 覚えてられないような無駄話だったと思います。


 自販機にお金入れて、ジュースがガタンって出てきて、それを取り出そうとしゃがみこんだ時に、生暖かい風がびゅんって吹いてきた。

 ぎゃー、とか、わー、とか、声がしたと思います。

 よく覚えていない。

 自転車が倒れるガシャンって音がして、全部、一瞬でした。


 振り返ったら、あれがいたんです。

 口から、サッカーシューズ履いた足が二本突き出てました。

 ごふ、って音がして、その足が、口の中に消えた。

 両腕に、二人、抱えてた。背番号で分かりました。健介と、武志。

 二人とも動きませんでした。生きてるか死んでるか、分かりません。

 あいつの足元に、和樹が倒れてた。

 身体が変な風にねじれてて、口から血を噴いて。

 一目で、死んでるって分かった。

 あいつは、僕の方を見て、一瞬止まった。

 近寄ろうかどうしようか、殺そうかどうしようか、一瞬迷ったみたいだった。

 その時、車のヘッドライトが、あいつを照らした。

 あいつは、跳んだ。

 一瞬で見えなくなりました。

 バッタか何かが、一瞬で視界から消えるみたいに。


 青光りする、学校で習った青銅器みたいな肌の色をしていました。

 全身が水に濡れて、ヘッドライトの光の中で、てらてら光っていました。

 大きさは・・・大型のトラックとか、ブルドーザーくらいに見えた。

 何に似てるって言われれば・・・

 一番似てるのは・・・

 「鬼」です。

 子供の頃読んだ、桃太郎の絵本に出てきた。鬼が島の「鬼」です。

 「鬼」が、和樹を殺して、光男を食った。

 健介と武志をさらった。

 どこに連れて行ったんでしょう?

 健介と武志は、生きてるんでしょうか?


 僕はなんであの時、自転車を止めたんでしょう?

 ジュースなんか買わないで、そのまま家に帰ってれば、みんな襲われないですんだんでしょうか?

 みんな生きてたんでしょうか?

 あそこで、みんなで自転車とめて、ぐだぐだくっちゃべってなかったら。

 僕が、ジュースを買おうって言ったから。

 僕のせいで、みんな死んだ。


 お巡りさん。

 健介と、武志を見つけてください。

 二人を助けてください。

 お願いします。




第二節:再戦


 「他に、犬塚町で3人、合計8人」萌が言った。

 「やっぱりみんな、川沿いで襲われてる」優が言った。

 「『鬼』は一度に8個の『卵』を産む、と聞いた」イブキが言った。「これ以上、『繭』は必要ない。あと、出てくるとすれば、自分の餌を取りにくるか、」

 「目をつぶされた仕返しか?」萌が言った。

 「だからって、こんなんで本当に出てくるの?」菫が言った。同じセリフを10回以上言った気がするが、言わずにはいられない。

 「分からない」優が言った。「でも、ただ闇雲に探すよりは、効率がいい。」

 「このスカート暑いよね」萌が言った。

 「調達したのは萌でしょうが」菫が言った。


 3人が歩いているのは、禊川の土手だ。百坂山の八櫛の滝からさらに下ってきた水流が流れ込み、ゆったりとした流れと広い土手を作っている。

 その土手に作られた遊歩道を、優を先頭にして、菫と萌が並んで後を追う、三角形を作って歩いている。

 遊歩道を走っているジョギングのおじさんたちが、ほぼ全員例外なく、三人をまじまじと眺めながら走り去っていく。

 そりゃ注目浴びるよな、と、菫はため息をつく。

 「この恰好じゃないとだめなの?」菫は言った。このセリフも、10回以上は言っている。

 銀糸が入ってちょっとメタリックに光る黒のタンクトップに、真っ赤なセミロングのスカート、赤い靴、頭には大きな赤いリボン。

 「だって、赤がいいんでしょう?」萌が言った。

 「赤がいい」優が言った。

 「赤って言ったって、色んな赤があるでしょうが」菫が言った。「こんな派手な赤じゃなくてもさ。」

 「この赤はいい」イブキが言った。「『鬼』が大好きな色だ。」

 「女の子の赤いスカート。サッカーチームのユニフォームの赤。赤い屋根の家。あいつは赤に反応している」優が言った。「この服を着て、この川べりを歩いていれば、あいつが近寄ってくる可能性が上がる」

 「赤い靴は危険だよ」萌が歌うように言った。「オニが来るからね」


 優が目覚めて、「鬼」の繁殖の可能性を口にした時、千曳が淵の出来事から既に一週間が経過していた。

 その間に、「鬼」が起こしたと思われる事件の情報は、萌が集めた。

 事件が起こった場所や、事件発生時の状況を聞いた優が、計画を立てた。

 百坂山から奥の山中、平坂山系のどこかに、あいつの隠れ家がある。

 でも、それを探索するのは時間がかかりすぎる。こちらからおとりになっておびき出す方が早い。

 事件は禊川沿いに集中している。現れた「鬼」が水に濡れていた、という証言もある。

 多分、やつは、川沿いに移動している。理由はよく分からないが。

 土地勘のないこちらの世界で移動するには、川沿いが分かりやすいからだろうか。


 被害者に共通する、赤の色について指摘したのも優だった。

 菫が萌に、「優ってこんなに頭よかったっけ?」と聞いた時、マドカが、

 「それがトンビの『技』だ。」と言った。

 トンビの「技」。「眼」。

 遠くを見通す能力。

 ただ単に、遠くにあるものを見つける力だけではなく、さまざまな出来事から、その裏に起こっていることを瞬時に見抜く能力。


 「色んな『技』があるんだなぁ」と菫が感心すると、イブキが、

 「『技』自体も変化していくんだ」と言った。

 「私の『技』は『声』。『声』でものを切り裂く。でも、まだ小さかった頃は、狙ったものだけを正確に断ち切ることができなかった。『声』の塊をモノにぶつけて、潰すくらいしかできなかった。だんだん上手に、狙ったものをきれいに切断できるようになった。」

 「人間にだって『技』はある」マドカが言った。「萌が聞いたら、警察の人が何でもべらべら喋ってくれた。あれも大した『技』だ。」

 「大人ってちょろいよね」と萌が言った。「この服も、パパにおねだりしたらすぐ揃えてくれたし。」

 「それって、色々問題あるんじゃないかな」菫があきれて言った。

 「今日はもう日が暮れる」優が言った。「続きは明日にして、今日はそろそろ帰ろう。あいつの活動時間は夕方に限られている。人目につく昼間は山に隠れて、夕方人を襲って、夜は『繭』の世話をしているんだろう。」

 「結構、頭いいんだね、オニさん」萌が言った。

 「明日もこの恰好で来るの?」菫がうんざりした声で言った。

 「夕方の運動だと思えばいいじゃん」優が言った。

 「オニさんこちら、手の鳴る方へ」萌が歌うように言った。


 「何か引っかかっているんだ」自転車を押しながら、優が言った。「何か見落としている気がする。」

 「トンビにも見えないの?」菫が言った。

 「私には何も見えないよ」トンビが言った。「私は優に『技』を与えるだけ。見るのは優自身。」

 「イブキが言ったよね」優が言った。「ナギ婆の言葉。『裂け目』を閉じる方法を見つけろ、って。」

 「言われたけど」イブキが言った。「方法は知らないって。」

 「丸投げですか」萌が言った。

 「私たちで見つけるしかない」優が言った。言いながら、左手で、ほっぺたを、ぷにぷにとつねる。考え事をする時の優の癖だ。「ずっと考えているんだけど、どうしても見えない。頭の中で、なんで見えないんだって、誰かに言われている気がする。こんなにはっきり、目の前にあるのに、なんでお前には見えないんだって。」

 「逆に言えばさ、答えが目の前にあるんだよね」萌が言った。「何か方法があるってことだね?『裂け目』をふさぐ方法が?」

 「まだよく分からないんだけど」ほっぺたをつねりながら、優が言った。「ナギ婆が言ってたんだよね。大昔、『裂け目』を通って、こっちの世界に来た、『狐』と『鬼』がいたって。だったら、こちらの世界で、きっとその二つの生き物が戦ったはずだよね。その記録とか、残ってないかな。」

 「そんな派手な事件があったなら、新聞記事とかにもなってるはずだよね」菫が言った。

 「図書館に行って、調べてみようかな」優が呟いた。


 禊川を渡る阿木橋のたもとで、萌と優にさよならを言って、菫は自転車にまたがった。あんまり遅くなると、ママが心配する。あんなことがあった後だし、今日の外出にだって、いい顔はしなかった。萌と優に会う、と言ったら、それなりに安心した様子だったけど。

 「お前たち3人って、不思議と無敵な感じがするんだよな」と、パパが言ったことがある。「1人だけだと、どうも心配なんだけど。」

 なんとなく分かる気もした。あの病院で、菫が萌と優に出会ったのは、偶然じゃない、と、パパが言ったことがある。あれは、光姉ちゃんが引き合わせてくれたんだ。自分がいなくなった後でも、菫が一人にならないように、最強の友達を見つけてくれたんだ。

 でもな、と、パパは言った。自分たちの力を過信するな。菫たちは強いかもしれないけど、世の中には、人の力ではどうやっても勝てないものがある。そういうものと正面から戦っても、無駄なことだ。

 そういう相手と戦わなきゃいけなくなったら、どうすりゃいいの?と菫が聞くと、パパは笑って言った。「なんとかして味方につけるか、逃げるか、あとは、相手を上手にだますかだな。」


 「菫!」

 イブキの叫び声が頭の中に響く前に、身体が動いていた。走る自転車のサドルを踏み台にして、跳んだ。水に濡れた湿った巨大な手が、自転車を橋の欄干まで吹き飛ばして、ぺしゃんこに叩き潰した。

 空中で回転し、欄干に着地しながら、「声」を3発放った。橋の道路に2つ穴が開き、一発は川に当たって巨大な水柱を上げた。敵にダメージを与えた手ごたえはない。だが、敵も簡単には近づけなくなったはずだ。欄干の上に立って、あたりを見渡す。どこにいる?

 川沿いの街灯の明かりが水面に映っている。夕暮れ時とはいえ、街中は明るい。あの巨大な化け物が、身を隠すような場所はないはずだ。どこに消えた?

 「橋の裏だ!」イブキが叫ぶのと同時に、欄干から跳んだ。菫が立っていた欄干を、橋の裏から延びてきた青光りする腕が一閃し、コンクリートの破片が飛び散る。その腕に向かって、「声」を放ったが、「鬼」が避ける方が早かった。欄干の頭がすっぱり切り取られて、川面に落ちていく。反対側の欄干を踏み台に、そのまま、川の中州に向かって跳ぶ。視界の端で、「鬼」が橋から飛び降りるのが見えた。激しい水しぶきが上がった。中州に立って、振り返る。

 橋を背にして、「鬼」が立っていた。太ももあたりまで川の流れが洗っている。こいつの全身を見るのは初めてだな、と、菫は冷めた頭で考えた。でかいな。でかすぎる。

 「繁殖期で巨大化している」イブキが張りつめた声で言った。「『ご聖所』にいた他の『鬼』たちの倍はある。」

 血走った片目で、じっと菫を見据えている。戦士の目だ。菫の体中の血が熱くなった。お互いに必殺の一撃の間合いを測っている。次の瞬間、どちらかの命が、この世から消えてなくなる。

 「鬼」の上半身の筋肉が、ぐっと緊張した。跳躍の気配を感じると同時に、裂帛の気合いで、「声」を、「鬼」の首筋に向かって放った。勝った、と思った。一瞬、こちらの間合いが早かった、と見えた。

 「鬼」は、跳ばなかった。「声」を避けようともしなかった。ただ、満身の力で、両腕を水面にたたきつけた。「鬼」の前で水が爆発したように見えた。分厚い水しぶきのカーテンが、菫の「声」の波動を呑み込むのが見えた。水の盾で、「声」が完璧に封じられた。やられた、と思った瞬間、水の壁をぶち破って、巨大な青い拳が襲ってきた。負けた。こいつ、この短期間に、「声」への防御策を考えていたんだ。闘う場所に川を選んだのも、このためだったのか。こいつはただの獣じゃない。知恵も経験もはるかにイブキを凌駕している。本物の戦士だ。

 全てがスローモーションのようにくっきり見えた。視界を覆い尽くすような巨大な拳。片目を潰された怒りが、指の一つ一つの筋肉の隅々にまでみなぎっている。この拳に殴られたら、私なんかボロ雑巾みたいにぐしゃぐしゃになるだろうな。パパ、こいつを味方にすることなんか不可能なんだから、私は逃げるべきだったのかな。他に何か方法があったのかな。

 横殴りの衝撃がきて、気が遠くなった。ふわり、と体が高く高く飛んで、「鬼」の拳が、自分の足元をかすめていくのが見えた。周りに水しぶきがあがって、自分が川に着地した、と分かった。

 「オニさんこちら、手の鳴る方へ、ってね!」橋の上から、萌の雄叫びがした。

 「菫、大丈夫?」耳元で優の声がする。それに答えるより先に、すかさず立ち上がって、「声」を放った。「鬼」がかろうじてその波動を避けた。橋の上の萌の手元から、何か光るものが、きら、きら、と飛んで、「鬼」の腕から血しぶきがあがった。「鬼」が吠える。再度「声」を放ったが、ぎりぎりで躱された。低いうなり声をあげて、「鬼」が跳躍した。そのまま、川の上流に向かって、姿を消した。

 「菫、かっこよかった!」萌が橋から跳んできて、菫に抱きついた。「正義のヒーローの決闘シーンみたいだった!」

 「あんたたち、私をおとりにしたね?」菫は言った。

 「あ、ばれた?」萌が舌を出した。

 「ごめん」優が言った。「私たちをつけてくる気配が見えた。すぐに襲ってこなかったから、一人ずつ襲うつもりだと分かった。」

 「強い相手と戦うには、逃げるか、だますか」菫は呟いた。「だからって、私までだますことはないでしょうが。」

 「菫は正直だから、あいつにばれると思って」優が言った。

 「正しいな」少し考えて、菫は言った。「あいつは隙がない。多分気づかれてただろう。」

 「あいつ、強いね」萌が目をキラキラさせながら言った。

 「菫に集中してた癖に、私たちの攻撃を間一髪で躱した。手練れだ。」マドカが言った。

 「そういえば、何を投げたの?」菫が言った。

 「菫の自転車のスポーク」萌が言った。「首筋の急所狙ったんだけど。」

 「あ、自転車壊れちゃったんだ」菫が言った。「ママになんて言おう。」

 「盗まれた、と言えばいい」優が言った。「送っていってあげるよ。」

 「菫、自転車乗るの下手なんだから」萌が言った。「運転しやすい新しいの買ってもらえばいいじゃん。」

 「強い相手は、味方にするか、だますか」イブキが呟いた。「菫のママも強いからなぁ。」




第三節:孵化


 武志はまどろんでいた。

 腹の傷の痛みももう薄れている。「鬼」の尾の先に刺された時の恐怖も、なんだか夢の中の出来事のようで、ぼんやりとしている。


 「鬼」。


 確かにあいつは、「鬼」だ。子供の頃の絵本で見た姿のまま。いや、絵本の「鬼」はどこか愛嬌があったけど、こいつにはそんなユーモラスな雰囲気は皆無だ。ただただ恐ろしい、人を食う化け物。和樹の身体を一瞬でねじ切り、光男を一呑みにした、人食い鬼。


 武志の横には、以前、「健介」だったものが眠っているはずだ。多分、今の武志と同じ姿で。ここがどこなのか、さっぱり分からない。二人以外にも、何人かの人が、近くに横たわっているはずだ。そういえば、健介は、気を失ったまま、尾に刺されたから、あの時の絶望を味わうことはなかったんだな。俺は間が悪かった。「鬼」が健介に「卵」を産み付けている時に、目が覚めてしまったから。


 武志が意識を取り戻した時、「鬼」がちょうど、健介の上にのしかかっているところだった。「鬼」の下半身から延びた巨大な尾が、健介の腹に突き刺さっていた。尾が脈動しているのが分かった。何かが、「鬼」の身体から、健介の身体の中に入り込んでいく。

 「卵」だ、と直感した。昔、昆虫図鑑で見たことがある、蝶の幼虫に卵を産み付ける蜂の姿にそっくりだ。

 逃げなきゃ、と、身じろぎした途端、木の幹ほどもある腕が伸びてきて、がっちり身体を押さえこまれた。息もできない。声も出ない。首をひねると、健介の向こうに、何か白い細長い塊が見えた。1つ、2つ。3つ以上。昔、何かの映画で見たことがある。巨大な化け物クモの毒針に刺されて意識を失った主人公が、クモの糸にぐるぐる巻きにされて、エジプトのミイラのような白い塊になってしまう。あの姿。巨大な「繭」。

 健介に突き刺さっていた「鬼」の尾が引き抜かれた。「鬼」が満足気な唸り声を上げながら、今度は武志の方に身体を向けてくる。恐怖でかすみそうになる武志の視野の端で、健介の腹の傷から、白い糸のようなものが噴き出してきた。見る間に、健介の身体を覆っていく。

 やめてくれ、と叫ぼうとした途端、武志の腹に、「鬼」の尾が突き刺さった。激痛のあとに、熱い塊が腹の中に流れ込んでくる感覚が続いて、武志は絶叫した・・・


 今、武志の心は穏やかだ。静かな、緩慢な死が近づいているのを、ただぼんやりと感じている。そこに恐怖はない。自分の身体が、全く別のものに浸食されて、身体の中にいる武志の存在がどんどん小さくなっていく。自分の身体の中で、熱い別のモノが、じわじわと成長しているのが分かる。自分の身体自体が、全く別の形に作りかえられていくのが分かる。身体がむくむくと大きくなっていく感覚が分かる。

 俺は「鬼」になるのか。武志は思った。いや、俺の身体が、「鬼」の身体になるのだ。「鬼」が俺の身体を全て乗っ取った時、俺は死ぬ。

 そして、俺の顔をした「鬼」が、他の人を襲い、再び卵を産む。

 「鬼」は殖え続けるだろう。

 この世の全ての人を、「鬼」に変えるまで。

 武志の隣で、「健介」だったものがうごめく気配がした。

 孵化が近いのだ。


 「『鬼』は人に卵を産み付け、人を身体ごと乗っ取ってしまう。元の人の外見を少し留めていても、それは人じゃない。『鬼』そのものだ」イブキが言った。「『狐』は人と共生する生き方を選んだ。生き方はまるで違うけど、人に憑依するのは、『鬼』も『狐』も同じだ。」

 「昔は同じ生き物だったのかもしれない」優が言った。「『鬼』が繁殖するには、『狐』が必要なんでしょう?同じ寄生生物だったものが、進化の過程で、枝分かれしたのかも。」

 「でも、こちらの世界では、『鬼』は人を食べただけで、繁殖できるようになった」マドカが言った。

 「こちらの世界にきて、『鬼』のパワーが増しているのを感じる」イブキが言った。「例え繁殖期とはいえ、あそこまで巨大化した『鬼』を見たことはなかった。世界の仕組みが違うんだろうか。」

 「こちらの世界の方が、『鬼』が生きやすい環境なのかも」優が言った。

 「『狐』の力に変化はないの?」菫が言った。

 「あまり感じない」トンビが言った。「私の力も、まだまだ弱いし。」

 「それって不公平じゃん」萌が口をとがらせた。「『鬼』ばっかり強くなってさ。」

 「でも、あっちは1頭、こちらは3人だ」菫が言った。

 「6人だよ」萌が言った。「『狐』が三匹、『人』が三人。」

 「それも、『鬼』が子を増やしたら変わる」トンビが呟いた。

 「あそこの家だよ」菫が言った。「犬塚町3丁目、4番地。加藤さん。」


 「わざわざ来てくれてありがとう」応対してくれたのは、疲れた表情の若者だった。加藤雄一郎、と名乗った。

 「美香さんとは同じ高校っていうだけで、そんなに親しいわけじゃないんです」萌がはきはき喋った。変に、「親友でした」なんて、見え透いた嘘をつく必要はない。話せる限りの本当のことを言う。隠さないといけない部分だけ、上手に隠す。

 「私たちも、あいつに襲われて、なんとか命拾いしたんです。でも美香さんはさらわれたって聞いて」萌が続けた。「あいつがどんなに恐ろしいやつか、私たちが一番よく知ってる。被害をこれ以上拡げたくないんです。なんとか、あいつがどこに隠れているのか、探し出したい。手がかりが欲しいんです。」

 「美香さんがさらわれたのを、お兄さんが目撃されたって聞いて」菫が言った。

 「目撃したって言っても」雄一郎が言った。「一瞬のことだったから。」

 「川の中から現れたんですよね」優が言った。

 雄一郎が青ざめた。まだショックから立ち直っていないか、と、菫は思った。

 おとり作戦が失敗して、こちらから、鬼の隠れ家を探索するしかない、となった時、目撃者に話を聞こう、と優が言いだした。加藤美香は、最初の被害者だから、「鬼」の隠れ家から一番近い場所で襲撃されたかもしれない。

 被害者が同じ高校の女生徒だ、というのも、話を聞くのに好都合だ。でも、この青年の様子では、何か聞き取るといっても無理かも。

 と、菫の横に座っていた萌が立ち上がった。雄一郎の側に座って、肘のあたりに触れた。雄一郎の身体から、緊張感が消えていくのが分かった。

 「大変でしたね」萌が言った。

 「いや」雄一郎が言った。「俺より、両親が参ってて。」

 「そうでしょうね」萌が言った。

 「あいつは、川の上流から来た。それは間違いないと思う。」雄一郎が言った。

 「美香さんは赤い服を着ていた。あいつはそれに反応したんです」優が言った。

 「赤い服?」雄一郎が言った。

 「他の被害者にも共通しているんです。あいつは赤に異常に反応する。そして、犬にも弱い。」菫が言った。

 「それで、俺じゃなくて、美香を」雄一郎が呟くように言った。「あの時、美香にコロンを任せておけば。」

 「犬の名前、コロンっていうんですか?」萌が言った。「可愛い名前ですね。」

 「久しぶりの帰省だったから、僕が連れて行くって言ったんです」雄一郎は手で顔を覆った。

 「お兄さんのせいじゃない」萌が言った。

 「俺が守ってやれなかったから」雄一郎は絞り出すように言った。

 「お兄さんは悪くないから」萌が言った。ほとんど叱りつけるような、でも優しい声。

 「何か、他に、覚えていることはないですか?」菫が言った。「あいつが逃げた方向とか、他に、あいつの動きで、不自然なことはなかったか。」

 「あいつは」雄一郎が顔を上げた。「上を見て、歯をむき出した。」

 「上?」優が言った。

 「美香を捕まえて、僕に向かって来ようとして、まず、上を見あげて、歯をむいた。そして、吠え続けているコロンを見て、さらに歯をむき出して、うなった。」

 「上を見た」菫が言った。「何を見たんだろう。」

 「何にせよ、何か嫌なものを見つけたんだと思う」雄一郎が言った。

 「他には何か?」優が言った時、部屋の外から悲鳴が聞こえた。女の人の悲鳴。そして、激しい犬の鳴き声。

 「母さん」雄一郎が立ち上がって、部屋の外に飛び出した。三人は慌てて、後を追った。


 台所に、母親らしい女性が倒れていて、雄一郎が彼女を助け起こしていた。その脇で、茶色いミニチュアダックスフンドが、狂ったように吠えながらまとわりついてくる。

 「母さん」雄一郎が言うと、母親は、窓の外を指差した。「今、美香が。」

 「美香が?」

 雄一郎と三人が窓の外を一斉に見た。

 「見えた。土手だ」優が走り出した。


 玄関から外に飛び出したところで、三人は凝固した。

 玄関の目の前に、禊川の土手があって、その上に、それはいた。

 「美香?」三人の後ろで、雄一郎が呟いた。「いや、違う。美香じゃない。」

 「もう人ですらない」イブキが言った。「『鬼』の幼体だ。孵化が始まったんだ。」

 それは確かに、若い女性の面立ちを少し残していた。しかし、それはただの面影に過ぎなかった。親の「鬼」よりもかなり小さいが、それでも身長は2メートル以上あるだろう。盛り上がった筋肉と、赤黒い鉄を思わせる肌。長く伸びた尾、そして何より、血に飢えて燃える目。

 その目が、土手の上にあるものを見上げた。歯を剥いて、ぐるるる、と唸り声を上げた。

 「声」を放とうとした菫を、萌が制した。後ろに雄一郎がいる。

 元「美香」という少女だったものは、さらに唸り声をあげて、禊川の上流へ向かって跳んだ。

 そしてそれきり、見えなくなった。




第四節:解明


 「あいつはどうして、加藤さんの家に現れたんだろう」菫が言った。

 「『鬼』が乗っ取るのは『人』の身体だけじゃない」イブキが言った。「『人』の記憶も吸収する。美香さんの記憶をたどって、偵察に来たんだろう。」

 「何のために?」萌が言った。

 「次の襲撃のために」マドカが言った。「餌にする人を狩るために。」

 「あそこで殺した方がよかったんだろうか」菫が呟いた。

 「雄一郎さんがいたんだよ」萌が言った。「そんな残酷なこと、できないでしょう。」

 「あいつが何を見上げたのか分かった」優が、図書館のPCのキーボードをたたきながら言った。「電線だよ。」

 「電線?」萌が聞き返す。

 「土手沿いに電柱が並んでて、電線が張ってあるでしょう?あれを見上げたんだよ」優が言った。

 「それであいつ、川沿いに移動するのか」菫が言った。「川の上には電線はないからね。」

 「絶対に近づけない、というわけじゃないと思う。嫌いだ、というだけで」優が言った。「高圧電線が通っている橋の上で菫を襲ったりしているし。ただ、電線が通っている近くにわざわざ隠れ家は選ばない。」

 「それが、隠れ家を見つける手掛かりになるの?」萌が聞いた。

 「高圧電線そのもの、というより、電線が出している電磁波が嫌いなんじゃないか、と思うんだ」優が、PCのキーボードをたたきながら言う。「サッカーチームの男の子が一人、襲われなかったのは、あの子が一人だけ黒いユニフォームを着ていたのと、あと、自動販売機の近くにいたからじゃないかな。自動販売機が出している電磁波に近寄りたくなかったんだ。それなら、携帯電話の基地局とか、電波を出すもの全般が嫌いなんじゃないかと思う。そういう電磁波が届かない場所、となると、山の中でも結構場所が限られてくる。」

 優が操っているPCの画面上に、百坂山を中心とした地図が表示されている。そこに、別の地図が重なった。赤や黄色や緑で色分けされた地図。

 「何これ?」菫が言った。

 「携帯電話の電波強度を示している地図だよ。携帯会社のサイトに出てる。これに、電線鉄塔の位置を重ねてやると」優がまた別の地図を出してきて、地図が重なる。

 「ここに電波の空白地帯がある」優が、地図のあるポイントを指差した。

 「ずいぶん山奥だねぇ」萌がため息をついた。「何着て行けばいいかな。」

 「地名とか、目印になるものとかあるの?」菫が言った。

 「この場所にも名前がついているみたい」優が言った。「鬼のまな板。」

 菫と萌が、顔を見合わせた。

 「まな板みたいな形の大きな岩があるので、この地名がついたって」萌が携帯サイトで調べながら言った。「偶然かな?」

 「これだけじゃない」優が言った。「鬼のまな板、鬼の遠見岩、鬼舞台・・・」

 「知らなかった」菫が言った。「百坂山の近くに、こんな地名があるなんて。」

 「地名」優が言った。声の色が変わっている。「地名だ。なんでそれに気が付かなかったの。」

 優がPCの画面から振り向いて、菫を見た。「前に話したよね。昔、『裂け目』を通って、『狐』と『鬼』が、こちらの世界に来たのなら、今回と同じような事件があったはずだって。何か、記録が残ってないかなって。」

 「新聞記事とか」菫が言った。

 「新聞があるような時代の話じゃないんだ。もっともっと古い時代の話だったんだ」優が言った。声が興奮して、上ずり始めている。「文字もなかったような古い時代の出来事。ただ、人々の記憶と、口伝えだけで残っていく。場所に結びついた記憶は、地名になって残る。口伝えの記録は、昔話や、神話に変わっていく。『鬼』が出てくる昔話と言えば?」優が萌を見た。

 「桃太郎?」萌が言った。

 「そう、桃太郎」優が頷いた。「そしてこの山の名前は?」

 「百坂山」菫が茫然と答えた。「でも、坂が多い山だからついた名前だって、聞いたことあるよ。」

 「昔の出来事の記憶が薄れて、言葉だけが残ると、後の時代の人が、別の意味や別の漢字をあてたりするんだよ」優が言いながら、キーボードをたたいた。画面に、丸い方位板が現れる。漢字が書かれた、古い方位板。

 「鬼は、鬼門と言われる方向から現れる。丑寅の方向、つまり東北。鬼のまな板、鬼の遠見岩、鬼舞台、この地名はみんな、百坂山の東北に固まっている。偶然じゃない、昔からこの近辺が、鬼にとって居心地のいい、巣を作りやすい場所だったんだ。」

 「川の上流から桃が流れてきて、桃太郎が生まれた」菫が呟くように言った。「川から現れた『狐』が、私たちに憑依して、『鬼』と戦う力を手に入れた。」

 「桃太郎は『狐憑き』の戦士だった」優が言った。「そして、桃太郎の家来は?」

 「犬と、猿と、キジ」萌が言った。

 「犬塚町。猿久保。鳥居町」優が言った。「この地名は、裏鬼門、つまり東北の反対側の、西南側に、全て位置している。」

 萌の携帯が鳴った。図書館にいた人の視線が集まって、萌が慌てて外に飛び出していく。

 「この土地全体が、桃太郎伝説の舞台だったっていうの?」菫が言った。

 「偶然じゃないでしょう」優が言った。そして、ほっぺたを、猛烈な勢いで、ぷにぷにつねりだした。「この三つの地名に、何か意味がある。何か。」

 萌が戻ってきた。顔色が変わっている。「美香がまた現れた。」

 「こんな時間に?」菫が言った。もう20時を過ぎている。「『鬼』は夕方にしか出ないんじゃないの?」

 「夜、親は、『繭』を守っている」イブキが言った。「でも、幼体は、勝手に動くのかも。」

 「動くとしたら、餌を探してるんだ」優が言った。

 「急いで」萌が切迫した声で言った。「雄一郎さんが、後を追ったみたい。下手をすると、雄一郎さんが危ない。」


 美香。

 大事な妹。子供の頃から、ずっと俺が守っていた、たった一人の妹。

 守れなかった。

 あいつは、美香の姿を奪った、化け物だ。

 俺の手で、仇を討つ。

 俺が殺す。


 パトカーのサイレンが近づいてきた時に、また、あいつが現れた、と直感した。萌ちゃんに電話を入れてすぐ、コロンに声をかけて、買ったばかりの武器を詰め込んだカバンをひっかけて、家を飛び出した。後ろから、母さんが止める声がしたけど、振り返らなかった。

 サイレンの音に重なって、パン、パン、と、乾いた音がした。銃声だ、と気づいて、血の気が引いた。

 コロンが、リードがちぎれそうな勢いで走る。コロンに引きずられるようにして、走った。

 禊川の土手を駆けのぼると、川岸で、数人の警察官が、銃を構えているのが見えた。その先に、あいつがいた。


 また、パン、パン、と音がして、警察官の手元で花火のように光が散った。土手の側に、数人の野次馬が駆け上がってくるのが見えた。

 あいつが、吠えた。コロンが、ものすごい勢いで吠え返し、土手の後ろの住宅街から、一斉に、無数の犬の吠え声が沸き起こった。

 あいつが、跳んだ。警察官の一人が、突然、だらん、と手をおろした、と思ったら、首がなかった。首から血を噴出させながら、棒のように倒れた。

 他の警察官が、銃を乱射しながら後退する。銃がまるで役に立っていない。鞄から、震える手で、スタンガンと、発煙筒を出した。あいつがまた跳躍して、警察官が一人、ぐしゃ、という音と共に跳ね飛ばされた。

 発煙筒に火をつけて、振った。あいつが、こっちに気づいた。

 じりっと、こちらににじり寄ってくる。

 俺の目の前に、水たまりがある。

 水たまりとの距離を、測りながら、手にしたスタンガンのスイッチを入れた。

 あいつが、跳躍した。

 俺の目の前の水たまりに着地するタイミングで、スタンガンを水たまりに放り込んだ。

 着地と同時に、あいつは絶叫した。こちらに顔を向けた。その顔は、美香の顔だった。

 美香が、吠えていた。獣になって、吠えていた。

 気が付いたら、俺も叫んでいた。何か意味のないことを叫んでいた。

 頬に熱いものが流れた。

 涙だった。


 あいつは硬直したまま、どう、と倒れた。

 スタンガンでは感電するだけだ。とどめを刺さないと。

 鞄から、買ったばかりのサバイバルナイフを取り出そうと、身をかがめた。


 「だめ!」女の子の声がした。

 途端に、あいつが跳ね上がった。

 一回り膨れ上がったような巨大な肉の塊が、近寄ってきた警察官たちをなぎ倒して、俺に向かってきた。

 怒り狂った表情の美香が、俺に向かって突進してきた。


 殺して。美香の声がした。

 お兄ちゃん。お願い。私をちゃんと殺して。


 サバイバルナイフを無茶苦茶に振り回しながら、必死に横に跳んだ。

 ナイフにかすかな手ごたえがあった、と思ったが、すぐに跳ね飛ばされた。

 あいつが、こちらを振り返って、とどめの跳躍のために身構えるのが見えた。

 茶色い塊が、俺の側から跳んで、あいつの顔に跳びかかった。

 あいつは悲鳴を上げて、その塊を振り払った。

 コロンだった。

 地面にたたきつけられて、キャン、と短い悲鳴を上げて、そのまま動かなくなった。


 あいつの顔面に、血が流れた。耳を噛みきられたらしい。

 よろめきながら、それでも殺意をみなぎらせながら、俺に向かって近づいてくる。

 肩の筋肉がぐっと盛り上がって、俺の頭を叩き潰そうと拳を振り上げた。


 その瞬間、キン、と、耳の奥が痛くなるような音がした。

 あいつの動きが止まった。

 あいつの肩から斜めに、血の線がすうっと浮かんだ、と思ったら、その線に沿って、上半身だけがこちらに向かって、ゆっくり倒れ込んできた。

 熱い、悪臭のする血しぶきが、俺の上に降り注いだ。

 血のあとに、切断面から、白い靄のような、糸の塊のようなものが、流れ出してきた。

 空気に触れると縮こまり、急速にしぼみ、カサカサに乾いて砕けていく。

 それと同時に、切断された身体が、小さくしぼんでいく。

 赤黒い鉄のようだった肌が、人の肌の色に戻り、盛り上がっていた筋肉が、小さな少女の身体のそれに戻っていく。


 切断された上半身が、俺の前に横たわっていた。

 人間の上半身が。

 美香の上半身が。

 目をかっと開けて、茫然と、自分に何が起こったのか、全く理解できていない表情を、俺の方に向けていた。


 その顔に触れた。

 温かかった。

 震えながら、その開いた目を、閉じた。


 さよなら。美香。

 俺はそのまま、気を失った。



次回は、「第三章~遡及~」。「裂け目」をふさぎ、「釣り合い」を取り戻すために、三人娘が見つけ出した過去の鍵とは?優(YUI-METAL)の「眼」の力を借りて、三人の「技」が、新たな進化を遂げます。お楽しみに。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ