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プロローグ~殺戮~   第一章~憑依~ 第一節:滝壺 第二節:交感 第三節:仲間 第四節:焦燥

BABYMETALのお三方にインスパイアされて3年ほど前に書いた伝奇アクション小説です。そういう意味では若干パロディーっぽくもあるのですが、割と本気で書いていて、BABYMETALのお三方とは全く関係のないお話になりました。どちらかというと、諸星大二郎さんの世界にアクションとアイドルの要素をがっつり加えてみた感じです。BABYMETALのことを知らなくても楽しめますが、もし知っていればより楽しめる、そんな仕掛けも加えてあります。物語の中では、YUIさんも大活躍します。楽しんでいただければ幸いです。


~過去からの声~


 この声を聞く者よ。

 再び開いた「裂け目」を越えてきた、我が同族よ。

 「狐」よ。

 我らの同族にのみ届く声を、ここに封じ込めよう。

 我らの「技」と共に、我らの思いを封じ込めよう。


 我らが、この世界の人々と力を合わせて、「鬼」を倒し、「裂け目」を塞いだ時。

 我らは、自分たちの「技」を、「人」から切り離すことに決めた。

 そして、「種子」にして、「物」に宿らせることに決めた。

 こちらの「人」の呪術の力を借りて。

 時を超えて、再び「裂け目」が開いた時、「鬼」がこの世に現れた時、

 「人」に救いをもたらすように。


 人を守る「力」を。

 人を救う「慈悲」を。

 人を導く「智恵」を。


 この声を聞く者よ。

 お前がこの声を聞く時。

 すなわち、再び「釣り合い」が崩れ、「裂け目」が開き、

 試練の時が、「鬼」が、「人」を、この世を滅ぼそうとせんとするその時、

 お前たちの「技」と、我らの「技」は一つとなって、

 「人」を守り、救い、導く力となろう。


 願うらくは、この声を聞く者が、再び現れることのないことを。

 「裂け目」が開くことなく、あちらの世の「釣り合い」が保たれ、

 こちらの世の平穏が保たれんことを。


 

プロローグ~殺戮~


 近い。

 「ご聖所」が。

 イブキがそれを感じるのと、スーラの総毛が逆立つのが同時だった。

 しまった。

 「ご聖所」の気配に気を取られて、殺気を感知するのが遅れた。

 スーラよりも早く察知しなければいけなかったのに。

 それがイブキの役目なのに。

「右!」

 イブキが叫ぶのと、スーラが右に飛ぶのとに、一瞬だけ間があった。

 その間が、スーラの命取りになった。

 巨大な生暖かい烈風が、スーラの頭部を一撃で吹き飛ばした。

 首から血潮を噴出させながら、スーラの身体が跳んだ。

 「鬼」の足元に、スーラの頭部が転がる。

 その髪をわしづかみにして、「鬼」が、スーラの首を持ち上げた。

 引きちぎられた首から滴る血を、ずるずると啜る音がする。

 中に潜むイブキまでしゃぶりつくそうと、頭部ごと呑み込むような勢いで血を啜る。

 ずるるる、ずずずる、ずる、ずずるる。


 イブキは息を潜めていた。

 スーラの頭部が吹き飛ぶ一瞬前に、胴体の方に逃げた。

 視界も何もなくなった肉の塊の中で、気配を消した。

 スーラの身体がヒクヒク痙攣し、急速に冷えていくのが分かる。

 このまま自分も、スーラの肉の中で、暗闇の中で死んでいくのだろう。

 スーラを守れなかった。

 「宿り主」を守るのが、「狐」の使命なのに。

 身体を通して、周囲の気配が、かすかに感じ取れる。

 「鬼」がスーラの首をむさぼる音。

 草をなぶる風の音。

 遠くで村を燃やす炎の音。

 はるか遠くで、小さく響く、叫び声、泣き声。

 失われていく命の音。


 何人「鬼」に食われただろう。

 何人の「宿り主」が。

 何人の「人」が。

 そして、何匹の「狐」が。

 生きながら「鬼」に食われるくらいなら、こうやって、冷たいスーラの骸の中で死んでいく方が、いくぶんましだろうか。

 スーラもさみしくないだろうか。

 スーラ。

 「宿り」の時、イブキを見つめた、あの小さな明るい瞳。

 イブキの「技」を、おっかなびっくり、それでも誇らしげに使っていた、あの時の微笑。

 もう会えない。

 スーラにも、スーラの両親にも、あの村のたくさんの仲間にも、「人」たちにも。

 風の音。風になびく草の音。

 炎の音。死の音。狂った力が全てを奪っていく音。

 空の音。星の音。月の音。土の音。


「生きろ」


 消えていく意識の片隅に、声が鳴った。はっとした。


「生きろ。イブキ」


 「鬼」が突然咆哮した。首の中に「狐」を見いだせなかった、怒りに満ちた怒号。足音が地面を揺らす。近づいてくる。あたりの草を力任せになぎ倒す。スーラの身体を求めて、血の跡を追って、足音が近づく。

 遠くで、別の咆哮が響いた。足音が止まった。不満げな唸り声がする。「鬼」の燃えるような身体の熱まで感じる。しかし、足音はそれ以上近づかなかった。ずるり、ずるり、と足音が遠ざかっていく。


「こっちにおいで。」


 密やかな声がした。声のする方向に、必死に意識を飛ばした。スーラの首から、ずる、と這い出した。外気にあたると長くはもたない。気配が近づいた。気配だけを頼りに身を起こすと、細い手が触れるのを感じた。そのまま、肌からもぐりこんだ。


「『ご聖所』に行くよ。」


 また声がした。さっきの声じゃなく、「宿り主」の中にいた先客の声だ。

 「マドカか」イブキは言った。自分の声の弱々しさが、情けなかった。

 「そうだ」マドカが言った。「モイナはまだ小さい。二匹の『狐』を抱えて長くは動けない。『ご聖所』に行って、イブキが宿る『人』を見つけよう」

 「見つかるといいけど」イブキは呟いた。


 モイナの視界はマドカが使っているので、イブキは暗闇の中にいる。でも、さっきまで死が迫りつつあったスーラの身体より、ずっと居心地はいい。温かく、血が通っている。

 「マドカ、お腹が痛い」モイナが呟いた。

 「少し我慢して」マドカが言った。イブキを腹に抱えて動くのがつらいのだろう。モイナの足取りが重い。

 草をかき分ける音が止んで、モイナの激しい息遣いだけが、イブキに聞こえてきた。「ご聖所」に続く山道を登っている。もう少しだ。


 「何人たどりついたろう」イブキが言った。

 「『鬼』の数が多すぎた」マドカが言った。「囲みの内側にいた『狐憑き』は、全部食われたろう。」

 「『鬼』は狂ったのか?」イブキは呟いた。「そんなたくさんの『狐』を一遍に食らってどうする?」

 「分からない」マドカが言った。「色んな釣り合いが崩れたのかも。」

 「釣り合い?」イブキが言った。

 「ナギ婆が言っていた」マドカが言った。「このところ、地の力が歪んでいると。釣り合いが崩れて、『鬼』が苛立っていると。」

 「見えたよ」モイナが苦しそうに言った。「『ご聖所』だ。」


 イブキは暗闇の中で記憶を呼び起こした。山を少し上ると、山肌に細い亀裂があって、その奥に広い洞窟がある。そこが、「ご聖所」だ。

 「モイナ、茂みに隠れろ」マドカが押し殺した声で言った。「火が見える。先回りされた。」

 マドカの言っている意味が分かって、イブキは身震いした。「ご聖所」の中で火が燃えている。「鬼」から隠れるつもりなら、村人が火を焚くはずがない。

 「『鬼』は『ご聖所』が嫌いだったんじゃないの?」モイナが呟いた。モイナの疑問は当然だ。「ご聖所」のある山の周囲に張られた結界を嫌って、「鬼」は近づかない。村が「鬼」に襲撃されたら、生き残った村人は「ご聖所」に隠れる。そうすれば助かる。そういう決まりだった。

 「結界が弱まっているのか」マドカが言った。「村を襲った連中とは別の部隊だ。それほど大人数じゃない。」

 モイナが息をのむ気配がした。「鬼」の唸り声がする。満足気な唸り声。人の絶望と恐怖を前にして、血をたぎらせている獣の声。「鬼」が、村人を引き立てて、広場に出てきた気配。一頭ではない。少なくとも、四頭か五頭。

 「六頭だ」マドカが言った。「村の連中は20人、いや、もう少しいるか。」

 「『ご聖所』に向かったのは、100人近かったはずだ」モイナが、震える声で言った。「みんなどうなった?」

 「『狐憑き』がいない」マドカが言った。「『人』では『鬼』と戦えない。」

 「みんな縛られてる」モイナが言った。

 「女子供と年寄りばかりだ」マドカが言った。「島に連れて行って、餌にするつもりなんだよ。」

 「『狐憑き』の気配がするよ」イブキが言った。

 「うん」マドカが言った。「赤ん坊だ。トンビだよ。」

 モイナの肌を通しても分かる。小さいけれど、「狐」の気配。今年生まれたばかりの赤ん坊に憑依したばかりのトンビ。小さすぎて、「鬼」には気づかれていないだろう。しかし、

 「トンビじゃ無理だな」イブキが言った。「私を飛ばせるか。」

 「本気か?」マドカが言った。「相手は六頭だぞ。」

 「さっき、声がした」イブキは言った。「ハガネの声だ。『生きろ』と。ハガネなら、今でもそう言う。みんなに向かって。『生きろ』と。」

 マドカとモイナが沈黙した。

 「私を飛ばせ」イブキが言った。「二人で援護を。」


 六頭の「鬼」が状況を把握できないうちに、皆殺しにしないといけない。そのための方法を必死に考えた。村人の一人に憑依する。その人の命は、間違いなく犠牲になる。一瞬でその状況を理解してくれる人。自分を犠牲にして他人を救うことを厭わない人。そういう人ほど、村にとって大事な人だ。

 ご聖所の中から引き出された村人たちの名前を、マドカが一人一人教えてくれた。その中の一人の名を、イブキはモイナに告げた。モイナが唇をかみしめた。

 「鬼」は村人たちを囲んで動かない。本隊に出した伝令が戻ってくるのを待っているのだろう。「鬼」の襲撃は周到で計画的だ。「ご聖所」の位置も、事前に把握されていたのかもしれない、とイブキは思った。

 モイナが、広場全体が見下ろせる木を選んで、上っていく。二匹の「狐」を体に抱え込んで、脂汗を流しながら、必死に上っていく。なるべくモイナの重荷にならないように、腹の下の方に身を縮めた。

 モイナが枝に身をひそめると、マドカが、視覚を譲ってくれた。「鬼」が燃やす松明の炎が一瞬、イブキの視覚を赤く染めた。恐怖に固まっている「人」の群れ。村人は全員、後ろ手に縄でつながれている。狩りの獲物だ。余りに多くの突然の死を目の前で見過ぎて、多くの血しぶきを浴び過ぎて、空っぽになった目。一人でも多く、助けねば。

 「彼女」が、顔を上げた。その目は恐怖に震えながらも、でも、光を失っていない。その光が、希望だ。

 モイナの手のひらから、身体の外に滑り出した。モイナの手のひらの上で、身を丸く、固くした。

 「飛ぶ!」

 モイナの「手」が、まっすぐ的に向かってイブキを飛ばした。白い光の塊が、村人たちに向かって飛んだ。「彼女」が気づいた。瞬時に、「彼女」は全てを理解した。立ち上がって、大きく口を開いた。その口の中に、イブキが飛び込んだ。


 全てが一瞬のことだった。「鬼」にも、そこにいた村人にも、何が起こったのかしばらく分からなかったろう。村人の中で一人、顔を上げて空を見上げていたナギ婆が、突然立ち上がったと思うと、その口から、キン、という甲高い響きがして、松明が全て消えた。そして、再び、キン、と、骨にひびくような音がして、村人の手を縛っていた縄が一斉に弾けて切れた。

 「逃げろ!」

 闇の中で、ナギ婆の大音声が鳴り響いた。普段のナギ婆のしわがれた声とは別人のような大声。そして再び、キン、という音と共に、村人を囲っていた「鬼」の首が一つ、ごろん、と落ちた。

 ナギ婆の視界の端に、近くの木の枝から小さな人影が跳ぶのが見えた。暗闇の中でも、「狐」の目は見える。「鬼」の一頭が、両目に木の枝を突き立てられて、そのまま仰向けにひっくり返るのが見えた。モイナだ。イブキが外に出て、「狐憑き」の敏捷さを取り戻した。目にもとまらぬ動きで、次の「鬼」に飛びかかり、右手の爪で首の血脈を切断した。血煙を噴き上げ、唖然とした表情のまま、「鬼」が倒れた。あと三頭。

 「逃げろ!山の奥へ!」

 ナギ婆は仁王立ちになったまま、村人に山の奥を指した。村人は一斉に駆け出した。闇に視界を奪われた一頭の「鬼」が、無茶苦茶にふるった腕が、二・三人の村人を叩き潰した。その腕が、キン、という音とともに切断され、悲鳴が上がる。あと二頭。

 赤ん坊の泣き声がする。トンビの憑依した子だ。不満げな泣き声。村人の気配が山の奥を目指すのが分かる。赤ん坊の声が、それに合わせて遠ざかる。また、キン、と音がして、「鬼」の首がもう一つ、熱い血を撒き散らしながら飛んだ。片腕を失った一頭は、モイナがとどめを刺した。あと一頭。どこだ。

 「『ご聖所』の奥に逃げた」ナギ婆が呟いた。「イブキ、行こう。」

 ナギ婆が歩き出そうとしてつんのめった。四つん這いになる。モイナが支えた。「ナギ婆、ごめん」イブキがささやいた。

 「分かってる」ナギ婆が言った。「イブキ、よくやった。婆を選んでくれて、嬉しかったよ。」


 這うようにして進むナギ婆を、モイナが支えて、二人して「ご聖所」の奥へ進んだ。一頭も残してはならない。

 ナギ婆が、ごふ、と咳き込んだ。口から血の泡を噴いた。「狐」の憑依は「人」の命を削る。「人」がまだ若い頃に「狐」が憑依するのは、身体を「狐」に慣れさせるためだ。老いたナギ婆の身体が、イブキの憑依と「技」に耐えられる時間は、限られている。それでも、イブキには選択肢はなかった。あの場に捕えられていた村人たちの中で、全てが見えていたのは、ナギ婆だけだった。瞳に光を残していたのは、ナギ婆だけだった。全てを受け入れる覚悟ができていたのは、ナギ婆だけだった。

 「ご聖所」の奥に進むと、ごぼり、ごぼり、という深い響きが聞こえてきた。水の音だ。音だけではない。「ご聖所」の奥が、ぼんやりと赤い光に満たされているのが分かる。何の光だ。

 「釣り合いが崩れている」ナギ婆がしわがれた声で呟いた。「あれは『裂け目』の光だ。『裂け目』が広がって、向こうから光が漏れているんだ。」

 モイナが悲鳴を上げた。ナギ婆の足が、ぬるり、とした感触を踏んだ。イブキは声を上げることができなかった。あらゆる感情が消え去ったようだった。

 そこは屠殺場だった。人間の身体のあらゆる部分が、ばらばらに食い散らかされてそこらじゅうに散らばっていた。血と内臓と、引きちぎられた手足や胴体が、「鬼」がただ快楽のためだけに虐殺を行ったことを示していた。

 「ご聖所」の中心にある泉が、ごぼり、ごぼり、と鳴っていた。その水は、血で真っ赤に染まっている。泉の底が、ぼんやりと光っている。真っ赤な水を通して、真っ赤な光が、洞窟の壁でゆらゆらと踊っている。

 「奴は、『裂け目』に吸い込まれたな」ナギ婆が呟いた。

 「『裂け目』に?」イブキが言った。

 「大昔に、釣り合いが崩れて、『裂け目』が開いたことがあった」ナギ婆がしわがれた声で言った。「『鬼』が狂って、たくさんの『狐』と『人』を殺した。何匹かの『狐』が、『裂け目』から逃げた。それを追って、『鬼』も何頭か、『裂け目』を潜り抜けた。それっきり、もどってこなかった。」

 ナギ婆がまた、ごぐ、と血を噴いた。モイナが、ナギ婆の身体を支えられなくなって、二人して折り重なるようにして、血に湿った地面の上に崩折れた。そのまま、ナギ婆は仰向けになった。

 「ナギ婆、イブキを出そう」モイナが叫んだ。「私の身体の中へ、イブキ、戻っておいで。」

 「無駄だよ」ナギ婆が言った。「もう長くない。『狐憑き』で死ねるなんてありがたい話だ。しばらくこのままにしておくれ。

 「イブキ、マドカ。『裂け目』の向こうへ行け」ナギ婆が言った。

 「『裂け目』の向こう?」意味が分からず、イブキが言った。

 「釣り合いが崩れて、『鬼』が狂い始めると、奴らは『狐』を食っても食っても満足できなくなる。子が作れなくなる。奴らは焦る。この世の隅々まで『狐』を探して、食い尽くす。それでもわずかな子しか作れない。『鬼』が数を減らし、釣り合いがまた戻るまで、『狐』はひたすら食われ続ける。『狐』にとって地獄の時代が、しばらく続く。お前たちの命が涸れるまで続く。

 「『裂け目』の向こうに何があるかは知らん」ナギ婆は続けた。「『裂け目』の向こうに行くことは、死ぬことなのかも分からん。でも、昔聞いたことがある。『裂け目』を越えて、また戻ってきた『狐』がいたと。『裂け目』の向こうには、この世界とはまるで違う世界が広がっていると。こちらの世界とはまるで違う人の暮らしが営まれていると。『狐』にも生きる道があるかもしれない。」

 「ナギ婆は、私からマドカを取り上げる気か?」モイナが茫然と呟いた。

 「私に、『狐落ち』になれっていうのか?」

 「お前はまだ若い、モイナ」ナギ婆が言った。「その年で『狐落ち』になっても、十分元の人の暮らしを取り戻せる。そんな連中を、何人も見てきた。」

 「『鬼』が、『裂け目』を通って、私たちを追ってくるかも」マドカが呟いた。

 「そうだ。お前たちがもし、『裂け目』を通って別の世界に行き、そこで生きる道を見つけたなら、『鬼』も、同じように生きる道を見つけるかもしれない。『鬼』も、あちらの世界でお前たちや人を襲うかもしれない。別の世界に行ったら、この『裂け目』を閉じる術を見つけろ。釣り合いを取り戻す術を見つけろ。」

 「そんなことが」イブキは言った。「私たちにできるの?」

 「知らん」ナギ婆は言った。「まずは生きろ。それからだ。」

 ナギ婆がまた、ごふ、と血を噴いた。

 「ナギ婆、ごめん」イブキはまた言った。

 「いや、自業自得だ」ナギ婆は言った。「『鬼』が村を襲ってきた時、わしは『狐憑き』を村に集めた。その上で、村の連中をここに逃がした。スーラやモイナのような若い『狐憑き』だけを、『ご聖所』に向かわせた。『鬼』が『狐』を狙っていると思ったからだ。『狐憑き』をおとりにして、村の連中を助けようとしたんだ。まさか『鬼』が、村を全滅させるほど猛っていると思わなかった。いつもの狐狩りの大きなもの、くらいにしか思っていなかった。

 「さぁ、行け。この世界には、お前たちの生き延びる場所はない。『狐憑き』がいくら強くとも、『鬼』の数には敵わん。いずれ皆殺しに会う。」

 「いやだ、マドカ、いやだ」モイナが叫んだ。

 「モイナ、聞き分けろ。『狐憑き』は真っ先に『鬼』に食われるぞ」ナギ婆が言った。

 「さあ、早く行け。『鬼』の伝令が戻ってくる。」


 イブキは混乱していた。混乱しながら、ナギ婆の言うことに従うしかないことも分かっていた。マドカは別として、「宿り主」を失った自分が生きるには、ここで「ご聖所」の中に飛び込むしかない。「裂け目」の向こうに何があるのか、うまく新しい「宿り主」を見つけられるか、何も分からないけど、とにかく、生き延びたければ。

 「一緒に行くよ。イブキ」マドカが言った。モイナが何か言おうとするのを、マドカが制しているのが分かった。「このままこっちにいたら、モイナも殺されてしまう。私も行くよ。」

 そうか。イブキは理解した。私は「裂け目」の向こうにしか生きる道がないと思っている。でも、マドカは、モイナを救うために、ここで死のうと思っている。「裂け目」の向こうで生き延びる希望など抱いていない。

 私は違う。イブキは思った。「裂け目」の向こうには、新しい死が待っているだけなのかもしれない。でも、そこにしか、私の生きる希望はない。

 マドカは、死ぬために「裂け目」を越える。

 私は、生きるために「裂け目」を越える。

 生きろ。ハガネの声がする。ナギ婆も同じことを言った。生きろ。

 「イブキの『技』で、『鬼』の首を叩き斬った時は、痛快だったぞ」ナギ婆がにやっと笑って、目を閉じた。


 生きろ。

 イブキは泉に向かって、身を縮めた。





第一章~憑依~


第一節:滝壺


 すぅ。

 生きて。

 私の見られなかったものを、あなたが代わりに見て。


 「(すみれ)!」と肩を叩かれて、我に返った。目の前に、(もえ)の顔があった。まっすぐこっちを見つめている瞳がおびえている。今度はなんだ?

 「今度は何?」思ったことがそのまま口に出た。

 「(ゆう)が連れて行かれた。」

 知るか。

 「知らないよ」言い放って、立ち上がった。もう勘弁してくれ。

 「菫!」萌が追いすがる。

 「優が自分で何とかするだろ!」さっさと帰ればよかった。今日は部活もないんだし。窓の外の青空が広くて、ちょっとぼんやりしていた。

 あの日も、青空が広かった。涙も悲しみも、何もかも、(ひかり)姉ちゃんと一緒に天高く昇っていくような空。

 「相手は5人いた」萌の声が潤んだ。萌の泣き虫。泣いて私にすがってくれば何とかしてくれると思ったら、大間違いだ。

 「自分で蒔いた種だ」廊下に出ると、同級生の数人が、こっちを振り返って、物問いたげに萌と菫を見比べる。気にしないで、と笑顔で手を振った。こういう社交性が、なんで優にはないかなぁ。

 「優は悪くない」萌が言いすがってくる。「相手が言いがかりつけてきたんだ」

 「言いがかりつけられるような態度取ってるからだよ」

 「優を見捨てるの?」

 「下級生の喧嘩に上級生が首突っ込むのは反則だろう?」

 「下級生と上級生じゃない、優と菫の問題でしょう?」


 守ってやんなよ。


 光姉ちゃんは笑って言った。守ってやんな。優も、萌も。家族以外の人の絆ほど、大事にしなきゃ。


 光姉ちゃん。ため息をつく。あたしは人を守れるほど強くないよ。強いふりをしてるだけだよ。

 知ってる。光姉ちゃんはまた微笑んだ。強いふりを続けな。弱いふりをするより、ずっと潔い。強いふりを続けていれば、いつか、あんたは本当に強くなれる。


 立ち止まって、振り返った。目をぎらぎらさせている萌に向かって、ため息交じりに聞いた。

 「どこに連れて行かれたって?」


 優の自転車と、5台の自転車が、百坂山の山道の入り口に放置されているのを確かめて、菫と萌は登り出した。山道を覆う木々の上から、蝉の声が二人を包み込む。すぐに汗まみれになる。学校から街とは反対方向に、自転車で10分、そこから足で上るしかない山道。人目につかない場所をわざわざ選んだ、計画的なイジメだ。

 「いつからイジメられてるんだ?」菫が聞いた。

 「1か月くらい前かな」萌が言った。「クラスのグループの一つが、急に優に目を付けて」

 優はマイペースだから。萌が呟く。1か月間は、自分たちで何とかしようとしたのか。私を頼らずに。菫はちょっと、さっきの自分の素っ気なさを反省した。

 「萌でも、どうにもできなかったの?」菫が言った。

 「私なんか」萌が小さな声で言った。「何もできない。」

 そんなことないんだけどな。菫は思ったけど、口に出さなかった。萌は人気者だから、萌と仲良し、というだけで、優は十分守られているはずなんだけど。

 「よっぽど気に入らないことしたのかな」菫は呟いた。

 「理由なんかないよ」萌が、思いがけず激しい口調で言った。「あいつらが人を苛めるのに、理由なんかない。自分のストレス発散してるだけだ。」

 振り返ると、萌は目に一杯涙をためていた。こういう真っ直ぐなところが、この子の人気の理由で、この子の強さだ。

 「あいつら、どこまで登ったんだろう」菫が言った。汗の量が半端ない。

 「八櫛の滝に行ったんだと思う」萌が言った。

 「あんな所まで!?」菫は思わず大声になった。近くの木から、鳥が驚いて飛び立つ。

 「静かに」萌が言った。「菫は声がでかいんだから」

 「優の馬鹿たれ」捨て台詞でごまかす。

 「日が沈むね」萌が言った。「夜までに、山を下りないと」


 しばらく、口を開かず黙々と登ると、水音が近づいてくる。木々の隙間から漏れる日の光が、次第に力を失ってくる。日暮れが近い。息を切らして、それでも足を速めると、萌も必死についてきた。

 木々の連なりがふと途切れて、目の前に、白く無数の糸のように流れ落ちる滝の姿が見え始めた。八櫛の滝、という名は、櫛の歯のような細い水の流れを表したもの、と聞いたことがある。岩肌を流れ下った無数の水の糸たちが落ちていく先は、千曳が淵、と呼ばれる深い淵だ。子供の頃に聞いた、この淵の名前を巡る言い伝えを思い出して、菫はなんだか胸が詰まるような気がした。


 かつて、村全体を旱魃が襲った。雨乞いには、生贄が必要、と、村人たちがささやき始めた時、たまたま運悪く村を訪れた、物乞いの母娘があった。母親は、無理やり生贄とされて淵に沈められ、悲しみに気が狂った娘は、淵の底に沈んだ母親を引き上げようと、縄を淵に投げては引く、虚しい動作を、一日に千度繰り返し続けた。


 淵には、逝ってしまった人と、残された人の想いがこもっている。菫は唇をぎゅっと結んで、坂を上った。オレンジ色になった日の光がしぶきの中にきらめき、空気の温度が急に下がって、汗がすっと引く。

 「優」萌が呟いた。「あんなところに」

 千曳が淵を見下ろす岸壁の途中に、優が立っていた。

 「跳べよ!」対岸から、嘲笑を含んだ声が叫んだ。

 振り返ると、淵のそばに、女生徒が5人、固まっている。

 「菫、あれ」萌が息を呑んだ。「淵の真ん中。」

 淵の水面に、ふわふわと、小さな犬の人形が浮き沈みしている。優の鞄に、いつも下がっていた、テリアの人形。

 「だめ!」

 菫の頭に、かっと血が上るのと、優の身体が宙に飛んだのと、萌が叫ぶのが同時だった。菫は淵の岸に並んでいる5人に体ごとぶつかっていった。萌が視界の側で、淵に飛び込むのが見えた。バランスを崩した5人のうちの2人が、淵の中に落ち込んで水しぶきが上がる。

 「てめえら、許さない!」菫が叫んで、岸に残っている一人にむしゃぶりつくと、三人がかりで組み付いてきた。さすがに耐え切れず、菫も水の中に落ちた。菫の周りに、オレンジ色の水しぶきが上がった。

 体に絡みついてくる相手の手を振り払って、水面を目指す。淵は深くて、水の流れは淀んでいる。優は?

 その時、頭に何かひっかかった。何だこの水?

 優の姿を探そうと、水中で目を開いて、菫はぞっとした。水が赤い。まさか、優が?

 必死に水面に顔を出して、叫んだ。「優!」

 岸壁の傍らに、優の姿が見えた。萌がそっちに向かって泳いでいくのが見える。優がこっちを見た。大けがをしているようには見えない。なら、この水の色はなんだ?

 優の方に向かおうとして、水面に顔をつけた時、千曳が淵の底が見えた。

 光っている。

 赤く。

 光だけではない、雲のように、淵の底から、赤い液体が噴き上げてくる。

 なんだ?


 と、目の前に、小さな塊が通り過ぎた。気づいて、手を伸ばしてつかんだ。優が命がけで取り返そうとした、テリアの人形。よかった。今日の所は、まずは優と合流して、撤退しよう。相手も、優に加勢がいるとなれば、次の手を考えるまで間を空けるはずだ。

 「菫!」

 優と萌が呼んでいる。そっちに向かって泳ぎだした時に、足が何かにひっかかる感じがした。奴らか、と振り返った瞬間、水の温度が変わった気がした。急に温度が上がった気がした。と同時に、周囲の水が爆発した。膨れ上がった水の塊の中から、巨大な力が、がっしり菫をつかんだ。遠くで、萌の悲鳴が聞こえた。体中が熱い塊に覆い尽くされて、それがぎりぎりと菫を締め上げる。関節が悲鳴を上げる。痛みにかすむ視界に、巨大な目が現れた。飢えた目。全てを奪い尽くそうとする、凶暴な意志に満ちた目。そして、新しい獲物を見つけた愉悦に潤んだ目。

 菫は悲鳴を上げた。悲鳴を上げながら、唯一動く右手を、その巨大な目に突っ込んでいた。手の中にテリアの人形を握りしめたまま、渾身の力で突っ込んだ。べじょ、というような嫌な音がして、生ぬるい粘着質の感触がこぶしに伝わった。

 耳を覆わんばかりの咆哮がして、菫をつかんでいたものの力が弱まった。必死に逃れようと身をよじると、突然、体が宙に投げ出された。そのまま、淵の中に落ちた。

 いつの間にか、淵の水は真っ赤に染まっていた。身体のあちこちが痛む。さっき巨大な力につかまれて、どこかの骨を痛めたようだ。優がこっちに手を差し伸べるのが見えた。背中の方で、悲鳴が聞こえ、別の嫌な音がした。砂袋が地面に落ちた時のような、鈍い音。

 「萌、見ちゃだめ!」優の声がすぐそばにした。手を伸ばすと、そこに優の手があった。

 「逃げないと」優が叫んだ。菫の背中から、絶え間なく聞こえる複数の悲鳴の一つが、ぐえっとヘンな声に変わって、また、さっきの音がした。鈍い音。

 「こっちに来る」優の声が悲鳴に変わった。「早く、岸に上がろう」

 三人で、上がれる岸辺を探した。滝壺のこちら側は、切り立った岩肌になっていて、手をかけても滑る。もう少し淵の出口まで移動しなければ上がれない。

 「来る。急いで」優が震える声でいい、三人は泳ぎ出した。背後で咆哮が上がる。怒りを含んだ叫び。片目を潰された怒りを晴らそうとする怒号。背後から、熱い空気がむわっと三人を包み込む。菫はたまらず、振り返った。

 滝壺の反対側から、そいつがこっちに向かってくるのが見えた。巨大な肉の塊。思いがけず、そいつは獣というより、人間の姿に近く見えた。最近見たハリウッド映画に、こんな怪物が出てきたな。緑色の巨人。人体実験で生まれた正義のヒーロー。でもこいつは違う。こいつはひたすら邪悪なものだ。そいつの口の端に引っかかっているのが、血に染まった制服のブラウスであることに、菫は気が付いた。そうか、あいつらの一人、いや、二人食われたのか。この化け物に。さっきの音だ。砂袋の音じゃない。あれは、人間の身体がつぶれる音だ。こいつの口の中で。

 妙に頭が冷えていた。私たちも食われるんだ、と思った。化け物の怒りは真っ直ぐに菫に向いていて、その傍らの二人も一蓮托生に映っているだろう。死ぬのか。こんな訳のわからない死に方で、私は死ぬのか。光姉ちゃん、さすがにこんな理不尽な死に方、私がいくら強くても、どうにも防ぎようがないよ。ごめん。

 視界の端で、白い光の塊が見えた。化け物がそれに気づいた。化け物の顔色が変わるのが分かった。驚愕の色だ。こいつ、化け物のくせに、人間みたいな表情をする、と、相変わらず冷静に考えた。白い光の塊が、真っ赤に染まった水面を滑るように、菫たちに向かってくる。


 その時、頭の中に声が響いた。


 生きろ。


 生きて。


 菫の額めがけて、白い光が跳んだ。視界が真っ白に染まって、そして何も分からなくなった。



第二節:交感


 テリアの人形。


 あの日、病院に行ったら、光姉ちゃんが、無菌室のカーテン越しに、何やら編み物のようなことをしているのが見えた。光姉ちゃんは器用で、編み物やキルト細工とかが好きで、入院してからずっとベッドの上で何か作っていた。私のために、と、マフラーは3本、セーターは2枚作ってくれた。こう入院生活が長いと、うちのタンスは私の編み物で埋まっちゃうね。光姉ちゃんはそう言って笑った。光姉ちゃんはいつも笑っていた。どんな時にも。

 何を作っているの?と私が聞くと、それを手のひらに乗せて、ちょっと持ち上げて見せてくれた。小さな犬の人形。テリア?と聞くと、にっこり頷いた。

 隣の病室に入院しているお母さんがね、家で飼ってたテリアが死んじゃったんだって。娘さんがお散歩させていて、紐を放しちゃって、車に轢かれたんだって。可哀そうでしょ?

 娘さんがずっと泣いてるっていうから、作ってあげたの。犬の写真を見せてもらってね。出来上がったら、菫、その子の所に持って行ってあげてくれる?


 優に初めて会ったのは、その時だ。テリアの人形は、その時から、優の宝物になった。私にとっても、大事な宝物になった。優と私の絆。私と光姉ちゃんの絆。小さな犬の人形。


 その犬が、あんたを救ったんだ。


 「鬼」の目を素手でつぶした「人」なんて初めて聞いた。いくら「鬼」が油断してたとしてもだ。「鬼」は犬をひどく嫌う。「鬼」が犬に噛まれると、噛み傷から毒が回って命取りになる。だから村でも、たくさんの犬を飼っていた。

 その人形には、大事にされた犬の思いがこもっていたんだな。


 大事な思いがこもった人形だった。それをあいつらは、優をおびき寄せる道具にした。許せなかった。だから、あいつらが化け物に食われたって、私は全然同情しない。


 「鬼」は「人」を食う。「人」が「鬼」と戦うためには、犬の力だけでは弱すぎる。「鬼」は「狐」も食う。他の生き物に憑いて生きる「狐」は、「鬼」にとって特別な食い物だ。「鬼」から互いの身を守るために、「人」は、「狐」と手を結んだ。大昔のことだ。


 「狐」は「人」に憑いて、その「人」の力を強くする。そして一つ、特別な「技」を与える。そうやって強くなった「人」は、「狐憑き」と呼ばれて、村を守る戦士になった。

 そして、世界が釣り合った。「鬼」と「狐」と「人」の間で、狩る者と狩られる者の間で、不思議な信頼関係や、戦士の間の畏敬や尊敬の思いまでが生まれた。


 生きろ、イブキ。

 世界がまだ釣り合っていた頃、あの「狐狩り」の戦場に向かう直前、ハガネは、真っ直ぐ、私の目を見て言った。村の最年長の「狐憑き」だったハガネ。自分の死を覚悟しながら、一頭でも多くの「鬼」を倒そうと、その目は闘志にみなぎっていた。

 私が覚えている最後の、しきたりに則った「狐狩り」の戦い。あの戦いは壮絶で、しかし美しかった。年長から数えて5人の「狐憑き」が選ばれ、「鬼」の群れに向かって進んでいく。「鬼」の群れから、やはり年老いた、しかし老練で隙のない20頭の「鬼」の戦士が進んでくる。距離を置いて立ち止まった二つの種族は、言葉もなく、しかし尊敬をこめて、互いに目礼した。そして、真っ直ぐにぶつかり合った。

 互いの命を賭けて、互いの種族の未来を守ろうとする思いのこもった、見事な戦いだった。醜悪な「鬼」の姿でさえ、美しく見えた。私は、村の外囲いの上から息を詰めて見守っていた。十頭を超える「鬼」を一人で倒したハガネが力尽きた時、ハガネを含めて4人の「狐憑き」が息絶え、20頭の「鬼」は全滅した。「狐狩り」で「鬼」の戦士が全滅したことなど、今まで聞いたことがない、と、後でナギ婆が教えてくれた。

 後方に控え、闘いに一切手を出そうとしなかった「鬼」の群れから、4頭のまだ若い「鬼」が進み出、4人の「狐憑き」の屍を丁寧に地面に横たえ、深々と礼をし、その体に食らいついた。血と共に、白く輝く「狐」が、「鬼」に食われていくのを、私は見ていた。ハガネの身体が、「鬼」の中に取り込まれていくのを、私は見ていた。

 「狐」を食らった「鬼」の身体の色が、変化していく。赤黒い肌が、冷たい金属を思わせる青光りする肌に変化していく。繁殖の準備が整った徴候だ。傷つき、生き残った「狐憑き」が、よろよろと村に戻ってくるのを深追いすることなく、「狐狩り」の儀式は粛然と終わり、「鬼」の群れは、そのまま整然と立ち去っていった。

 イブキよ、これがオレたちの生きる世界だ。ハガネは言った。「鬼」は「狐」を食うことでしか、自分たちの子を作ることができない。「狐」が根絶やしになってしまったら、「鬼」も長く生き延びることができない。だから「鬼」は、無闇に「狐」を殺したりしない。子を作るのに足りない分の「狐」を、「狐狩り」の儀式で「人」からもらう。それで満足する。

 そこには善も悪もない。「鬼」が「人」や「狐」を殺すのも、「狐」が「鬼」と戦うのも、ただ生きるためだけだ。「鬼」と「人」と「狐」は、大きな釣り合いの中でつながっている。我々は、一つの生き物だ。イブキ。そしてこの大きな一つの生き物の意思は、ただ一つだ。

 生きること。精一杯生きて、少しでも長く生きて、この世界のありようを見つめ続けること。命を次の世代へつなぐこと。

 生きろ、イブキ。そしてオレが見ることができない、これからのこの世界の姿を、見てくれ。オレの代わりに、見てくれ。命をつなげ。それだけが、オレの、我が子への願いだ。


 生きて。すぅ。

 私の見られなかったものを、あなたが代わりに見て。


 私たちは似たもの同士だと思う。

 私の名前はイブキ。

 あんたに、菫に、取り憑いた、「狐」。

 私の「技」は、「声」。  



第三節:仲間


 萌が病室に来た時、菫は、病室の窓の外に広がる青空を見ていた。あの日と同じように広い空。雲が真っ白に輝いて、下からもくもくと盛り上がってくる、夏の空。

 菫は視線を戻そうとして、ちょっとうめいた。首を少し動かすだけで痛みが走る。あの化け物に締め上げられたせい、と、お医者さんにはごまかしているけど、そうじゃない。菫の中にいるものが、菫と同化しようとしている。その過程での痛みだ。

 「警察の人、来た?」ベッドの脇の椅子に座って、萌が言った。

 「顔だけ見に来た」菫は答えた。「よっぽど私の顔色が悪かったんだろう。また後で来ますって言って、帰った。」

 「ガン飛ばしたんじゃないの?」萌がちょっと笑った。よかった。冗談が言えるほど、気持ちにゆとりがある。恐ろしい体験だったけれど、何が起こったのか分からない不安は消えている。

 自分たちに何が起こったのか、萌もちゃんと分かっている。

 萌が、菫の胸の上に手のひらを乗せた。温かい。身体全体をギリギリ締め上げるような痛みが、萌の手のひらの部分だけ、ふっと和らぐ。

 「私たちの『技』」萌が微笑む。「私とマドカの。私たちの『技』は、『手』。」

 萌が目覚めて、菫の病室に来た時、菫はまだ外界への意識の窓が開いていなかった。萌の中のマドカが、イブキと話をして、イブキが、菫に話をした。マドカもイブキと同時にこちらに来たこと。そして、あの時、萌に憑依したこと。

 「イブキが菫と一体化するには、私たちより時間がかかる」と、マドカは萌に言った。「私には癒しの『技』があるから、憑依もさほど辛くないし、早い。イブキはそういうわけにはいかないだろう」

 マドカが憑依したモイナの手は、傷や病を癒す力を持っていた。それが、マドカの「技」だった。萌の手からも、同じような優しい温もりを感じる。菫の身体と、イブキの身体が一体化する痛みを、取り去ってくれる。

 「まだ、モイナほど力が強くない」マドカが呟いた。「時間と共に、『技』の力は強くなる。」

 マドカが喋る時、同じ萌の声なのに、声の色が少し変わった。それで菫には聞き分けられた。菫とイブキの声も、同じように聞き分けられるんだろうか。


 「あいつは見つかった?」菫が言った。

 「全然」萌が言った。「警察も捜索してるらしいけど」

 「なんて言って探しているんだろう?」菫は呟いた。

 「熊、と言ってるみたいだよ」萌が言った。

 「『鬼』とは言えないしね」菫は言った。

 萌が警察の聴取を受けた時、萌は、「見た通りを話す」「『狐』の話には触れない」というルールを決めた。三人以外にも、いじめグループの生き残りがいた。話を都合よく作るより、見たままをそのまま話すのがいい。信じるかどうかは、警察に任せていればいい。

 「狐」の話には触れない方がいい、というのも、萌が自分で決めた。未知のものに対して、人がまず抱くのは、不安だ。「狐」の敵を作る恐れがある。「鬼」の見たままを話せば、闘う味方は増えるだろうが、「狐」の存在が知れたら、話がややこしくなる。

 それに、萌も、「狐憑き」の力を十分理解しているわけではない。自分の中の「狐」を100%信用しているわけでもない。「狐」と共に戦うためには、もう少し「狐」を理解する時間が必要だ。

 「分かるよ」マドカは言った。「いきなり取り憑いて、あんたの味方だ、と言われたって、信用できるわけない。」

 「そもそも、萌には、闘う理由がない」菫が言った。「私はあいつの目を潰した。恨まれているから、いずれ襲ってくる。でも、萌には関係ない。」

 「関係ないわけないでしょ」萌が言った。

 「優は?」菫が言った。

 「まだ面会謝絶」萌の顔が曇った。「意識が戻らないらしい。」

 イブキが憑依したあの瞬間、菫は意識を失ってしまったから、優の身に何が起こったのか、よく分からない。イブキは、菫に憑依すると同時に、「鬼」に向かって一声、「声」を放った。「鬼」はそれをよけて山の奥へ逃げた。マドカも、そちらに気を取られていた。振り返った時には、もう優の姿は見えなかった。

 「溺れて、淵から下流に流されて、そこで見つかった」萌の声が震えた。「そのまま死んじゃうかも。」

 菫は、枕元に置かれたテリアの人形を見た。血に染まった水に汚れて、鬼の目玉の肉にまみれて、見る影もなく汚れて、ひしゃげている。でも、首をぴんと立てて前を見ている。小さい癖に、真っ直ぐ傲然と胸を張っている。優みたいなやつ。

 「優の病室、分かる?」菫が萌にささやいた。

 「分かるよ」萌が言った。

 「優に、萌の『技』を使ったら、目を覚ますと思う?」

 萌が、ぱっと笑顔になった。「やってみよう。」


 点滴バッグを下げたまま、うつむいて廊下を歩く。人気は少ないけど、多分、この病院で二人はかなりの注目株だと思うから、気を付けないといけない。ナースステーションや救護室など、病院スタッフが多そうな場所は極力避け、エレベーターも避けて、階段を使った。

 体中が痛む。萌が手をつないでくれて、そこから流れ込んでくる温もりのおかげで、少しは楽だけど、階段の一段一段を上るたびに、足だけじゃなく、体中の関節や筋肉がきしむのが分かる。

 「ごめん」イブキが呟いた。「あと2・3日で、収まると思う。まだ少しだけずれがあるんだ。」

 「大丈夫」菫は答えた。手の中に、汚れたテリアの人形を握りしめた。うまく優に渡してあげられたらいい。


 優の病室の前に、面会謝絶、の札がかかっている。看護婦さんが二人、その前で立ち話をしている。なかなか終わらない。階段室に戻って、ため息をついた。

 「前にも、こんなことがあったな」菫がくすっと笑った。「萌と初めて会った時。」

 萌も笑った。「あの時はびっくりした。面会謝絶って書いてあるのに、知らない子が入ってきたから。」

 笑い声がしたのだ。面会謝絶、という絶望的な文字の並んだ札のかかった病室の奥から、幸せそうな笑い声と、明るい喋り声。

 萌は、光姉ちゃんの病気に似た血液の病気で入院していた。同じような無菌室のカーテンに区切られた病室の中で、こっそり忍び込んできた菫を見つめた萌の目が、あんまりきらきらしていて、びっくりしたのを覚えている。

 移植手術がうまくいって、萌が回復し始めた時、菫は悔しくて泣いた。光姉ちゃんも同じ手術を受けたのに、どうして萌だけが治って、光姉ちゃんは治らない。この世の不公平に泣いた時、光姉ちゃんは言った。命は一つだ。

 命は一つだ。全部根っこでつながっている。私の命も、萌ちゃんの命も。同じ大きな命のひとかけらに過ぎない。大きな命が、長い時の流れを越えていこうとして、必死に生きている。

 萌ちゃんの命と、私の命はつながっている。萌ちゃんの中にも、私がいるんだ。


 足音がして、優の病室の前の看護婦さんたちが立ち去っていった。それを見送って、そっと病室の扉を開けた。ガタン、と音がして、ベッドのわきに座っていた人影が立ち上がった。優のママだ。目を真っ赤に染めている。

 「菫ちゃん、萌ちゃん」かすれた声で言う。「外の札、見なかったの?」咎める口調、という感じでもなかった。そんな激しい拒絶を見せるような力も、もう残っていないような、弱々しい声だった。一人で支えるには重すぎるこの空間を、一緒に分かち合ってくれる人が来たことを、むしろ歓迎するような、ほっとしたような声。菫の胸が詰まった。光姉ちゃんの症状がどんどん悪化していった時の、菫のママのことを思い出した。

 「ごめんなさい」菫が言った。

 「優が心配で」萌が言った。

 「お医者さんには内緒よ」今まで読んでいたらしい分厚い本を胸にあてて、優のママが言った。ベッドの方に二人を招き入れた。ベッドの側にモニターがあって、優のベッドに何本ものケーブルが伸びている。リズミカルな電子音。優の心臓の鼓動のリズム。

 菫は、持ってきたテリアの人形を、そっとモニターの上に置いた。優のママが微笑んだ。萌がベッドの脇に膝をついて、そっとシーツの中に手を差し入れた。優の手を握る。

 萌の顔色が変わった。信じられない、という表情で、菫の方を見た。優の顔をもう一度覗き込む。

 「誰だ、お前?」マドカの声で、萌が言った。

 優が、身動きした。小さく唸り声を上げた。優のママが、手で口を押えた。

 萌がまた、マドカの声で、茫然としたように呟いた。

 「トンビ。」



第四節:焦燥


 翼、という名前の犬だった。

 家で飼っていたテリア。

 犬は、飼い主の家族に順列を付ける。翼は、ママがご主人様だと思っていて、パパと私は、遊び相手だと思っていた。

 だから、あの時も、翼はただ、私が遊んでくれると思って、ふざけただけなんだと思う。

 優から逃げようとしたわけじゃない。誰も悪くない。ママはそう言ってなぐさめてくれた。

 でも違うと思う。

 私が悪い。

 私の弱さが悪い。

 ママが入院しているから、翼の散歩の当番は、私がやる、と言い張った。

 大丈夫か、と不安がるパパに、大丈夫だ、と突っ張った。

 それなのに、綱を突然引っ張った翼の、思いがけない力に驚いて、手を離してしまった。

 駆けだした翼に向かって、自動車が突っ込んできても、止めることさえできなかった。

 ただ、立ち尽くしていただけだった。

 翼は、私の腕の中で、口から血を吐いて、死んだ。

 私が弱かったから、翼は死んだ。


 私は「人」を守るために生まれた。

 「人」に力を与え、「技」を与え、「宿り主」と、その仲間の「人」を守るために生まれた。

 なのに、私は何もできなかった。

 目の前で、次々に「人」が食われ、引き裂かれ、むごたらしく殺されていくのを、小さな「宿り主」の中で、ただ見ているしかなかった。

 命が消えていく恐怖を、叫びを、悲しみを、ただ感じているしかなかった。

 何もできずに。

 「宿り主」と同じで、私が幼すぎたから。

 まだ、未熟な「技」しか持たない、ただの役立たずだったから。

 「狐」のくせに。私は「狐」なのに。

 私が弱かったから、たくさんの「人」が死んだ。

 「人」を守れないで、何が「狐」だ。


 菫は強い。

 取り立てて力が強いわけじゃない。運動神経がいいとも思わない。体育の授業で反復横跳びをやっているのを見て、あんまりギクシャク動くんで、吹き出しそうになったことがある。

 でも、みんなが菫には一目置く。喧嘩を吹っかける奴は一人もいない。

 菫の強さは、立ち向かう強さだ。

 あきらめない強さだ。

 自分の思いを邪魔する相手がどんなに大きくても、強くても、菫は全力でぶつかっていく。

 多分、最後の一人になっても、菫は決してあきらめない。


 萌も強い。

 萌はいつも笑顔で、その強さは内側に秘められているけれど、私には分かる。

 萌は自分が正しいと思ったことを決して曲げない。

 あの真っ直ぐな想いをぶつけられて、心を動かさない人はいない。

 人の心を動かすことができるのは、自分の心が強いからだ。


 私には何もない。何の力もない。

 いつまでたっても、菫や萌に守られているだけの、弱虫だ。


 「鬼」に引き立てられて、「ご聖所」から引きずり出された時、他の「狐」の気配を感じた。

 「狐」たちの闘志を感じた。諦めない強い心を感じた。

 私にできることはないのか。

 一緒に戦いたかった。なのに、私には何もできない。

 声を上げて泣いても、赤ん坊の声しかしない。

 このまま、何もできず、子供のままで死ぬのか。

 戦いが始まって、村人たちが草むらをかき分け、鬼から逃れはじめた時、頭の上の木の枝から、小さな影が飛び立つのを見た。

 恐怖におびえて、夜闇の中を飛び立った小鳥。

 その時、思いついた。

 森の中には、鳥や鼠のような小さな生き物に憑依する「狐」がいると聞いたことがある。

 私はまだ、身体が小さいから、鳥の身体にもぐりこむこともできるはずだ。

 鳥なら、呼べる。

 私の「技」の一部。私の名前の由来。


 「宿り主」が苦しがって泣くのをしり目に、「宿り主」から抜け出して、鳥を呼んだ。

 一羽の小鳥が、気づいて、飛んできてくれた。

 でも、そこから先は、思ったほど簡単じゃなかった。飛ぼうとした鳥は、憑依した私の身体を支えきれずに、空中でふらついて、そのまま茂みに落ちた。よたよたと羽ばたきながら、「ご聖所」の奥に駆け込んでいく、ナギ婆とモイナを追った。

 ナギ婆とモイナから、イブキとマドカが離脱して、裂け目に飛び込んでいくのを見た。

 「狐落ち」になったモイナが、よろよろとご聖所の外に出ていくのを見送った。

 迷いはなかった。このままでは終われない。

 鳥の中から、裂け目めがけて、飛んだ。


 私はあんたを強くしてあげられる。

 あんたに力と、「技」をあげられる。

 あんたは、私に戦う術を与えてくれる。

 私たちは、二人して、強くなれる。戦える。

 私はまだ小さいから、少し時間がかかるかもしれないけど。


 私の名前はトンビ。

 あんたに、優に、取り憑いた、「狐」。

 私の「技」は、「眼」。


 私の手のひらを、温かい手のひらが包み込むのが分かる。

 萌の手のひらだ。

 トンビが言っていた、マドカの「技」の癒しのぬくもりが、体中に浸みこんでいくのが分かる。

 早く目覚めないと。焦りばかりが募って、身をよじる。早く、早く。

 トンビ、時間はあまりないんだよ。

 あんたが教えてくれた、「鬼」の話と、あの時私が見た「鬼」の姿と、比べてみれば、私たちに時間がないのが分かるはずだ。

 菫も、萌も、イブキも、マドカも、気づいていない。

 みんなに伝えないと。私が気づいたこと。早く伝えないと。

 どうして私だけが気づいているのか。これは、トンビの「技」のおかげだろうか。

 人に見えないものが、私には見えるんだろうか。


 日暮れが近付き、色を失い始めたあの千曳が淵で、私ははっきり見た。

 いじめグループの女生徒を頭から食った後、あいつの肌の色が変わった。

 赤黒い、けだものじみた色から、金属のように青光りする、邪悪な色に変わった。

 こちらの「人」が、むこうの世界の「狐」と同じように作用するのか、それとも、「鬼」がこちらに来て、別の力を身につけたのか、それは分からない。

 でも、一つだけ、間違いない。


 あいつは、もうすぐ、子を産む。

 そして、「繭」になる「人」を探し始める。

 早くなんとかしないと、取り返しがつかないことになる。


 私たちにはもう、時間がない。

 まぶたを開けろ。腕を上げろ。

 外の世界へ、早く、早く伝えなければ。

 破滅が、地獄が、近づいていることを。

第二章~増殖~ へ続きます。

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