十二話 案内
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翌日の朝。
珍しく朱音が早起きしたかと思うと、「ふえええん!」と眠りこけていた俺の腹上に泣きながらダイブしてきた。
「ぐふっ!?」
「うわーん! お兄ちゃーん! 制服が着れないよー!」
見ると、朱音は中途半端にスカートを履いていた。ブラウスはボタンを掛け違えているしで、パンツもブラジャーも丸見えである。
こいつはついに慎みも忘れてしまったのだろうか。
朱音はブラウスの上にベストを着ようとしているようだが、どこかで引っかかっているのか、腕を万歳して顔にベストを被った状態になっている。
「おい、アーちゃん……なんだその恰好」
「制服を着ようと思ったら、こうなった……」
「いや、まあ……それは見れば分かる。そんなことより、どうして制服を着てるんだって意味の質問だよ」
「昨日言ったじゃん! アーちゃんも、今日から学校に行く」
「それは絶対に無理」
「酷い!」
アーちゃんは外に出る時、俺にしがみついていないと歩くことすらできないのだ。そんな状態で、外になど出られやしまい。ましてや、学校など不可能だ。
俺は上体だけ起こして、朱音が頭から被っているベストを脱がす。
「あ、な、なんで脱がすのさ!」
「……アーちゃんさ。別に、俺に負い目とか感じて、無理に学校行く必要ないんだぞ」
「で、でも……アーちゃんがいないと、お兄ちゃんもっと疑われちゃうんでしょ……?」
郁乃が昨夜、俺が朱音を監禁していふ云々のうわさが学校で流れていることを、朱音に教えてしまったのだ。
本当に余計なこと言ってくれる。
おかげで朱音は、昨日からこんな調子で、「学校に行く!」と聞かないのだ。
もちろん、兄としては喜ばしいことではあるが……。
「あのな、アーちゃん……そりゃあ兄としてはいずれアーちゃんが学校に行けるようになったら嬉しい。けど、無理をする必要はないんだ。少しずつでいいんだよ」
「でも……」
「焦らなくていいんだから。まずは、外に出られるようにしようなー」
俺は笑って、朱音の頭に手を落いて撫でてやる。すると、朱音は上目遣いで俺を見て小さく頷いた。
「……うん。分かった」
それから、すぐに郁乃がやってくると、昨夜の宣言通り本当に毎日毎食作るつもりなのか、朝食を作ってくれたうえに、昼食にお弁当まで作ってくれた。
「はい。これは朱音さんの分です」
「わーい! ありがとうございます〜!」
「まさか本当に作るとは」
「私、嘘は吐きませんから。作りますよ。これから毎日」
「まあ……ありがたいんだけど……やっぱり申し訳ないな。なんか」
「気にしないでください。好きでやっていることですから」
そう言われても、やはり気にしてしまう。
貰ってばかりというのは、ソワソワとしてしまうもので……俺はなにかしらの形で、郁乃にお礼ができないものかと思考を巡らせた。
やがて、家を出る時間になり、郁乃は先に家を出た。
さすがに、一緒に登校すると周りが騒がしくなるからと、郁乃はなぜか言い訳するように言っていた。
いや、別に気にしてないけど……。
さて、俺も出ようかなと思った矢先、朱音が俺の腰にしがみ付いて離さない。
「……アーちゃん。離してくれ。遅刻してしまうじゃないか」
「やだ! アーちゃんも連れてって!」
「だから、無理だろって……」
「無理じゃないもん! アーちゃんはやればできる子だもん!」
それは自分で言うことじゃないだろ。
首を後ろに回して朱音に目を向けると、朱音は俺の顔を見上げるようにジッと見ていた。
どうやら決心は固いらしい……ならば仕方ない。
「分かった……とりあえず、玄関の外に出てみるか」
「――っ! うん! で、出る! アーちゃん出れるよ!」
「1人で出れるか?」
「や、やってみる!」
俺と朱音は玄関まで移動する。
俺は玄関を開けて1人で外へと出る。朱音は玄関の前で臆した表情を浮かべており、「ううっ……」と涙目になっていた。
「……今日のチャレンジはやめておくか?」
「や、やめない……! で、でも……ちょっと心が折れそうだから……もし外に出れたらご褒美が欲しいぞお兄ちゃん!」
「ご褒美……郁乃に頭を撫でてもらうとか?」
「でゅふふ……しぇ、しぇんぱいの頭ナデナデ……? でゅふふふ……頑張れそうだぜぇ……」
この妹、本当に大丈夫なんだろうか。
朱音は不気味な笑い声を発したまま、一歩一歩……着実に玄関の外へと足を進める。
やがて、あと一歩で外へ出られるというところで……その足は完全に止まってしまった。
「ひっ……ぁ……」
先ほどまで軽口を叩いていたようすはどこへやら。
顔色は真っ青になり、足は完全に笑ってしまっている。
朱音に植え付けられたトラウマは相当なものだ。玄関まで1人で来られただけでも充分だろう。
俺は目を伏せ、怯えている朱音に言った。
「もう今日はこの辺にしておこう……今日は十分頑張ったよ」
「や、やだ! アーちゃんなんかよりも……お兄ちゃんの方がずっと頑張ってるやい! こ、この程度のことでアーちゃんは挫けないぞぉ!」
「……」
そうは言うものの……朱音の足はもう一歩も動かなかった。
※
「どうしたもんかなぁ……」
「なにがよ……?」
昼休み。
俺は例の校舎裏で、猫に餌をあげていた。
そこには平田もいて、俺のぽつりと呟いた独り言に反応してきた。
「いや……ちょっと、妹のことで悩んでてさ」
「妹さんって……あんたが監禁とか家庭内DVしてるっていう?」
「しとらんわ」
そういえば、そんなうわさが流れてましたねと、俺は猫の頭を撫で回しながら苦々しい顔をする。
おお……この猫。わりとモフモフしてるぞ……。
「ふーん……信用できないわね。ほら、なま太郎〜こっちおいで〜」
「にゃ〜」
なま太郎は平田に呼ばれると、可愛らしく鳴きながら俺の方にすり寄ってくる。
平田はそれで深く傷ついたみたいで、石みたいに体を硬直させた。
「な、なんでよぉ……あたしもモフモフしたいだけなのにぃ……」
「……どんまい」
「うっさいわよ! このクソチビ!」
「チビじゃないですけど!? 貴様この野郎! そんな胸も性格も断崖絶壁だから猫も寄らねえんだよ!」
「あ、あんた今言っちゃいけないこと言ったわね!? せ、セクハラよ! セクハラなのだわ! 訴えてやる! 裁判も起こすわ!」
「お前が先に言ったんだからな!?」
それから人間同士の醜い言い争いが始まり、黒猫は「にゃ〜」と鳴きながらそれを見ていた。
しばらく言い争った後に、大きなため息を吐いた平田は、猫の体を軽く突きながら唇を尖らせる。
「はあ……なんで大きくならないのかしら……牛乳飲んでるのに」
「……」
あれ。なんだろう。急に、とてつもなく親近感が湧いてきた。
俺は遠い目で空を仰ぐ。
「本当になぁ……牛乳飲んでるのにどうして大きくならないんだろう……」
「あ、あんたのは実感がこもり過ぎてて怖いんだけど……」
平田が頬を引きつらせてそんなことを言った。
それから、互いに無言となり、しばらく猫の鳴き声だけが俺たちの間に木霊する。
そろそろ、午後の授業を報せる予鈴が鳴ろうかというタイミングで、今度は平田がぽつりと呟いた。
「動物って……心が綺麗な人に懐くって言うわよね」
「じゃあ俺の心は綺麗ってことか……」
と、冗談まじりに言うと、平田はなにかを考える素振りを見せた。ほんの冗談のつもりだったのに、間に受けてしまったのだろうか。
「……ねえ、今日の放課後、あんたの家に連れてって」
「は? なんで?」
「ほら、あんたの妹さん……監禁されてるとかってうわさがあるじゃない。それが本当かどうか、確かめるのよ」
「いや、だからそれはただのうわさだって」
「私は自分で見たことしか信じないの……本当に妹さんが監禁とかされてないなら、あんたのこと信じてあげるから……そしたら、先生たちにも口添えしてあげるわよ?」
「……マジ?」
俺が尋ねると、平田は「マジマジ」と頷いた。
その提案は、とても魅力的だ。
俺は先生方から妙に厄介者扱いされてるせいで、授業中にめちゃくちゃ難しい問題を解かされたり、俺だけプリントが配られないとか……そういう嫌がらせを受けていた。
嫌がらせは先生たちからだけじゃない。一部の生徒たちからも嫌がらせは受けている。
ほとんどの生徒は怖がって近づいて来ないけど、一部の生徒は俺が退学を恐れてなにもできないことを知っている。
だから、隠れて机の中にゴミを入れたり、下駄箱に画鋲を敷き詰めたり、不幸の手紙を入れたりなどなど……まあ、誰がやったか特定できない嫌がらせをしてきている。
仮に、平田が先生たちに口添えしてくれて、少しでも俺の印象が良くなり、嫌がらせが減ってくれれば……。
「……分かった」
いろいろと考えた結果、俺は平田を放課後にアパートへ案内することにした。
幼馴染とは……命。
どうも幼馴染マイスターこと青春詭弁です。
歳下幼馴染といえば、どこか生意気な感じなのがいいですよね。
「せんぱ〜い」
みたなノリね。いいよね。