55.ターシャの初バイト(前編)
メニーの正体が前世での妹である有栖川胡桃であるという衝撃的な事実が判明してから一夜。
私はいつも通り彼女よりも早く起きて、朝の支度をしていた。
メニーを起こさないようにと気を付けながら、準備を進めていると、ベッドの方で物音がする。どうやら、メニーが目覚めたようだ。
「おはよう。胡桃。休日なんだからもう少し寝ててもいいのに」
「おはよう。お兄ちゃん。大丈夫だよ。それより、お兄ちゃんの初バイトなんだから、ちゃんと見送らないと」
「……ありがとう」
あまりにも久しぶりすぎて、少々ぎこちなくなってしまったとすら感じる兄妹としての会話に私は少なからず安心感を持つ。
昨日の会話が夢だったらどうしよう。胡桃って呼んで誰のことと聞かれたらどうしよう。そんな不安にさいなまれていたが、前夜と変わらない彼女の態度を見て、私は昨日の出来事は夢ではなく現実だったと確信する。
私はベッドから起き上がるメニーを横目に朝の支度を進める。
そうしている横でメニーもまた朝の準備を手早く整えて、私に声をかける。
「一緒に朝食を食べに行きましょうか」
「うん。そうだね」
そこからは胡桃と陸人ではなく、メニーとターシャになって、私たちは手をつないで部屋を出た。
*
朝食を食べたあと、私はメニーに見送られてから商店街にある服屋に向かっていた。
「えっと……服屋は……」
指定された時間まではまだ余裕があるが、初日だし、余裕を持ってくる分には問題ないだろう。そう考えて、私は早朝の商店街をやや速足で進んでいく。
「あぁターシャちゃん。こっちよ。こっち」
そんな私の背後から声がかかる。
振り返ると、肩よりも少し下ぐらいまで伸びた茶色ががった髪と青い瞳を持つ少女……カシミアが大きく手を振ってこちらに合図を送ってきていた。
服屋を通り過ぎてしまったのだろうか? そんな考えを抱きつつ、私は彼女のところに駆け寄っていく。
「おはようございます」
「おはよう。ターシャちゃん。ちゃんと早く来て偉いわね……でも、ちょっと早すぎるかしら? このままだと、私より先にお店についちゃうわよ」
「あぁえっと……すみません」
「いいのよ。早く来たことは偉いっていったじゃない」
「……ありがとうございます」
どうやら、少し早めに行こうというのは半分間違いだったらしい。別に私としては店の前で待っていてもよかったのだが、カシミアとしては呼び出した時間とちょうどぐらいが良かったようだ。
「それにしても、ターシャちゃん。この歳でバイトをしようなんて偉いわね」
「あーいえ……それは……」
「理由なんてどうでもいいのよ。とにかく、かわいい店員さんが来てくれてうれしいわ。うちってなかなかバイトの子が来てくれなくて困っていたのよ」
「そうなんですか?」
意外だ。店主であるカシミアはとてもふんわりとした雰囲気で優しそうなのにどうしてバイトの人が来ないのだろうか?
「私が積極的に募集していないっていうのもあるかもしれないけれど、ほら、ここって魔法学校じゃない? 魔法が勉強できるようなお店……魔法雑貨店とかが人気で……後は大きくなると教員の実験の手伝いとかも人気なのよ。だから、こういう普通のお店に来てくれる人って少ないの」
「なるほど……そういうことですか」
確かに魔法学校である以上は魔法にかかわる仕事がしたいというのはある意味で当然の心理かもしれない。
さらに言えば、少し大きくなってからとはいえ教員の手伝いというバイトがあるのなら、教員への印象をよくするという意味でも魅力的なバイトだといえるだろう。
そうなってくると、服屋やカフェといった、いわゆる普通のお店のバイトが不人気になってきてしまうというのは、ある意味で当然なのかもしれない。
「私のほかにバイトの人はいるんですか?」
「いいえ。全然。前の店主が卒業してから私一人であの店をやってきたの。だから、ターシャちゃんが良ければだけれど、あの店の店主を継いでもらいたななんて思っているのよ」
「そうなんですね」
帝都魔法学校は13年生まであるので、順調にいけば今12年生である彼女は再来年には卒業ということになる。
そうなると、お店で働く人がいなくなってしまうので彼女としては私に次期店主として君臨してもらいたいと考えているのだろう。
正直なところ、私としては順調にいけば3年生で店主になるということなので少なからず不安を覚えるが、そこに関しては前世の知識やこれから教えてもらうことを一生懸命に覚えて乗り越えればいいだろう。
「それにしても、本当にかわいいわね。新入生の子が来てくれた時のためにちゃんと制服も用意しておいてよかった」
「制服ですか? カシミアさん制服なんて着て……」
「ないわよ。でも、服屋の店員がかわいい恰好していないなんてダメでしょう? だから、小さい子には小さい子ようのかわいい制服があるの」
最初に服屋に行ったとき、カシミアの服装がどう見ても私服だったので、制服だとかそういうものはないと思っていたのだが、どうやらちゃんと制服があるらしい。
それなら、毎日の服装に悩むこともないのだが、少し引っかかることがある。
彼女は“かわいい恰好”といっていた。ということは、その制服とやらはかわいい系の服装なのだろうか? 仮にそうだとすれば、相当恥ずかしい思いをしなければならないのではないかという不安に駆られる。
「えっと……ちなみにそれはどんな服装ですか?」
「えーそれはついてからのお楽しみということで……って話している間にお店が見えてきたわね」
心の準備をするためにどんな服装かというイメージぐらいは聞いておこうと思ったのだが、それは見てからのお楽しみだということできれいに流されてしまう。
そんな会話をしている間にも私たちは服屋の前に到着する。
「あとでカギを開けるけれど、バイトの時はお店の裏から入ってもらうからね」
「はい。わかりました」
ここまでくれば、バイトも始まったようなものだ。隣の店との間に入り、店の裏に向かうカシミアの背中を追いかけて私は少し狭い店と店の隙間に入っていく。
狭い通路を抜けて店の裏に出ると、ガラス張りでおしゃれな表側とは違い、レンガ造りの壁に木の扉が一つだけある裏側に出る。
レンガの壁にはいくつかの魔法陣と思われるものも描かれていて、それがまた異様な雰囲気を醸し出している。
「……そこら辺の壁にある魔法陣は店の中の環境を整備するためのものだから、興味があっても触ったりしちゃだめよ。お客様に快適に過ごしてもらうために大切な魔法が込められているの。さて、中に入りましょうか」
魔法陣について軽く触れたカシミアは懐からカギを取り出して、鍵穴に挿してから軽く回す。
すると、カチャリという軽快な音が鳴って扉が解放されたことがわかる。
「最初のうちは戸締りは私がやるけれど、もしも自分一人でここに来るようなことがあったら鍵を閉め忘れないように気を付けてね。さぁさっそく中に入りましょか」
ついに扉が開かれて、私は中に招き入れられる。
中に入ると、そこには机といくつかの椅子が並べられていて、机の上にはたくさんの紙束が山積みにされ、机のそばには在庫と思われる服があふれていた。
「えっと……」
「ここは従業員用のスペースよ。あっちの服がたくさんある方に更衣室があるわ。制服は更衣室の中に用意してあるからさっそく着替えてもらってもいいかしら?」
「あーはい。わかりました」
様々なものが乱雑に積まれているというお店の雰囲気からは想像がつかないような惨状に若干引きながらも、私は在庫の服の山の入り口にある更衣室へと向かった。




