2.屋敷の外へ
ルナが領主である父のもとへ向かってから約一時間。
ようやく戻ってきた彼女は相変わらず虚ろな目をしていた。おそらく、この魔法にかけられた人間はそういった反応を見せるということなのだろう。
「ターシャ様。お出かけの準備ができました」
「ありがとう」
すっかりと待ちくたびれていた私は椅子からぴょんと飛び降りて、ルナの方へと駆け寄る。
「ただし、ターシャ様。一つ約束をしていただきたいのです」
「約束?」
「はい。わたくしは領主様からあなた様を馬車から降ろさないようにと命じられています。また、馬車の経路も領主様が指定されたものになります。それに納得していただけるのなら、外出を許可するとのことです」
さすがに自由にはさせてくれないらしい。領主の娘という立場である以上、この程度の制約は仕方のないことなのかもしれない。それにこれに納得が行かないからどうにかしてほしいといって、魔法を行使したところでどうにかなるような問題でもないだろう。
なぜなら、私を馬車から降ろすなという命令は父が彼女に対してそういった洗脳をしている可能性が高いからだ。
「わかった……」
だからこそ、私は少し残念そうな表情を浮かべてそれに応じる。
「はい。かしこまりました」
しかし、そこでいつもなら“仕方ないですね”ぐらいは言いそうなルナであるが、この時ばかりは虚ろな目と感情のない表情で返事をされてしまう。
おそらく、洗脳の魔法は抵抗するとかしないとかそういったものの前に“それをしたくない”という感情そのものを奪ってしまうのかもしれない。よくよく考えてみると、記憶の中にかすかにある父は今のルナと同じように感情のない虚ろな目をした使用人たちに囲まれていた。おそらく、使用人が裏切らないように常に洗脳の魔法をかけているのだろう。
これは自分が思っていた以上に恐ろしい魔法だ。
あまりにも強い魔法の効力に私は身震いする。
この魔法はあまり乱用がしない方がいいかもしれない。それと同時に言葉にも気を付けた方がいいだろう。この魔法は対象者の感情を奪うほどの効力を持っていながら、術者である自分は特に疲れなどを感じていない。今回は命令の内容がたいしたことではないからなのかもしれないが、仮に喧嘩か何かのはずみで“死ね”などといってしまった暁には目を覆いたくなるような状況が生まれることはほぼ間違いない。何しろ、言葉にするだけで良いのだ。何か特別な儀式を踏むのなら、ともかく名前を知っているだけでいいというのはあまりにも恐ろしすぎる。
その恐ろしさは今まさに目の前にあるルナが現在進行形で教えてくれている。
これほど考え事をして、ずっと待たせているというのに彼女は直立不動のまま動く気配を見せない。
「行きましょうか」
このままの姿勢で彼女を待たせていては申し訳ない。そんな感情から、私は思考を中断してルナに出かけるように促す。
「かしこまりました」
彼女はまた、抑揚のない声で返答をすると私を先導する形で歩き始める。
そのペースは非常にゆっくりで私の歩調に合わせてくれているのがよくわかる。そういった後姿を見る限りは記憶にある通りのいつも通りの彼女なのだが、彼女を抜かして前に行こうか、ちょっと先へ歩いて行ってみようが、彼女は一定のペースで歩いてみる。
その表情はやはり無表情で、その事実がこの状況の異常さをありありと伝えてくれる。
そのあとも馬車にたどり着くまでの間、話しかけてみたり、手を握ってみたり、果てには抱き着いてみたりしたのだが、彼女の歩くという動作に変化はない。もしかしたら、あの部屋を出た時点から父がかけた魔法により決まったルートを通るようになっているのかもしれない。
「ねぇルナ!」
返事はない。このまま“返事をしてよ”と続ければ、何かしらの返事が返ってくるのだろうが、それでは洗脳の魔法による命令になってしまう。何とも難しいところだ。
そうして、試行錯誤をしているうちにいつの間にか二人は玄関にたどり着き、玄関前に止めてあった馬車に乗り込む。
「……出発させてください」
ルナがそういうと、これまた感情のない表情と虚ろな目をした御者が手綱を握り、やがて馬車が動き始める。
そんな空間の中において、唯一まともな感情がある私はとてもじゃないが、この空間にはいられない。と思うほどには不快であったが、馬車についている小さな窓から外を見ることによって、その現実から必死に目をそらす。
窓の外に映る豊かな新緑は感情のない人間たちに囲まれた私に癒しを与えてくれる。
「ねぇルナ。この馬車はどこへ向かっているの?」
「……」
「ルナ。質問に答えて」
「……この馬車は屋敷の周囲を一周して、屋敷に帰ります」
やはり、洗脳されている間は命令をしない限りはしゃべってくれないらしい。父からそういう命令がされている可能性も否定できないが、おそらくそれはないだろう。なぜなら、わざわざ魔力を消費してそのようなことをする意味がないからだ。そうなると、命令以外では動かなくなる指示待ち人間を作り上げることこそが、この魔法の真意なのかもしれない。
さて、そんな現実を目の当たりにした私は再び視線を窓の外へ向ける。
いっそのこと、魔力が削れるのを覚悟で“町へ行け”とか言ってもいいのかもしれないが、それをしてしまった場合、実現が可能である可能性は低いし、外へ出るときにした約束を破ってしまうことになる。何よりも、一番怖いのはこの魔法を使っていると少なからず魔力というものを消費する。その魔力が切れてしまったときに何が起こるのかわからないので、そういった言葉は必死に心のうちにしまい込む。
「……なるべく使わないように使用って決めたばかりじゃない……」
何よりも、この魔法を乱用しないと決めた自分の心に反することになる。
そんな私の心の中の葛藤など誰も知る由もなく、馬車はゆったりとしたペースで新緑の森の中を進んでいく。
ところで、この世界にはよくあるファンタジーの世界のように魔物だったり、亜人だったりというものは存在しているのだろうか? もし、そうだとしたらエルフに会ってみたい。後で不自然ではない程度に書籍などをあさって調べてみてもいいかもしれない。一応、ルナに聞くという手もあるのだが、もしもその両方が存在しなかったときに変な目で見られるのが嫌なので、その質問は避けてしかるべきだろう。
いや、いっそのこと聞くだけ聞いて、その質問のことを忘れろと命令すれば……
そこまで考えて、私は頭を激しく横に振る。
いや、それだけはだめだ。この魔法は強力ゆえに魅力的だ。その魅力に負けないようにしなければならない。
こんなことになるのだったら、ルナの本名など聞くべきではなかった。
私は外の風景を見るのも忘れて頭を抱える。
5歳児がこれほどの動きを見せているのにもかかわらず、ルナたちは相変わらず無表情のままであるあたりが、この状況の異常さをありありと表現していて、私は恐怖すら覚えた。
そこからは楽しみだった、外へのお出かけの感情はすっかりと消滅し、むしろ早くこの時間が終わってほしいとすら願い始める。
結局、その後は先の約束のこともあって、ルートを変えて早く家に帰ってということもできず、人形のような二人とともに小一時間ほどの外出をし、ようやく家についたころには私はすっかりと疲れ果てていた。
「ターシャ様。わたくしに何を命ぜられたのですか?」
家に帰ってすぐに休もうとしたのだが、命令されたことを覚えていないらしいルナに何をしていたのかという説明をし、ついでに魔法についてもっと詳しく教えてくれるようにと“真名を呼ばないようにして”お願いしておく。
そんな私のお願いをルナは“笑顔で”応じてくれた。その事実に私は少なからず安堵する。やはり、人間笑顔が一番である。