後篇 桜木
敵艦を沈めた後、『回天』搭乗員の不満の種を残しつつ、伊五八潜は北上した。八月一日から二日ごろにかけて、大和田通信所から「敵重要艦船遭難、捜索中らしき敵信多数あり」との情報を受信したが、橋本は特に気に留めなかった。
実はこれが伊五八潜が撃沈した重巡『インディアナポリス』の事であるのだが、あれから日が経っていた事もあり、既に乗員は僚艦に救助されただろうと思っていたので、橋本の発想にはそこまで思い至らなかった。
八月七日の夕刻、新聞電報によって広島に原子爆弾が投下された旨を知る。
新聞電報の内容には、一、二発で街ごと破壊した新型爆弾の威力が記載されていた。常々、米側のニュースを聞いていた潜航長が「これは普通の爆弾ではありません」と言った。
だが、橋本はそれ以上深くは聞こうとしなかった。
聞きたくなかった、と言うのが正しかった。
今更、敵の勝ち誇ったニュースを聞いても、士気を沮喪しこそすれ鼓舞する要素は何もない。自分達は大局判断を下す立場にはいない。ただ一億専心、滅敵に邁進すれば良い。それが軍人なのだ。
更に八月九日、長崎に第二の原爆投下。
同日、ソ連参戦。
次々と、日本が地獄に転がり落ちるような報が届いた。
――ぐしゃり。
橋本は電報の紙を握り潰した。
目の前には、同じく電報の内容の一端を聞いたイツハの顔があった。
「艦長さん」
橋本は思った。彼女はいつからか、初めて会った時とはかなり顔付きが変わった。今も、瞳孔が開いた獣のような瞳をしていた。
「あちしたちに選択肢はない。日本を救えるのは、あちしたちしかいないよ」
最早、かつての少女の面影は、ほとんどない。彼女は、イツハは橋本に訴えている。この窮地を覆し、祖国を救うには、あれしかない。文字通り、戦局挽回の切り札を。
「あちしが守る。そのためには、ひたすら撃滅あるのみ」
橋本は、黙って頷くしかなかった。
彼女の言っている事は正しい。自分達は出来る事はすべて為して、身命を惜しまず護国を成し遂げるべき。それを誰よりも理解し、邁進し、努力しているのは、彼女自身であった。
昭和二十年(一九四五年)八月十日
午前八時
初めての大物を撃沈した伊五八潜は北上中、探信音を捉えた。
「聴音に感あり!」
「潜望鏡上げ」
聴音の報告を聞いた橋本はすぐさま潜望鏡を出した。見ると、遠くに駆逐艦がいた。
「敵駆逐艦、距離七千」
そして、橋本は命じる。
「五号艇、六号艇発進用意!」
回天戦用意。搭乗員たちが各々の『回天』へと乗り込む。その間も、橋本は敵艦の様子を観察し続けていた。敵艦はジグサグ航行をしており、まだこちらには気付いていない。
やがて六号艇から「用意よし」の報告。
「六号艇、発進――」
と、その時。六号艇から異常が起こった。
発進させようとした六号艇から、なんとブクブクと白い泡が噴き出していた。これを認めた橋本は一瞬、焦りを覚えた。これでは泡が水上に出て、敵に見つかってしまう。
橋本は瞬時にこの状況を見抜いた。冷走だ。何らかの原因で、燃料に火が付いていないのだ。これでは発進させたとしても遠くへは行けないし、噴出する泡のせいで、何より本艦の位置さえバレてしまう。そう思うと、気が気でなかった。
「すぐに機械を止めろ!」
機械を停止するよう命じるが、すぐには止まらない。
橋本は潜望鏡で海面を見た。ブクブクと泡が立って、白く色が変わっている。更に機械の音がガラガラ鳴っていて、今にも敵駆逐艦に発見されてしまいそうだ。
やきもきしていると、ようやく止まってホッと安堵する。
気泡を発見され爆雷攻撃が来ると思うと、迂闊に潜望鏡も出せない。
しかし、しばし待つが、爆雷が落ちてくる様子もない。
「来ませんな……」
航海長がポツリと漏らす。橋本は聴音の方を見るが、かぶりを振られる。
「……潜望鏡上げ」
思い切って潜望鏡を出してみる。覗いてみると、これはどういう事か、敵駆逐艦は遠ざかっている。
近い距離では五千ほどであったが、敵は気付かなかったのだろうか?
「なんとか敵に悟られなかったようですね」
「いや……」
橋本はふと思った。どうも『回天』が誕生して以来、敵駆逐艦は従来のように積極的ではなくなった。人間魚雷の噂は敵も知っているはずだ。人間が乗り込んで襲ってくる魚雷と言う存在に敵は怖れている。これは潜水艦にとっては非常に好機ではないか。
この機会に大いに敵駆逐艦に反撃すれば、従来より更にこちらが積極的に戦闘を行い、戦果を挙げる事ができるのではないか。
橋本はそう考えた。
「三号艇、四号艇の発進用意。急げ」
三号艇、四号艇の乗艇を命じる。だが、三号艇から「故障」の報告が入った。
三号艇は林一飛曹の艇だ。涙を浮かべ意見した少年の顔が浮かぶ。艇内で悔しがる彼の姿が見て取れたが、すかさず次の令を下す。
「……五号艇発進」
「よーい、テーッ!」
最後のバンドが解かれ、五号艇が発進した。中井一飛曹乗艇の五号艇は敵駆逐艦に向かって突進していった。
五号艇発進後、聴音が叫んだ。
「新たなスクリュー音! 敵駆逐艦一隻を伴う船団です!」
更にもう一隻の駆逐艦と船団を発見し、これに水井少尉の四号艇を発進させる。
「四号艇発進」
四号艇が離れる。
沈黙にして果断な水井少尉の四号艇は、敵駆逐艦の目前で船団に突入。
爆発――
船団のど真ん中で散華し、敵の船団を大混乱に陥れた。
「更に五号艇の方からも、爆発音です!」
聴音の報告を聞き、橋本は急いで潜望鏡を上げた。そして五号艇が勇躍突進した駆逐艦の方を見ると、最初に発見した駆逐艦の姿がどこにもなかったので、これを撃沈せしめたと認めた。
「浮上だ。メンタンク・ブロー」
周囲に敵がいない事を確認し、浮上。果敢に散っていった二勇士の冥福を祈りながら、伊五八潜は浮上後、更に北上を続けた。
――二つの爆発音を聞き、敵艦の姿がない事から橋本は「戦果」と認めるが、実は二艇とも撃沈されている。
その夜、電探に敵機数機を探知して潜航、約一時間ほど経った頃、今度は水上艦からの探信音を感じた。
「スクリュー音多数、大船団です」
聴音の報告を聞き、橋本は唇を噛む。
潜航直前まで見ていた夜空を思い出す。周囲は全くの闇、敵の探信音。大船団らしいが、見えないので手が出せない。
「月夜だったらなぁ……」
悔しさが滲み出る。特に満月の夜が欲しい。兎ではないが、十五夜の月明かりが恋しかった。
潜水艦を探す水上艦の探信音は、次第に近付いて強くなる。
なので、これに艦首を向けてじっとする。探信音の反響面積をできるだけ最小にするのだ。
「敵、右方向に向かっていきます……」
「面舵。悟られないよう、ゆっくりと合わせていけ」
「おーもかーじ……」
「総員、爆雷防御」
右に移動する敵艦に、こちらも艦首を向ける。こうして敵に気付かれないよう、爆雷防御をして息を殺すしか手はない。
遂に敵の探信音、感度一杯。全周となる。ひときわ大きな探信音が、伊五八潜を飲み込む。
一切の音を立てず、頭上を仰ぐ。
滴る汗が落ちる音さえ聞こえそうだ。自分達は正に、敵駆逐艦の真下にいるのだ。
見つかったかもしれない。そうも思えてしまう。
それでも艦首を向けて、全くの無音状態で、じっと潜める。
しばらく音を出さずに待っていると、敵の探信音は遠ざかっていった。
「………………」
最大の危機は去ったようだった。だが、敵の探信員は居眠りでもしていたのだろうか。
それとも防探塗料と称して塗った塗料が効いたのか。
探信音の反響面積を最小にした措置が良かったのか。
とにかく敵に気付かれなくて本当に良かったが、べとりと肌に滲んだ汗に、未だ胸の内を強く叩く心臓の鼓動はあまり良い気持ちではなかった。
昭和二十年(一九四五年)八月十二日
午後五時
発令所にぶら下げたカレンダーの日付が目に入る。八月十二日。出撃からもう一月が経とうとしていた。
艦に乗組む者たちの体はもはや垢だらけだ。タオルで体をこするが、大きな垢がよれて出る。
そしてタオルは洗わないから、すぐに真っ黒になる。
陸上で一風呂浴びて、すっきりした気持ちが無性に懐かしい。水は艦にとっては貴重だが、殊に潜水艦は水をほとんど使えない。
せめて特攻隊の勇士だけでも、さっぱりした気持ちで出してやりたいと思って、遠慮せずに使うように言ってあるが、皆が使わないので自然と使わない。彼らの心遣いにも困ったものである。
ここ三日、イツハとも口をきいていない。やっぱり臭いかな、と言うのは半分冗談で、潜水艦の艦魂である彼女はそんなものをいちいち気にするタマではない事は知っていた。
しかし寂しいものは寂しいものだ。
これが、娘を持つ父親の気持ちなのだろうかと考えた所で。
思いつめたような、無我夢中に何かを追い求めているような、少女とは程遠い顔付きをしたイツハの顔を思い出す。
あの顔を、橋本は見た事があった。
表情は違うが、その目は同じだった。
散華した特攻隊の勇士たちと――
初陣の時、特攻隊勇士と心を共にするため、白鉢巻をその額に巻いた。
本当に彼女は、特攻隊の勇士と一つにならんとしているのだろうか。
この潜水艦、伊五八は、彼らを送り出すたびに、どんな思いを抱え、見送っているのか。
イツハ、君は――
「感あり! 三時の方向!」
「――!」
水上電探が艦の右真横から、敵電探を探知したという報告が入った。聴音の声を聞いて、橋本は咄嗟に増速を命じ前へ出ようとするが、更に同じ方向から別の電波を探知した。
「敵艦の数は二隻か?」
「おそらく」
「距離と速力は……」
橋本がそちらの方へ気を取られていると――
「マスト発見!」
発見した船のマスト。それは反対方向に聳えていた。
「急速潜航!」
即時、海中へと深く潜航する。そして午後五時十六分、潜望鏡を覗いていると確かに敵らしき船の影が見えた。
「回天戦用意、魚雷戦用意!」
伊五八潜の艦首が敵艦に向けられる。前回の回天戦では艇の機関故障で出撃し損ねた林一飛曹に、三号艇の乗艇を命じる。その間にも、橋本は潜望鏡で、次第に近付いてくる敵艦の姿を観察していた。
敵は一万五千トンクラスの水上機母艦らしい。前の戦艦に続く大物だ。林一飛曹も喜ぶ事だろう。その林一飛曹の三号艇から「用意よし」の報告が上がった。
「敵は水上機母艦のようです。頑張ってください」
「ありがとうございます。艦長、お世話になりました」
待ち望んでいた出撃の時を前にして、覚悟が決まった男の声とはこれ程のものなのか。まるで、これから死にに行く者とは思えない冷静さだった。
「成功を祈ります……」
「必ず仕留めます。天皇陛下万歳!」
電話が切れる。それが彼の最後の言葉となり、三号艇の機械が動き出した。
毎度の事ながら慣れない胸の苦しさを押し殺すようにして、橋本は下令した。
「……三号艇、発進」
「よーい、テーッ!」
先任伍長の号令に従い、最後のバンドが解かれる音が鳴り響く。
そして聞き慣れた、そして生涯忘れる事のない、電話線の切れる音。
三号艇の推進音が遠ざかる。待ちに待った林一飛曹の三号艇は、敵艦に向かって勇躍突進していった。
林一飛曹の三号艇発進後、潜望鏡で再びよく見ると、前に駆逐艦が一隻いる。じっと潜望鏡を上げて見ていると、敵は盛んに煙突から黒煙を噴き出し始めていた。
三号艇が突っ込んだのだ。自分達の方へ来る『回天』を見つけ、敵はいち早く遁走し出した。右に左にと走っていて、幾数もの水柱が立っている。敵の猛烈な迎撃を浴びる三号艇を橋本は心配した。
そのうち、爆音が聞こえた。命中したかと思って見てみると、敵駆逐艦が反転し、爆雷攻撃を行っていた。
そして遂に、大黒煙と水柱が立った。その瞬間、潜望鏡の手を下げて思わず合掌する。
黒煙と水柱が溶けて無くなり、水上が晴れた。そこには敵艦の姿はなく、林一飛曹の突撃が成功したと思い込んだ。
一万五千トンの巨艦を一瞬にして屠ったと思い、久方ぶりに胸の溜飲が下がったのを感じた。
その後、伊五八潜は乗員一同粛然とし、熱血熱情の少年林一飛曹の冥福を祈りつつ、夕闇迫る海上に浮上し、北上を続けた。
――実際に、この日伊五八潜が発見した敵は水上機母艦ではなくドック型揚陸艦『オーク・ビル』と、護衛駆逐艦『トーマス・F・ニッケル』であった。二隻はレイテ湾に向かう途上、『トーマス・F・ニッケル』が『オーク・ヒル』に並走する魚雷を発見。この魚雷こそが、林一飛曹の操縦する『回天』であった。
林一飛曹は最初、敵大型艦を狙ったが、随伴の駆逐艦に邪魔されたため攻撃目標を敵駆逐艦に変更。体当たり。
しかし突入角度が浅かったため、『トーマス・F・ニッケル』の横腹を擦っただけだった。
その直後、爆発。『トーマス・F・ニッケル』は至近距離にいたため機関部に損傷を受けたものの小破に留まり、沈没の心配はなかった。
だが、この二隻は林一飛曹の三号艇の攻撃を見て恐慌に陥り、『回天』がまだ潜んでいるのではないかと僅かな白波や波紋にも怯え、見えない敵と二時間も戦い続けたという。
昭和二十年(一九四五年)八月十五日。
沖縄沖
北上に北上を重ねていた伊五八潜は沖縄の沖合三百浬にまで達し、そこから豊後水道に向けて、水上を尚も獲物を求めて走っていた。橋本は艦橋に立って、水平線彼方の夕日を見上げていた。
「艦長……」
と、その時。開けたハッチから顔を出した電信員長が、橋本を呼んだ。その顔は今にも涙を零しそうな悲しい表情をしていた。
「どうした?」
その顔を見て、不吉な予感を覚えながら訊ねる。
「ちょっと降りてきてください」
辛そうにそう言う電信員長に呼ばれ、橋本は艦橋から降りる。しかしそれだけに留まらず、士官室の隅の方まで引っ張っていった。
士官室にいた二、三人の士官が、訝しげに視線を送る。
「一体何か」
「……こんなものが来ました」
電信員長が見せたのは、新聞電報の電文だった。その電文を見た途端、橋本はその書いてある内容を目にし、一瞬、立ち眩みのような感覚を覚えた。
それは、終戦の詔勅だった。
所々が抜けているが、日本が降伏したと言う事が読み取れる。一瞬、その内容に呆然とするが、これが新聞電報だと気付いて我に帰る。
「……デマかもしれない。破って捨てておけ」
あくまでこれは新聞電報。司令部からの正式な命令ではない。
だが、その時既に横に集まっていた士官の一人が、言った。
「デマ放送にしては巧妙すぎますね……」
彼の言う事もわからないわけではなかった。その場で新聞電報の内容を知った士官たちの顔にも不安や動揺が広がっている。
しかしその中においても、橋本は毅然として艦長としての立場を堅持した。
「我々は新聞電報の内容で進退を決する事などできない。正式の停戦命令がなければ、まだ戦争中だ」
そして電信員長を含めた士官たちに告げる。
「この事は乗員たちには絶対に知らせるな。以後の電報は全部下書きのまま、私の所に持ってこい」
橋本は艦の乗員たちに、終戦の電報の事は一切知らせない事にした。
たとえ正式な命令だったとしても、戦闘航海中である以上油断は絶対に禁物だ。そして何より、敵より恐ろしいのが、艦の操作に携わる乗員たちに影響を及ぼす事である。
日本が負けた、などと知れば、その衝撃は計り知れない。動揺した乗員が、潜航、浮上の際に操作を誤り、艦が沈没してしまう危険があった。少なくとも内地に帰り着いて、潜航の必要がなくなるまでは、意気揚々のままでなくてはならない。
そしてもう一つ、橋本が懸念する点があった――
その日の夜、豊後水道に向かう途上、橋本は艦橋に上がった。
今は無き『回天』の台だけが寂しく残る前部甲板に、ポツンと座る小さな背中があった。
艦橋から甲板に降りた橋本は、その背中に向かって歩み寄る。
「………………」
直前まで歩み寄り、気付いた。
破って捨てさせたはずの電報が、その手に握りしめられている。
前から吹く夏の南海の潮風が、妙に肌寒い。
「……日本が負けただなんて、嘘だよね?」
それはまるで細い糸のような、今にもプツンと切れてしまいそうな程にか細い声だった。それでも彼女の声を久方ぶりに聞いたような気がする。
「戦争が終わっただなんて、ありえない。あちしはそんなの信じない……」
「イツハ……」
その手に握りしめる電報の内容は、おそろしく真実味があった。橋本は部下の前でああいう事は言ったが、本当にデマ放送だと信じているわけではなかった。
後ろ姿を向けたままの顔は、橋本の方からは見えない。だが、橋本にはなんとなくイツハの表情が見て取れていた。
「……まずは基地に帰る。それまでは、戦闘航海中だ。我々の戦争はまだ終わっていない」
「………………」
それ以降、橋本はイツハと話す事はなかった。
基地に帰投するまでの二日間、橋本は一瞬も警戒を緩ませる事はせず、対敵行動の必要から潜航、浮上を繰り返しながら航海を続けた。
彼女の意志が、心が、この艦に乗る乗員たちにも影響を及ぼす可能性を考えながら。
些細な異変を察している乗員はいても、遂に基地に到着するまで、終戦の事は誰にも知らせなかった。
八月十七日、伊五八潜は平生基地に帰投。
そこで前部甲板に総員集合させ、橋本自ら終戦の詔勅を涙ながら拝読し、いよいよ最後の時を迎えた。
「我々は大詔を奉じ国体の護持を祈って矛を収めた。特攻隊員の霊よ照覧あれ!」
橋本は心の底から叫んだ。我が祖国の苦難の道はますます険しくなり、日本と日本国民に対する試練はまだまだ続くのである。
この時、伊五八潜と橋本艦長始めとする乗組員一同の戦争は終わった。
●
幾つもの死を乗り越えてきた。
幾つもの命を乗せてきた。
幾つもの心を旅立たせてきた。
祖国を守る艦の一隻としてこの世に生まれ、他の艦が、仲間たちが力尽きても、自分は最後の時まで戦い続けた。
戦局挽回の願いを込めて、何人もの若者が乗り込んで往くのを見送り、その幾つもの身命が海の藻屑に消えるのを見届けた。
しかし悲しみに暮れる暇はない。日本を守る潜水艦として、同じ想いを抱いて旅立つ彼らの戦ってきた意味を、証明するために。
戦争が終わった。日本が負けた。だからもう戦わなくて良い。
では
「それじゃあ、あの人たちの死は何だったの――!?」
彼女の泣き叫ぶ声に、答える者はいない――
母港にいるのは、生き残った艦は、ほとんどいなかった。
●
終戦後、伊五八潜は平生基地に帰還後呉の母港へと着き、錨を下ろした。呉軍港空襲で大破着底した戦艦や巡洋艦、空母などが傷ついた身を横たえ、海水に浸からせている姿は、今更になって日本の敗戦を実感させる光景として映えた。
これまで戦ってきた結果が、こんなものかと考えると一体何のために戦ってきたのかと言う愚考にまで陥る。敗戦とは全ての努力や行いの意味をすべからく無にする結果であり、それ以上でも以下でもない。
何より身命を賭して特攻に消えていったツワモノたちの魂が浮かばれない。その名に込められた願いも空しく朽ち果て、これを使用し、共に戦ってきた身としては、屈辱とはまた言い表せない感情に嵌る。
だけど、彼の本心を知りながら、尚も堕落する自分自身を、何よりも嫌悪した――
昭和二十年十月、進駐軍は呉軍港に進駐してきた。この時、橋本は司令退隊後の代理を兼ねて、伊五八潜に残って、引き渡しの準備に連日多忙の日々を過ごしていた。
後日、米海軍の潜水艦調査団が呉に入り、数日にわたって日本の潜水艦に対する調査が行われた。
その時、橋本は案内役として調査に付き合った。
日本海軍だけでなく陸軍の潜水艦にも調査の手が伸びたある日、橋本自身もまた初めての陸軍所属の潜水艦を見ながら、案内をしていた最中、米海軍の軍人から「最近、巡洋艦を撃沈した潜水艦長はいないか」と訊ねられ、橋本は各潜水艦長の撃沈艦艇についての記録を米海軍側に提出した。
戦犯にされるという危惧の声もあったが、戦争中に敵艦を撃沈するのは当たり前だとして、何の心配もなく潜水艦長の記録を提出したのだった。その後、多忙の日々に身を投じた事もあって、やがて橋本の頭からはすっかりその時の事が抜け落ちていた。
十一月に入って、進駐軍の命令により佐世保に回航。引き渡しの日を待つうちに駆逐艦への転勤を命ぜられたが――
「イツハ、お別れを言いに来た」
佐世保の港内に錨を下ろした伊五八潜。その甲板の上、橋本は指先に凍てつくような寒さを感じた。冬を目前に控えた冷たい潮風が空気を凍らせているのか、はたまた自分と彼女のもはや取り返せない冷めきった関係から染みだした空気に冷やされたからなのか。
そんな事をふと考えて、急に胸が締め付けられるような圧迫感を感じた時には、どんな色を宿していたのかさえ思い出せない瞳がこちらを向いていた。
「急遽、米国に行く事になった。おそらくここにはもう戻ってこない」
「………………」
「だから、お前に別れの挨拶をしたかった」
虚脱した空に染まった瞳。悲哀の底で燻る意識。もはや艤装の時に出会った頃とは別人のようになり果てている少女に、橋本は今の自分の行いが如何に残酷な行為であるかを恐れた。
しかしこの行為が彼女を少しでも立ち上がらせる手助けになると信じて、同時に根拠のないその願望を認め、この悲しい現実に甘える自分を憎む。
「……元気でな。今まで有難う」
ジッと見詰める虚空の瞳。それは別れる橋本を呼び止めていない。だが、橋本は踵を返そうとする足を上げ、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
どうしてこんな思いを彼女に向けるようになってしまったのだろう。変わったのは彼女だけではない。自分もだ。
敬礼を掲げ、別れの言葉を口にすると、橋本は重い踵を返し背を向けた。
だが、立ち去ろうとした橋本を、呼び止める声があった。
「……待って」
「――!」
確かにその声を聞き、足を止める。そして驚愕しながらも振り返った。
そこには、覚えのある色を宿した瞳から、涙を零したイツハの姿があった。
「艦長さん……あちし、艦長さんの気持ちも考えず、酷い事しちゃったね」
「……何を言っている。そんな事は決して無い」
「ううん。あちしは、艦長さんの本心を知っていた。艦長さんはいつも皆の命を大事に考えてくれていた。それなのに、あちしは……」
「イツハ……」
「あちし、知ってるよ。あの日、『回天』の人達が出撃をせがんだ時。艦長さんは無視してたけど、本当は皆に生き延びてほしかったんでしょ? 彼らに詰め寄られた時も、艦長さんはそれを伝えたかったけど、言えなかった。それは言ってはならない言葉だったから」
橋本は、余りの衝撃に言葉が出なかった。足がまるで打ち付けられた釘のように、その場から動かせられなかった。
「ごめんなさい。そして有難う。あちしは艦長さんと出会えて、本当に良かった」
「イツ、ハ……」
やっと漏れ出た声も、彼女の名前を呼ぶのに精一杯。
自分はなんて思い違いをしていたのだろう。
彼女はちっとも変わってなんかいなかった。
この娘もまた苦しんでいた。生まれた時から特攻兵器を積み、外れた道をひたすら突き進んだ己の戦いを。それを理解した上で、彼女は潜水艦としての身命を全うし、生きてきたのだ。
「礼を言うのは私の方だよ」
泣きそうだった。だが、涙を見せるわけにはいかなかった。
笑って彼女と別れたかったから。
「今まで有難う。お前は、私の誇りだ」
海軍軍人らしく敬礼を掲げる橋本の口元は言うまでもなく、そして相対するイツハの顔もまた、橋本の表情を継続させるのに十分な程、明るく、そして美しく輝いていた。
建造の頃より思い出深い長き間柄だった潜水艦と別れた橋本は、軍事法廷の証人としてワシントンに飛ぶように言われ、米国へと出張に旅立った。
この軍事法廷こそが、フィリピン海で撃沈した重巡洋艦『インディアナポリス』のチャールズ・B・マクベイ三世元艦長に対する軍法会議だったのだが、橋本はこの重巡を撃沈した潜水艦艦長として証人喚問を受け、当時の状況を証言するためにわざわざ米国まで呼び付けられたのだった。
渡米した橋本にはまず予備尋問が行わえた。米軍の関心事は二つあった。「『インディアナポリス』と認識した上での攻撃であったか?」「『インディアナポリス』が適切な行動(ジグザグ航行)を取っていれば撃沈は防げたか?」の二点であった。
撃沈された『インディアナポリス』は広島・長崎に投下された原子爆弾の重量部品の輸送という極秘任務に就いていた艦だったため、「『インディアナポリス』と認識していたか?」という疑問は、米海軍側が情報漏洩があったかどうかの確認であったのだろう。
しかし伊五八潜が『インディアナポリス』の航路上に居たのは偶然の結果であり、橋本も「ただ多くの敵と出会いそうな所におったに過ぎない」と証言し、橋本自身が、攻撃した艦艇を『インディアナポリス』と知るのはこの時が初めてだった。この点は米軍側も確認作業的な部分が強かったのだろうと思われる。
実際は後者の「『インディアナポリス』が適切な行動を取っていれば撃沈は防げたか?」という点に、米軍は強い関心を持っていたのである。
当時米海軍内では当時の『インディアナポリス』艦長チャールズ・B・マクベイⅢ世大佐の責任問題が紛糾していた。『インディアナポリス』乗員の犠牲は沈没そのものよりも沈没から救助までに時間がかかり、漂流中の死者の方が多かった事から、批判が集中していた。この軍事法廷には、マクベイ艦長へ全責任を押しつける意図があった。
橋本は「『インディアナポリス』がジグザグ航路を取っていたら沈没は防げたか?」の質問に「位置的に見てジグザグ航路を取っていたとしても撃沈は不可避であった」と陳述。これは米海軍の思惑とは違う回答であったのか、何度も色々と尋ねられ、更に橋本の証言が米軍側の思惑に沿って訳されたため、橋本が抗議までして修正を求めた有様だった。結局、橋本の証人喚問は無為に終わってしまい、橋本帰国後、マクベイ大佐は有罪と判定されてしまった。
昭和二十一年(一九四六年)四月一日
佐世保
――戦争を生き延びた日本海軍の潜水艦に海没処分の命が下った。終戦間際に重巡『インディアナポリス』を撃沈した伊五八もその一隻に含まれていた。
佐世保港内には複数の潜水艦が浮かんでいた。その一艦は、鋼鉄の身に桜の木々化粧を施し、まるでその姿は花嫁姿のようないでだちであった。
艦橋やマスト、アンテナなどに桜の枝を括り付けられた伊五八潜は、静かに佐世保を後にし、五島列島沖に向かう。
かつて『回天』が鎮座していた台があった前部甲板に、イツハは立っていた。乗員が装飾してくれた桜の枝の一本を、イツハはその手に大事そうに持っていた。
五島列島沖に回航された潜水艦群は、米軍の艦船による砲雷撃及び爆雷によって爆破処分される事となった。
春風が吹く中、伊五八は桜の花びらを微かに散り咲かせながら、最後の航海に出た。
そして処刑台の海に停まったその姿は、さながら海上に咲く静美な桜の木のようであった。
イツハは遠くからこちらに狙いを定める米軍の艦艇群を見詰めていた。仲間を沈めた日本の潜水艦を、彼女らは、彼らは憎んでいるのかもしれない。
しかしここで自分達が沈められる事で、怨嗟を断ち切れるのなら本望だ。怨嗟の連鎖を量産する戦争の兵器の末路としてはふさわしいのではないか。
だが、そんな自分達を我が娘のように想ってくれている人達の心も知っている。だから大丈夫。彼らは泣いてくれている。それだけで十分である。その温かな心を知り、救われない者などいるはずがない。
そして何より、イツハの目には自分を愛してくれた人々の姿が映っていた。
その中央で、こちらに笑顔を向け、見守ってくれている艦長さん。
この場にはいないが、場所だけではなく時という概念すら越えて、彼が自分の散りゆく姿を見ていてくれている気がした。
もし、死後の世界があるとしたら――
みんなと一緒がいいなぁ。
そうすれば、先に海の底へ沈んだみんなに会えるのに。
そして、自分は、待ってあげられるのに。
砲声が鳴る。イツハは桜の枝を胸に寄せ、大事に抱きかかえた。周囲を覆い尽くすような轟音と共に水柱が立ち昇り、己の体が海中に飲み込まれていく感覚を覚えた。
飛び散った桜の花びらのひとつひとつが太陽の光を受け、大きな光となって視界いっぱいに広がり、いよいよ世界が真っ白に包まれた。
――伊号第五八潜水艦、五島列島沖にて沈没。
●
昭和二十一年四月一日、激戦を生き抜いた伊号第五八潜水艦は五島列島沖で、他の二十三隻の潜水艦と共に米軍の実験標的艦として海底へと姿を消した。
伊五八潜の艦長だった橋本以行中佐は戦後、川崎重工造船事業部に勤務。後に神職の資格を取り、梅宮大社の神職となる。図らずも『回天』搭乗員の運送と出撃の任を負っていた事、もっと早く哨戒海域に付いていれば広島と長崎への原爆投下を防げたのではないか、艦を撃沈後に海上捜索していれば捕虜から原爆の秘密を聞き出せたのではないか、など様々な自責の念から、戦没者の御霊に鎮魂の祈りを捧げながら余生をおくった。
あるドキュメンタリー番組の中で、戦後米軍によって接収された潜水艦の映像が取り扱われた。
これは米国防総省に保存されていたカラーフィルムで、その映像には勿論、処分直前の伊号第五八潜水艦の姿も映っていた。
当時潜水艦長の一人として出演した橋本は、海没処分される彼女の姿を見て、静かに涙を流し、こう言った。
「あの艦は、私の人生の全てでした」
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶりです。伊東椋です。
前作の『雪風』に続き、数多くの日本海軍の艦の中からまた有名な艦を題材とし、とりわけ潜水艦の中でも知名度が高いであろう伊五八を主役とした今作。これまで十作以上の艦を扱ってきましたが、潜水艦は今作で二隻目でした。
伊五八の艦魂作品自体は他の方が執筆された過去もあり二番煎じ感(今作に限った事でもないけど)は溢れていますが、日本を最後まで守り続けた潜水艦の中でも彼女は色々な意味で私の中でも印象深い潜水艦だったので、今作の投稿に至る事になりました。
伊五八を書くという事は、切っても切れない『回天』の関係も書かなければいけない点がありますので、作業中も色々と考えさせられました。
しかし私自身、色々と思う事はあっても、特攻自体は必死である以上、それは絶対に肯定すべきものではないと考えます。特攻を美化したり、賛美するつもりはありません。ですが、特攻隊員の気持ちだけは否定する謂れはないとも思います。彼らの遺書や書籍を読んで、隊員の気持ちを自分なりに想像した上で今作を執筆しましたが、これがそのままイロハの人格にも反映しているのかもしれません。
今作が今までの自分の過去作品と大きく違うのは、このように艦の事だけでなく特攻隊員の戦いも扱わねばいけなかった部分があったので、その描写を書くのも難しかったというのも正直な感想です。
今作の投稿に先駆け、過去の伊八を扱った作品、伊号第八潜水艦 ~形にして残せる記憶~を先日、加筆
修正を行いましたので、もしよろしければそちらの方もぜひご照覧くださいませ。
ここまでで十分冗長ではありますが、ちょっとここで作中に書き切れなかったので捕捉を少し書かせてください。
(捕捉・橋本中佐とマクベイ大佐)
伊号第五八潜水艦の艦長であった橋本以行中佐は、戦後、沈没した重巡『インディアナポリス』の艦長マクベイ大佐の責任を問う軍法会議の「証人」として米国に渡ります。
橋本中佐は裁判に伴う予備尋問で「『インディアナポリス』と伊五八の位置関係であれば之字運動をしていても魚雷回避は困難だった」と証言しましたが、本裁判ではこの証言をする機会は無く、無為のまま帰国する事となりました。
この辺りまでが作中で書いた通りです。
マクベイ大佐の裁判は罪状のうち一の点は有罪、二の点は無罪という事になりましたが、米海軍上層部の嘆願により裁判は中止されマクベイ大佐の逮捕は免れ、現役に復帰します。しかし特に軍務に就く事はなく四年後に退役、尚も続く批難の声に苦悩し、最期はピストル自殺を遂げてしまいます。
それから半世紀近く経ってから、一人の米国人少年の活動によって当時の裁判の再調査が行われ、橋本中佐の証言も見つかり、2000年には米国議会でも承認され、マクベイ大佐の名誉回復が実現しました。橋本中佐はこの際のマクベイ大佐の名誉回復運動に手紙を送るなどの協力を行い、マクベイ大佐の名誉回復が実現する五日前の10月25日に亡くなりました。
捕捉と言いながら読み辛い文章で本当に申し訳ないです。物を書くってホント、いつまで経っても難しいね。色々な意味で。
でも楽しいから、また気が向いたり暇ができたら書いたりします。
その時までまた。
では、ここまで読んで頂いた方、本当にありがとうございました。




