中篇 回天
金剛隊帰還後、日本海軍は硫黄島に上陸した米軍に対して回天特別攻撃隊として千早隊を編成し、硫黄島周辺海域に遊弋する敵艦隊を攻撃するため、『回天』を積んだそれぞれの伊号潜水艦を投入した。だが、結果的に伊三六八、伊三七〇潜の二隻を失い、生還した伊四四潜は、艦長が命令違反を理由に解任、左遷されるなど、千早隊はまったく失敗に終わった。
しかし日本海軍は、この機会に少しでも敵に損害を与えようと、伊五八潜などに硫黄島への出撃命令を下し、伊五八潜は神武隊に編成された。
三月一日、呉出撃。回天発進予定地点に指定された硫黄島北方海域に向かった。
しかし作戦変更のため、途中でやむなく帰還した。伊五八潜はまたしても戦果を挙げる事ができなかったのである。
続いて三月三十一日、戦いの舞台は硫黄島から沖縄に移り、日本海軍の潜水艦部隊も沖縄へ投入。伊八潜を始めとした通常潜水艦七隻と、『回天』を搭載した伊五八潜などの回天特別攻撃隊多々良隊の四隻が出撃した。
昭和二十年(一九四五年)四月二十五日
午前一時 沖縄北方海域
呉を出撃してもうすぐ一月。荒天や敵機の警戒網などでなかなか沖縄に辿り着けなかったが、この時、伊五八潜はようやく沖縄の沖合まで到達。いくらかのうなりはあるが、静かな海上を伊五八潜は航行していた。
途中、余りに敵の警戒が厳しかったため、一時は沖縄に特攻出撃した戦艦『大和』を始めとした艦隊に合流し付いていこうと思ったが、結局艦隊には出会えず、合流は叶わなかった。
「何とかここまで辿り着けましたね。やはり、電探を改良したのが正解でした」
「うん。おかげで敵機を何度もやり過ごす事ができた」
橋本が航海長と話していたのは、出撃前に改装された対空電探の事だった。これまでの作戦中、幾度も不評を買った対空電探に、性能の良い八木アンテナが採用された。これにより改良された対空電探はその性能を発揮し、遠くから飛んでくる敵機をいち早く察知し潜航できたため、敵の厳しい警戒もどうにか潜り抜ける事ができた。
後に橋本はこの対空電探の改善が伊五八潜の寿命を延ばしたと語っている。
「電探に感あり!」
その時、対水上艦艇用電探に敵艦の電探が探知された。これを聞いた橋本はすぐさま号令をかける。
「両舷停止。急速潜航」
静寂に包まれていた艦内に喧騒が走る。見張りの当直が艦内に飛び込み、ハッチが閉められた。
「ベント開け。 深さ二〇」
上部に付いているベント弁が開き、メインタンクに詰まっていた空気が一斉に噴き出した事で、浮力を失った艦は瞬く間に海中へ下がった。
指定深度に潜った伊五八潜から、橋本は敵艦の様子を見るために潜望鏡を上げる。潜望鏡を覗き込むと、船の灯りが見えた。
緊張感が漂う中、橋本の声が通る。
「……病院船だな」
よく目を凝らして見てみると、走っていたのは病院船だった。攻撃するわけにはいかないので、見送る事にする。
病院船を見送った伊五八潜は、そのまま沖縄の沖合を進んだ。
休憩を取るため持ち場を航海長に任せ、ふと思い立ち、橋本はイツハの姿を捜した。
彼女は艦そのものなのだが、艦魂としての姿をこちらから捜すのは少し一苦労。狭い艦内には百人の乗員が敷き詰められ、彼女が見えるのは自分だけだから、一人で捜すしかない。
だが、思いのほか簡単に見つかる事もある。
イツハは艦長室にいた。無断で部屋に入るなと怒る事はない。この艦は彼女そのもの。
入室した橋本を、丸い双眸が迎える。
「どうした?」
「神棚に、お願いしてた」
視線を向ける。合掌するイツハの先には、部屋に据えた神棚があった。
彼女が何を抱いて神棚に手を合せたのか。橋本は問いかける意志を持つ事はなかった。
その額に煌めく回天特攻隊の白鉢巻。初陣から、特攻兵器を抱えて出撃する彼女の胸中は如何ほどのものなのか。
「ねえ、艦長さん」
神棚に視線を向けたまま、イツハは言った。
「死んだ後って、どうなるんだろうね?」
「どうした。不吉な事を言うね」
「あちし思ったの。もし死後の世界があるとしたら、それは人間しか行けない所なのかな。もし、あちしたちにも、沈んだ後、行く世界があったら……あちしは、みんな一緒が良いなぁ」
彼女の言葉の意図を、橋本は真の意味で理解はしていないかもしれない。だが、橋本は純粋に自分が思った事を伝えようとした。
「少なくとも、私は死後の世界を信じている」
イツハの言っている事は、命ある者なら必ずしも考える事だ。世界の宗教を紐解けば、人間が死後の世界を意識している事は自ずと知れる。神道においても、死後の世界は存在する。
そしてイツハが言葉にした願いとは、その通りの意味。その白鉢巻姿を見れば、彼女の願いは知れた。
「信じる者を裏切る事は決してない。心を持って全うすれば、必ず叶う」
「そっか……」
「何だ? まだ死を意識するには、早いぞ」
「どうせ遅かれ早かれでしょ。わかってるくせに」
「そうだな。だが、死に急ぐ必要もないんだ。本来なら」
「うん」
でもね、と。強い意志がこもったような瞳を、橋本に向ける。
「あちしたちは戦わなくちゃいけないんだ。それがあちしたちが生まれた意味だから」
少女の姿で忘れてしまいそうになるが、彼女はこの潜水艦の魂――正真正銘の兵器なのである。生まれた時から国を守るために戦う事を宿命付けられた、最初から人間が魚雷に乗るという兵器を積んだ潜水艦。
これまでに橋本が出会った潜水艦の艦魂と彼女が違うのは、その部分だけである。
しかしそれが彼女の意志に影響を及ぼしている。
その生まれたての子供のような瞳の奥に、橋本は果てしない虚空に似た、彼女の隠された澱みを垣間見た気がした。
「――!」
突然、イツハがピクンと頭を震わせた。
橋本がどうしたと訊ねる前に、艦を揺さぶる振動が襲った。
「これは……ッ!」
その瞬間、橋本はイツハの瞳に鋭利な光が宿るのを見た。
すぐさま、橋本は発令所へと走る。
続けて、再び振動が襲った。遠くから爆発音も聞こえ、橋本はこれが爆雷攻撃であると察した。
発令所に飛び込むと、踏ん張った体勢の航海長が顔を向けた。
「艦長!」
「潜望鏡上げ! 聴音、状況報せッ!」
上げた潜望鏡を覗く。その間にも、九回の爆発音が連続して聞こえてきた。だが遠い。ミシミシと、艦内の壁が軋むような音を鳴らす。
潜望鏡を覗く橋本の目に、波の合間から一、二本のマストが近くに見えた。巡洋艦かと思ったが、どうやら駆逐艦のようだ。数は三隻だった。慎重に様子を伺っていると、旗流信号が揚がり一斉にこちらに向いた。
「見つかった!」
直ちに潜航を命じる。配置に就いた乗員たちが一斉に動き出す。
「航海長、深さ九〇」
「深さ九〇!」
「爆雷防御。衝撃に備え!」
こちらに三隻の敵艦が向かってくるのを見て、橋本は艦を潜らせた。一瞬、頭の中に『回天』が過ったが、出撃から一ヶ月も経っているために十分な整備が行き届いておらず、発進はできないと考えた。回天戦は不可能。とりあえず潜航するしかなかった。
深度計がぐんぐん下がり、遂に九〇を指した。
「両舷停止。後進一杯」
海中で、艦が停まる。艦内がシンとなった。
近くに三隻の推進器音が聞こえてきた。やはりこちらを見つけていたのだ。だが、じっとしている他はない。乗員たちは爆雷防御の号令に従い身構えているが、あくまで気休め程度にしかならない。
ますます近くに来る。
艦尾の方から、真上に向かって一隻。そして左右に二隻がいる。正に爆雷攻撃、正眼の構えだ。これに対してこちらは深度九〇メートルの海中で無音潜航。
静寂。ただ、近付いてくる敵艦の推進音だけが聞こえてくる。その音はどんどん近付いてくる。
「………………」
ふと、頭上を見上げる。
直に推進音が聞こえてきた。いよいよ真上に乗りかけてきたのだ。
静まり返った艦内に、気味の悪い時間が流れる。爆雷の衝撃が来るかと思ったが、一向に音沙汰がなく、そうしているうちに推進音がどんどん遠ざかっていく。
反転して、本格的に落とすつもりか――
しかし橋本の懸念は外れた。敵艦が行ってしまった方向から、爆発音が聞こえてきた。
これを聞いて、橋本はホッと安堵の息を吐いた。
「面舵一杯。反転する」
敵が思った程ではなく、安心した。今のうちに敵に尻を向け、ここから離脱する。
この時の敵艦は無事に巻いたが、輸送船団などの好目標は来なかった。敵の交通路だと思ったが、遂に本国からの帰投命令を受け、呉に帰る事になった。
四月三十日、伊五八潜は呉に帰投した。
だが、沖縄方面に出撃した潜水艦の中で、帰ってきたのは伊五八を含む二隻だけだった。
沖縄に向かった潜水艦のほとんどが帰らず、『回天』を搭載した潜水艦はその数を減らしていった。当初、『回天』を積んで出撃できる潜水艦は延べ十八隻に及んだが、ここに至って六隻を失っていた。
回天戦を実施する潜水艦の損耗率が激しく、日本海軍は研究の末、回天戦の作戦行動を敵根拠地や泊地への攻撃から、沖合いに出て敵の交通路を狙う手段へと切り替えていった。
そして伊五八潜は、四基から六基の『回天』を搭載できるように改装が進められた。艦橋前方の飛行機格納筒を撤去し、新たに二基の『回天』が搭載できるようになり、更に全ての『回天』が艦内から直接乗艇できるようにハッチが設けられた。
改めて回天戦に特化した伊五八潜は、新たな出撃の機会を待っていた。
呉の港内に碇泊した伊五八潜の艦上で、イツハは『回天』に乗りかかり、焼け野原となった呉の街並みを見渡していた。
遠くの山々の陰に隠れるように、大型の水上艦がひっそりとしている。出撃前は自分の横に見えていた『大和』の巨艦の姿も、今はどこにもない。
日本海軍が本当の意味で力尽きた今、戦いの海に打って出られるのは潜水艦だけであった。
「……あちしが、やるしかないんだ」
イツハは目の前の呉の惨状を見、意を決するように呟く。
傍にある、正に兄弟のように共に過ごしてきたその兵器を、撫でるように触る。
最早、一億の民と国を守る手は、それしかなかった――
遂に、出撃の時は来た。
七月十六日、伊五八潜は多聞隊の一艦として呉を出る事となり、いよいよ出撃準備が完了した。他潜水艦が逐次出撃する中、伊五八潜の艦橋にいた橋本は号令をかけた。
「出港用意!」
橋本の号令一下、艦上にはサッと非理法権天と宇佐八幡大武神の幟が翻った。例によって艦橋の横腹に描いた日の丸の上に、黒地に白い菊水を染め抜いた紋所を掲げている。
上甲板には乗員たちが整列しており、その服装は防暑服に宇佐八幡宮の神印を打った白鉢巻姿である。
「前進原速」
橋本の号令により、艦が桟橋を離れる。それに倣うように、軍艦マーチの斉唱が起こる。見送る者たちの万歳と歓喜の声に応え、乗員たちが手を振る。
岸壁にて見送る者は軍人は勿論、呉工廠に働く工員や女事務員、女子挺身隊の面々も含まれており、彼女らは熱心に帽子やハンカチを振った。
呉工廠の大半は既にこの時空襲で破壊され、呉の市街地も中心部はほとんど焼き尽くされていた。かつて港内に所狭しと碇泊していた戦艦、空母等始め大小無数の軍艦は、もう見る事はできなくなっていた。遠く外洋に出て、敵に一矢を報い得るものは潜水艦だけである。
本当に自分達しかいないのか、と悲しい思いを抱きながらも、見送る者の気持ちが電波のように乗員たちに伝わりながら、伊五八潜は変わり果てた呉軍港を背に平生へと向かった。
呉を出港後、伊五八潜は平生にて『回天』の搭乗員六勇士を乗せる。天地を揺るがすような特攻隊同僚たちの「後より行くぞ」「しっかりやれよ」「成功を祈る」といった熱い声援に見送られ、六勇士を乗せた伊五八潜は平生を出、フィリピン東方海面を目指した。
夕靄の中に消えていく祖国日本の最後の島影。その島影をいつまでも眺めている者たちがいた。
六人の若者たちが肩を並べながら、上甲板から遠ざかる島影の方角に顔を向けていた。
橋本はそんな彼らの姿を目撃し、心をひかれるが、眼前に敵潜水艦の危険がないとも限らぬ。感傷浸る時もなし、と艦橋へ戻ろうとした矢先、もう一人の気配を見つけた。
彼女だった。イツハが、『回天』の傍から彼らを見守っている。
橋本はその光景に微笑ましさを覚える。橋本はジグサグ航行を指示するために艦橋へと戻った。
やがて搭乗員たちも、完全に消えた島影に未練はなくなったのか、次々と艦内へと戻っていった。そして最後の一人が足を止め、不思議そうな顔を浮かべながら、視線をそちらへ向けた。
彼の行動に、一番驚いたのはイツハだった。一瞬、まさかと思ったが、すぐにそれが確信へと変わる。彼がこちらをジッと見詰めているという事実が目前にあった。
彼が近付く。イツハは、それを快く迎えた。
「君は、誰だ?」
まだあどけなさを残す若々しい顔が見下ろしている。正に不思議なものを見たような目をしており、しかしその声色は優しかった。
「あちしはこの潜水艦の艦魂、イツハよ」
「艦魂? 海軍の仲間から聞いた事があるような……」
最初は驚いていた彼だったが、すぐに信じてくれたようだった。自分が乗る艦の化身に出会えた事がよほど嬉しいのか、彼は様々な質問をぶつけては、その答えに何度も頷いていた。
「なるほど、君は本当にこの艦の魂なんだね」
「でも驚いた。あちしが見える人は、貴方で二人目だよ」
「何だって? 他にも君が見える人間が、この艦にいると言うのかい」
頷いたイツハに、「それは?」と訊ねる小森一飛曹。イツハはそんな彼に「今、艦橋にいるわ」と何かを含むような笑みを見せながら言った。その反応を見て、驚きの色を表す。
「もしかして、橋本艦長?」
「正解」
「何てこった」
「でも、艦魂が見える人は珍しいのよ。貴方にとっては、あちしが初めて見た艦魂みたいだけど」
「僕は予科練出身だからね。艦にはあまり縁がなかったのさ」
「なるほどねぇ」
「……おっと、申し遅れた。僕の名前は小森一之一飛曹。回天特別攻撃隊多聞隊の一員だ」
差し出された掌をしばし見詰め、イツハはおそるおそる手を差し出した。握手する。とても若いが、やはり男の手だと感じさせるような感触だった。
「しばらくお世話になるよ、潜水艦殿」
無邪気な笑顔で敬礼する彼は、イツハには眩しく見えた。
その夜、イツハは橋本に小森一飛曹の事を話した。橋本も最初は驚きを持って聞いていたが、他にも艦魂が見える人間が現れたとしても不思議ではないね、と笑った。
「それにしても、『回天』の搭乗員の中にいたとは思わなかったが」
「うん、あちしも」
少年のコロコロと変わる表情が、記憶に浮かぶ。橋本曰く、彼の歳は十九だと言う。
「出撃直前、彼は私にこんな事を言ってきたよ」
平生の特攻隊基地から本艦に乗り込むや否や、小森一飛曹は橋本に対して、出撃の際は年の一番若い自分を一番に命じて下さい、お願いします、と繰り返し願い出た話をした。それを聞いたイツハは、複雑な表情を浮かべた顔を下げた。
「彼のような若くて勇敢な者こそ、日本に必要な人間なんだとつくづく思い知らされたよ」
「………………」
橋本は思わず、本音のようなものをポロリと漏らした。
それに対して黙り込んだイツハは、きつく口元を締めるように、その顔を上げた。
「……彼のような人間こそ、今こそその命を賭してこなすのみなの」
イツハの低く通った声に、ハッとなった橋本が顔を向ける。そこには初めて見る、怒りとも悲しみとも似つかないイツハの表情があった。
「………………」
二人の間に沈黙が流れる。自分が何を言ったのかを今さら認識したかのように、その幼い顔立ちがみるみるうちに青く染まっていく。そして誰かに弁解するように、震えた口元が動いた。
「……あちしは、戦わなくちゃいけないの。遅かれ早かれ同じ道なら、命を賭して奮戦し、戦果を急ぎ挙げ、祖国日本を守らんと……」
「イツハ……」
「あちしは、やらなくちゃいけないの。先に散った四人のためにも、あちしは、あちしは……」
「落ち着け、イツハ」
震える両肩を掴む。現実に帰ってきたのか、ひどく青く染まった顔がこちらを向く。その時、電探が何かを捉えたと報告が上がった。
「艦長、対空電探が敵編隊を捉えました」
「……わかった」
一瞬名残惜しくも、その手を放す。黙った彼女の気配を背に、橋本は電探の様子を確認する。
「大きい。B29だな……」
その通り。この時、対空電探が捉えたのはB29の編隊であった。本土の空襲に向かう編隊だろう。今日もまた日本のどこかが焼き尽くされるのかと思うと、心苦しい。
だが、こちらが何かできるわけでもない。橋本は振り返ったが、既にそこには彼女の姿はどこにもなかった。
伊五八潜に与えられた任務はフィリピン東方海面において敵艦を攻撃する事である。
この一望千里、霧と波の他は何も見えない大海原で、どうやって敵艦を見つけるか。橋本は敵の重要拠点を沖縄、レイテ、サイパン、グアム、ウルシー、パラオと考え、それぞれを結ぶ線の交差点付近で待ち構えた方が限ると判断した。
だが、やはりこれがなかなか難しかった。敵艦を求め、それぞれの線上に向かったが、どこにおいても敵影は見つけられなかった。
『回天』の搭乗員はこの間にも、乗艇の準備や観測訓練に余念がない。四名の下士官組はたまに隊長の伴修二中尉や水井淑夫少尉と五目並べや将棋をしている光景を見かけたが、士官室へ呼ぶと窮屈そうにしているので、ゆっくり話す機会もなかった。
特に小森一飛曹を、橋本は気にかけたが、そんな橋本の気持ちなど彼には知る由もなく。
そして彼女ともまた、小森一飛曹は関わりを持っていないように見えた。
敵に出会えない空しい日々が過ぎる中、伊五八潜は海面を転々とする。
だが、事態はようやく動き出す。艦内神社に祈ったのが通じたのか、念願の会敵となった。
昭和二十年(一九四五年)七月二十八日
午後二時
前日にグアムからレイテの航路上に着き、その線に沿って西に移動した伊五八潜は二十八日早朝、敵機を対空電探で探知して潜航。午後二時に敵艦がいない事を確認したのち浮上し、潜望鏡を高く上げて見回した所、水平線上に三本のマストを発見した。
やがてそれが、駆逐艦を伴った大型油槽船である事に気付いた。
「占めた!」
久しぶりの敵艦会敵に、橋本の口からは思わず歓喜の声が漏れていた。
次第に近付いてくる敵艦を前に、橋本は潜航を命じる。向こうはまだこちらには気付いていないようだが、どのようにしろ潜航して近付く他はない。
前方に駆逐艦がおり、本艦の水中聴音器の調子も悪い、これでは魚雷の有効射程に近接できないと考えた橋本は、『回天』の使用を決意した。
「回天戦用意! 魚雷戦用意!」
潜航と同時に下令した橋本は、続けて搭乗員の乗艇を命じた。
「一号艇および二号艇用意!」
橋本の下命に従い、一号艇の伴中尉と二号艇の小森一飛曹がそれぞれの『回天』に乗り込んだ。速やかに発進準備を済ませようとする。
報告を待つ橋本の傍に、イツハが現れる。おそらく出撃の日から、彼女は小森一飛曹と会っていないのだろう。視界の端にあった少女らしからぬ表情を一瞬だけ見た後、敵の情報を電話で二人に教えてやった。
発進準備がそろそろ整う頃合いだったが、伴中尉の一号艇が発進作業に手間取ったため、小森一飛曹の二号艇から発進させる事になった。かつて彼は自ら、自分に一番を命じてほしいと懇願してきたが、偶然か彼の望み通りになってしまった。
既に別れの挨拶は済ませていた。後はこちらが命令を下すだけだった。
「発進!」
放った号令の下、二号艇の最後のバンドが解かれた。
「………………」
引き締めた表情をしたイツハが、目を閉じる。
だが、その声は聞こえているはずだ。
「有難うございました」
それが小森一飛曹の最後の言葉だった。それは望み通り、一番に出してくれた事へのお礼なのか。短い間、お世話になったお礼か、はたまた、彼女が反応したように、ある人へのメッセージなのか。それはたった一言でも、小森一飛曹の遺した自分達への置き土産だった。
艦から完全に離れた小森一飛曹の二号艇が、敵油槽船目掛けて突っ込んでいく。
続いて伴中尉の一号艇も用意完了、敵駆逐艦に向けて突撃する。最後の拘束が解かれ、伴中尉が高らかに一唱した。
「天皇陛下万歳!」
二基の推進音が次第に遠ざかっていく。どうやら順調に走り去ったようだ。
上げた潜望鏡で見回す。
南方特有のスコールが辺りを覆っていたが、それでも敵艦の姿は見えていた。だが、なかなか命中を視認できないうちに、遂に敵艦の姿も見えなくなった。
やがて二号艇発進から五十分、爆発音が聞こえ、更に十分後に二回目の爆発音が轟いたとの報を聞いて浮上。だが、スコールで何一つ見えず、戦果は確認できなかった。
七月二十九日、伊五八潜は次の位置に移動し、レイテ~グアム、パラオ~沖縄を結ぶ二本の線の交差海面に出た。位置的にはちょうどフィリピン海のど真ん中であり、この日は断雲が多く、風が吹いていた。
この海面は日本の船も飛行機もおらず、敵の船が安心して通る道だ。しかも敵哨戒機も届かない地点。橋本はこれを狙って待ち構える事にした。
前日の回天戦は、二人の搭乗員が護国の英霊と散り去った。戦果は確認できなかったが、会心の突撃を行ったと認め、この二勇士の冥福を祈った。
戦闘後、イツハは唇を噛んでいたが、彼女の瞳にはまだ紅蓮に滾る炎があった。
伊五八潜にはまだ四基の『回天』が積まれており、明確な戦果を得るにはまだ希望がある。
午後十一時、電探が水上に船がいない事を確認して浮上した。浮上と同時に待機していた信号長が司令塔のハッチを開け、一番に艦橋へと飛び出した。続けて航海長が上がるが、橋本は尚も高く掲げた夜間用潜望鏡を覗き、夜闇に染まった周囲をくまなく見回した。
月は東の空に昇っている。半月だが、攻撃するには十分な夜の明るさだった。
雲も月の付近だけ、少ない。
艦上にて月を見上げていたイツハが、どこからともなく吹いた風の声に導かれるように、ある方角へとその目を向けた。
その時だった――
「艦影らしきもの左九〇度!」
航海長の早口の報告を聞いて、橋本はすぐさま、潜望鏡を下ろして艦橋に駆け上がった。
艦橋に上がった橋本は、航海長が指し示す遥か水平線に双眼鏡を向ける。月光に映える水平線上には、明らかに黒い一点がポツリと浮かんでいた。
間髪入れず、橋本は命じる。
「潜航!」
この一声に、艦橋に上がった者たちは秒を争って艦内に戻る。
最後に信号長がハッチを閉め、ハンドルを回した。
「ハッチよし!」
信号長の報告を尻目に、橋本は潜望鏡を覗く。レンズに映っている黒影は、もはや点ではなかった。
「ベント開け」
排水中のメインタンクに逆に海水が入り、艦は潜航を始めた。一分足らずで素早く潜航に移ると、橋本の口からは連続して号令を掛ける。
「艦影発見。魚雷戦用意、回天戦用意!」
潜航中の伊五八潜は取舵を取り、艦首を黒影に向けた。橋本は黒影を逃すまいと、潜望鏡に目を張りつかせる。
黒影が次第に近付き、三角形になってきた。だが、戦艦なのか駆逐艦なのか、艦種までは判別できない。
「魚雷戦用意よし!」
水雷科から魚雷戦用意完了と、発射管への注水が終わった事を知らされる。これでいつでも魚雷を発射できる体勢になった。
「聴音、どうだ」
「まだ何も聞こえません」
聴音機にはまだ敵の音は入っていなかった。だが、黒影はこちらへと近付いてくる。これを認めた橋本はすぐに命じた。
「発射雷数六」
この命令を聞いた周囲の者が、橋本の意図を察した。つまり、全発射管の魚雷六本を連続発射するという事だ。
『回天』には同時に搭乗員たちが乗艇し、待機していた。だが、橋本は魚雷を使用する事を選んだ。
この月明かりでは、『回天』による攻撃は困難を極める。その上、魚雷で十分に仕留められる。橋本はそう判断した。
「……大型艦だな」
潜望鏡に目を付けていた橋本は、黒影が少なくとも巡洋艦クラス以上の大型艦であると推測した。三角形だった黒影の頂上が二つに分れ、前後に大きなマストがある事がわかった。そこでマストの高さを、重巡、又は戦艦クラスの三十メートルと仮定し、目標との距離を割り出した。
「敵艦の速度、十八ノットです」
聴音の報告を聞いた橋本だったが、潜望鏡で見る限り報告ほど速いとは思えなかった。橋本は十二ノットと判断するが、実は聴音の方が正しかった。
敵艦の姿が月を背に、ようやく浮かび上がる。艦首方向には砲塔が二基重なっていて、大きなマストを生やした艦橋が見えた。
「戦艦か」
その巨艦の姿に、橋本は目標が戦艦であると考えた。周囲に護衛の駆逐艦はおらず、絶好の攻撃目標だった。
「艦長、『回天』から……」
その時、『回天』の搭乗員から電話越しに「敵艦は何か」「どうして発進させない」といった矢の催促が飛び込んできた。しかし橋本はそれを全て無視し、いずれ訪れる魚雷発射の好機を待ち続けた。
「方位角を右六〇度、距離千五百」
いよいよその時が来た。潜望鏡のレンズの中心を、敵艦の艦橋にピタリと合わせる。
「用意……撃ッ!」
ひときわ大きな声で、橋本は叫んだ。
魚雷発射。二秒間隔で、次々と六本の魚雷が発射された。
六本の魚雷は扇形に、敵艦に向かって突進していった。
橋本は潜望鏡を覗き続けた。艦首を敵と並行して回しながら命中の瞬間を待つ。レンズの向こうで、敵艦が悠々と進んでいるのを見ていると、気が気でなかった。
命中までの時間が、とてつもなく長く感じた。だが、実際には一分も要しない内に、敵艦に変化が生じた。
艦首の一番砲塔の右側に水柱が立ち昇ると、続けて後方の二番砲塔の真横に水柱が上がり、同時にぱっと大きな赤い炎が噴き出した。次いで三本目の水柱が、二番砲塔の横から艦橋にかけて立ち昇った。三本の水柱は赤々と燃える炎によって映え、明らかにマストより高らかと屹立していた。
「命中、命中!」
橋本はその光景を見て、思わず、一本が命中する度にそう叫んでいた。
その事がいち早く艦内に伝えられ、乗員たちの歓声が沸き起こる。
しばらくして、命中の爆発音が三つ、等間隔で響いてきた。
炎上する敵艦を眺めていると、敵艦は横に傾きながら、逆上がりするように前のめりになっていく。誘爆の音か、連続して爆発音が響いてくる。だがその最中、聴音が驚いたように叫んだ。
「爆雷攻撃!」
橋本は即座に返した。
「他に敵艦はいない! 誘爆だ!」
と、教える。艦内は再び静かになった。
敵艦の様子を潜望鏡で見続ける。だが、なかなか沈まない。時折、閃光が瞬くが、浮かび続けている。
「次発発射用意」
もしかしたら止めの一撃が必要になるかもしれない。水雷科に次の魚雷装填を命じるが、『回天』の方からは「敵が沈まないのなら出してくれ」と再三催促の声が来る。
確かに今なら敵は停止しており、『回天』でも突入は容易だろう。だが、死に体の相手に『回天』を使うまでもない。焦らずゆっくりやれば良いと考えている内に、聴音が水中探信の音を感知したと言うので、次発の用意完了まで潜航して待つ事にした。
魚雷を発射してからどれくらいの時間が経っただろうか。六本の魚雷を撃ち尽くし、海中でじっとしていた伊五八潜は、魚雷の再装填を完了させ再び浮上した。
潜望鏡を上げ、周囲を見渡すが、何も見えない。
艦影どころか火の灯りもなく、伊五八潜はとりあえず敵艦がいたと思われる海面へと向かった。
「………………」
潜望鏡を覗く。月明かりの下に水平線があるだけで、波間を覗いても漂流物の一つも見つけられなかった。
だが、魚雷命中から一時間も経っているので、様々な点から考えても沈没は間違いない。たとえ生き永らえていたとしても、手負いの艦が高速力で逃げられるはずもない。逃げたとしてもまだ視界内にいるはずだ。
海上はただ、波のうねりだけが不気味に静まり返るだけであった。
沈めた証拠は欲しかったが、いつ敵艦や飛行機が来るかわからない。心は残るが、この場を離れる他はなかった。
「面舵。現海域を離脱する」
命中の瞬間に沸き上がった歓喜と興奮も今や冷静の下に落ち、橋本の号令の下、伊五八潜は一路、東北へと移動し、次の戦闘に備えるために約一時間、航行した後に潜航した。
大物撃沈と言う事で、乗員たちの士気は弥が上にも高まっていた。自分達が仕留めた大型艦は何なのかと、相手の艦型写真や図を出してみたが、どれもはっきりと「これだ」というものがない。
「重巡クラス以上なのは確かなんだけどな」
「艦長の仰った通り、戦艦である可能性は大かと思います。戦艦ですと……この、アイダホ型戦艦ではないかと」
「うむ……」
アイダホ型の図を見詰める。艦橋の形など、大きさも、潜望鏡で見たものと似ている。
「ソロモン海戦では、敵重巡が我が軍の魚雷一発で轟沈したという記録があります。あの敵艦は、三発命中してもなかなか沈みませんでした」
もし相手が重巡なら、三発の魚雷を受ければひとたまりもない。それでもすぐに沈まなかったという事は、やはり戦艦だったのかもしれない。
「しかし、戦艦が単独でいたのも変な話だ……」
何度も確認したが、周囲に護衛の随伴艦は一隻もいなかった。あの敵艦は、単艦で航行していたにも関わらず、ジグザグ航行などの警戒も一切見受けられなかった。考えれば考える程、不思議な点が浮かび上がる。
話し合いの末、敵艦は戦艦と判定しこれを司令部に報告する事となった。その矢先、橋本のもとに厳しい顔付きをした『回天』の搭乗員たちがやって来た。
「艦長にお訊ねしたい」
橋本は彼らの目を見て、次に飛んでくる言葉を察していた。
「あの戦闘の時、どうして我々を出してくださらなかったのか」
予想通りだった。彼ら搭乗員は、『回天』に出撃命令を下さなかった橋本に、抗議の意志を示した。
「我々は再三にわたって、出撃を要望いたしました。ですが、艦長は受け入れてくださらなかった」
「あの暗闇では、『回天』による攻撃は困難だった。その上、通常の魚雷攻撃で十分に仕留められると判断した」
実際に、それは正解だった。
しかし搭乗員たちは納得できない。
「しかし『回天』なら一発で敵を沈められました」
ひときわ意見するのは、林義明一飛曹だった。紅顔の美少年の瞳には、白く光るものがあった。
「何故……」
漏れ出た声は震え、その頬に白い線が伝った。
「――戦艦の如き好目標に、何故『回天』を使用しなかったのか!?」
涙を零しながらそう叫ぶと、林一飛曹は両肩を震わせて黙り込んだ。他の搭乗員たちからも、涙を流し、悔しがる声が漏れる。
悔しがる搭乗員たちの声と嗚咽を、彼女は人知れず聞いていた。
――この日、伊五八潜が撃沈したのは戦艦ではなく、重巡『インディアナポリス』であった。まさかこの艦が数日後、広島・長崎を一瞬にして壊滅させた原子爆弾の部品をテニアン島に揚げた重巡だとは思いもしなかっただろう。伊五八潜は偶然にも、祖国の二都市を破壊する世紀の新兵器の使用に貢献した重巡を、その手で葬ったのだった。
そしてこれが第二次世界大戦で最後に撃沈された米海軍の水上艦艇となった。