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前篇 イ58

久方ぶりの艦魂作品です。潜水艦を題材にした作品としては、伊号第八潜水艦以来の二作目になります。

今作の主役は、伊号第五八潜水艦になります。

当初は短編として投稿する予定でしたが、思った以上に長くなってしまったので三部構成としました。

相も変わらず稚拙な文章ではありますが、ご拝読頂けると嬉しいです。


 平成二十七年(二〇一五年)年八月七日。

 五島列島沖――


 平穏な海面の下が墓場になっている事はそう珍しいものではない。

 生命の源として地球上に広がる海は、同時に生命の終着点としての意義も持ち、海に沈んだ生命は時の揺り籠の中で眠りに着く。

 そしてこの海もまた然り。



 長崎県の五島列島沖で、海上保安庁の測量船が調査作業を行っていた。測量船が音波を発し、海底の地形を調査していた時、平坦な海底に生えた大小様々な突起物を捉えた。

 測量船が探知したのは、海底に座する二十四隻に及ぶ船影であった。

 水深二〇〇メートルの海底に、これ程多くの沈没船が九州の片隅に発見された事は、今までに前例がない。

 東西四キロ、南西二キロに及ぶ船の墓場が、そこにあった。

 過去の記録から、海底に沈む二十四隻の船は、終戦直後米軍によって処分された旧日本海軍の潜水艦であると見られた。

 最大のものは長さ約一二〇メートル、幅約十五メートル、海底からの高さは約一〇メートルと推計され、これは世界最大の潜水艦であった伊号四〇二型だと推定され、更に同時期に処分された他潜水艦と思われる長さ八〇~一〇〇メートルと、長さ五〇メートル程度のものも発見された。

 それぞればらばらに、そして寄り添うように、七〇年の時を揺り籠に眠る潜水艦群。

 かつてこの国が亡国の危機に曝された大戦末期、最後まで戦い、この日本を守ってきた潜水艦。その内の一隻に、彼女は含まれていた。






                     ●





  ――戦局挽回――


 この頃の日本軍は、正にその目的を果たさんばかりに必死だった。

 そしてその必死は、そのやり方さえも『必死』へと繋がる。

 

 大東亜戦争末期。日本軍は正に戦局を打開するために、空から海から敵に体当たりを掛ける『特攻』を敢行する事となるが、そもそもこの特攻とは海から――潜水艦から発射される魚雷に人間が乗り込み、敵目掛けて突撃するという考え自体、開戦の日、真珠湾に突入した五隻の特殊潜航艇以来のものだったが、その後も研究は続けられ、果てに誕生したのが『人間魚雷』であり、これこそが特攻の元祖だった。

 『回天』、と名付けられた日本海軍初の特攻兵器は、文字通り、戦局挽回の切り札として潜水艦に搭載されるに至る。

 『回天』が開発されるまで、既存の潜水艦は工事を施し、改造を果たす事でこの特攻兵器を詰めるようにした。

 だが、生まれた時からこの『回天』を搭載した潜水艦があった。



 昭和十九年(一九四四年)十二月三十日。

 午前十時 徳山沖――


 徳山の大津島基地から、三隻の潜水艦が出撃した。各艦には四基ずつの『回天』が搭載されていた。

 出航する三隻の潜水艦を見送ろうと、多くの内火艇がやって来る。彼らの熱烈な見送りに対して、白鉢巻姿をした搭乗員たちが自分の『回天』に乗り、軍刀を振って応えていた。

 いつまでもついてくる見送りの先で、艦橋部の横腹に『イ58』と白く書いた潜水艦。日の丸の上に、菊水の紋章を掲げている。檣塔高くには『非理法権天』と宇佐八幡大武神の幟が、艦橋の旭日煌めく軍艦旗と共に潮風に吹かれ靡いていた。

 その身に刻んだ番号こそが船名である伊号第五八潜水艦――伊五八は生まれて初めての戦へと出陣していくのであった。



 伊五八潜は他二隻の潜水艦――伊三六、伊五三――と共に大津島を離れ、豊後水道を南下。一路、攻撃目標であるグアム島を目指した。

 艦上に積まれた『回天』を見ればわかる通り、これは回天作戦だった。前回の菊水隊に続く二度目の作戦であり、初陣の伊五八が加わったのは金剛隊であった。

 参加艦はそれぞれの攻撃目標に移動。伊五八は日本の地に別れを告げると、年越しと並行して敵海域に向かった。

 昭和二十年元旦。新たな年が明けた。戦局は悪くても、新年はめでたい。艦内、その一室の艦長室で、その男は新年の挨拶を神棚に拝し、手を合わせていた。

 男は神棚から一礼を終えると、傍にある鏡を見た。鏡には無精髭を生やした自分の顔の横、肩の後ろに人影が浮かび上がっている。

 「明けましておめでとう」

 その人影が、喋った。

 しかし男はにこやかに、答えた。

 「うん、明けましておめでとう」

 男の返事に、人影も笑う。遂に男は振り返った。

 振り返った男の目の前に現れたのは――うっすらと帯びた褐色の肌に、清楚とは縁の遠い潜水艦内には似つかない艶やかな黒髪、外観は明らかに昨今の軍の規定された徴兵年齢には満たされていない。志願兵にしても幼いその姿は少女そのもの。

 日の丸に菊水の紋章を掲げた白鉢巻が、彼女のおでこを覆う。

 端から見れば、可愛らしい愛国女子。

 しかしその正体は、異なる。

 「似合ってるな」

 少女の頭にある白鉢巻を褒めると、少女は照れ臭そうに笑った。微かに朱色を帯びた頬を指で掻きながら、緩んだ口元から八重歯を覗かせる。

 「へへ、そうでしょ? これであちしも皆と一緒だよ」

 少女が言っているのは、同じ白鉢巻をした搭乗員たちの事だった。戦局挽回の願いを込めた特攻兵器に乗り、いずれ散華する宿命を持った若者たち。その重すぎる宿命の象徴を描いた白鉢巻を、少女は自分から選び巻いていた。

 「……これを知ったら、彼らも喜ぶだろうに」

 「話したとしても、信じてもらえるの? 艦長さんが変人だと思われるのが落ちだね」

 「君が見える人間は、今のところ私一人だからなぁ」

 「艦長さんがあちしたちを――艦魂が見える人だったなんて、始めは正直驚いたけどねぇ」

 二人の会話はどこか不思議だ。

 それは二人の関係性、そして彼女の存在が根本に関わっていたからだった。

 少女は艦魂と言う存在。艦魂とは、その字が語る通り、艦の魂である。古来より語り継がれる話では一隻の船には、その船の魂が宿っており、それらは皆例外なくうら若き乙女の姿をしていると言う。

 しかし船に乗る人間が全て、彼女ら艦魂を視認できるわけではなく、この男のように見える人間は限りなく少ない。

 では見えるのなら、何故見えるのか――その理由ははっきりしていない。霊感が強いからなのか、波長が合うからなのか、はたまた何らかの自然現象なのか、彼女たちですら知り得ていないその謎は、神のみぞ知るものである。

 という事で、つまり――少女はこの潜水艦、伊号第五八潜水艦の艦魂なのである。

 そして彼女が見える人間。この男こそが、伊五八潜の艦長・橋本はしもと以行もちつら少佐である。

 橋本は艤装の段階から伊五八潜に関わっており、昨年の六月に伊五八潜の艦魂――イツハと出会った。これまでに五隻の潜水艦を乗り継いだ優秀な潜水艦長で、イツハはすぐに彼の事を信用していた。

 「ねぇねぇ、艦魂を初めて見た時ってさ。艦長さんも驚いたりしたの?」

 「確かに驚いたが、すぐに理解できたよ。私の宗教は神道だしね」

 全てのものに神が宿るとされる神道に精通している橋本にとって、艦魂という存在は受け入れやすい類のものだった。それを聞いたイツハは「私は神様じゃないけどね」と笑った。

 「艦魂とは八百万の神に関係していると思うがね、私は」

 「あちし達自身、本当のあちし達なんてわかっていないかもね。多分。でも、確実に言えるのは、あちしはこの艦で、この艦はあちしだよ。艦の感覚、その全てがあちしに伝わるもの」

 「その感覚を大事に扱わねばならないのが、私達潜水艦乗りだ」

 潜水艦とは小柄にしてその中身はどの水上艦よりも複雑だ。一つのボタンも、バルブも、一片のケッチも、艦の運命に関わる大事な部品、機械だ。小柄とは言え何千トンもの艦が海中に潜ったり、浮上したりするのは想像以上に過酷であり、極めて危険なのである。だから一瞬でも操作を誤れば、艦は簡単に沈没する。百人の乗員の生命が一挙に失われるのだ。

 だから潜水艦は、寸暇があれば訓練に訓練を重ね、一時も怠る事はしない。そして厳密な整備を欠かさない。

 こうした日々を過ごし、鍛練を積み重ねていくのが潜水艦乗りの心構えだった。

 「もうすぐ日の出だ。観に行こう」

 「うん!」

 時計を確認した橋本は、イツハを誘い、艦長室を出る。その矢先、こちらに目を見張った顔をした水雷長が立っていた。

 「……艦長」

 「水雷長。これから外に出て初日の出でも拝もうと思うのだが、貴方もどうですか?」

 「いえ、私は遠慮しておきます。これから少しやる事がありますので」

 「そうか」

 「失礼します」

 一礼し立ち去る水雷長の背を見送ると、橋本の傍にいたイツハがニヤァと笑いながら言った。

 「あれ、聞かれてたねぇ」

 橋本も彼の様子から、先程までの自分と彼女との会話を聞かれていた事を察した。彼に立ち聞きをする趣味がないのは承知している。彼は、艦長の独り言を聞いたに過ぎない。橋本は少しだけ恥ずかしさを覚えたが、急かす元凶に腕を引かれその場を後にした。



 艦上に出ると、北東の季節風が肌を撫でて迎えた。白波を立たせ突っ走る潜水艦の艦上を、橋本は少女を傍に従い歩く。整備がされた『回天』が座した台の横に立ち、橋本はイツハと共に、浮き上がる初日の出を見据えた。

 「わぁ……」

 傍から少女の感嘆の吐息が漏れる。橋本もその荘厳で美しい光景に見惚れていた。

 洋上を走る艦上で、初日の出を見る。

 艦は敵潜水艦に警戒して、ジグザグ航行をしながら走っていたが、それすら忘れさせてしまいそうな程に美しい光景だった。

 橋本は、日の出を前にひときわ笑顔を輝かせる少女の横顔を見る。

 潜水艦に乗り、艦魂に出会うのは初めてではない。

 しかし、何時経っても慣れない事がある。彼女ら艦魂が、年端もいかない少女の姿をしている事。艦に魂が宿っていても、何故、人の姿を、しかも女子供の姿をしているのか。

 艤装員長として工廠で出会ったのは、今まで見てきた艦魂の中では最も若い、いや、幼い姿をした少女。

 あの世の中の澱みを知らない、無邪気な笑顔は生涯忘れる事はないだろう。

 「あちし、この潜水艦の艦魂です。気軽に、イツハとでも呼んでよ!」

 平静を装うのも少し苦労したのはあの時が初めてだった。

 橋本の胸を締め付ける要因の一つが、解消される事は到底ないだろうと、橋本自身思っていた。

 そしてもう一つの要因が、橋本のすぐ近くに鎮座していた。

 黒々と光る『回天』は初日の出に照らされながらも、ずんぐりとした印象と共に、橋本に重い現実を突き付けるように教えていた。



 艦内に戻った橋本は、第一声を以て命じた。

 「潜航!」

 伊五八潜は洋上航行から潜航に移り、海中へと潜った。二重の殻の外側に当たる外殻に作られたメインタンクに海水が入り、艦の重量が増す。艦首の潜舵と艦尾の横舵を操作し、水中に入っていく。

 洋上航行のディーゼルエンジンから切り替わった蓄電池により、推進器が電気で回る。潜航を開始してから落ち着いた頃、昼食になった。

 艦内は禁酒だが、年明けのこの日ばかりは、橋本の計らいによって少量の酒が配られた。酒を振る舞われた乗員たちと万歳を奉唱し、橋本は士官室で盃を上げた。

 橋本の前には、『回天』搭乗員の若者たちも同席していた。一号艇の石川誠三中尉と四号艇の工藤義彦少尉は普段から一緒に士官室で食事をしていたので顔なじみだったが、二号艇の森稔二飛曹と三号艇の三枝直二飛曹は顔を合せる事がなかった。せめて元旦だけでもと、橋本が二人を士官室まで呼んだのだった。

 「艦長、大変失礼なのは承知ですが、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」

 突然、そう訊ねかけてきたのは石川中尉だった。工藤少尉がぎくりと表情を一瞬引き攣らせていたが、橋本は彼の訊ねたい事をある程度察して、頷いた。

 「何だ?」

 「水雷長殿が、また艦長が独り言を……と呟いていたのを聞いたのですが。艦長はよく独り言をされるのですか?」

 予想通りだった。工藤少尉が少し動揺するように、橋本の顔を覗いている。

 他の二人は、何の事かと首を傾げていた。

 そしてガチャンと鳴り響く音。おそらく水雷長が盃を落としかけたのだろう。

 橋本は答えた。

 「正直に言うと、私に相手のいない所で何かを呟く趣味はないよ。だが、端から見ればそう受け止められても仕方がない事だとも思っている」

 「それはどういう意味でしょうか?」

 「君達は、艦魂というものを信じるかい?」

 「カンコン?」

 四人は顔を見合わせる。無理もない反応だった。

 「艦魂の事でしょうか。海軍内でも、チラホラと言う者がおります」

 今度は工藤少尉が答えた。噂ぐらいは、皆聞いた事があるようだった。

 「フネの魂なんですよね」

 「そうだ」

 「まさか、艦長はその艦魂と話しているという事ですか?」

 「理解が早いな。そういう事だよ」

 四人のそれぞれの反応を表した顔を見る。それぞれ驚きつつも違った反応で面白い。

 「まことですか」

 石川中尉が楽しそうに聞き返し。

 「………………」

 工藤少尉はにわかに信じ難いと僅かに眉間を寄せ。

 他の少年二人は、ぽかんとした表情で、目の前で不思議な話を交わす士官たちの会話を聞いている。

 「この潜水艦にも、艦魂がおるという事ですか」

 「そうだよ。今ここにはいないがね」

 「もっと詳しく聞かせてください」

 大柄な体が前のめりになりそうな勢いで、石川中尉が訊ねてくる。工藤少尉も疑惑の色を浮かべつつも興味はあるようだった。他の二人も聞き逃さんとばかりに耳を立てている。

 橋本はその席で、彼らに伊五八潜の艦魂の事を教えてやった。

 話を聞き終えた四人は、尚信じられない、だが希望を見出したような表情で、座っていた。

 「嬉しいです。この潜水艦も、我々と同じ気持ちなのですね」

 どうやら石川中尉は、彼女が自分達と同じ白鉢巻をした話を聞いて喜んでいる様子だった。それは他の三人も同様だった。

 「彼女は君達よりも若く、幼い姿をしている。実際、この艦は新造艦だ。だがどんなに若くても、日本を守るために戦いたいと思っているのは皆同じだ。それこそ君達と同じだよ」

 搭乗員たちの年齢は本当に若い。石川中尉と工藤少尉は、海軍兵学校を出てまだ二年足らず、二十二、三の若者だった。

 「君達はいくつなんだ?」

 石川、工藤の二人より若い顔をしている森、三枝の両人に橋本は訊ねた。

 彼らははっきりと答えた。

 「十八です」

 「同じく、自分も」

 その二人の顔は彼女と同じ、穢れも知らない純真無垢な少年だった。予科練出身のこの二人は、出撃の時、特に同僚たちからの熱烈な見送りを受けていた。

 『回天』の搭乗員である彼らは、もし発進したら、二度とは還ってこない。それをわかっているからこそ、悲壮な思いが駆け巡り、胸が苦しかった。

 しかし、この時勢。特攻に往かずとも、帰らぬ者は多かった。橋本自身も、兵学校五十九期生徒の潜水艦専攻者同期たちは十五人中十人が既に戦死していた。遅かれ早かれ、皆同じ運命なのだ。そう思うと、幾分か気が楽になった。

 「今日は飲もう」

 橋本は言った。その声に、悲壮感は見受けられない。

 四人の若き特攻隊員は、笑顔で、盃を掲げた。




 伊五八潜が攻撃するグアム島は、米軍にとって中部太平洋方面の重要根拠地となっていた。こちらの作戦が敵に察知されていなくても、警備が厳重なのは変わらない。先に第一回目の菊水隊がウルシーを攻撃したので、敵の警戒はなおさら厳しさを増しているはずだった。

 一月六日。場所はグアムの真西、レイテとの交通線上。

 一月なのに暑い南の海に、伊五八潜はいた。

 防暑服に半ズボン姿の橋本が、艦橋から海上と空の様子を眺めていた。海上には米軍の艦船が投棄したと思われる箱や空き缶が浮いていた。ここは敵の交通路だ。速やかにこの海域を避ける必要がある。

 「艦長さん、本当にこのままグアムに行くの?」

 いつの間にか隣にいたイツハが、双眼鏡を覗く橋本に声を掛ける。彼女はこの艦そのものだ。人の姿で現れる時はいつも神出鬼没なり。

 橋本はイロハの危惧するような声から彼女の思う所を察していた。それは橋本自身もよく理解していた。彼女が懸念している事は、自分と全く同じである。

 ここからグアムへ接近するのは、極めて危険だろう。敵もウルシーの件から、こちらの襲撃を警戒しているはずだ。

 しかし厳重な警戒でも、狙える部分はある。

 「いや、方針を変える」

 イツハの瞳が、更に丸くなった。

 「このままグアムを通り過ぎて、反対側から回り込む。もし私が米軍だったら、日本本土から最短距離の島の北方海域を重点的に警戒する。その裏をかいて、敵の警戒が薄くなっているであろう南側から突っ込む」

 わざわざ危険を顧みず真正面から突っ込む必要はない。ウルシー・グアムの連結線の少し南側、つまり敵の方の側から回り込んで突っ込む方が安全だろう。湾口近くに潜入するためには、少々遠回りしても手薄な方面から仕掛けるべきだと橋本は考えていた。

 橋本の提案を聞いたイツハが、おぉと声を上げた。

 「さすが。あちしも賛成!」

 イツハの八重歯に、橋本が笑みを向ける。

 「潜航」

 白波が徐々に引き、伊五八潜は海中へと潜っていった。




 敵の警戒網を警戒した橋本の意向によって、伊五八潜は潜航浮上を繰り返しながら更に二日間、グアムを通り過ぎて南下し、反転。今度は逆に北上してグアムを目指した。

 途中、幾度となく敵の船が潜航中の頭上を通り過ぎたが、何とかやり過ごした。絶好の攻撃のチャンスもあったが、作戦の主旨を考慮し隠密活動を続けた。


 一月十日。第六艦隊司令長官から、一通の電報が届いた。


 「各艦ハ所定ノ奇襲ヲ決行スベシ」


 遂に来た、作戦の決行命令だった。

 翌十一日の朝、潜航中の伊五八潜は頭上を通り過ぎる輸送船のピストン音を聞いた。

 ゴンゴンゴンゴン……と、ピストンの連打する音が聴音の耳に入る。

 乗員たちは息を殺すが、橋本はこの音から状況を知った。

 自分達は敵に感知されていない。

 その後も時々、敵の船が頭上を通り過ぎていった。どれも皆、単船であった。無警戒という事がわかるが、手出しは禁物。攻撃すれば確実に仕留める事ができるのに。歯痒い思いが駆ける。


 そしていよいよ島に近付いた日の夜。一月十一日のグアム海上の夜は、風がなく、星が瞬く明るい夜だった。


 艦橋に、防暑服に白鉢巻をした森、三枝二飛曹が上がってきた。二人の少年顔は暗くてよく見えなかったが、存在感をはっきりと主張している。

 この時、橋本は電信室の外電傍受係から敵の通信内容を聞き、艦が敵に発見されたようだと知った。森、三枝の両二飛曹が乗艇する二、三号艇は外の上甲板からしか乗艇できない。もし敵が来た場合、乗艇が間に合わなくなる。なので橋本は二人に、早めに乗艇するよう命令していた。

 最後のいでだちをした二人は、しばらく、無言で立っていた。

 橋本の傍には、イツハもいた。彼女は時折、後ろで立っている二人を見ていた。

 誰も声を発しない時間が続いた頃。

 しかしそんな中、三枝二飛曹が橋本に声を掛けた。

 「艦長、南十字星はどれですか」

 突然聞かれたので、橋本は空を見上げて探したが、南十字星らしき星は見つからなかった。

 「航海長、南十字星はどこにあるか見えますか?」

 航海長は毎日、天側で星とにらめっこしているのでわかるだろうと思って訊ねたが、星を見上げた航海長はかぶりを振った。

 「まだ出ていませんね」

 「だそうだ。だけどもう少ししたら、南東の空に美しく出てくると思うよ」

 そう返すと、頷いた三枝二飛曹は、無言で星空をしばらく眺めていた。

 イツハの、微かに動揺する気配が伝わる。

 橋本はそれを優しく無視した。彼女の考えている事が、手に取るようにわかった。

 その時だった。今度は森二飛曹が声を掛けてきた。

 「艦長、艦魂はおりますか」

 これには橋本も素直に驚いた。まさか乗艇前にそんな事を聞いてくるなんて夢にも思っていなかった。

 暗くて顔は見えないが、艦橋にいる士官一同、三枝二飛曹すら驚いている様子だったが、森二飛曹の質問は冗談で言っているようには聞こえなかった。

 そして何より、彼女の反応がすぐ傍から感じ取れた。

 だから、橋本は真摯に答える。

 「ああ、ここにいるよ」

 橋本は手で促した。彼女の背に添えるように。森、三枝二飛曹が視線をイツハに向ける。彼らにイツハの姿は見えていないはずだが、二人の視線の先には、彼女がいる。

 イツハもまた、二人に顔を向けている。交叉しない視線が、交叉する。

 やがて、森二飛曹が頭を下げた。遅れて三枝二飛曹も頭を下げる。

 彼らは、イツハに頭を下げていた。

 再び顔を上げた彼らの視線は、既に艦長である橋本の方へと向けられていた。橋本は彼らの挙手する敬礼を見た。

 「乗艇します!」

 そう告げる二人に、橋本は手を差し出した。

 「成功を祈ります」

 橋本と握手を交わした二人は、黙って別れた。艦橋から外に出た森、三枝二飛曹の背中は自分達が乗り込む棺の方へと消えていった。



 日が変わる頃、伊五八潜は潜航を繰り返し、慎重にグアム島へと接近した。『回天』の航続距離は二十浬、発進予定地点は十七浬とギリギリだ。なので出来るだけ近くまで接近しなければならなかった。

 午前二時、遂に発進目前となった。

 水上に上げた潜望鏡からは、グアム島の灯火が見えていた。これを石川中尉、工藤少尉に見せる。攻撃目標をしかと確認した二人と握手を交わし、別れを告げた。

 「成功を祈ります」

 「お世話になりました」

 これから発進すると言うのに、石川中尉、工藤少尉の落ち着いた白鉢巻姿は橋本に深い印象を与えた。

 『回天』へと通ずる扉の向こうに、二人の姿は消えていった。

 そして下士官兵が最後に扉を閉める。その手は震えており、閉鎖を確認すると、その扉に向かって合掌した。

 「各艇、発進準備!」

 午前二時半、発進準備を下令。各艇とも一斉に、縦舵機を母潜のものと整合する。『回天』では魚雷用の縦舵機を羅針儀として使って、方角を知るようになっていた。細いパイプを一本通じて、空気だけ通うようになっている電話線だけが、艇と母潜を繋いでいる唯一のものになっている。

 それも、発進の時は千切れるようになっている。既に艇を固縛している四ヶ所の内、二ヶ所が外されていた。

 午前二時五十分、各艇とも発進準備完了の報告が届いた。

 「異常なし」

 伊五八潜は潜航、『回天』の発進に備えた。

 そして遂に、発進予定の午前三時。彼らの「用意よし」と言う力強い報告を聞いた橋本は、号令を下した。

 「一号艇、発進はじめ」

 それを聞いた先任将校が続けて、号令をかける。

 「よーい、テーッ!」

 最後のバンドが艦内操作によって外され、一号艇が完全に艦から離れる。ガリッと、電話線の切れる音が聞こえた。

 推進音が次第に遠ざかっていく。続けて二号艇を発進させる。

 「二号艇、発進はじめ」

 森二飛曹の二号艇が、同じように艦を離れる。若年ながら最後まで沈着に処し、彼女へ頭を下げた少年の顔が思い浮かぶ。

 次、工藤少尉の四号艇発進。その後をトラブルがあったものの、三枝二飛曹の三号艇が無事に発進する。

 こうして四基全ての『回天』が発進していった。艦は浮上し、沖に向かって全速避退した。

 四時半ごろ、先頭が港内に到着した頃だろうと浮上した時、敵機が来たので急速潜航し回避。

 午前五時半、外が明るくなったので戦果を確認しようと潜望鏡を上げた。覗いてみると、島の方角から天に昇る二条の黒煙らしきものが見えた。だが、はっきりとした戦果は確認できなかった。



 橋本は、四基の『回天』に乗って華々しく散っていった四勇士の冥福を祈って、遺品の整理を行った。

 遺品の整理中、それぞれの遺書を見つけた橋本に、同伴していたイツハがおもむろに呟いた。

 「不思議な感覚でした」

 遺書を前に、彼女は言葉を紡ぐ。

 「まるで、自分の体の一部がスーッと抜けていくようだった。しばらくしたら、その感覚はなくなったけど。でも、多分、ただの魚雷を撃つ感覚とは、違うんだろうなぁ」

 初めて己の体から搭載兵器を放ったイツハは、あれ以来、どこか上の空になる時があった。

 橋本は何も言えないまま、彼らが遺した遺品に視線を向けた。



 ――石川中尉。

 体が大きく、明るくて陽気な人だった。魚雷に跨って軍刀を振り上げ、大鯨を退治している絵を墨で盛んに描いていた。


 ――工藤少尉。

 暇な時に相手をしてもらったが、将棋が強かった。別府に婚約者がいて、婚約者の写真をよく眺めているのを見かけた。


 ――森二飛曹。

 十八にして歳に見合わない落ち着きがあり、発進の時も最後まで言葉なく出ていった。最後の艇内の電話で、アイスクリームが美味しかった、もう少し食べたいと言っていた。


 ――三枝二飛曹。

 いつも故郷の八ヶ岳と富士山との伝説の話をし、初めて見る南十字星を探していた時は、あどけない顔を晒していた。



 伊号第五八潜水艦の初陣にして初の回天作戦は、こうして幕を閉じた。伊五八潜は無事に帰還したが、金剛隊の内、伊四八潜が戻ってこなかった。

 




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